源氏物語と「琴」T
 
―「琴」が意味するもの―    伏見 无家


勉誠出版刊 人物で読む源氏物語『桐壺帝・桐壺更衣』所収



 山田孝雄博士は源氏物語音楽研究におけるその先駆的著作『源氏物語之音楽』(宝文館出版 昭和九年)の中でこう述べている。

「かくて更に専ら琴につきて顧みるに音楽上の源氏君の一生は琴を以て一貫し、且つ琴を第一の技とせしこと明かにして、これをこの物語の音樂の上にては最第一におくものと見らるべきものなり。」

 『源氏物語』において琴(きん、七絃琴)は最も重要な音楽であった。琴は光源氏が弾ずるにあたって最も相応しい楽器であった。なぜならそれは東アジアの紳士たる君子にとって必要欠くべからざる楽器であり、最も尊ばれた音楽藝術であったからである。琴を弾き、あるいは聴くことは、文人、藝術家、さらに貴族、支配階級に生まれたものにとってその教養の高さと地位を象徴的に示す営為でもあったのである。琴が持つ深い精神性と高度に洗練された藝術性を他の東アジア音楽の中に探すのは難しいだろう。またその歴史の連続的長さ、使用楽器の年代的古さにおいては世界の音楽の中でもこれを見出せない。二〇〇三年、世界無形文化遺産に登録された。琴が意味するもの、琴の優位性あるいは特異性を鑑みるなら、源氏君の一生が琴を以て一貫し、琴を第一の技としたこともまた当然のことと言える。
 山田孝雄博士は続いてこうも述べている。

「かく見來りて吾人に奇異に感ぜらるることは當時最も今樣の風を好み、その先頭に立ち、風尚を導きたるらししく思はれ易き源氏君が、今は殆ど廃れたりと自ら認めてある琴の權化の如き姿を呈することは抑も如何にこれを解すべきものなりや。」

 と、博士は疑問を呈し、その答えとして『源氏物語』は、一条天皇の寛弘年間を書いた「時代物」であるからと結論づけているが、しかしそれのみの理由だけで源氏君が「琴の權化」たりうるだろうか、奇異に感ぜられたのは琴が意味するものに理解が及ばなかったからではないか。
 博士が『源氏物語之音楽』を著わした昭和初期にはすでに日本の地に琴は絶音していた。日本の琴の伝統は、平安末期の絶音以来、再び中国明の亡命僧東皐心越が江戸初期に齎した時から昭和の初期まで、実に二五〇年間の長きに渡って続いた。その間、琴人の数は実に一千人にも及ぶ。しかし時代の趨勢のゆえかその存在すらも忘れようとしていた。その琴韻は平安時代の紫式部が聴いた琴韻と全く同じでありながら、誰も指法を学ぶものはおらず、琴學、琴道思想が意味するものなど誰も知るものがいなくなった。琴は常に滅びつつある音楽であった。それは、曲が終われば音は消えてしまう音楽の特性そのままを物語る。昭和九年当時、琴は平安末期と同じく廃れた音楽であり、全国にはおそらく二〜三人の琴人もいなかっただろう。博士は琴韻を一度も耳にしたことはなかっただろうと思う。その状況は現代に至っても尚変わりがない。 琴の社会的認知度はかなり低いものである。伝統邦楽界などの専門家の間ですら、琴をコトと読み、箏との混同すら見られ、専門の研究者もおらず、日本古来の楽器でありながら琴道思想に基づいた音楽的価値の理解や音楽史的位置づけがまったくなされていないというのが現状である。
 琴とはいかなる楽器であり、音楽であるか。それを多少なりとも知り理解することができるなら、光源氏が琴を第一の技として、その一生を琴を以て一貫させ、且つまた「琴の權化」たる理由も自ずから明かになるのではないかと思う。


