源氏物語と「琴」U
 
―余韻の音楽、琴―    伏見 无家


勉誠出版刊 人物で読む源氏物語『女三宮』所収



 琴[きん]が意味するものは、楽器以上、音楽以上の存在として、それは文学であり思想でもあった。琴は高度な芸術性と深い精神性を持った音楽であることがその歴史的背景から読みとることができる。一音を奏でるだけでも、その音には深い美意識と理念が表現される。古人は己が心情や志意を琴に託した。沈思するその音色は微弱にして幽邃なるゆえに伶人の音楽とはならず、弾き手が専ら音楽を専門としない思想家、知識人、王侯貴族らであったことは、平安時代末期に琴が廃れた理由となるであろう。なぜなら貴族社会の崩壊とともに琴は滅びたのである。雅楽のように演奏を専従とする伶人なる音楽家集団は野に逃れ、家伝の楽を現代にまで死守し続けてきたが、琴を守る者は誰もいなかった。琴は文人の音楽であった。職業的ではなく、余技として自娯のため自由に奏でることに琴の弾奏目的があり、そういう弾き手と環境がなくなれば自ずと琴は廃れることとなる。
 琴が持つ芸術性と思想性を文学作品として表明したのが『源氏物語』に先行する『宇津保物語』であった。この物語は美なるものに最高の価値をおいた音楽芸術の書である。ここに表現された琴の音楽は、異常とも思える幻想的な文学空間を現出しているが、それは琴本来の音楽性からは懸け離れたものとなっている。それに比べ『源氏物語』にあらわれる琴は神秘的霊性なる琴というより日常に弾くべき文人の琴として表現されている。具体的な琴の記述によって作者が実際に琴に触れていた事実が知られる。琴はあくまで『源氏物語』の主題のための音楽的効果を齎すものであったが、琴にこめられた意味は他の楽器とは異なる。「源氏物語の音楽」として琴は欠くべからざる音楽であり、琴が果たす役割は大きい。特に「若菜下」における源氏が述べる琴論は注目すべきものがある。
 『源氏物語』に表れる琴の記述の頻度は、他の楽器、すなわち箏、琵琶、笛などともに同程度である。「琴」字は、「御琴」「和琴」「箏の琴」「琵琶の琴」「御琴ども」「琴笛」といったように琴以外の楽器、あるいは楽器の総称としても使われているが、原文(大島本)の「きん」「きむ」「琴のおんこと」はあきらかに琴、すなわち七絃琴を指す。中には「こと」「おんこと」あるいは「琴」と言うようにいづれか楽器を特定出来ないものもあるが、琴のイメージを持つもの、琴を指したと断定できるものに対し、それが何ゆえ琴であるか注を附しここに列挙し、『源氏物語』において琴がどのように表現されているか見てみたい。なお、あきらかに琴であるものは極力注を避けた。( )は巻名と「琴」の原文を付した。

(渋谷栄一氏の「源氏物語の世界」http://www.sainet.or.jp/~eshibuya/ および佐藤和雄氏の「源氏物語の語彙検索」http://www2s.biglobe.ne.jp/~ant/genji/genji.cgi にはこの稿を書くにあたって多大な恩恵を被った。)

わざとの御学問はさるものにて、琴笛の音にも雲ゐをひびかし、すべて言ひつづけば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける(「桐壺」こと 。)

 琴は「琴書」というように学問と併称される。「雲居を響か」せるのは琴の霊的な効能を言うが、また宮廷も意味する。

琴の音すすめけんかどかどしさも、すきたる罪重かるべし(「帚木」こと 。)

 「琴は禁なり。淫邪を禁止する所を以て、人心を正しうす」と『白虎通義』にある。琴は徳がそなわった楽器であり、人格者が弾くべきとされる。

僧都、琴をみづから持てまゐりて、「これ、ただ御手ひとつあそばして、同じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」(「若紫」きむ。)

琴をぞなつかしき語らひ人と思へる」と聞こゆれば、「三つの友にて、いま一くさやうたてあらむ」(「末摘花」きむ 。)

 琴は「自娯」(『荘子』讓王篇第二十八)の音楽である。修身理性として自己を内省するために弾かれ、また古人と邂逅するために弾かれた。「三友」は白居易の「北窓三友」による語。「琴罷みて輒ち酒を擧げ、酒罷みて輒ち詩を吟ず 三友遞ひに相引き、循環して已む時無し」白居易は琴と詩と酒の三つを生涯の友とした。

