「東京の夜空(中編)」
東京の夜空には星が無いと人は言う。
確かにどんなに晴れた日でも東京の夜空には申しわけ程度の星さえ
見ることはできない。
なぜ星が見えないんだろう。大気汚染がひどいからだろうか。スモッグ
が空を覆い尽くして星を見えなくしているのだろうか。いや、30年前なら
いざ知らず、現在の東京の空にはスモッグのカケラさえなく、星空をおお
い隠す汚れた天幕などどこにも存在しない。
じゃあ、なぜ星が見えないんだろう。
その答えは以前、ニュースのお天気コーナーで言っていた。
「東京という街が明る過ぎるから」
東京の夜空が明る過ぎて星が見えないのだという。確かに宇宙からの
衛星写真、ヘリからの空撮など、東京はまるで巨大な光の池だ。そのあ
まりに強烈な光の池の底に沈んでいる私たちの元には、何千光年という
距離を旅してきた星のけなげな光は届かない。
あの時もそうだった。私たち3人の小学生にも光は届かなかった。
道に迷い、一寸たりとも先が見えない闇の中に閉ざされたと知った時、
私たちは怖くて怖くてどうしようもなかった。友達の顔はおろか、自分の
手さえ見えない暗闇の中にいるのは本当に恐ろしかった。だから私たち
は狂ったように懐中電灯で辺りを照らした。進むべき道を探して必死に
照らした。そうやって明かりさえつけていれば、とりあえず自分のまわり
は明るかった。友達の姿だって見えた。自分が一人じゃないことだって
分かった。
だけどそうやって自分の周りを明かりで一杯に満たしたにもかかわらず、
私たちは不安で不安で仕方がなかった。なぜなら明るいのは懐中電灯の
小さな明かりの輪の中だけでそのまわりは圧倒的な闇が広がっていたか
らだ。そして何より「どこへ進めばいいのか分からなかった」からだった。
だからどんなに弱々しくおぼろげなものでも、そしてそれがどんなに遥か
彼方にあるものだとしても光を見つけた時は本当に嬉しかった。
簡単なことだった。光を見つけたいなら近くの明かりを消せばよかった
のだ。
東京の夜空には星が無いと人は言う。
ならば一晩、いや1分でいい。東京の全ての明かりを消してこの街を
完全な闇で満たしてほしい。
そうすれば私たちの頭上には、まさに降るようなという表現ぴったりの
満天の星空が広がるだろう。
あのコールタールのような真っ黒な闇の中で溺れかけていた私たちを救
った頼りなげな光。それはまさに命の光だった。たぶん最初に友達が見つ
けた光も家の明かりだったのだと思う。だけどせっかく見つけた光だったのに
私たちは自分の目を信用することができず、それ以上目をこらしてみよう
ともせず、暗闇の怖さに耐え切れずにすぐに懐中電灯をつけてしまった。
そして私たちは懐中電灯の“かりそめの明かり”の中、何かを探そうと
必死にキョロキョロした。でも『何を探そうとしているのか自分でもよく
分からなかった』
似たようなことは私たちの日常の中でも頻繁に起こっていると思う。
人間は社会の中で自分が何者でもない状態でいることに耐えられない
生き物だと思う。人は生きている限り常に何かを「しよう」とする。死ぬまで
何か「する」ことを探す。「する」場所を求める。
そしてその場所、会社や学校や仲間内や家庭の中で自分が“居てもいい
存在”として許されること、その場所に必要な存在として認められること、
自分を自分以外の誰かから承認・肯定してもらえること。それらは私たち
の自尊心を心地良く満たしてくれるし、時には生きる力を与えてくれること
にもなる。
だから私たちはどんなにイヤなことだろうと何かをしていることで、
あるいはどこかの場所にいることで“かりそめの安心”を得ている場合
がある。それは懐中電灯の“かりそめの明かり”の中で安心しているの
と同じだ。
学生、会社員、フリーター、主婦 起業家etc…、私たちは今の自分の
