琴の曲には、標題がそのまま内容を具体的に表す曲が多い。抽象的標題がつけられた曲は少なく、文學的標題がそのまま音樂として具象化されてゐる。極端に自然的現象や人為的事象を音の単位で表現したりもするが、文學的要素が強く、たとへ擬音であっても幼稚に陷ることは免れてゐる。標題と曲の内容との關係は密接な繋がりがあり、曲の思想性は明確に標題に表れてゐるのである。それゆゑに打譜する上において標題の的確な把握は極めて重要である。誤った標題の理解は、曲の内容を別なものにしてしまひかねない。彈奏者が標題からイメージする曲の内容はそのまま表現されてしまふのであるから、その標題の正しい知識は必要不可缺と言へよう。
『幽蘭』曲を奏するとき、華麗な花をつけ妖艶にして馥郁たる香を放つ〔蘭花〕をイメージして彈奏するのではないだらうか。蘭は中國の國花でもあり、その姿態は美しく、古來多くの文人に愛され、書斎に飾られ墨畫に描かれてきた。この〔幽蘭〕といふ名から、幽谷にひっそりと孤獨に咲く蘭を思ひ描き、そこに作曲者とされる孔子の眼差しを見てゐることと思ふ。
しかし〔幽蘭〕とは、蘭の花ではなく、雜草に混じって生ずる〔藤袴〕「フジバカマ」をさす。この名稱の特定は、『幽蘭』曲のイメージが全く違ったものになるといふ問題をはらんでゐる。
青木正兒は『中華名物考』「蘭草と蘭花」の中でかう言ってゐる。「秋の七草の一つに數へられるフジバカマは、本草家すなはち藥物學者が謂ふ所の「蘭草」であって、唐代以前の古典に見えてゐる「蘭」とは此の草である」と。
〔藤袴〕は別名が、蘭、蘭草、秋蘭、香蘭、王者香、國香、蘭澤、香水蘭、猗蘭、幽蘭、燕尾香、柴菊、孩兒菊、侍女花と甚だ多い。現代中國では佩蘭と呼ぶ。日本では秋の七草の一。キク科、ヒヨドリバナ屬の多年草。〔藤袴〕の語源は『大言海』に「フジバカマ、藤袴、花の色、藤に似て、花弁の筒をなすこと袴の如き意なりと云ふ」と、明解な解説がある。
また、『大和本草』『類聚名義抄』などには
「フジバカマ、別名アララギ、ラニ、漢名蘭草、真蘭、蘭」とあり、
『源氏物語』「藤袴」には
「かかる序(ついで)にやと思ひ寄りけむ蘭(らに)の花いとおもしろきを持給へけるを、御簾のつまよりさし入れて、「これも御覽ずべきは故はありけり」とて、頓にもゆるさで持たまへれば、うったへに、思ひもよらで取り給ふ御袖を、引きうごかしたり。
おなじ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかごとばかりも」
とあって、中國渡來の蘭が日本の〔藤袴〕であることがわかる。
〔藤袴〕の花はたいへん地味で、その全體の形状はほとんど雜草と變りがない。園藝品種として栽培されるが、地植ゑにするなら雜草をも凌駕する勢いで繁茂する。古代よりその葉や莖の香りが尊ばれてきた植物であるが、生の葉そのままではあまり香らず、干して乾燥させるとはじめて強い佳香を發する。成分にクマリン、クマリン酸、およびチモハイドロキノンを含むためといふ。この匂ひは蘭花の馥郁たる香に酷似する。私の體験であるが、晩秋の頃、庭に下り立つと何處からともなく甘い清香がしてくる。それは庭の隅に植ゑられた立ち枯れの〔藤袴〕からであった。陶淵明の詩「幽蘭生庭前 含薫待清風」とはまさにこのことかと思った。
『蘭譜』とも言はれる屈原『楚辞』にはこの蘭、すなはち〔藤袴〕が頻出する。
「秋蘭を紉(つ)ぎて以て佩と爲す」(離騷)
「余、既に蘭を滋(う)うること九畹(ゑん)なり」(同)
「余が馬を蘭皐(らんかう)に歩ます」(同)
「幽蘭を結んで延佇す」(同)
「謂へらく幽蘭は其れ佩ぶべからずと」(同)