 琴は古代中国に生まれ、神話時代にまでの起原を遡ることができる。琴曲名や作者解説をした漢代の書、蔡邕(一三三〜一九二)『琴操』によると「昔、伏羲氏、之れ邪辟を御し、心淫を防ぎ、身を修め性を理(おさ)め、其の天眞に反る所を以て琴を作る。琴の長さ三尺六寸六分、三百六十五日を象(かたど)る。廣さ六寸、六合を象る。文上は池と曰ふ、池は水也、其れ平と言ふ。下は濱と曰ふ、濱は服也。前廣く後狹し、尊卑を象る。上は圓にして下は方、天地に法る也。五絃、五行を象る。大絃は君と爲し、小絃は臣と爲す。文王、武王二絃を加へ、以て君臣の恩に合す。」とあり、漢代においてすでに現在見られる琴の形態と同一のものがあったことが知られる。また應劭『風俗通義』(一七〇〜二〇〇頃)に「謹んで按ずるに、世本に神農琴を作ると。尚書に舜は五絃の琴を彈じ、南風の詩を歌って而て天下治まる」とあり、『禮記』「樂記」には「昔は舜は五絃の琴を作り以て南風を歌ふ」とある。琴の創始者に関しては、伏羲や神農、舜といった伝説の域を出ないが、誕生当初は五絃の琴であったようだ。
 文献に最初に登場するのは、西周時代(一一二二〜七七一B.C)の『詩經』からで、琴と瑟がともに合奏に用いられていたことがわかる。

呦呦(いういう)たる鹿の鳴くあり 野の芩(きん)を食ふ
我に嘉賓(かひん)あり 瑟を鼓し琴を鼓す
瑟を鼓し琴を鼓し 和樂して且湛(たの)し
我に旨酒あり 以て嘉賓の心を燕樂す
(小雅、「鹿鳴」第三章)

