鴻之舞鉱山     1/2   
                    北海道紋別市鴻ノ舞          Photo : 2008.09



・主な産出金属(鉱物)  :金、銀、銅。(少量だが亜鉛、鉛、ゲルマニウムも。石では方解石、重晶石、雲母など)
・鉱脈発見時期〜閉山年:1915年頃(T4年頃)〜1973年(S48年)閉山。
・主な経営企業      :鉱山経営としては住友金属鉱業で始まり同社で終わる。


 北海道の北東部(下の地図参照)、オホーツク海に面した紋別の南約20キロぐらいの所に金で有名な鴻之舞鉱山(金山)があった。1973年(S48)に閉山され今はもちろん採掘はしていない。ここの金鉱山は1915年(T4)頃にまず元山鉱床が発見され1917年(T6)から営業採掘が始まった。元々は土地のアイヌ先住民がモベツ川で砂金を見つけたことがことの始まりだと言われている。もっともその後は砂金に魅せられた海千山千の人々や詐欺師まがいの者たちが横行し結局、砂金を発見したと言われるアイヌ人にはわずかのカネしか渡らず紆余曲折を経て何年か後には閉山まで操業した住友鉱業に権利が渡ったようである。
 当たり前のことだが合法的に鉱山を開発・採掘するには地方自治体に鉱区設定の申請・許可を得て鉱区税を納税しないとできない。そういう性格上どうしても個人より名前の知られた大企業の方に許可の軍配が上がりやすい。
 大正時代に始まり昭和の中期に終わった鴻之舞鉱山は鉱山の歴史としては約60年弱と浅い方である。しかしその間の金の採掘量は約73トン(約64トンの説もある)、銀が約1000トン、出鉱量は約1100万トンにも達している。ただ金は閉山までずっと堀り続けたわけではなく太平洋戦争が始まる’41年(S16)頃からはより軍備に必要な銅や鉛や亜鉛など金以外の金属を主に採掘した。(戦後はまた金の採掘を再開している)
 1937年に日中戦争が始まった頃から1942年頃にかけ鉱山労働者も兵員として徴兵され鴻之舞でも労働力不足により大量の朝鮮人を連行してきて強制労働させた事実があることも忘れてはならないだろう。この頃に連行された朝鮮人の数は鴻之舞だけで2千人とも3千人とも言う。ちなみに鴻之舞が全盛の頃の鉱山人口は約13000人ぐらいだった。
 尚、佐渡金山、菱刈金山、鴻之舞金山が日本三大金山と言われているが佐渡(三菱)と鴻之舞(住友)は閉山され現在稼動しているのは菱刈金山(住友)だけである。



                               


 北見鉱山の次に道々305号線を北上して金八峠から行こうと思ったのですが金八峠が工事中。アリャ〜!!しかたなく東回りの瀬戸瀬ー若松ー美山ー上原峠から305号線に入り紋別方面に。そして鴻之舞金山(鉱山)鉱区に入る。写真は上原峠を越えたあたりの道々137号線上での風景。鴻之舞鉱山まであと11キロ。今回の鉱山めぐりの最大のターゲットゆえ心なし胸がwakuwaku状態だ。


 鉱区に入るとすぐ目に付いた金竜町跡の標識。”紋別鴻友会”の有志の方々が保存・整備をきちんとされている。ここまできちんと整備されているとかつて当地で勤務されたり何らかの関係者が来られても気持ちよく思い出にふけられると思う。


 道305号を北上中、右側に相当大規模なズリ場があった。ここは主に含有量の少ない金の採掘なのでどうしてもズリの量が銅や鉛などに比較して大量になる。今はもう跡形も無いが多分シックナーなども相当の大きさだったと思うが。それにしてもここのズリ場、元はおそらく谷か川などがあったと思うが元の姿がさっぱりつかめない。


 ズリ場のほぼ真ん中に何故か一箇所だけ立ち木の場所が。枯れてはいない。青々としている。何となく不自然な格好だったが・・・。


 遠くの煙突はなんでしょうか?道路より東側なのであるいは元山坑のあたりか。ひょっとしたら元山製錬所の煙突だろうか?道々ゆっくり走ったが脇に入るような道が見当たらない。土地に詳しい人なら行ける道も知っているんだろうが。道が分かれば行きたかったが。


