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茨城県日立市宮田町 日立鉱山 撮影:2009.12 |
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●主な採掘金属 : 銅、硫化鉄鉱、 ●地 質 : キースラーガー(層状含銅硫化鉄鉱床) ●経営企業 : 久原鉱業→日本鉱業(株)<同一企業改名> 日立鉱山は1905年日本鉱業(現日鉱ホールディングス)の創業者、久原房之助氏が代替わりしてからの名前でその前は赤沢鉱山(宮田川上流の赤沢谷<日鉱記念館のあたり>)と言っており古くからの零細鉱山であった。それが同年以後近代化により著しい成長を期す日本を代表する銅鉱山に発展する。有望鉱床は10箇所ほどあり中でも代表的なものは藤見鉱床で総延長約3キロにも達し埋蔵鉱量も3500万トン近くあったという。ただ平均品位が1.35%とあまり良くはなかったにも拘らず経営が成り立った一因として首都であり日本最大消費地、東京に近いことと鉱山の立地が山奥ではなく比較的海抜の低い平地であり且つ、海上輸送が可能な海に近いことも好条件だったようだ。因みに1905年〜1981年までの粗鉱生産量(採掘量):約3000万トン、銅生産量:約44万トンと資料にある。以下に簡単に鉱山史を記載する。 ・1591年(戦国):佐竹藩時代に藩政として金採掘を奨励。赤沢鉱床にもこの頃開削の手が入る。これ以後200年以上の間は紀 伊の豪商で有名な紀伊国屋文左衛門など多数の人々が採掘・中止を繰り返したが出水その他で誰も成功者は いなかった。 ・1864年(幕末):水戸藩内の天狗党の乱により金山焼失、操業停止。 ・1873年(M6) :佐賀県人、副田欣一氏(足尾銅山も当時経営中)が赤沢鉱山の鉱業権取得し採掘始めるが数年で中止。これ 以後30数年間、長山某氏、荒井某氏、中山某氏等たくさんの人々が関係したがいずれも鉱業権取得のみで採 掘せずに終わっている。 ・1905年(M38):久原房之助、大橋真六から赤沢鉱山を30万円で買い取る。これより久原鉱業(日本鉱業→現日鉱ホールディ ングス)による日立鉱山操業開始される。同時に機械化・近代化を進める。 ・1906年(M39):第1竪抗開削始まる。この頃より待遇改善要求でストライキ始まる。 ・1908年(M41):大雄院精錬所完成。 ・1909年(M42):本山〜大雄院精錬所間に複線式架空索道完成。同年2月大雄院小学校開校。 ・1911年(M44):神峰煙道(通称百足煙道)完成。硫酸製造工場操業開始。 ・1913年(T2) :百足煙道の煙害対策は失敗でこの当時、精錬で出る大量の亜硫酸ガスの煙害は周辺住民への補償費その他 で経営も危なくさせる程に深刻だった。そのため今度は”低くて太い煙突で煙を希釈する”という理屈でダルマ煙 突(通称:阿保煙突)を建設。しかしこれも大失敗。 ・1915年(T4) :失敗の続く煙害対策で今度はより上空に排煙させ希釈さすための巨大煙突を建設。そして遂に閉山までフル稼 働した150mの大雄院の大煙突(500尺煙突)が完成。(閉山後1993年に上部2/3程が折れて現在は残りで稼 働中。) ・1927年(S2) :鮎川義介(山口出身、日産財閥創業者、久原房之助と義兄弟)が社長就任。同時に日本産業(株)に社名変更。 ・1929年(S4) :経営が日本鉱業(株)に移る。 ・1945年(S20):米軍の空襲受ける。まもなく終戦。 ・1973年(S48):日本鉱業(株)の経営から日立鉱山(株)の経営になる。 ・1981年(S56):明治以来76年間、開山以来約400年近くの日立鉱山が遂に閉山になる。 ・1985年(S60):日鉱記念館設立。 ・1993年(H5) :大煙突の上部倒壊。以後残った精錬工場で金属リサイクル事業を稼動。現在に至る。 |
