「東京の夜空(前編)」
東京の夜空には星が無いと人は言う。
確かにそうだ。雲ひとつないどんなに晴れた日でも、東京の夜空には
一つか二つの申しわけ程度の星の瞬きしかない。
でも本当は東京の夜空にだって満天の星がきらめいている。
確実に。
あれは小学校3年生の冬のこと。年が明けてすぐの時期だったと思う
けど、私は山で遭難しかけたことがある。
まあ、山で遭難といっても日本アルプスとかの話ではなく近所の山で迷
ってしまっただけなのだが、それでもかなりの騒ぎとなってしまった。
その日、私は学校が終わってから友達と3人で近くの山に入った。別に
その山自体に目的があったわけじゃなかった。山の向こうの町のプラモ屋
にこっちの町では売っていないスーパーカーのプラモデルがあると聞いて
いたからだ。
山を迂回してその町に行こうとすると自転車でも2時間以上かかって
しまうのだけど、上級生の噂によると、決して高くはないその山を直接
越えていけば1時間足らずで着いてしまうとのことだった。
私たちはその週の土曜日、授業が終わると昼ごはんもそこそこに学校
を飛び出した。そして寝ぐらに戻る猿のごとくキャッキャッと山に分け入っ
ていったのだった。
最初、私たちはとても威勢が良かった。冬枯れで水がなくなった沢を
道代わりに登っている時などバカな冗談を飛ばし合いゲラゲラ笑う余裕
だってあった。
だけど山に入って1時間。進んでも進んでも向こう側に抜ける気配が
なく、それどころか山がどんどん深くなっていくと、それに呼応して皆の
顔色も徐々に怪しくなり始めた。
山といっても一つだけポツンとあるわけじゃなかった。様々な高低の
峰々がティラミスの皺のように幾重にも連なり重なっていてその一番低い
部分を超えていくのだけど、それでもとうに抜けていてもいい時分だった。
もしかしたら道に迷ってるんじゃないか?
私たちは薄々そんなことを感じ始めてもいた。が、そこは一応男の子。
そんな心配をおくびにも出さず、落ち葉や腐葉土が積もった地面をとにか
く行き当たりばったり、上ったり下りたり横に行ったり斜めに行ったりして
進んでいった。
そしてふと気づいた時には、もう遅かった。私たちはあっさりと迷子に
なっていたのだった。
異様な暗さだった。倒木やさまざまな種類の下草〜ツルだのツタだの
熊笹だの〜や、その他あらゆる障害物に対処しながら必死に進んでいた
時には気づかなかったけど、改めて辺りを見回してみると、よくこれで
足元が見えていたなというくらい光量がなかった。日が暮れるまでには
まだ時間があるはずなのに辺りは薄墨を溶いたようにぼんやりとなって
いる。
「おい…」 私たちは顔を見合わせた。
友達の顔は黒いレースのカーテン越しに見ているようで輪郭がハッキリ
しなかった。上を見ると木の枝々が真っ黒な亀裂となって空を走り、まるで
影絵のようだった。
ザザザザァーッと風が吹き抜ける。いっせいに豆をまき散らかしたかの
ようなものすごい音。山の外で聞く風鳴りとは本質的に違う、とてつもな
く具体的で生々しい音だった。木の枝や梢が細かくぶつかり合って激しく
鳴り、まるで自分たちが責めたてられてるような気がしてくる。落ち葉が
そこら中から吹き上がってきて、思わず両腕で顔を覆った。
それに尋常じゃなく寒かった。風が当たるたび服の下の汗が急激に冷え、
濡れた下着がお腹や脇に張りついてビックリする。
私たちは無言で顔を見合わせていた。誰かが戻ろうと言い出すのを待っ
ていたのだ。だけど今にも不安ではちきれそうな体を抱えながらも男の子
のプライドはしっかりと邪魔をし、私たちは何とかその場に踏みとどまって
いた。
そこへまた突風が襲ってきた。梢が金切り声をあげ、再び落ち葉が生き
物のように荒れ狂いながら突き刺さってくる。限界だった。声にならない
悲鳴をあげた私たちは先を争って来た方向へ下り始めた。というより転が
り落ちるようにして駆け下りていった。
だが戻り始めてすぐ異変に気づいた。来た方向に戻っているはずなのに
戻っている気がしないのだ。どこまで行っても黒い木、木、木。その向こう
もまた木、木、木、だった。
あの横切ってきたくぼ地は? アメ細工のように折れ曲がったあの太い
木は?
