[2008/5/14]

 名前

 

 


 「名前」


 名前とはやっかいなものだと思う。

 例えばここに200人の人間がいるとする。性別も生まれも育った環境
もバラバラ、正真正銘200種類の人間たちだ。だがそのうちの100人は
正社員、残りの100人はフリーターだったとしよう。さてこの瞬間だ。今、
私が彼らに正社員、フリーターという名前を付けた瞬間、200人いたはず
の人間はたった2人になってしまった。性格も考え方も全く違う200通り
の人間たちはもうどこにも存在せず、そこには正社員とフリーターという
名前の2人しかいない。名前を付けるということは何か大きなものを削ぎ
落とすということでもある。

 名前とは不自由なものだとも思う。

 例えばあなたに愛する人がいるとする。ある日あなたは恋人に「好き」と
言った。だがあなたの恋人への好意は果たしてその「好き」という言葉だ
けに収まりきるものだろうか。その「好き」という言葉だけで表現できうる
何かだろうか。いや、できない。

 あなたの恋人への好意は「好き」という言葉だけでは表現しきれない
たくさんの種類の「愛しい感情」でできている。だがそれを一つ一つ表現
するには名前が足りなさすぎる。だからその感情たちの共通部分を大ざっ
ぱにひとくくりにして、それに「好き」という名前を付けたのだ。だがひとく
くりにして名前をつけた瞬間、たくさんの個性的な「愛しい感情」たちは
その個性を失う。あたかも200人の人間たちが名前を付けたことによって
2人になってしまったように。

 あなたがその時恋人に感じている愛しさは「好き」という言葉では表現
しきれない愛しさなのに「好き」という言葉しかないこのもどかしさ。

 「好き」という言葉で自分の「愛しい感情」の大体は相手に伝えることが
できるのだけど、だけど「ある瞬間に感じたその瞬間だけの愛しい感情」
を伝えきれないもどかしさ。

 それは誰にでもサイズが合うように作ってあるけど、でも本当には誰に
もサイズが合わないフリーサイズの服のようものだ。大ざっぱには合って
いても、でも本当にはサイズが合っていないもどかしさ。言葉にはそうい
う宿命がある。

 私たちは自分の心に「悲しい」とか「寂しい」とか簡単に名前を付ける。
だけどその時の私たちの感情はそういう名前だけで表現できうる何か
なんだろうか。果たしてこの世に「悲しい」という一言だけで済んでしま
うような悲しみがあるだろうか。「寂しい」という一言だけで済んでしまう
寂しさなどあるだろうか。

 違う。私たちが日々感じる悲しみや寂しさは、状況や瞬間や人によって
一つとして同じものはないはずだ。

 ある日の私たちの胸に押し寄せてきた「悲しい」や「寂しい」は、「悲し
い」や「寂しい」という名前だけでは全く表現しきれない、「まだ名前の
付いていない悲しさ」であり「まだ名前の付いていない寂しさ」なのだ。

 でもそれはまだ名前が付いていないのでそれを誰かに伝えなければ
ならない時、すでに存在している「悲しい」や「寂しい」という名前で代用
するしかない。本当はその瞬間だけに感じたその瞬間だけの悲しみを
表現したいのに、代表的な名前は「悲しい」という一つしかないのだ。この
不自由さ。

 名前は個性を消して一般化してしまう力を持っている。物事を単純化し
て私たちを支配しにかかる。名前をつけた瞬間、私たちはその名前に支配
される。

 刑務所では受刑者は名前を剥奪され、すべて番号を振られる。数字と
いう名前を付けられる。すると数字で呼ばれるのに見合った人間になる。
罪を反省させ更生させるためには個々人の名前はジャマなだけだ。

 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」というアニメ映画を覚えていらっし
ゃるだろうか。あの映画は本当に素晴らしかった。エンターテインメント
としてもさることながら、名前というものの本質をあれほど突いた映画は
なかった。

