2/3    軍艦島2(端島炭鉱)   撮影:2009年12月   
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通称「軍艦島」、端島炭坑は正式名称を「三菱石炭鉱業(株)高島鉱業所端島抗」と言う。今回、軍艦島に上陸できるツアーがあるとの報を得、早速行ってきました。非日常の体験ということか平日なのに立見客ならぬ立客がいっぱい!そこへどこかのTV局のクルーが数人。取材らしい。船内でもインタビューしている。では行ってきます。 


L・M写真:長崎港から軍艦島クルーズに乗る。当日は平日にもかかわらず満員。さすが非日常は人気絶大だ!
R写真:
長崎港の様子。


L写真:長崎造船所内の三菱の大病院。非常に立派な病院だ。東京や大阪の病院にも引けをとらない程だ。
M・R写真:三菱重工長崎造船所。戦艦「武蔵」はここで建造。ちなみに「大和」は広島の呉で建造された。当日は自衛隊のイージス艦が
       ドック入りしていた。  


L写真:軍艦島に向かう途中の高島。ここも高島炭坑で有名だ。
写真:高島の桟橋とその向こうにアパート群が見える。
R写真:
写真左手が軍艦島。右手の大きいほうが途中の中ノ島。島の大きさは軍艦島の方が大きい。この中ノ島にも炭坑があり坑口
     があったが後にはこの島の坑口は閉ざされ軍艦島での犠牲者の斎場と墓地になる。


上陸します。
いよいよ上陸だ。写真は島の北東部、元小・中学校。右方向が長崎市方向。最右側の比較的低層の建物の裏側に端島病院があり隣に隔離病棟があった。


L写真:建物の横を向いている方が端島小・中学校の校舎。その向こう側の建物は1945年建築の9階建て”コ”の字型の65
     号棟高層住宅。”コ”の字の内側は小さな児童公園になっており屋上は幼稚園。
R写真:そのUP 。大正から昭和にかけて世間ではもっぱら建築物と言えば木造だと思うしここほど高層建築はなかったと思う
     がこの時代にここまでするのはやはり四六時中、潮風にさらされ時化には直接波にももまれるし極端な人口密度とい
     う条件を解決するにはこれしかなかったのだろう。


しつこいようですが拡大写真です。校舎の左側につぶれた鉄骨が見えるが体育館の跡。しかしこうして激しい風雨や潮風にさらされて何十年も経ったかつての人々の生活の場を見るのはこれこそが歴史の証明とは言え何か一言では言い表せられない深くて重い物を感じる。


船着場に近づいてきました。ちなみに軍艦島のロケーションは外海に位置しているため波の影響を極端に受けやすい。一番近い長崎半島まで約4キロもの距離がある。なので台風の時などは島を越えて波が飛んでいくと言う話だ。この島、元はこんなに大きくなく(今でも小さいが)現在の約1/3ぐらいの大きさしかなかったと言う。それを石炭のボタや土砂などを埋めたててちょっとづつ大きくしたようだ。学校の場所は完全に埋め立ての後らしい。(どこも同じだが)いろいろ問題も多い炭坑だったが当時としてはその土木技術はピカイチだったろう。なにせ超狭いこのエリア(南北:500m弱、東西:150m程)に5000人もの人口を要していた時期があったというのだから。


L写真:最上(頂)部に1959年建築の鉄筋コンクリート4階建3号棟社宅が見える。その左手(南側)には木造建
     築で5号棟の鉱長社宅があった。写真手前のコンクリート土台はベルトコンベアの物。

R写真:
端島神社の社。その左に見えるのは鳥居だろうか。(いずれの写真も東側から撮影。)  