●左:常磐道「日立中央」インターで降り県道36号線を左折。すぐに右手にずっと日立鉱山の名残が見える。写真のものは常磐 道を越えてからの光景。 ●右:道路の法面はズリのようだ。これも”一石二鳥”ということか。 |
もうちょっと行くと見えました。例の煙突と煙道です。この大雄院(だいおういん)の大煙突、元は150mほどあったのですが20年ほど前に上部2/3が崩れ落ちてしまったらしいです。だから今は残った1/3、50mぐらいしかないそうです。それでも大きいですね。現在も見たとおり現役で金属リサイクル精錬の煙を吐き出しています。昔の写真を見ると煙道はもう一本南東側にもあるようです。手前のずんぐりむっくりした煙突はダルマ煙突(通称:阿保煙突)と言い1913年建設されたが煙害対策の失敗作。 |
日鉱記念館(日本鉱業日立鉱山記念館?)の入り口と広い駐車場。向こうに見える竪抗は地中630mまで達している第11竪坑。尚且つここが日立鉱山の”本丸”本山地区である。 |
●左:本山精錬所。明治39年当時の姿。本山というのは日鉱記念館のある場所。 ●右:本山選鉱所付近。いつの時代か不明だがそれほど昔ではなさそう。右端に第11竪抗がその下に第1も見えている。 「日立鉱山史」から写真転載。 |
●左:入り口を入ってすぐ右に栄斜坑口を確認。県道の下を通っています。下の写真「日立鉱山坑道断面」の左上から右下に行っている斜坑のことで地下300mまで下っています。この後「藤見斜坑」が地下950mまで降りています。 ●右:鉄扉の隙間から中を撮影。トロッコ軌道は見えない。床はコンクリートを打っているようだ。 |
操業当時の栄斜坑の様子。中からベルコンが伸びてきている。以下「日立鉱山史追補」から抜粋。 〓昭和44年(1969年)8月29日 中央斜坑を「栄斜坑」と命名。採鉱関係の運搬系統合理化を進める。同年6/5、最後の発破により標高差600m、全長2100mの中央斜坑が貫通。この工事は稼業区域が年々中央部から周辺部に移行し、しかも深部に及ぶにしたがって既設の竪抗だけでは下部からの出鉱量増加に対応しきれないため下部開発と坑内運搬系統合理化策としてS43年4/12、約5億円で着工したものである。 <栄斜坑の概要> ・第1斜坑 1,090m (590mレベル〜300mレベル) ・第2斜坑 23m (第一 第三斜坑の中継) ・第3斜坑 940m (300mレベル〜地表坑口) ・傾 斜 17度30分 ・運搬能力 毎時250トン 斜坑完成により鉱石はすべて斜坑ベルコンにより選鉱所へ直送されることになる。〜以下省略〜〓 |
奥の方へ行くと「日鉱記念館」がありその向こうに「鉱山資料館」がある。中には鉱山採掘や選鉱などで使う実にいろんな機械類が騒然と並んでいる。最近の何もかもデジタルな機械ではなくこういう超アナログで無骨なデザインよりも実用性一点張りの機械を見ていると時間の経つのを忘れる。興味のある人には垂涎物だと思うが。 |
●上左:大型コンプレッサー本体の圧縮機部分。面白 い形をしています。 ●上右:向こう側が圧縮機部分、手前側がモーター 側。驚くほどベルトの巾が広い。1mぐらいあ るんでは。 ●左:このクランクは圧縮機側のベルトが掛かってい るドラムに連結している。手前に伸びている白 っぽいアームで圧縮機を作動する。 ●右:大正7年(1918)製造以来、昭和56年(1981) 閉山まで63年間稼動したという。 |