「御琴の音いかにまさりはべらむ、と思ひたまへらるる夜の気色にさそはれはべりてなむ。心あわたたしき出で入りに、えうけたまはらぬこそ口惜しけれ」と言へば、「聞き知る人こそあなれ、ももしきに行きかふ人の聞くばかりやは」とて、召し寄するも、あいなう、いかが聞きたまはむと、胸つぶる。ほのかに掻き鳴らしたまふ。をかしう聞こゆ。なにばかり深き手ならねど、物の音がらの筋ことなるものなれば、聞きにくくも思されず。(「末摘花」こと。)

 「聞き知る人こそあなれ」というのは、琴の名手伯牙と聴き手の鍾子期の故事による。琴の音色は微弱であっても清冽で格調高く「物の音がらの筋ことなるもの」である。しかし楽器の構造はきわめて単純で、絃に直接指を触れ音を作り出すために、奏者の気分や体調に支配されやすく、そのせいで稚拙な演奏に「をかしう」聴こえたりする。技巧的で上手な弾奏よりもむしろ琴を通してあらわれる奏者の品位や心情、世界観の方を尊ぶ。

君たちは、ありつる琴の音を思し出でて、あはれげなりつる住まひのさまなども、様変へてをかしう思ひつづけ(「末摘花」きむ。)
月やうやう出でて、荒れたる籬のほどうとましく、うちながめたまふに、琴そそのかされて、ほのかに掻き鳴らしたまふほど、けしうはあらず。すこしけ近う、今めきたるけをつけばやとぞ、乱れたる心には心もとなく思ひゐたる(「末摘花」きむ。 )

 琴徽(絃を十三等分にした位置)に嵌めてある青貝はよく月光を反射すると言われる。琴を弾ずるのは月下が最もふさわしい。「今めきたるけをつけばや」とは、白居易の「廢琴」という詩に「古聲は澹にして味無し 今人の情に稱はず」とあるように、今人は親しみやすい今風の音楽を好む。琴は常に古曲を弾じ、太古の遺音を奏でるための楽器であった。

かの山里の御住み処の具は、え避らずとり使ひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書ども、文集など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ。ところせき御調度、華やかなる御よそひなどさらに具したまはず、あやしの山がつめきてもてなしたまふ(「須磨」琴 。)

 書と琴は俗世を逃れ隠棲するものにとっての心の拠り所となるものであり、琴は遊仙のため必須の具でもあった。室に琴があることは文人たるものの証となるものであった。大島本の行間注記にはこの文集について「白楽天ノ詩賦をあつめたる七十二巻アリ長慶集トいへり長慶年中にあつめたる故也」とある。

もてならしたまひし御調度ども、弾きならしたまひし御琴、ぬぎ捨てたまひつる御衣の匂ひなどにつけても(「須磨」こと。)

 大島本の行間注記には「琴」とある。君子たる源氏が常に「弾きならし」ていたのは琴であった。「左琴右書」として、「常に御する所の者」として君子は琴を身から離さなかった。

御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、独り目をさまして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに枕浮くばかりになりにけり。琴をすこし掻き鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて(「須磨」琴。)

 ものみな寝静まる中、一人目覚め弾く楽器は微弱な音の琴である。琴は「静寂の音楽」であり、静寂を静寂たらしめ、寂寞たる思いをいやがうえにも増す。

琴の声風につきて遥かに聞こゆるに、所のさま、人の御ほど、物の音の心細さとり集め、心あるかぎりみな泣きにけり(「須磨」琴。)

 琴は、心あり音を知るものでなければ理解できない。「所のさま、人の御ほど、物の音の心細さ」は琴を弾くべく聴くべき要件である。大島本の行間注記には「キン」とある。

「琴の音にひきとめらるる綱手繩たゆたふ心君しるらめやすきずきしさも、人な咎めそ」(「須磨」こと。)

 綱手繩を引き止めたのは琴の音である。大島本の行間注記には「源氏引琴」とある。

冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもことにすごくながめたまひて、琴を弾きすさびたまひて、良清に歌うたはせ、大輔横笛吹きて遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、こと物の声どもはやめて、涙を拭ひあへり。昔胡の国に遣はしけむ女を思しやりて(「須磨」琴。)

 琴は洞簫との合奏をすることがあり、笛類の音と琴音はよく合う。しかし本来は独奏楽器であり、他の鳴物と和すことは難しい。平安時代と江戸時代に二度、琴を雅楽に取り入れようとしたが、いづれも失敗している(岸辺成雄『江戸時代の琴士物語』二〇〇〇年)。琴は「雅正の楽」であり、宮廷音楽として俗曲であった雅楽とは合奏できなかった。衆楽とは相容れないのである。それが「こと物の声どもはやめて」という語に見てとれる。大島本の行間注記には「昔胡の国に遣はしけむ女」を「王昭君事」とあり、琴曲に「王昭怨」がある。