状態に名前を付け、あるいは名前を付けてもらい、社会の中でとりあえず
の居場所を確保して生きている。あるいは「いい人」「優しい人」「頼りが
いのある人」「おもしろい人」「シッカリした人」「キレイな人」「オシャレな人」
「仕事のできる人」「お金を持っている人」「夢を追っている人」という名前を
付けてもらい、そこを居場所として生きているかもしれない。
いずれにせよそれは懐中電灯で自分の周り半径3メートルを照らして
いるのと同じで、明かりの中にいることはとりあえず一時の安定感をもた
らしてくれてはいる。が、明かりの周りは闇に囲まれ、いつ明かりが消え
てしまうのか、自分の今いる場所や進むべき方向はこれでいいのか、
一抹の不安を持っている人もいるかもしれない。
それがアクシデントなどですべての明かりが消えてしまうことがある。
自分が頼りにしていた明かりがなくなり、今まで見えていたものや自分の
立っている場所や仲間の姿はもちろん、自分自身の姿さえ全く見えない
暗闇に放り出され、それまで体験したこともない恐怖がおおいかぶさっ
てくるような事態。
しかし自分のまわり全てが真の闇に包まれてしばらく経つと、遠くに今
まで見えていなかった小さな光が瞬いているのに気づく。周りをかりそめ
の明かりで照らしていた時には決して届くこともなく、決して気づくことも
なかった弱くおぼろげな光だ。その光が新たな力、新たな安心感に支え
られた進む力を私たちに与えてくれる。
よくマスコミは「リストラ」「無職」などを“必要以上の”悲劇のニュアンス
で報じる。確かに悲劇だ。かくいう私もリストラではないけど何度も無職
状態に陥っていたようなものだし、それだけならまだしも借金まであった。
確かに楽しくはない状態だし喜劇でもない。家族持ちならなおさらだろう。
ただ一方でそれは「必要以上には」悲劇ではない。さっきも言ったように
光を見つける時、近くの明かりはかえって邪魔になる場合があるからだ。
何者かであることでかりそめの安心を得ているのだとしたら、何者でも
ない時に得た安心感というのは、その人が本来持っていなければならない
「素の安心感」ではないかと思う。そしてそれは人間が持ち得る最も強固で
原初的な安心感だ。
もちろん私たちは何者でもない状態で生き続けることはできないし、生
き続けるべきでもない。誰もが何者かにならないと社会も生活も成立しな
いのだから。
だからそれはこう考えられるのではないだろうか。私は人間というのは
家に例えられると思う。家を建てる時、自分のセンスをいかした家を建て
たいという人もいれば、丈夫でさえあればいいという人、なるべくなら立派
な家を建ててみたいという人、逆に質素でいいから住みやすい家にした
い人など様々な人がいる。
その自分の建てた家がちょっとした風や弱い地震でかなりグラグラ揺れ
てしまうとする。人間で言うならちょっとした失敗や他人のちょっとした言動
などにすぐ落ち込んでしまい、グラグラと揺れる人に例えられるかもしれ
ない。
そこでその家の持ち主は「これはイカン。揺れないようにもっともっと強い
家にしなければ」と、壁や柱を強度の高い素材に変えて必死の補強・改築
をしようとした。
それは自分の性格をもっと強くしようとしたり、仕事でのキャリアアップ
を図ることであったり、もっと良い学校へ行こうとすることであったり、
何かをして自分磨きなるものをすることであったり、無理矢理にでも夢や
目標を定めて邁進することみたいな、一見、今の自分よりレベルアップさ
せる何かだ。
しかしそうやって補強・改築をした時は揺れが収まったように感じるもの
の、しばらくすると家はまた揺れ始める。家主は自分が必死に作り上げて
きた家を守ろうと、もっともっと強く、もっともっと改築をと、さらに壁を厚く
したりして建物をより大きく立派にしていった。
