石見(大森)銀山(島根県太田市大森町 周辺)   1/2  
                いわみ (おおもり) ぎんざん                撮影 : 2007年 1月



 通称は”石見銀山”といいますが別名、地元の地名をとって”大森銀山”とも言います。昔は「石見の国」といっていました。石見銀山は戦国時代、16世紀の中頃に大内氏によって北極星からのお告げで発見された、といわれているが当然定かではない。また日本海を航行中の船から”山が光っている”とのうわさから発見された、と云う逸話もある。どれも逸話から脱しきれない範囲の話ばかりである。ただ現実に銀鉱石が発見されていることは事実だからその点は疑いようがない。
 戦国時代に最初に発見されたのは「福石鉱床」という比較的、東側にある鉱床だ。この鉱床は比較的地表に近く一部は露頭に出ていて最初発見したのはそれだった。深さもそれほど深くなく比較的早くに枯渇したらしい。その後、17世紀、江戸時代に入ってからは「永久鉱床」を発見、徳川家康が佐渡金山その他で実績のある”大久保長安”を初代の銀山代官に任命して積極的に銀山開発を進める。この大久保長安という人物は若い頃に武田信玄に認められ信玄の命により甲州(今の山梨周辺)周辺で金山の発見に尽力する。これも噂の域を出ないが長安は何か金に引き付けられるように金山を見つけて来る、と何かの本で読んだ覚えがある。霊力があったのかもしれない。その後、明治に入ってからは藤田組に経営権が移り再度、福石鉱床を採掘したり効率の良い精錬所を造ったりしたが1923年(大正12年・関東大震災)ついに閉山となる。その後は観光開発に力を入れ現在にいたる。ちなみに2007年7月、世界遺産登録、決定される。


 銀山通りにあった案内地図。鳥瞰図で北東方向から南西方面を望む。地図の上部は日本海。  銀山通りです。世界遺産に申請中のせいか非常に立派です。


まもなく龍源寺間歩の入り口です。  ここで料金を払い坑内へ。おじさんが一人でした。ちなみに”開店早々”でした。


龍源寺間歩の入り口。よく整備されている。  間歩の内部です。当然ながら立派です。ここまでくるともう「間歩」ではないですね。立派な「坑道」です。レールも引けますよ。


 龍源寺間歩の本坑道の一部です。ここから先は最深部195mまでありますが途中、落盤しているのでこんな風にしています。  案内板。龍源寺間歩の垂直方向の地下にはまだたくさんの間歩がある。大森銀山中、最も採掘量の多かった永久坑道もちょうどこの下にあり途中で垂直に縦坑で繋がっている。


 出口近くの案内板。経営が藤田組になってからはきちっと測量をしている。当然か。  出口だ。地方行政が管理しているだけあってさすがに立派なものだ。


 これは大森銀山の鉱床断面図。南側から北を向いた断面、つまり東西にカットした断面を南から見ている、というわけです。鉱床の開発は福石鉱床が先で永久鉱床が後です。ちなみに代官の名前を冠せた”大久保間歩”は江戸時代に採掘され福石鉱床にあります。その後の情報では大久保間歩も今年、07年の年末ぐらいには一般公開する、との話です。


 大久保間歩のある福石鉱床は1500年台中頃に発見開発され、時の支配者、大内氏の財源になった。その後は尼子勢、毛利勢と次々に支配者が変わり江戸時代になっては当然ながら徳川勢に移る。その時の初代代官が”大久保石見之守長安”である。ここの産出鉱物は、自然露出銀、輝銀鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、その他がある。  ここ永久鉱床は現在唯一、一般公開している”龍源寺間歩”のある鉱床である。 説明文によると、
「福石鉱床の品位の低下により江戸時代から開発された鉱床が、永久鉱床である。明治、大正にかけて本格的に藤田組により開発される。輝銀鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱などの鉱物がある。」
 ちなみに藤田組というのは後の同和鉱業で岡山県の柵原鉱山など多数の鉱山経営をしている。


 出てすぐにこんな間歩が。519番目なんでしょう。なんでも約600箇所あるとか。それにしても大小さまざまによくこれだけ掘ったもんだと思う。  間歩番号468番。わりと大きな間歩だ。間歩には全部ナンバーが打たれている。


 この5枚の写真は全部、ちいさな間歩です。奥はどこまで続いているのかわからない。


ここは出口だったと思います。


観光坑道「龍源寺間歩」の近所にはこんな鉱山施設の跡がいたるところにある。案内板も整備されているのでさすがだ。


甘南備(山)坑(かんなびこう)。


 左の四角い間歩が”福神山間歩”。龍源寺間歩の手前、2〜300mぐらいのところ。この間歩は江戸時代、採掘した「山師」個人が持っていたものでいわゆる「自分山」と言われるものです。写真の坑口は銀山通りをはさんで北西側にありますがこの坑口から堀り進んで足元の通りの下を南東側に掘って「仙の山」方向に堀り進んでいる、といゆ一風変わった間歩である。


 銀山通りにある「銀の里工房」。この時はまだ時間が早すぎたのか閉まっていた。入ってみたかったが。銀製の食器の一つでも買えればいいかな〜と思ったが。



清水谷精錬所跡
下記はL写真の説明文。
 「徳川幕府が崩壊し明治になると石見銀山では一部の既存の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱がかろうじて続いていましたが、本格的な銀生産の再開は明治19年(1886年)に萩出身の藤田伝三郎たちが起業した大阪の藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)による採掘権(借区権)の入手を待ちます。藤田組は仙の山の南側の本谷地区の福石鉱床の金銀含有率と量に着目しそれによる銀生産を計画、明治27年(1894年)に武田恭作氏(当時、東京帝国大学冶金学科学生)の設計による近代的な銀の精錬所の建設を開始し、20万円の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。
 この精錬所には写真のような施設群があり福石鉱床で採掘した原料の鉱石は新たに掘削した金生坑と拡張した既存の蔵之丞間歩を通って精錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況をうかがい知ることが出来ます。
 鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力も十分でなかったことから不採算となり、明治29年10月に開始からわずか1年半で操業を停止しました。その後藤田組は柑子谷(こうしだに)に永久精錬所を新たに建設して銅生産を中心に大正12年(1923年)まで操業しました。」 (全文)


来た方向から製錬所を見る。


 清水谷製錬所の全景。これが東大の学生が設計したものらしい・・・。製錬能力に難あり、と書いてあったが学生の読みの甘さなのかどうか・・・は分からない。しかし採掘量がよく分からないが明治時代にしても製錬所にしてはちょっと規模が小さくないか・・・。最上段にトロッコで鉱石を運んで来た。


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