松尾鉱山 岩手県岩手郡松尾村緑ヶ丘  1/2    
                                               行った日 : 2007.10


松尾鉱山の発見は1882年(明治15年)というから他の鉱山と比べて遅い方かもしれない。試掘や鉱業権の設定などで採掘は1890年頃から始まった。採掘鉱物は硫黄で後になってからは硫化鉄鉱や褐鉄鉱も採れた。この頃は明治政府の欧米に追いつけ追い越せ式の富国強兵政策、大陸侵略政策などで銃器や爆弾、兵器など軍需物資の増産に国を挙げてまい進していた頃である。硫黄は火薬製造に欠かせない物質だ(他に医薬品、農薬、化学繊維の原料にも使用)。1914年(大正3年・第一次大戦勃発)には松尾鉱業/株が設立され採掘方法も設備も一新。積極的な機械化で飛躍的に生産が増え1930年頃には国内硫黄生産の約80%を供給していたという。またこの頃からは’41年のより大きな戦争準備のために政府主導で増産につぐ増産に明け暮れていた。そして忘れてはならないことにここでも又強制連行されてきた朝鮮人労働があり硫黄や鉄鉱石の採掘その他に酷使されていた。またここでは(他鉱山でもあったと思うのだが)学生(徒)の勤労奉仕というか松尾鉱山に疎開先を選んだというのかそんな状況もあったらしい。
 戦後も硫黄生産を続けていたが1960年代頃からの石炭から石油へのエネルギー転換による石油精製時の回収硫黄に押され遂に松尾の硫黄も1972年(昭和47年)その火を消すことになる。そして強酸性の鉱毒水の問題は一時は北上川を魚の住めない”死の川”にまでし鉱毒公害で社会問題化したが現在は中和処理場(2ページ目の写真参照)で処理した水を川に流している。





国道341号線のトロコ温泉のあたりから八幡平アスピーテラインを東進。L写真は大沼温泉のあたりで車道の脇にあった温泉噴出口。たぶんここが源泉だろう。何かのパイプも見える。
R写真は〜ライン中間あたり。見返峠のあたりだったと思う。見返峠とは面白いネーミングだ。景色がよくて思わず後ろを”見返る”から?or後続車が景色に見とれて追突しそうになるからこの辺で後ろを要注意?(考えすぎじゃろう<笑>) この日もカメラ片手の人が多かった。 


八幡平アスピーテラインから見た岩手山。すばらしい景色だ。この日も観光客が多かった。


アスピーテラインからの光景だ。正面左手にアパート群が見える。真ん中に鉱山への一本道が見える。これはラインから南東方向を見ている。ラインは写真のアパート後ろ側をとおり鉱山道路と交差している。廃水処理施設と沈殿池は写真の鉱山道路の手前側だ。(隠れて見えない) 写真奥は東北自動車道”西根IC”方向だ。 


アスピーテラインから鉱山の方に右折するとすぐにこの看板がある。廃水処理施設の看板とDOWAテクノエンジニアリングの看板がある。 看板の先の道路だ。正面の山が露天掘りの採掘現場。アパート群は右手のほう。何度も言うが実に風光明媚なロケーションだ。こんな場所で一時は騒音や煙や重機のうなり音などで騒然としていたなんて信じられない。


八幡平アスピーテラインから右折してちょっと来たところ。すぐにこの景色が眼前に出現する。方向はちょっと逆ですが(〜アスピーテラインは写真右奥側、つまり振り向くような感じで撮った)。二枚の写真を並べましたが真ん中の合わせ部分だけ若干2〜3cm重複してます。しかしこの光景は迫力ありますね。みんな同じ大きさ、形で階数も同じ、窓という窓は当然ながら何にも無く黒一色。吹き抜け。普通、ベランダには洗濯物やなんやかやがぶら下がっているものですがな〜んにもなし。不気味です。昼だからいいですがこれが夜だったら・・・・・。コワ〜〜 逆に操業当時の電灯が点灯している光景を想像すると”ああ・・我が家だ!”と冬でも心温まるものを感じるでしょうね。iinaa、HOTdesunee。


L写真の水溜りは何でしょうか?地下からの湧水?だとしたら汚染水でしょうか。それとも単なる雪解け水?冬はかなり積もるでしょうね。ここの生活用水の供給地は何処から?地下水を浄化してでしょうか。だとしたらやはり気になりますよね。R写真は風が強かったです。その様子を撮っただけ。草が結構なびいてるでしょう。


L写真の建物は松尾中学校の元体育館。閉山後は長く「生活学園」(盛岡大学関係らしい)という学校が運営されていたらしいがいまはそれも閉校。R写真は周辺の景色。文句なしに風光明媚です。


標高1000mもの高地に「雲上の楽園」と言われ一時は13000名もの人口を抱え水道や電気、暖房など生活スタイル全般で地域で一番最初に設置、周辺住民から羨望の眼で見られた当時としては”高級アパート”もご覧のとうりの姿。(下に続く↓)
(↑上から)中にはもちろん入っていないが当時、ここに住んでいた方がこの姿を見られたらどんな思いをするだろうか。いや、見る機会があっても大多数の人は見ようとしないのではないだろうか。あまりに寂しすぎる光景だから。



ここはかつての至誠寮。アパート群から奥へ行ったすぐのところ右側。文字通り長年の風雪に耐えて丈夫なところだけが残っている、という感じだ。内部には入っていないが(どうも小生は人々がそこで普段の暮らしをしていたという生活場所に土足でズカズカと入るのにはなんとなく抵抗があって出来ません。何かものすごく失礼で無礼な気がするもので)だいたい想像がつく。R写真の外階段の傷みようはネコが歩いても危ない感じが。裏側にも何か建物があるようだがそっちの方には行けなかった。しかし景色は抜群である。


ここは桂寮。至誠寮のちょっと奥側左に位置している。想像だが至誠寮もこの桂寮もなんとなく独身寮のようだが。ちなみに木造建物がほとんどないのはこの地が特に冬には気候が厳しくなり木造建築では20年ぐらいで立替を余儀なくされるとの当初の予想でそれならばということでほとんどがコンクリート建築になったとのことである。ただ一点だけ予想が違ったのは思いのほか採掘期間が短かったこと。というのも石油の脱硫過程で出る硫黄が山からの硫黄に取って代わってしまったこと。脱硫過程の硫黄はいわば産廃だったから採掘硫黄とはもう戦いにならなかった。坑床の枯渇での閉山ではない。そんな事情があったのだ。


ここは至誠寮のほぼ向かい側にあった背の低い建物。何に使われていたものか不明。



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