そうしたある日、巨大な台風がその家を襲った。家はあっという間に崩
れ落ち、それまでコツコツと積み重ねてきた全てを瓦礫の山に変えてしま
った。
家主は大いに嘆いた。無理もない。今まで膨大な時間と莫大な労力を費
やして手に入れてきたもの全て、自分の努力全てが無に帰してしまったの
だから。
だが瓦礫を全部取り除いた後、そこに現れた光景に家主はガク然とした。
なんと家の土台がグラグラだった。
そこで家主はようやく気付いた。こんなグラグラな土台の上にどんなに
立派で強い家を建てたってダメに決まってるじゃないか。これじゃあ台風
はおろか、そよ風でだってフラフラ揺れてしまう。
家の土台は人に見せるようなものではないし、見えるようなものでもない。
だからふだんはどんなふうになっているのか中々気付かない。家といえば
土台の上に立っている部分、人の目に見える部分を指すのだから。今回の
ように家が吹き飛ばされないかぎり土台がどのようになっているのか知る
ことはない。
地面の上に出ている家の部分、つまり他人や自分の目に見えている壁や
屋根にあたるものが何かと言えば、学歴・社歴などの肩書きや仕事での実
績、それに伴う人々からの信用、尊敬、賞賛だったり、自分はとりあえず
ちゃんとしている常識的で真っ当な人間であるという認識だったり、この
社会である程度誰かの役に立っているという感触だろう。
それらの壁や屋根は強ければ強いほど、立派であれば立派であるほど、
世間という風や雨から自分の身を守ってくれるし、何よりその内側は自尊
心という暖かな室温で満たされる。
そしてさらなる改築、増築。人はそれを人間的成長・社会的成長と呼ぶ
だろうし、実際そうだろうと思う。それは決して間違いではない。間違い
ではないどころか正しいことだ。
だが土台がグラグラなら家は揺れる。どんなに壁や屋根が強かろうと、
どんなに素晴らしく立派な家だろうと、それが依って立つ大元がグラグラ
なら意味はない。むしろ土台が貧弱なまま増築・改築を重ねて家を大きく
すれば、重量は重くなるわバランスは崩れるわで家はドンドン不安定にな
って揺れやすくなっていく。
じゃあ家の土台に当たる部分は人間で言えば何に当たるのだろう。
それは「自分は無条件でこの世に生きていてもいい」と心の底の底の底、
自分でも気づかない無意識で感じることができていることだと思う。
何の理由も無く一切の証拠もいらず自分はこの世にいてもいいのだと、
自分がこの世に居させてもらうための理由探しなど一切しなくてもいいの
だと体感できていることだと思う。
といってもそれはありのままの自分でいいなどという戯言(たわごと)を
言っているのではない。
ここ数年のことだが、「頑張らなくてもいい」とか「ありのままの自分でい
い」という言葉が流行っている。実は私、この言葉の使い方がすごく嫌い
だ。
頑張らなかったり、ありのままの自分だけじゃご飯は食べられない。
家の例えで言えば土台部分だけじゃ雨風は防げないのと同じだ。その上に
掘っ立て小屋でもいいから雨風をしのぐものを建てないと人は生きてはい
けない。英語で家がないという意味のホームレスだって本当に家がないわ
けではなく、テントやダンボールで屋根や壁を作って雨風をしのいでいる
のだから。ありのままの自分というのはあくまで土に埋まっている土台で、
それで雨風を防ぐことはできない。
つまり私が言いたいのはこういうことだ。ありのままの自分という土台の
上に、ありのままじゃない自分(他人に見せている自分)という家を建てる。
だけどその時、ありのままの自分という土台がグラグラだと、その上に建て
たありのままじゃない自分も揺れる。
ただここで言う「ありのままじゃない自分」というのは偽りの自分という
意味じゃない。言葉を使う便宜上「ありのままじゃない」と書いただけで、
