石見(大森)銀山   2/2  


 製錬所は北東向きである。この前の道路を2〜300m行くと銀山通りにぶつかる。  清水谷製錬所というのがここ一箇所だけとするならばやはり規模が小さすぎる感じがする。それとズリ場が見当たらないが。


 製錬所はこんな山の中にある。たった1年半しか使われなかった。銀山どうりからほんの数100m入った場所だ。 旧製錬所の最上部から下を望む。


 ここでの製錬法は灰吹法なんでしょうか?それを大々的にしただけなんでしょうか。水銀は使ってないのでしょうか。この穴は?


 ここは永久鉱床の開発をはじめてからの”永久坑道”のある場所である。一般的に石見銀山と云う場合いここの場所までは入らない。観光で来た場合もここまでは来ない。第一、バスが入れない。それほどの道だ。しかしこここそが永久鉱床から採掘した鉱石を日本海の港まで運んだいわゆる”鞆ヶ浦道”なのだ。つまり「銀山街道」なのだ。(写真の右側の道)


 永久坑山選鉱所。ここが永久鉱床から採掘した鉱物を選鉱した場所である。今はもう当然基礎の石垣しかない。ここは旧別子銅山の鉱山町に似ている。別子はもっと山深い立地だが。


 約6キロの銀山街道を通り銀積み出し港「鞆ヶ浦(ともがうら)」に向かう道。ここから船で一旦博多港に向かう。 永久坑山選鉱所を川の反対側から見る。


 永久鉱床から採掘したAg鉱石を製錬・分析するための作業場に行く。  牛の首??? これは地元の呼び方でここから銀山通りに行く途中の峠のこと。峠に地蔵さんがありそこを”牛の首”というらしい。昔、吉迫口番所があった。


 製錬所・分析場にいく道です。当時の坑夫住宅跡もあります。もちろん今は何もありません。この道をドンドン行くと山の尾根を越えて銀山通りの大龍寺跡に出ます。東西の道です。車は行けません。


 永久鉱山の製錬所の煙突です。永久鉱山製錬所は清水谷製錬所が閉鎖してから建設し、ここで明治時代に銀・銅の製錬をしていました。今はこの程度しか残っていません。


上に同じ これは製錬所工場の跡です。基礎だけが残っていました。



数ある永久鉱山の坑口、三宅坑。ここは選鉱所よりすこし南よりにある。やはりここはほとんど人が来ないのか竜源寺間歩のある銀山通り側と比較するとさびれている感じだ。


 当時の代官屋敷跡です。私が行った時は工事中で中は見れませんでした。何もかもが世界遺産のための準備だったんですね。時期が悪かったです。


上2枚は工事中の写真ばかりです。なんてことはありません。


 「西南之役戦死者記念碑」。西南の役って明治はじめに西郷隆盛が出てくるやつですね。この大森銀山でも戦闘があったんでしょうか?よくはしりません。  銀山通りを南西に向いて。この道の先に竜源寺間歩がある。


 江戸時代・銀山初代代官であった大久保長安の墓のある寺である。銀山通りからすぐ分かる。この”山吹城城門”というのは永久鉱床の頭上あたりの要害山にあったもので、大内氏が銀山防衛のために1533年築城したものだ。その後尼子、毛利、徳川と銀山の奪い合いの末、この城門だけを現在の西本寺に解体、移築された。


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