 この「鹿鳴」は琴曲の現存曲として今も伝えられる。
 『詩經』を編纂したと言われる孔子(五五二〜四七九B.C)は儒教の開祖であるが、典礼の祭事を司る音楽家でもあった。孔子と琴との関わりを記載した書は多い。『史記』「孔子世家」に「孔子は師襄に於て琴を學ぶ」とある。『琴操』には孔子作曲の琴曲として「將歸操」「猗蘭操」「龜山操」などが挙げられている。孔子は事あるごとに傍らの琴を援き寄せてこれらの曲を作ったと思われる。孔子にとって音楽というはその思想上最も重要なものであった。「詩に興り禮に立ち樂に成る」(『論語』泰伯第八)と、人格形成発達の最後に音楽をもってきているのである。孔子が常に親しみをこめて弾いていたのは楽器の中でも特に琴であった。しかし孔子の時代の琴が考古資料として出現しないかぎり、厳密にいって現存琴と同一かどうか疑問としなければならないだろう(吉川良和「漢代琴学と孔子学鼓琴疑義」一橋論叢 二〇〇一年七月号)。出土琴で最も古いのは、曾侯乙墓十絃琴(四〇〇頃B.C)、荊門郭店墓七絃琴(二二三B.C)、馬王堆漢墓七絃琴(一八六B.C)などであるが、これらは現在の琴とは形態が異なる。これよりも数百年遡る孔子が生きた東周時代に於いてはさらに違ったものであろうことは容易に想像できる。孔子の名を用いることは権威主義の常套であった。漢代に至って孔子と琴についての記述が盛んにあらわれ、漢代琴家は琴と孔子を結び付けることによって、他の楽器との特異性を際立たせ権威付けようとしたと思われる。しかしそれは無理の無い十分な説得力があった。なぜなら孔子は、現在に伝わる琴を弾いてはいなくともそれに近い絃楽器を弾いていたことは確かなのである。ここで重要なことは、琴道思想が現代に至るまで二千年以上もの間、孔子と関連つけられ信じられてきたという事実である。
 漢代は琴楽および琴道思想が大いに発展した時期である。儒教が国教と定められるに至って、音楽は礼楽に法り律せられることになった。琴は啻に伶人(演奏家)が奏す楽器ではなく、孔子を慕い崇める儒家たちの弾くべき楽器となってゆくのである。劉安(一七九〜一二二B.C)『淮南子』「泰族訓」「神農之れ初めて琴を作る也。神に歸し淫を杜(ふさ)ぎ以て、其の天心に反らんや」、揚雄(五三〜十八B.C)『琴清英』「昔、神農が琴を造る。神を定め、淫嬖を禁じ、邪欲を去るを以て、其の眞に反る也」、班固(32〜92)『白虎通義』「禮樂」「琴は禁なり。淫邪を禁止する所を以て、人心を正しうす」、といった多くの記載がみられ、琴は歌舞音曲のような心躍る音楽というより、道徳的価値と共に心身の修養のための音楽といった特色を持つ。それは劉向(七七〜九B.C)『琴説』に顕著にみられるものであった。「凡そ琴を鼓すに七例有り、一に曰く道徳を明かにす、二に曰く鬼神を感ぜしむ、三に曰く風俗を美しうす、四に曰く妙なる心を察す、五に曰く聲調を制す、六に曰く文雅を流す、七に曰く傳授を善くす」。
 ある一つの楽器に対しこのように道徳的、美的価値を付与するというのは、琴以外の古典音楽には無い。 桓譚(?〜五六B.C)『新論』に「琴道」という言葉が初めてあらわれるが、琴は「道」に至ることができる唯一の音楽とされた。「八音の中、惟絲最も密なり、而して琴之れを首と爲す」『新論』「琴道」。「八音」とは八種の楽器、すなわち鐘、磬、琴、笛、笙、壎、鼓、敔を言い、弦楽器が最も音律に厳密だとしてその優位性が表明された。また「八音は廣博なるも、琴の徳最も優れたり、古は聖賢が琴を翫(なら)ひ以て養心す」と述べ、琴には「徳」がそなわる故に、聖賢たちは「養心」のために琴を弾じたとする。後に馬融(七九〜一六六)『琴賦』にも「琴徳」は述べられる。「昔、師曠三奏し、而して神物下降す、玄鶴二八、庭に舞ふ、何ぞ琴徳の深き哉」。
 このように最も早い時期に技藝の中の琴に対し「道」の尊称が与えられたのであるが、現在でも諸々の楽器の中で「道」の名称でよばれるものはこの琴だけである。「道」とはすなわち「藝」を超えたところにある究極の境地を言う。修練を積むことによって「藝」は結局は「道」に至らねばならず、琴を弾く目的というのも「其の天眞に反る」ためにあった。「天眞」とは自然に他ならず、また「自然」というのも「道」に他ならない。「琴道」「琴徳」に託された言葉の意味は、琴の音楽が持つ深い精神性をあらわしている。琴は「道」や「自然」と一体となることが可能な音楽であると認識されたのだった。「道」と一体となる考え方は道家思想、道教とも合致し、儒者だけにとどまらず道士の間でも琴は弾かれるようになるのである。さらに『風俗通義』に至ると、「雅琴は樂の統也、八音と並びに行ふ、然して君子の常に御する所の者、琴、最も親密にして身を離さず、必ず宗廟、郷黨に陳設するにあらず、鐘皷の若く虞懸に羅列することもあらざる也。窮閻陋巷、深山幽谷に在りと雖も猶琴を失れず」とあるように琴は舞台上で弾じたり、聴衆に向かって演奏するというのではなく、「道」に至るため「天眞に反る」ための君子の必須の具として、知識人、文人が弾くべき楽器になっていくのである。


 日本に儒教が伝来したのは五世紀初頭であるが、医学、易学、暦、天文など大陸の先端文化も移入し、儒教と深く結びついた音楽としてこのような琴道思想も伝来したことは容易に考えられる。当然日本の知識人たちはこれら漢籍に書かれた琴論を目にしていただろう。
 舶載された多くの漢籍の中に『文選(もんぜん)』蕭統(五〇一〜五三一)があった。『文選』は東周から梁までの優れた文学作品を集めた詞華集である。日本にはおそらく遣隋使によってもたらされたことだろう。『文選』に収めてある作品の中で特に注目すべきが、嵆康(二二三〜二六二)の『琴賦』である。『琴賦』によって琴道思想はその道徳性と共により高い藝術性を持つに至った。『琴賦』は琴の美質、琴の徳を言辞をきわめて余す所なく述べている。その美文にのせて音楽そのものを文字に移し替え再現したかのような印象を受ける。その内容は、嵆康自身の音楽に対する考え、琴の材料、琴が製作される過程、完璧な琴の演奏、その音色、知音との集い、琴曲の種類、琴を弾くべき人、琴の徳、である。これを読む者は、琴の神秘性、ファンタジックなまでの琴の音楽に驚愕させられるだろう。白鳳時代に設置された大学寮(六四五)で必修科目とされた紀伝道において、詩文作成のための教科書として『文選』は受け入れられた。おそらく日本の知識人たちは琴の楽器やその音よりも先んじて琴の文学的体験をしたのではないかと想像できる。当時の日本において琴は一般的知識として普及していなくとも、否、いなければこそ却って、そこに書かれた琴の文に刺激され想像力をかきたてられ聴こえない琴韻を耳にしただろう。後代『琴賦』が日本文学に与えた影響は甚大なものがある。あまり取り上げることの少ない『琴賦』の中の、特に琴音を言語化したともいうべき箇所をここに引用したい。