久しう手ふれたまはぬ琴を、袋より取り出でたまひて、はかなく掻き鳴らしたまへる御さまを、見たてまつる人もやすからずあはれに悲しう思ひあへり。広陵といふ手をあるかぎり弾き澄ましたまへるに、かの岡辺の家も、松の響き波の音にあひて(「明石」きむ。)

 琴は、室に置いたり持ち運ぶ際には袋に入れる。それを琴服、琴嚢、琴套、琴布ともいう。「広陵」は琴曲名。「碣石調幽蘭」譜には「広陵止息」という曲名の記載がある。明代『神奇祕譜』(一四二五年)に載る「広陵散」は三十六段もある大曲であるが、曲譜の初めに「開指」があり「小序」が付され、それが三段あまりの「止息」曲である。「広陵散」は難曲に数えられ、しかも激昂するような曲風で、それが「手をあるかぎり」という語に見て取れる。大島本の行間注記には「琴ノ秘曲 嵆康か花陽の亭にして神人に会て伝たる曲也此神人は昔の伶倫の変化也」とある。「松の響き」とは「松風」、琴の音に喩えられる。この音は絃を爪弾いた音ではなく、左手で絃を擦る「擦音」「走音」である。琴音は絃を爪弾く音より、左手指で絃を押さえ走らせる音のほうが際立って聴こえるのである。細かい松葉の間を吹き抜ける風音と、この「走音」を聴き比べるなら酷似していることに気づく。因みに丹後半島の琴引浜の鳴き砂もこの音に似る。「引」という字には音を弾くというより、音を擦るという意味が近い。唐詩に松風を琴に喩えた例は「冷冷七絃上 靜聽松風寒」(「彈琴」劉長卿)、「松風吹解帯 山月照彈琴」(「酬張少府」王維)、「琴上松風至」(「安邑王校書居」耿湋)、「松風長似鳴琴」(「臨江仙二」牛希濟)、「琴松風兮寂萬壑」(「鳴皐歌送岑微君」李白)、「松風鳴夜弦」(「送嵩山焦錬師」同)、「松風如五弦」(「大庭庫」同)、「松聲入夜琴」(「風」李嶠)、などがある。

わか御心にも、をりをりの御遊び、その人かの人の琴笛(「明石」こと。)

 その後に「掻き鳴らしたまへる声も、心すごく聞こゆ」とあり、琴をイメージしていたと思われる。

音もいと二なう出づる琴どもを、いとなつかしう弾き鳴らしたるも、御心とまりて、「これは、女のなつかしきさまにてしどけなう弾きたるこそをかしけれ」(「明石」こと。)

 琴の奏法は左手指、右手指とも優美に弾くことが求められる。指法はきわめて複雑多岐にわたるが、その動きは舞踊的且つ女性的である。それが「なつかしきさまにてしどけなう」に見て取れる。その後に明石の入道は「なにがし、延喜の御手より弾き伝へたること、四代になむなりはべりぬるを」、「山伏のひが耳に、松風を聞きわたしはべるにやあらむ」と述べる。延喜は琴が興隆した時代。松風を琴音に喩えている。大島本の行間注記には「琴」、また「松風に申なれにける山伏は琴をことゝもおもはさりけり 寿玄法師」「琴のねに峰の松風通らしいつれのをよりしらへそめけん 斎宮女御」とある。

君、「琴を琴とも聞きたまふまじかりけるあたりに。ねたきわざかな」とて、押しやりたまふに、「あやしう昔より箏は女なん弾きとる物なりける(「明石」こと。)

 箏は女子の弾く楽器と述べ、琴は男子の弾く楽器だということを暗に示す。

世になきものと聞き伝へし御琴の音をも風につけて聞き(「明石」こと。)

 「世になきものと」とは「琴賦」などの影響によるものだろうか。琴音は自然の音に溶け込む。自然と和すゆえに道に則った音楽と言われる。

「さらば、形見にも忍ぶばかりの一ことをだに」とのたまひて、京より持ておはしたりし琴の御琴取りに遣はして、心ことなる調べをほのかに掻き鳴らしたまへる、深き夜の、澄めるはたとへん方なし(「明石」きん。)

「琴はまた掻き合はするまでの形見に」とのたまふ(「同」きん。)