また、「九歌」雲中君篇に「蘭湯に浴して芳に沐す 花采の衣は英の若し 靈、連蜷として既に留まり 爛、昭昭として未だ央きず」といふ歌があるが、これは巫女が蘭の湯で沐浴し、身を飾り、神靈を迎へようとするところを詠んだとされる。この蘭を〔蘭花〕とするなら、かなりの花弁が必要となり「豪勢なこと」(青木正兒)と言はざるをえない。この湯浴みは後世、屈原が入水した五月五日の節句に行ふ風習となった。それが日本に渡來すると、菖蒲の葉を用いる湯浴みと變化したのである。菖蒲の葉は中國においても用いるが、それはその葉形が剣に似てゐるので家の前にかけ邪氣を祓ふためである。
古代中國において〔幽蘭〕とは神聖な植物であった。香り高い蘭湯で禊(みそぎ)の行事をしたり、身に帶びて邪氣を祓ったり、乾燥させた葉を揉んで頭髪の中に隱したり、匂袋に入れて身に佩することが、中國の古い習俗としてあった。蘭室とは鉢植ゑの〔蘭花〕が並ぶ室ではなく、刈り取った〔幽蘭〕を干して保存する室であった。
このやうな古代の神聖植物としての〔幽蘭〕を、孔子もまた見たと思はれる。孔子が『幽蘭』曲を作曲した(とされてゐる)經緯が『琴操』にある。
「孔子歴聘諸侯、諸侯莫能任、自衞反魯、過隱谷之中、見薌蘭獨茂、喟然嘆曰、夫蘭當爲王者香、今乃獨茂、與衆草爲伍、譬猶賢者不逢時、與鄙夫爲倫也、乃止車、援琴鼓之」
孔子は諸国を歴訪して諸侯に謁えたが、官につくことができなかった。衞國から魯國へ歸る途中、幽谷にひとり蘭の茂るを見て嘆じて言ふ、「蘭はまさに王者の香である。雜草の中にあってひとり茂る、譬えるなら、愚者の中にあって賢者に逢へないやうなものだ」と。そこで孔子は車を止め、琴を援きこれを彈じた。
屈原『楚辭』「離騷」に、この孔子の歎きと同じものがある。
「余以蘭爲可恃兮、羌無實而容長、委厥美以從俗兮、苟得列乎衆芳」
蘭は國土の香にして尋常の芳草とは同じからず、余はかくの如き忠信の人と共に君の心を格(たゞ)して美政を爲さんと、ひそかに同心の助と恃み居たりしに、あゝ、其實なくして外觀の美ありしのみなり。彼等は自ら其の國香を棄てゝ時世の風に從ふを以て、身を榮へ位を保つの良圖と爲し、以て君子の列に在らんと欲するは厚顏の至といふべし。これを苟くもするのみ。(橋本 盾譯『岩波文庫』)
これも私の體験であるが、日本で唯一の〔藤袴〕の自生地が、東京葛飾の水元公園にある。案内所でその場所を教へてもらひ探したが、なかなか見つからない。〔藤袴〕は道路の端の鬱蒼と雜草が茂る中に麻畑のやうに屹立し群生してゐたのである。そこは窪地であり、木陰になっておりその場所だけは何か幽邃な雰囲気であった。
孔子も屈原も〔幽蘭〕が衆草の中にあって尚、高貴な香を放ち、ひとり毅然として立ってゐる姿を自己と重ね合はせたのである。孔子がはたして、妖艶な形態をした〔蘭花〕に自己と同一視するだらうか。〔蘭花〕はいかにも女性的な花である。中國蘭には西洋蘭のような派手さはないが、それでも蘭科植物獨特の妖艶さがある。男子であるならこの花を我が身に映すことを憚るだらう。後代、〔蘭花〕を君子の香と言った。文人畫の四君子とはすなはち「蘭(花)」「竹」「梅」「菊」のことである。なぜ〔藤袴〕と蘭が違ふものになってしまったかを青木正兒は『中華名物考』「蘭草と蘭花」の中で述べてゐる。「北宋末期の黄山谷(一〇四五〜一一〇五)は『幽芳亭に書す』と題する文章に於て、近世の謂はゆる蘭すなはち『蘭花』を以て古の「楚辭」に詠ぜられたる『蘭』および『蕙』と見なして其の優劣を論じ、而して二者の區別を説明して『それが華を發するに至って、一幹に一華にして香の餘り有るものは蘭であり、一幹に五七華にして香の足らざるものは蕙である』と云った。是がそもそも間違の廣まる元である」と。また、「南宋の陳傳良は「盗蘭説」を著し、其(蘭花)の眞の蘭に非ざることを説いて之を譏り、元の方囘は「訂蘭説」を作って之を正し、明の楊愼・呉草廬なども皆その説を爲して僞を辯じたけれども、大勢は如何ともすることが出來なかった。」と。ならば現代の我々が、〔幽蘭〕を〔蘭花〕であると信じるのもまた當然のことであった。
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