「和顔を揚げ、晧腕(かうわん)を攘(かか)ぐ。繊指(せんし)を飛ばして以て馳騖(ちぶ)し、紛[譅-言+彳][言+言+言](さうたふ)として以て流漫す。或は徘徊顧慕して擁鬱抑按す。盤桓(ばんくわん)毓養(いくやう)して、從容祕翫す。闥爾として奮逸し、風駭(おどろ)き雲亂る。牢落凌厲(りょうれい)して、布濩(ふご)半散たり。豐融披離して、斐韡(ひゐ)奐爛(くわんらん)たり。英聲發越して、采采燦燦たり。或は閒聲(かんせい)錯糅(さくじう)して、状詭(じゃうき)赴(ふ)するが若し。雙美竝び進み、駢馳(へんち)翼驅(よくく)す。初めは將に乖かんとするが若く、後には卒(つひ)に趣(おもむき)を同じうす。或は曲がりて屈せず、直くして倨(おご)らず。或は相凌いで亂れず。或は相離れて殊(た)えず。時に劫掎(けふき)して以て慷概し、或は怨[女+虍+且](ゑんしょ)して躊躇す。忽ち飄颻(へうえう)して以て輕く邁(ゆ)き、乍(たちま)ち留聯(りうれん)して扶疏(ふそ)たり。或は參譚(さんたん)として繁促(はんそく)に複疊(ふくでふ)して攅仄(さんそく)たり。從横駱驛し、奔遯して相逼る。拊嗟(ふさ)累讚して、閒息を容れず。[王+褱]艶(くわいえん)奇偉(きゐ)、殫(ことごと)く識る可からず。
乃ち閑舒(かんじょ)都雅、洪纖(こうせん)宜しき有り、清和條昶(でうちゃう)にして、案衍(あんえん)陸離たるが若き、穆(やわ)らぎて温柔にして以て怡懌(いえき)し、婉(しとや)かにして順叙(じゅんじょ)にして委蛇(ゐい)たり。或は險に乘り會に投じ、隙(ひま)を邀(むか)へ危(あやふ)きに趨(おもむ)く。譻(な)くこと離[昆+鳥]の清池(せいち)に鳴くが若く、翼(はや)きこと游鴻(いうこう)の曾崖(そうがい)に翔るが若し。紛文(ふんぶん)斐尾(ひび)、慊[糸+參](けんさん)離纚(りし)たり。微風餘音,靡靡(びび)猗猗(いい)たり。或は摟[篦-竹+扌](ろうべつ)櫟捋(れきらつ)として、縹繚(へうれう)潎冽(べつれつ)たり。輕行(けいかう)浮彈(ふたん)して、明嫿(めいくわく)[目+祭]慧(せいけい)なり。疾けれど速やかならず、留れども滯らず。翩綿(へんめん)飄 邈(へうばく)として、微音迅(と)く逝(ゆ)く。遠くして之を聽けば、鸞鳳(らんぽう)和鳴して雲中に戲るが若し。迫(ちか)くして之を察すれば、衆葩(しゅうは)榮(はな)を敷きて春風に曜(かがや)くが若し。既に豐贍(ほうせん)にして以て姿多く、又始め善くして終りを令(よ)くす。嗟(ああ)姣妙(かうめう)にして以て弘麗(こうれい)なり、何ぞ變態の窮り無き。」