文才をばさるものにていはず、さらぬことの中には、琴弾かせたまふことなん一の才にて、次には横笛、琵琶、箏の琴をなむ次々に習ひたまへると、上も思しのたまはせき。世の人しか思ひきこえさせたるを、絵はなほ筆のついでにすさびさせたまふあだ事とこそ思ひたまへしか(「絵合」琴。)

 中国六朝以来、身につけるべき教養に琴棋書画があり、その筆頭に琴はある。また学問をおさめることと琴を修得することは同等にあった。大島本の行間注記には「キン」とある。

書司の御琴召し出でて、和琴、権中納言たまはりたまふ。さは言へど、人にまさりて掻きたてたまへり。親王、箏の御琴、大臣、琴、琵琶は少将命婦仕うまつる(「絵合」きん。)

捨てし家ゐも恋しうつれづれなれば、かの御形見の琴を掻き鳴らす。をりのいみじう忍びがたければ、人離れたる方にうちとけてすこし弾くに、松風はしたなく響きあひたり(「松風」きむ。)

ありし夜のこと、思し出でらるるをり過ぐさず、かの琴の御琴さし出でたり。そこはかとなくものあはれなるに、え忍びたまはで掻き鳴らしたまふ。まだ調べも変らず、ひき返し、そのをり今の心地したまふ(「松風」きむ。)

契りしにかはらぬことのしらべにて絶えぬこころのほどは知りきや(「松風」こと。)

 前に「かの琴の御琴さし出でたり」とある。琴の音色は太古の昔から変らない。それは平安時代においても、また現代でも同じである。

「風の力蓋し寡し」とうち誦じたまひて、「琴の感ならねど、あやしくものあはれなる夕かな。なほ遊ばさんや」とて、秋風楽に掻き合はせて(「少女」琴。)

 前後の文脈から和琴を琴の感じではないと言っていると思われる。この出典は『文選』(巻四六豪士賦序)「落葉俟微風以隕 而風之力蓋寡」「孟嘗遭雍門而泣 琴之感以未」となっている。大島本の行間注記には「キン 感也 雍門―周弾琴今大臣和琴引クゝ」とある。

楽所遠くておぼつかなければ、御前に御琴ども召す。兵部卿宮琵琶、内大臣和琴、筝の御琴院の御前に参りて、琴は例の太政大臣賜はりたまふ。さるいみじき上手のすぐれたる御手づかひどもの、尽くしたまへる音はたとへん方なし(「少女」琴。)

 琵琶、和琴、箏のあとに「琴」とあるのであきらかに琴である。

唐の東京錦のことごとしき縁さしたる褥に、をかしげなる琴うちおき、わざとめきよしある火桶に、侍従をくゆらかして物ごとにしめたるに、えひ香の香の紛へるいと艶なり(「初音」きむ。)

 唐風なエキゾチックな寝台に琴はふさわしい。

御琴を枕にて、もろともに添ひ臥したまへり(「篝火」こと。)

 白居易の詩「間臥」に「夕に向ひ簾を搴げ琴を枕にして臥す」という詩句がある。琴を枕にする例は、隠者が読書に倦みて午睡をむさぼるために琴を枕にする「眠琴」として多く画に描かれ、詩に詠まれる。添い寝とは『源氏物語』らしい情景である。

琴は、兵部卿宮弾きたまふ。この御琴は、宜陽殿の御物にて、代々に第一の名ありし御琴を、故院の末つ方、一品の宮の好みたまふことにて、賜はりたまへりけるを(「若菜上」琴、こと。)

 大島本の行間注記には「キン」とある。平安時代には今に伝わらない唐代の名琴などが少なからずあったのだろうと想像される。

御気色とりたまひて、琴は御前に譲りきこえさせたまふ。もののあはれにえ過ぐしたまはで、めづらしき物一つばかり弾きたまふに、ことごとしからねど、限りなくおもしろき夜の御遊びなり(「若菜上」琴)

 大島本の行間注記には「キン」とある。夜の静けさの中、中国伝来の琴曲を弾いたのであろう。

朱雀院より渡り参れる琵琶琴(「若菜上」きん。)

 大島本には「きん」とあるので、「琵琶琴」ではなく「琵琶、琴」であろうと思われる。

琵琶は、例の兵部卿宮、何ごとにも世に難き物の上手におはして、いと二なし。御前に琴の御琴、大臣和琴弾きたまふ(「若菜上」きん。)

年ごろ添ひたまひにける御耳の聞きなしにや、いと優にあはれに思さるれば、琴も御手をさをさ隠したまはず、いみじき音ども出づ(「若菜上」きん。)