他人や社会に見せている自分もまぎれもない自分自身だ。だって実際の
家も「土台が本当の部分で家は偽りの部分」なんて言い方はしない。家
は土台とその上に乗っている建物でワンペアで、両方でその人自身だ。
そしてもっと言えば世間で言われている「本当の自分」なんていうものも
目に見えている建物の部分だ。自分はふだん明るく振舞ってるけど本当の
自分はとても暗い人間だ、みたいなこと。
それは家で例えれば本人だけが気づいている壁のペンキの小さなハゲみ
たいなものだろうか。遠目には分からないけど近くに寄って見てはじめて
分かるもの。自分だけが知っている、できれば他人には知られたくないと
思っている部分。
私で言えば、臆病と繊細という材質でできた壁に勇気と大胆というペンキ
を塗っている。で、長年の風雨で所々ペンキがはげてしまっていて、その
たび塗り直したりもするんだけど、もう面倒くさいのでそのままにしている
ところもある。でもその絶妙なハゲ具合が私の個性だ。
どの家も遠目に見ていればそれなりに見えるので「あの家は中々立派だ
なあ」なんて思ってる。それが親しくなるとお互いの距離が近くなる。それは
お互いがお互いの敷地に入ってお互いの家を見せ合うようなもので、そこ
で初めて壁のハゲに気づいたりする。
だから私と親しくなった人は私のハゲに気づいて「仙人さんて意外と繊細
だったんですね」なんて言うかもしれない。
でも私は「本当の私は繊細だ」などとは言わない。実際の家と同じように
壁の材質もその上から塗ったペンキもそのハゲ方も合わせてその家だから
だ。それをその家の“味”と言う。本当の私も何もそれが私だ。
逆に今度改築する時は大胆という材質でできた壁に臆病というペンキを
塗るかもしれない。するとまたハゲを見つけられて「仙人さんて臆病そうに
見えて実は大胆だったんですね」なんて言われるだろう。
実際はもっと複雑で、ある壁の材質は勇気でできているけどある壁は臆
病でできていて、上から塗るペンキやそのハゲ方も加えればそれこそ数え
切れないくらいの組み合わせになっている。
私は臆病者でありながら勇気をふるうしプライドが高く見栄っ張りで嘘つ
きなくせに正直者だ。また卑怯者だということを自認しつつ正義も遂行する。
すべての家は建てたときの姿のままで未来永劫あり続けることはない。
細かな補修や補強は当たり前だし、思い切った改築だってある。同じよう
に人もまた同じ姿のままでいることはない。ペンキの下の壁そのものだっ
て長い年月の間に雨がしみこんで変質するように、本当の自分のその本当
の部分がそのまま未来永劫変わらずにいることはない。
だからありのままじゃないという言葉は世間ではネガ的に使われている
けど、まったく悪くも何ともない。ありのままじゃないというのは「ずっとその
ままじゃない」ということだ。ありのままじゃない自分というのは「ずっとその
ままじゃなくてもいい自分」ということだ。
それは時がたつにつれてドンドン変わっていく部分だ。外見はもちろん、
社会的立場、職業、モノの考え方などドンドン変わっていくし変えてもい
い。変わらないとされている自分の性格ですら、その一瞬一瞬のかりそめ
のものだと考えたほうがいい。私だって20年前の自分と今の自分とでは
すでに赤の他人だ。10年前と比較したって違うだろう。いや、それどころか
毎日毎日自分の性格を微調整しながら生活している。
だけど土台は違う。家の形、壁や屋根の色、材質などは人によってあれ
ほど千差万別なのに、土台はどの家もほとんど変わらない。どんな家でも
同じような土台をしている。「自分は何の理由もなく無条件でこの世に生き
ていてもいい」という土台は等しくすべての人を支えているし、支えられな
ければならない。その土台がなければ家をしっかりと建たせることはでき
ない。
後編に続く。