 おだやかな顔を上げ、白い腕を掲げて、細やかに指を絃上に走らせると、琴音は豊かにあふれ流れる。行きつ戻りつして振り返り、絃を伏せて音を消し、めぐりて行き悩み、落ち着きくつろぎつつ、音を賞玩する。たちまち勢い速く奮い立つや、風を驚かせ雲を乱れさせ、広漠として寂しい音色、また激しい勢いで高音を奏で、音はさまざま方向へ散らばってゆく。盛んに四散して鮮やかに煌めき、高く美しい音は光輝くように響く。あるいは静かな音色と共にまじわり、思いもよらぬ方向へと向かう。ふたつながらの美しい音は、並んで進み、同時に速やかに馳せて行く。初めは互いに背き離れようとすかのようであるが、しかし後には終にその音の趣を同じくする。ある時は曲がっても挫けず、真っ直ぐであっても驕らず、時に他の音と凌ぎ合っても乱れることなく、互いに離れることがあっても消えることはない。時には怯えておののき、憂いなげき、恨みすねてためらう。たちまちひらひらと軽やかに行き、たちまち留って四方に散って行く。あるいは相い従って次々と音はあらわれ増えて、重なり集まり合って、それが縦横にうち続き、走り逃れては相い逼る。人々は手を叩いて感嘆し誉めたたえ、弾奏している間、息も入れられないくらいであり、その素晴らしさ美しさはとても知り尽くすことはできない。
 もの静かで高雅であり、大音と小音はよく合って、清らかな和らぎはのびやかにして、平坦さはなく不揃いであっても、穏やかで優しく心喜び、美しく順序ただしく続けられる。時には険しい調子に合わせたり、間をあけて調子を外したりする。その音は連合いを失くした鳥がきれいな池に鳴く声のようであり、速きこと、飛ぶ鳥が高い崖の間を翔けるようであり、羽毛の彩りは美しく文様はこまやかで、余韻は微風にしたがい乗ってなびくかのようである。絃を奏でる指は引いたり打ったり弾いたり、もつれ合い乱れ合い、軽やかに動いて弾き、さわやかで明朗な声をあげる。調子が疾くなっても速すぎることはなく、音が止まっても滞ることはなく、泛音(ハーモニクス)は遥かに消え行く。遠くからこれを聴けば鸞鳳が和やかに鳴いて雲の中で戯れているようであり、近づいてこれを聴けば花々が咲き乱れて春風に輝いているようである。もはやその音は満ち足りて美しく、最初から最後まで完璧である。ああ、誠に立派で麗しく、なんと変化の極まりないことか。
 さらに、琴の優秀性を述べた箇所を引用したい。

「衆器の中、琴徳最も優なり。」
 様々な楽器がある中で琴の徳が最も優れている。

「華容(くわよう)灼爚(しゃくやく)として、采を發し明を揚ぐ。何ぞ其の麗なるや。伶倫(れいりん)律を比し、田連(でんれん)操張す。君子に進御して、新聲憀亮(れうりゃう)たり。何ぞ其の偉なるや。」
 華やかな琴の容姿は光輝き、彩り美しく明るい。なんという美しさ。音律を定めた伶倫が調律し、古代の琴の名手田連が弾き奏で、君子に進め用いられ、新鮮なる音は清徹に響く。なんというその素晴らしさ。

「殊功を料(はか)りて操を比ぶるに、豈(あに)笙籥(しゃうやく)の能く倫(たぐひ)するところならんや。」
 琴の優れたところやその楽曲の素晴らしさを比べてみるなら、笙の笛などの管楽器のおよぶところではない。

「然れども夫の曠遠(くわうゑん)の者に非ざれば、之(これ)と嬉遊(きいう)する能はず。夫(か)の淵靜の者に非ざれば、之と閑止する能はず。夫の放達の者に非ざれば、之と(惜)(おし)む無き能はず。夫の至精の者に非ざれば、之と理を析(わか)つ能はず。」
 しかしながら、超俗的な者でなければ琴を楽しみ遊ぶことはできない。深静の者でなければ琴と閑かに居ることはできない。放達の者でなければ琴を玩んでやむことがないというのはできない。道理を見分ける者でなければ、琴と万物の条理を分析することはできない。