 鴻之舞鉱山に南側から入り鉱山区域に入ってまもなく左手にこんな案内板が。ここの”ご案内”はもうひとつよく分からないが・・・。1.5キロ右側に「慰霊碑」・・・はいいとして尚2.7キロ左側に五号坑入り口があります、は???。この標識で言う”左側”なら今通ってきた道では?それともL写真の砂利道のこと?そう思って入ったが結果は下の写真だ。後で分かったが五号坑は慰霊碑を通り過ぎ2〜3キロ行った辺りだった。(それとも今、走ってきた場所に別の五号坑があるの? よく分からない・・・。)
 文句はさておきそれでもこのような案内板があるだけでも大助かりだ。


 上の写真の砂利道を2〜300m奥のほうまで行くとなんとこんな煉瓦造りの煙突のようなものが。おそらくその場の雰囲気的にみても火葬場のようだが。先ずここで合掌。
 周りをグルッと歩いてみたが墓石のようなものは何処にも見当たらなかった。歩くと言っても写真に写っている範囲だけで煙突の向こう側もウロウロしてみたがなんとなく人為的に閉ざされているように見えるだけでそれ以上には入れなかった。右手の方にも少し行けそうな道らしきものがあったが藪ですぐ向こうからはもう行けそうになかった。


 ・L写真:煉瓦の煙突(?)の左手にはこのような祠もある。
 ・M写真:石碑の裏側。昭和?年?月 記念  住友金属鉱業所?・・・ちょっと読めないですね・・・。
 ・R写真:同じ石碑の表側。


 道端にまたズリ場が。ここが金鉱山だったせいかやはり相当ズリ場が多い。埋め戻しはしなかったのだろうか。


 ・L写真:モベツ川に架かっている橋にきました。すぐ目の前にかつての鉱山住宅が半分藪に隠れて見えます。よく見るとあちこちに結構たくさん残っています。
 ・R写真:橋から下を覗くと水は綺麗に見えますが川底や地面の部分はやはり操業時代の名残のせいか鉄錆色というか土本来の色ではなさそうだ。


 >上下四枚<
藪の奥の方にはまだまだたくさんの鉱山住宅が廃屋と化して今も残っているようである。見たところこれら写真の住宅は二階建てで木造ではなくコンクリート造りのようだ。ということは鉱山時代を通じて後の方に建てたものだろうか。他サイトの写真を見る限り初期の頃は木造だったように見える。鴻ノ舞鉱山操業期間が約50〜60年と金属鉱山としては比較的短期間っだのでこれら写真の建物の築年数も案外浅いかもしれない。家というものは人が住まないと驚くほど傷みが早いものだ。それに当地が寒い雪国なので人がいなくなるとよけいに傷みも激しくなるのだろう。


 まあ、確かに夜中には誰も来ないような場所だからこういうことをする輩もいるのかもしれませんね。”住友金属鉱山株式会社”の文字がクッキリと。でも最近は見えない場所から防犯カメラが睨んでいる例もありますよ。やめましょうね。L写真の何かコンクリートの固まり見たいな物は何でしょうか?索道かトロッコの基礎みたいですが。


 じつにあちこちに鉱山時代の名残が残っています。これは住友の”井桁”の家紋というかマークが鮮明に残っていたので撮って見ました。住居用と言うよりも土蔵というか倉庫みたいなものでしょうね。その後ろの物は屋根が落ちてしまっています。


 鉱山には必ずある大山祗神社。


 これは何でしょうか?分かりません。


 紋別市立鴻之舞中学校の跡にあった学舎の里。唯一これだけが残っていた。ひところは13000人以上もの人々がここの鉱山で寝起きしていたのだから学校もさぞかし賑やかで今と違って活気もあったことだろう。


 ・L写真:鴻之舞鉱山の慰霊碑までやってきた。北上してきて右側だ。ここでもじつに大勢の犠牲者が出た。右側の石は下の写真にある鴻紋軌道記念碑である。
 ・R写真:L写真正面の小さな石のUP。鴻之舞鉱山跡。


 1917年(T6、第一次世界大戦の最中)から住友金属によって営業採金が開始された鴻之舞鉱山の慰霊碑だ。下の碑文にもあるように実に多くの犠牲者を出した。その中には日本人のみならず強制的に連れてこられた朝鮮人、中国人も多数いたことを忘れてはならない。



 慰霊碑の片隅にあった鴻紋軌道記念碑。鴻之舞鉱山と紋別間を結んでいた鉱山鉄道だ。その当時の車両が少しだが丸瀬布の南、道1070号線に面した”森林公園いこいの森”に展示されている。





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