これは資料館内に展示中の「銃」・・・ではありませんよ(笑)。全部今風に言うとエアツールですね。削岩機です。コンプレッサーからの圧縮空気で作動させます。これは小さい方の削岩機ですがもっとでかいものも同時にたくさん使うのでコンプレッサーも超でかい物が要るんですね。 |
余計な説明は要りませんね。ここに書いてあるとおり。 |
●左:これもクローラードリルの一種なんでしょうね。空圧式か油圧式かはこの写真では不明だが「TAMROCK」と恐らくメーカー名らしき ロゴがサイドに刻まれていた。 ●右:日鉱記念館の周囲を歩いているとかなり古そうな坑口を確認。扁額もなさそうで坑口名も分からない。 |
左手の上側の竪抗が第11竪抗、右の下側の方が第1竪抗(すぐ下の巻上機の写真参照)。白い屋根の建物は鉱山資料館。日鉱記念館は写真の右手のほうにある。 |
第一竪抗巻揚機室の中を窓ガラス越しに撮ったものです。さすがワイヤーはぶっとい!ワイヤーだけでもかなりの重量があるだろう。地下深度600mある。ブレーキもいわゆる外部収縮式だ。これだけ巨大で高負荷のウインチになると外部収縮式でないともたないだろう。修理もしやすいし。 |
旧久原邸。明治時代にはここに起居して鉱山経営に采配をふるっていたようだ。経営問題や公害問題、労使問題などに頭をひねった頃を回顧して後年書いた書、「苦心惨憺処」の額が室内にありそれを刻んだ石碑が入り口にある。 |
この第一竪抗は三つに仕切られ手前の二つは鉱石の運搬に、奥の一つは作業員の入出抗・資材運搬に使われていた。このような竪抗は16基あった。そのうち3基の巻揚機室は地上に設けられていた。主要坑道は50m毎に切られており最深部は地下950mに達していた。(左の説明より) |
●左:日鉱記念館の正面入り口。 ●中・右:”孫文の久原宛書簡”というのがあったが疑うわけではないがそんなのがあるんですね。中国建国の父と言われた孫文なんでしょうね。 |
写真左から、周恩来、久原房之助、毛沢東、?、?。右の二人は分かりません。同席するぐらいだからVIPなんでしょうね。 |
これが大雄院の折れた大煙突の建設当時の姿。1914年(日露戦争)に建設開始〜翌1915年には完成。海抜325m地点に鉄筋コンクリートで高さ:155mあったという。(右の写真参照)。78年間もの長い間台風や強風や地震もあったであろうによくもったものだ。海抜325m+高さ155m=実質高480mもの高さになると風の影響も半端じゃないと思うが。相当揺れるだろう。 |
●左:日鉱記念館前の歩道にあったカラミ煉瓦。どうやら尾小屋鉱山のものだった。尾小屋のからみは他鉱山のものと違って六角形 だ。特徴がある。 ●中:明治か大正時代の運動会でしょうか。子供もたくさんいるしのぼりもあるし手前の大人は応援団のかっこをしていますね。 ●右:その運動場。 |
●左:こちらは第11竪抗です。写真下の小さな文字は「人及び材料運搬用300馬力単胴巻揚機のギヤーである。定員30名、巻揚速 度1分間180m」と記載。手前座った人型がオペレーター。今まさに右手のレバーを引いている。 ●中:形状と位置的に操作室(だと思う)。ワイヤーを通していたと思われる窓が見える。 ●右:遠景。深度630mまで上下動。 |
●左:日鉱記念館入り口の左手に選鉱所かホッパーの基礎コンらしきものを確認。 ●中:参考までにUPしました。 ●右:入り口の門柱はカラミレンガを使っているようだ。 |
県道36号線の本山トンネルを超えて坂を降りたところ左手に同じ日立鉱山の敷地がある。どうやらトンネルの山そのものが鉱山敷地なのだろう。鉄扉には「日立鉱山(株)」とのロゴがはっきり確認できる。 |
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