「性(せい)潔靜(けっせい)にして以て端理(たんり)に、至徳の和平を含む。誠に以て心志を感蘯(かんたう)して、幽情を發洩(はつせつ)す可し。」
 琴の性質というのは潔癖にして静謐、正直なものであり、和平という最高の徳をその中に含んでいる。誠に人の志気を感動させ、憂鬱な心をも発散させるものである。

「中和を[怱+扌](す)べて以て物を統(す)べ、咸(みな)日々に用ひて失(しっ)せず。其の人を感ぜしめ物を動かすこと、蓋し亦弘(ひろ)し。」
 琴は中和の大道と合致しているので万物を統べ収めており、人々は日々これを弾いていれば過ちを犯すことはない。その人の心を感動させることは、全く広大であるといえる。

「天地を感ぜしめて以て和を致す、況や蚑行(きかう)の衆類をや。」
 琴は天地を感動させ、平和をこの世にもたらすものである。まして虫や獣の類をも感じさせるのはもちろんのことである。

「永く服御(ふくぎょ)して厭かず、信(まこと)に古今の貴(たっと)ぶ所なり。」
 琴は永く弾いていても飽きることがない。まことに琴こそは古今に貴ばれるものである。

「愔愔(いんいん)たる琴徳、測る可からず。體清く心遠く、邈として極め難し。良質美手、今世(こんせい)に遇ふ。紛綸(ふんりん)翕響(きふきゃう)として、衆藝に冠たり。音を識る者希なり、孰(たれ)か能く珍とせん。能く雅琴を盡すは、唯至人のみ。」
 静かに和らぎたる琴の徳というものは、量り知ることができない。その形は清らかで心を遠くにはこび、きわめることは難しい。良質の琴と妙手の琴人がこの世で出会ったなら、繁く美しいその琴声は、すべての音楽に冠たるものであろう。しかしながら世の中で琴の音楽を知る者はまれであり、たとえ琴音を聴いても珍重する者はいない。高雅なる琴をきわめる者は、唯、道を得た至人だけである。


 唐から盛んに文物を移入した天平時代は最も琴が流行した時期である。正倉院には「金銀平文琴」(国宝)、法隆寺には「唐琴」(国宝、国立東京博物館蔵)が現存しているが、これは最古の琴と言われるものである。また最古の琴楽譜「碣石調幽蘭第五」(国宝、国立東京博物館蔵)も現在に伝わっており、書写の美しさとしても第一級の美術品である。これら三つの宝物は日本が琴の国である証となるものである。
 金銀平文琴の背面には後漢の李尤(りゆう)(五四頃〜一三七)になる次のような銘が記されている。「琴之在音蕩滌耶心 雖有正性其感亦深 存雅却鄭浮侈是禁 條暢和正樂而不淫」(琴の音というのは邪心を洗いそそぎ、その本質が正しいものであっても感興はまた深いものである。優雅であって猥雑を退け、軽薄な奢りを生じさせない。のびやかに楽音をたのしみ、己れを失うこともない。)金銀平文琴は絃をかけた痕跡はほとんど見られず、その装飾性から無絃の琴としてあったと思われる。無絃琴を奏でた中国東晋時代の詩人陶淵明(三六五〜四二七)は日本の多くの知識人たちには周知であった。法隆寺の唐琴の方は、弾琴の痕跡が認められる。江戸時代後期にも弾琴された記録が残される。
 天平時代に琴が盛んに弾じられたというのは、日本最初の文学作品集『懐風藻』(七五一)に琴詩が多く収載されていることでも明かである。この漢詩集は一冊の「琴詩集」と言ってよいほど多くの琴字が見られる。『懐風藻』の詩人たちは大陸の文化に並々ならぬ憧憬と畏敬の念を抱いた。唐は世界で最も発展した文明国であり、その文化藝術は爛熟の極に達していたのである。彼等は琴を弾じ聴くことで大陸の最先端の文化を経験していた。琴には聖賢の威光、先人たちの遺志、遊仙への思慕、自然に対する詩情などが凝縮されていた。いわば中華文化の粋が琴という形をとっていたのである。彼等はそこからどれだけ詩心を得、詩想を得たことだろう。『懐風藻』の中から二篇を引用する。