年ごろ、行ひの隙々に寄り臥しながら掻き鳴らしたまひし琴の御琴琵琶とり寄せたまひて、かい調べたまひつつ、仏に罷申したまひてなん、御堂に施入したまひし(「若菜上」きん。)

宮は、もとより琴の御琴をなむ習ひたまひけるを、いと若くて院にもひきわかれたてまつりたまひしかば、おぼつかなく思して、「参りたまはむついでに、かの御琴の音なむ聞かまほしき。さりとも琴ばかりは弾きとりたまへらむ」(「若菜下」琴、こと、琴。)

 この後に女三の宮の学琴風景が描かれているが、「調べことなる手二つ三つ、おもしろき大曲どもの、四季につけて変るべき響き、空の寒さ温さを調へ出で」る琴曲を修得しようとする。琴曲において大曲とは十八段以上のものを言う。これを数曲弾きこなすにはかなりの技量が要求される。また「揺し按ずる」という語が出てくるが、これは琴の左手指法で、絃を按じ押さえ、ビブラートをかけることである。これを「吟猱」と言う。琴の弾奏において最も重要な指法である。詳しい奏法は略すが、長吟、短吟、細吟、遊吟、走吟、飛吟など多くの種類がある。

女御の君にも、対の上にも、琴は習はしたてまつりたまはざりければ、このをり、をさをさ耳馴れぬ手ども弾きたまふらんをゆかしと思して(「若菜下」琴。)

 「をさをさ耳馴れぬ手ども」とは、これも中国伝来の琴曲を聴きたいと言っているのであろう。

「春のうららかならむ夕などに、いかでこの御琴の音聞かむ」(「若菜下」こと。)

 琴の音を聴きたいと述べる。静かな夕べにては沈鬱な琴を聴くにふさわしい。

この対に常にゆかしくする御琴の音、いかでかの人々の箏琵琶の音も合はせて、女楽試みさせむ(「若菜下」こと。)

 琴に主旋律を奏でさせ、箏や琵琶と合奏させようというのである。東洋音楽史の岸辺成雄は『江戸時代の琴士物語』の中でこの「女楽」について、「いわんや琴は全くよそものである。強いて想像してみると、例えば琴に本来の機能(旋律)を弾かせ、和琴に本来の奏法(三、四、折、摘など)を弾かせ、琵琶、箏に本来の奏法(分散和音)を弾かせて、無理に管弦曲か国風歌曲を合奏したということになる。いずれにしても、どれかの楽器は、或はすべての楽器に無理を強いることになる。」と言い、また「常々稽古した中国伝来の琴曲の旋律ではない日本雅楽曲の旋律を、まだ未熟な女三宮に弾かせるなど乱暴な話である。この合奏は面白く書かれた作り話としかいえないと思われてくる。」と言っている。

琴、はた、まして、さらにまねぶ人なくなりにたりとか。この御琴の音ばかりだに伝へたる人をさをさあらじ(「若菜下」きむ、こと。)

琴は、なほ若き方なれど、習ひたまふさかりなれば、たどたどしからず、いとよく物に響きあひて、優になりにける御琴の音かな、と大将聞きたまふ。(「若菜下」きむ、こと。)

よろづのこと、道々につけて習ひまねばば、才といふもの、いづれも際なくおぼえつつ、わが心地に飽くべき限りなく習ひとらむことはいと難けれど、何かは、そのたどり深き人の、今の世にをさをさなければ、片はしをなだらかにまねび得たらむ人、さる片かどに心をやりてもありぬべきを、琴なむなほわづらはしく、手触れにくきものはありける。(「若菜下」琴。)

 これは源氏によって述べられた日本における最初の琴論である。この箇所は、あらゆる芸道の中で琴は最も奥深くその奥義を極めることは難いということを述べる。琴は複雑な指法が多々あるが、他の楽器と比べても弾きこなすにそれほど難しいものではない。ただ義爪や撥は使わず、箏の琴柱[ことじ]や琵琶の柱[ちゅう]のようなものも無く、直接指で音を作り出さなければならないので弾奏者の気分がそのまま音に反映する。先ず弾奏者の品位や人格的なものが問われるのである。そのために「手触れにく」く近寄り難いのである。琴道たる「道」に至るためには何より人格の研鑽陶冶が必要なのである。その意味では最も奥深く奥義は極め難い。

この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も、よろこびに変り、賤しく貧しき者も、高き世にあらたまり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。(「若菜下」こと。)