護岸の高さを見たいために撮ってみました。正面の沖側は南西方向。時化になるとものすごいので堤防の高さを10mぐらい、場所によってはそれ以上にしていたと言う。5000人もの人々が住んでいたころにはやはり堤防からの転落死亡事故もあったことだろう。徴用で連れてこられた抗夫たちはここから飛降り自殺したり対岸まで泳いで逃げようとして途中、溺れ死んだ人たちも相当数いたという。中には無事逃げ切った人もいたらしい。そのせいかどうか堤防の上は三菱鉱業所の保安員が定期的に監視していた。ついでに言うならば韓国の作家、韓水山氏の「軍艦島(邦題)」はここが舞台の物語。その中で従軍慰安婦のシーンがある。この島に徴用されてきた朝鮮人と慰安婦が同じ苦しみを共有しあい一緒に逃亡しようとするシーンがある。女性の方はあきらめるのだが。


船がドルフィン桟橋に接岸です。この日は海は凪いでいましたがやはり外海のせいと波除堤防がないせいか接岸時は相当上下した。今この島は長崎県か市が所有しているため船の運行もその関係だったと思う。なにはともあれ上陸です。  


L写真:坑口かと思ったが違った。島の向こう側に通じるトンネルだったようだ。
R写真:
長年の風雨にさらされてひどい状態のようにも見えるがどことなくかたずいているようにも見える・・・これ
     はやはり観光化するためだろうか・・・私的にはもっと限りなく荒廃状態だと思ったのだが。右上の頂上の
     コンクリート構造物は大きい貯水槽。廃墟の島に灯台だけが真新しい。


L写真:元はなにがあった場所か分からない。鉄骨が崩れたようなものがあるいは竪抗櫓があった場所だろうか。
     でも端島炭鉱は確か斜抗ではなかったかな?斜坑から竪抗に近代化したか。

R写真:
こっちも何がなにやら不明。


L写真:ポンプか何かのモーターですね。なぜかこれだけが目立ったので撮ってみました。
R写真:やはり長崎市の管理・運営ですね。


L写真:島の最南西部から北側を見る。7階建ての炭鉱住宅。三菱鉱業所高層社宅。今風に言うならばマンション。左側の社宅な
     どは完全に西向き、と言うことは東シナ海。はるかかなたには五島列島。景色はいいだろうがそれだけでは生活できない。
     目の前すぐ下が海と言うロケーション。時化の時や台風などは相当怖い思いをしたのではなかろうか。正面のこちらを向いて
     いる7階建て社宅が1916年(T5)に建てられた30号棟。下請けの飯場もかねていた。その左のちょっと”く”の字型に曲が
     っている社宅が1957年(S32)に建てられた6階建ての31号棟。ここには端島唯一の郵便局があった。共同浴場もあった。
     こちらからは見えないが31号棟に並んで向こう側に50号棟の映画館(昭和館)、39号棟(裏側の21号棟には交番所があ
     った)の公民館、48号棟の地下にはパチンコ屋などもあった。とにかく狭い島で数千人もの人々が生活するには並大抵では
     なかったと思う。わずかな空間にも児童公園やいろんな物を作ったり後は垂直に上か下に延ばすしかなかっただろう。全体と
     しては島の西側と北側が住居・生活区域、東側と南側が作業区域になる。

R写真:
完全に撤去された跡だ。こうやってどんどん片付いていくんでしょうね。産業遺産の保存方法をもう一度再考してほしいと思う
     のだが・・・。壊すだけではなく、また模型のように何から何までキレイに作り変えるのでもなくそれを見て何かもっと人々の琴
     線にひっかかるようなもの、心の襞の奥に染み入るような何かを感じさせる保存方法を考えられないものか。大学や役所に
     は頭のイイ人がたくさんいるだろうからちょっとその辺を考えてほしいものです。


L写真:どこかの放送局クルーが取材に来ていた。
R写真:
これは当時の南部プール跡。25mほどの広さはあったように思う。子供達や大人も共に水浴びをした。  


島南西部の二階建て建屋。通路を挟んでプールの反対側。作業用施設としか分からない。

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>つづく<