 ある日主人公の女の子“千尋”は八百万の神が暮らす異次元世界へと
迷い込んでしまう。そこは湯婆婆(ゆばーば)という妖怪とも魔女ともつか
ぬ女が支配するところで、そこで生きていくためには湯婆婆が経営する
銭湯風旅館で働くほかない。

 千尋は湯婆婆と契約を交わす。その契約書を取り交わす際、湯婆婆は
千尋の名前を奪う(契約書の千尋という文字をひっぱがして手でつかんで
しまうのだ。怖いシーンだった)。そして代わりに“千”という名前を与える。

 「今日からお前は千だ。しっかり働くんだよ」

 湯婆婆は舌なめずりしながら言う。その日から千尋は千として働き始め
る。そしてすぐに千尋は自分の名前を忘れかけていることに気づく。千と
して生き始めていることに気づく。そのことを千尋は自分のことを何かと
気にかけてくれている青年“ハク”に打ち明ける。するとハクは次のように
言う。

 「けっして自分の名前を忘れてはいけないよ。名前を忘れたが最後、元
の世界には戻れなくなってしまう。心の底に隠してずっと覚えておくんだ。
いいね」

 ハクにも元は自分の名前があった。由緒ある立派な名前だったがすで
に忘れてしまっていた。彼は湯婆婆からもらったハクという名前で生きて
いくほかなかった。そしてハクとして生きてしまっていた。

 映画の最後、ハクは自分の名前を思い出す。そこで湯婆婆の呪いが
解ける。千尋も呪いが解け、元の世界に戻る。だが千尋という名前に
戻り元の世界に帰った瞬間異次元世界にいた記憶をすっかりなくし、
また元のビクビクとした弱虫少女に戻っていた。でもそのシーンでは
千としてたくましく生きた熱のほてりみたいなものが千尋の中にうっす
ら残っていることを匂わせるような絵になっていた。

 この映画は終始「名前」というものの影響力を押し付けがましくなく控え
目に私たちに見せてくれていて、今さらながらタイトルに「千と千尋」と
いう二つの名前を入れた妙にうなるほかない。

 私たちは両親から最初に命をもらう。そしてその次に名前をもらう。そ
こで初めて魂が入るのだと私は思う。仏作って魂入れずではないけれど、
命をもらっただけでは魂は入らない。毎日毎日両親に自分の名前を呼ん
でもらい魂が入っていく。そしてその名前を持った人間になっていく。
両親がいなければ誰か他の人でもいい。やっぱり名前で呼ばなければ
いけないと思う。また奥さんもダンナさんもお互いを「おい」とか「お前」
ではなく名前で呼ばなければいけないと思う。

 名前は人を支配する。自分の心に寂しいという名前をつけた瞬間、その
人は“ちゃんと”寂しくならざるを得ない。「自分は不幸な人間」と自分に
名前を付けた瞬間、その名前のとおりに支配される。

 私たちは悲しい目に遭った時、自分の気持ちに「悲しい」という代表的
な名前をつける。だけどその裏には「悲しいけれど決して絶望ではない」
まだ名前のついていないたくさんの感情が存在している。今名前がついて
いるものだけでモノを考えなくてもいい。

 私たちは言葉で意思疎通を図るしかないからこの世にあるものすべてに
名前を付けようとする。自分の心にどういう名前を付けるのか、自分の周
りのモノにどういう名前を付けるのか。名前を付けたことで何を削ぎ落とし、
何が支配しにかかってくるのか。

 それを決め、見極めるのは自分以外にない。

☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆ 

なんだか妙に抽象的な文章になってしまいました。
考えてみれば文章というのは何かの名前の羅列なのであって、常に何かを
削ぎ落とす宿命を背負っているのかもしれません。
どれだけ言葉を重ねても伝えきれないもどかしさというのはそのへんから
来るのでしょうか。

 


つぎ

 

          
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