 「昔の人」とは師襄や師曠のこと。「天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ」る例は『列子』や『史記』に見える。琴は「八音の中、惟絲最も密なり、而して琴之れを首と爲す」(『新論』「琴道」)楽器であり、「よろづの物の音」を従える。「世にゆるさるるたぐひ」には『列仙伝』(劉向)の琴高がいる。日本には良岑長松(八一四〜八七九)が琴の名手であったため遣唐使に配せられた。

この国に弾き伝ふるはじめつ方まで、深くこのことを心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ごし、身をなきになして、この琴をまねびとらむとまどひてだに、し得るは難くなむありける。げに、はた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。かく限りなきものにて、そのままに習ひとる人のあり難く、世の末なればにや、いづこのそのかみの片はしにかはあらむ。されど、なほ、かの鬼神の耳とどめ、かたぶきそめにけるものなればにや、なまなまにまねびて、思ひかなはぬたぐひありける後、これを弾く人よからず、とかいふ難をつけて、うるさきままに、今は、をさをさ伝ふる人なしとか。いと口惜しきことにこそあれ。(「若菜下」こと。)

 日本の琴の来歴を述べる。かつて天変地異を起こすほどの量り知れない力があった琴を修得するものは誰もおらず、どこにもその法が伝わっていないと源氏は嘆くが、抑も「かの鬼神の耳とどめ」る琴というのも無理な話である。琴を修得する難しさを比喩的に言ったものではあるが、諸楽と違って技術的に修得するだけでは至り得ないものがあるという意味も含まれる。「思ひかなはぬたぐひ」とはその奏法の難しさもさることながら、実際に琴音があまりに微弱で沈鬱な音色であったからであろう。琴は衆人の耳に合わない高尚にすぎる音楽であった。平安時代は美意識的にあれほど高度に発達しながら知的には幼稚であったことが「これを弾く人よからず」という語に見てとれる。音楽はいつの時代でも心踊らされるものが持てはやされる。それは現代においても変りがない。

琴の音を離れては、何ごとをか物をととのへ知るしるべとはせむ。げに、よろづのこと、衰ふるさまはやすくなりゆく世の中に、独り出で離れて、心を立てて、唐土高麗と、この世にまどひ歩き、親子を離れむことは、世の中にひがめる者になりぬべし。などか、なのめにて、なほこの道を通はし知るばかりの端をば、知りおかざらむ。調べひとつに手を弾き尽くさんことだに、量りもなき物なり。いはむや、多くの調べ、わづらはしき曲多かるを、心に入りしさかりには、世にありとあり、ここに伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見あはせて、後-後は師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほ上りての人には、当るべくもあらじをや。まして、この後といひては、伝はるべき末もなき、いとあはれになむ(「同」きん、こと。)

 琴の音律をもって諸楽の音律を調えるというのである。すなわち七絃正調の「宮、商、角、徴、羽、文、武」(文、武はオクターブ)に音を合わせるのである。この語だけでも「源氏物語の音楽」として琴が如何に重要な音楽であったかがわかる。あるいは礼楽思想に則り「何ごと」を「あらゆる」という意味に解すことも可能であろう。世の中を和平たらしめるのは琴の音である。源氏が琴の権化たるゆえんとなるものである。しかしそれほどの音楽であっても、源氏は身命を投げ打ち親や子も捨てて琴を修得するのは「ひがめる者」だと言っている。この源氏の態度はまさに文人の琴としての在り方を持している。琴は修身理性のため、自娯のために奏でる楽器である。伶人の芸とは一線を画した文人の余技として琴はある。「知りおかざらむ」とは『顔氏家訓』(六〇一年〜六〇四年成立)に「琴を知らざる者、闕くる所有りと號す」とある。しかしそれでも源氏は単に教養のためだけではなく、学琴のために伝来の琴譜をあまねく渉猟し真摯に「好み習ひ」修得しようとした。後には師をも凌駕するほどその琴境は進んだのである。これは学琴者の常のことと言ってよい。琴痴、琴狂、琴癖という言葉があるように源氏も夢中になって琴に没頭したであろう。初学において師から指法を伝授され、後は独学に至るというのは多くの琴人の例にある。それが独善に陥らないのは、源氏も言うように古人に対して畏敬の念があるからである。そして源氏は滅びゆく琴を奏でつつ自分の後には琴を弾く者がいなくなってしまうことを言う。「伝ふる人なし」というのはしばしば見える語である。これは刑場で琴を弾いた嵆康の心境と似ている。嵆康は琴曲「広陵散」を誰にも伝えず、この曲を弾じたあと「広陵散は今に絶えたり」と言って死に赴いた(『世説新語 』雅量篇第六)。琴を自らの手によって滅ぼしてしまうという例は多くある。すなわち後の世に伝えないのである。知音なる鍾子期の死のため絃を断ち二度と琴を弾かなかった伯牙断琴の故事。「人と琴倶[とも]に亡ぶ」という言葉を残した王献之(『世説新語 』傷逝篇第十七)。唐の詩人賈島(七七九〜八四三)は遺愛の琴とともに葬られた。琴の音楽体験はきわめてプライベートなものであった。自分ひとりのものにしようとする徹底した「自娯」の音楽と言えよう。源氏の琴に対する態度もそれら琴人と同じものであった。