 秋の夜山池に宴す 境部王(七一七頃) 峰に對して菊酒(きくしゅ)を傾け  水に臨んで桐琴(とうきん)を拍(う)つ  歸るを忘れて明月を待つ 
何(なん)ぞ憂へむ夜漏(やろう)の深きを
 山に対座して菊を浮かべた酒をかたむけ、池に臨んで琴を弾ず。家に帰ることも忘れ、明月の出るのを待っている。どうして夜が更けゆくのが気になろうか。

 南荒(なんくわう)に飄寓(へうぐう)して京に在る故友に贈る 石上(いそのかみ)乙麻呂(七五〇没)
遼夐(れうけい)、千里に遊び 
徘徊(はいくわい)、寸心を惜む 
風前、蘭馥(か)を送り 
月後、桂陰(かげ)を舒(の)ぶ 
斜雁(しゃがん)、雲を凌(しの)いで響き 
輕蝉(けいぜん)、樹を抱いて吟ず 
相思(そうし)、別れの慟(かなし)みを知る 
徒(ただ)に弄す、白雲の琴
 遙か遠く千里の他郷に住み、さまよい歩いては我身の不運を心になげき悲しんでいる。蘭(フジバカマ)は馥郁たる芳香を風とともに送り、月が出ると桂(かつら)はその樹影を地にひく。雁(かり)は雲間を鳴き渡り、蝉は木につかまり鳴いている。思い合う情は互いに離別の悲しみを知る。白雲の彼方、ただ琴を弾じている。


 平安時代に至ると『延喜式』(九二七)には天皇が琴を弾じた記載が多く見られ、平安時代も盛んに琴が奏されていたことがうかがえる。宮廷楽士なる伶人に琴を演奏させるのではなく、天皇自らが弾きこなしその音楽を楽しんだのである。王を慰めるのは王自身が弾く琴しかない。「王者の楽器」「諸楽の統」として天皇が奏でるべき楽器として琴はあったのである。特に醍醐天皇(八八九)の「御遊」(管弦の遊び)においてそれは慣例化した。琴は天皇が最初に奏でた楽器でもあった(豊永聡美「平安時代における天皇と音楽」東京音楽大学研究紀要第25集 二〇〇一年)。天皇が奏でるべき楽器は平安以後、笛となり、鎌倉時代は琵琶となり、室町時代には笙と変わって行く。
 『養老令』の官撰注釈書『令義解(りょうのぎげ)』(八三四)の僧尼令に「僧尼は、音楽を作し、また博打をしたならば、百日苦使する。碁・琴は規制の限りにあらず。」とあり、学令に「学生は、在学中、楽を作し、また雑戯してはならない。ただし、琴を弾き、弓射を習得するについては禁止しない。」とある。歌舞音曲とは別格にあった琴は修行の妨げにはならず、また学問の妨げにもならなかった。琴は「琴書」と並び称され、学問することと同じ位置にあったのである。劉向『列女伝』「琴を左にし書を右にす」、『魏志』「崔[王+炎]傳」「琴書を以て自娯とす」。書とは読書を言う。読書をした後、かたわらの琴を寄せて古人に思いを馳せ弾じるのである。当時の学問とは儒学のことであり、琴を弾じることは孔子の心を知ることにあった。琴を学ぶことと学問が同じであることを菅原道真(八四五〜九〇三)は明確に言っている。

「偏(ひと)へに信ず 琴と書とは学者の資(たすけ)と」
 (ひたすらに信じる、琴と書は学者にとって学問を大成するための教養と。)
 『菅家文草』巻一 七言律詩「停習弾琴」

 しかし残念なことに道真は自分には音楽の才が無いとあきらめ、学琴を途中で止めてしまうのである。学友たちからも、上達がないのだから弾琴に日をついやすことは無駄だ言われ、学友の中にあるいは道真の周辺に弾琴の名手がかなりいたことが察せられる。道真は終生変わること無く唐の詩人白居易(七七六〜八四二)を慕っており、白居易が「三友」として、琴、酒、詩を愛してやまなかったのに、自分には詩だけしかないと嘆くのであった。
 琴は「至徳の和平を含」んだ音楽である。歴史上最も平和な時代であった平安朝期こそ、琴韻が響くに相応しい時代であった。




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