琴は、五個の調べ、あまたの手の中に、心とどめて必ず弾きたまふべき五六の撥を、いとおもしろくすまして弾きたまふ。さらにかたほならず、いとよく澄みて聞こゆ。春秋よろづの物に通へる調べにて、通はしわたしつつ弾きたまふ (「若菜下」きん。)

 大島本の行間注記には「五ケ調 掻手 片垂 小宇瓶 蒼海波 鴈鳴調 一ハ胡笳」とあるが、これは「宮、商、角、徴、羽」五音のことである。『列子』「湯問第五」に、琴の名人瓠巴[こは]が四季をこの五音で「春秋よろづの物に通へる調べ」として表現するところがある。
「是に於て春に當りて商の絃を叩いて以て南呂を召べば、涼風忽ち至り、草木実を成す。秋に及びて角の絃を叩いて以て夾鍾を激すれば、温風徐ろに廻り、草木榮[はな]を發[ひら]く。夏に當りて羽の絃を叩いて以て黄鍾を召べば、霜雪交々下り、川池暴[にはか]に沍[こほ]る。冬に及びて徴の絃を叩いて以て蕤賓[ずゐひん]を激すれば、陽光熾烈にして、堅き氷も立[たちどころ]に散ず。將に終らんとし、宮に命じて四絃を総ぶれば、則ち景風翔り、慶雲浮かび、甘露降り醴泉湧く」。「五六の撥」は行間注記に「万秋楽ノ破ニ五ノ帖六ノ帖アリ 破等」とあるが、これは琴の指法の「あまたの手の中に」ある一つ、「撥」である。食指中指名指をもって同時に手前に一本、あるいは二本の絃を弾く指法を言う。腕の力を利用して音に力強い芯と素早さが要求される指法である。「五六の撥」は、調絃が正調ならば左手指で六絃の七徽八分を押さえ、散絃の五絃のオクターブ上とし協和させ弾くことになる(『玉堂雑記』一八〇三年)。「心とどめて必ず」という語は、協和させる徽の位置を正確に押さえること、琴曲には多くこの指法が頻出していることを言っているのだろう。上手く弾ければ「いとよく澄みて聞こ」える音である。あるいはこの「撥」が「撥剌」ならば、「剌」というのは右側外に払い出すように弾く指法で、これを連用して行うのである。琴学書『太音大全集』(一四一三年)などには「遊魚擺尾勢」として魚が水面に尾をはね上げる様が図に描かれている。「撥」は軽く「剌」は重く弾く。払う時も払い終わったあとも三本の指は真っすぐに伸びていなければならない。「いとおもしろくすまして」という語にこれが見てとれる。

「宮の御琴の音は、いとうるさくなりにけりな。いかが聞きたまひし」(「若菜下」こと。)

 源氏が女三宮の琴の腕前はどうかと聞く。

院にも内裏にも、琴はさりとも習はしきこゆらむ、とのたまふ(「若菜下」琴。)

 源氏は院や内裏に、琴だけは女三宮に教えていることだろうと言われた。

聞きあつかはぬ御琴の音の、出でばえしたりしも面目ありて(「若菜下」こと。)

 女三宮に琴をあまり教えてあげることができなかった源氏が、その出来栄えの良さに喜ぶ。

「我に心置く人やあらむとも思したらず、いといたく若びて、ひとへに御琴に心入れておはす」 (「若菜下」こと。)

 琴は敢えて人に聴かせるためにのみ弾く楽器ではない。自娯のため源氏は「傍若無人」となり夢中になって琴を弾ず。

琴の御琴召して、めづらしく弾きたまふ。宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへり。月さし出でていとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうちながめて、世の中さまざまにつけてはかなく移り変るありさまも思しつづけられて、例よりもあはれなる音に掻き鳴らしたまふ。(「鈴虫」きん、こと。)

 月下に弾琴する源氏。数珠音も気にせず一心に弾琴する。悲憤慷慨をもって弾琴する例は多く見られる(『世説新語』)。源氏の琴はそれらに通ずるものがあったであろう。弾琴の目的は古人と邂逅するためにある。

やうやうおよすけたまへば、琴習はし、碁打ち、偏つきなど、はかなき御遊びわざにつけても」(「橋姫」こと。)

 貴族の必修教養科目である琴棋書画、あるいは琴詩書画ともいう。

「常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、親王の御琴の音の名高きもえ聞かぬぞかし。よきを りなるべし」(「橋姫」琴。)

 明融臨模本行間注記に「キン」とある。

明け方近くなりぬらんと思ふほどに、ありししののめ思ひ出でられて、琴の音のあはれなることのついでつくり出でて(「橋姫」琴。)

大島本、明融臨模本ともに「琴」と表記。

人召して琴とりよせて、「いとつきなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなん、思ひ出でらるべかりける」とて(「橋姫」琴。)

 薫が八の宮に琴を弾かせようとする。大島本、明融臨模本ともに「琴」と表記。

琴掻き鳴らしたまへる、いとあはれに心すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、心ばへある手ひとつばかりにてやめたまひつ。(「橋姫」きむ。)

 前に薫が「さらに、ほのかに聞きはべりし同じものとも思うたまへられざりけり。御琴の響きからにやとこそ、思うたまへしか」と言うのだが、「きむ」という表記から八の宮が奏でた楽器は琴と思われる。「峰の松風のもてはやすなるべし」というのもそれが琴だと言ってよい。

在五が物語描きて、妹に琴教へたるところの、「人の結ばん」と言ひたるを見て、いかが思すらん(「総角」きむ。)

入道の宮に奉らせたまひし琴の譜二巻、五葉の枝につけたるを、大臣取りたまひて奏したまふ。次々に、箏の御琴、琵琶、和琴など、朱雀院の物どもなりけり(「宿木」きん。)

 大島本の行間注記に「天暦三―右大臣捧先皇勤子内親王箏譜三巻勤子―ハ延喜御女也」とあるが、「きん」の表記から琴譜の可能性が高いが、おそらく箏譜であろうと思われる。もしそれが琴独自の楽譜「減字譜」、あるいは「文章譜」であったとしたら、平安時代における琴譜として非常に興味深い。

ここにありける琴箏の琴召し出でて、かかること、はた、ましてえせじかし、と口惜しければ、独り調べて(「東屋」きん。)

 琴をあえて箏と区別しているので、ここは「琴、箏の琴」とすべきであろう。

宮の御琴の音のおどろおどろしくはあらで、いとをかしくあはれに弾きたまひしはや、と思し出でて(「東屋」琴)

 大島本の行間注記には「キン」とある。

琴は押しやりて、「楚王の台の上の夜の琴の声」と誦じたまへるも(「東屋」こと、琴。)

 大島本の行間注記には「班女閨中秋扇色 楚王台上夜琴声」(和漢朗詠集上三八〇「題雪」尊敬・橘在列)とある。

尼君ぞ、月など明き夜は、琴など弾きたまふ(「手習」きむ。)

「いで、その琴の琴弾きたまヘ。横笛は、月にはいとをかしきものぞかし。いづら、くそたち、琴とりてまゐれ」(「手習」きむ、こと。)


 『源氏物語』において、琴は常に廃れ滅びつつある音楽として描かれている。王朝の復権の象徴とも琴は捉えられているが、それは琴に「諸楽の統」「楽器の王者」の意味があるからに過ぎない。琴には威厳が備わるがそれ自体に権威は無い。『源氏物語』に流れる琴は決して比喩の音楽などではなく、音楽的に感動を齎すものであった。松風の音が美しいと感じる平安時代の人々の耳に、琴音もまた美しく聴こえた。その音は廃れゆく王朝、滅びゆく末世と協和する。よろづのものが滅びゆく無常の世にあって、琴が奏でる幽かで静謐な音色はその世界観を現すにふさわしい。琴はいつの時代でも滅びゆく音楽としてあり、余韻を残し続けてきたのである。音楽の本質とは、曲を奏でている間に存在し、曲が終われば消えてしまう一回性の芸術にある。しかし余韻は、音が止まなければ聴こえない。音楽の存在が無くなってはじめて余韻は生まれる。琴の音楽的体験はこの余韻にこそある。それを古人は「琴外趣」と言った。琴が奏でる余韻は決して消えることなく現代に至ってもなお響き続けている。『源氏物語』の栄華の余韻が今も響き続けているように。




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