私たちは気が狂ったように右往左往した。いや、右往左往するごとに気
が狂いそうになっていったと言うべきか。皆、何かを探そうと必死にキョロ
キョロする。だけど何を探そうとしているのか自分でもよく分からなかった。
山の時間は地上の何倍もの早さで過ぎていくみたいだった。一歩足を踏
み出すごとに闇の濃度は着実に増していき、何度も木の根につまづいて
転んだ。そのたびに木の枝や下草やツルなどがムチのように顔を打ってく
るが構う余裕は全然なかった。
そしてしばらくしてとうとう何も見えなくなった。自分の手さえ見えない
真っ暗闇。そんな闇なんて生まれて初めてだった。トロンとした粘度の高い
コールタールのような闇が鼻や口や目や耳などの穴という穴から流れ込ん
できて息ができなかった。
私たちはランドセルから、もしもの時を考えて持って来ていた懐中電灯
を取り出し、取るものもとりあえずお互いの顔を照らした。みんな呼吸が
荒く、見たこともない怖い顔をしていた。てんでバラバラに口を開く。
「だからさ、ハアハア、あの太い木をさ、ハアハア」
「そんな木なんてあったか? ハアハア」
「南はどっちだよ、ハアハア」
「いや、それよりくぼ地だよ、ハアハア」
「くぼ地ってったって、ここだってくぼ地じゃねえか、バカ! 」
「バカって言うなよ! バカ! 」
怒鳴り合う声がこだまとなって闇の中から次々降りかかってくる。自分
以外の人間が怒鳴っているのを聞くのはとても怖かった。自分だけが取り
残されて一人ぼっちになったような気がしてくるからだ。だからみんな我先
にと口を開いて怒鳴り合った。
「あっ」
友達が叫んだ。
「なに? 」と私。
「シッ」
友達は黙って前方に目をこらしていた。
「あそこ、何か光ってねえか? 」
前を見る。何も見えない。もう一人の友達も「何も見えねえよ」といらだ
った声で懐中電灯を前方に向ける。たくさんの木やツタや下草が照らされ
ただけだった。
「あ、見えなくなっちゃったじゃねえかよ、バカ! 」
「バカって言うなよ! バカ! 」
また怒鳴り合いが始まった。しかし光を確認する方が先だということは
分かっていたらしく、懐中電灯を消し、息を殺し目をこらした。でもやっぱ
り何も見えなかった。本当に自分の目は開いているのかと何度もまばた
きして確かめねばならないほどの黒塗りの闇だった。
懐中電灯をつける。みんな泣きそうな顔だ。耳は真っ赤で鼻水だって垂
れている。吐く息は真っ白。寒い。今何時なんだろう。
来るんじゃなかった。横着するんじゃなかった。自転車で2時間以上
かかろうと山を迂回すれば良かった。皆、心の底から後悔していた。
それから私たちは怖さと寒さのため体を寄せ合い、というよりお互いの
体をぶつけ合うようにしてオズオズ進み始めた。
懐中電灯をつけていれば自分たちのまわり半径3メートルは明るかった。
だけどその向こうは完全な闇だった。まるで真っ黒い液体の中に直径6メー
トルの光のボールが沈んでいるみたいで、私たちはそのボールの中にいて、
そのボールごと進んでいるのだ。
懐中電灯の明かりの中から何本・何十本もの木が現れては後ろに消えて
いく。全てが違う木のようでいて、全てが同じ木のようにも見えた。
「おい、ココ、さっきも通ってねえか? 」
突然、友達が口を開いた。
「んな訳ねえだろ。俺たち、前にしか進んでねえんだぞ」と、もう一人
の友達。
「いや、絶対通ったって」
「じゃ俺たち、同じ所をグルグル回ってるってこと? 」と私。
「そういうことだろ」
「だから通ってねえんだって! 変なこと言うなよ! 」
「通ったよ、バカ! オメエ、怖えのかよっ」
「おめえこそ怖えんだろっ! 」
山は底無し沼ならぬ底無し山のようだった。進めば進むほどにズブズブ
と深みにはまっていく感触だけを残し、私たちは体力的にも精神的にもド
ンドン追い詰められていった。
私たちは木の枝が折れたり、下草がこすれるようなちょっとした音にも
すぐ反応した。そのたび懐中電灯の光の刀であたりかまわずメッタ斬りに
するのだけど何の手ごたえもなかった。さらに友達が遠くから人の声が近
づいてくると言った時には一気に高揚したものの、どれだけ耳をすませて
もそれらしい声はまったく聞こえてこず、喜びが大きかったぶん怒りに変
わるのも早かったが、その怒りはすぐに「じゃあ一瞬聞こえた人の声は誰
の声だったのか」ということに気づいて私たちを恐怖のどん底に陥れた。
そしてしばらくすると友達の懐中電灯の電池が切れてしまった。私たち
は一気にパニックに陥った。ライトが1個ないだけで全ての明かりが消え
てしまったようだった。自分の電池だっていつ切れるか分からない。直感
的に思った。電池が切れたら死ぬ。
「おーいっ!! 」
友達がたまらず叫んだ。ほとんど泣き声だった。私も叫ぶ。「おーいっ!! 」
みんなで「おーいっ、誰かーっ」と叫びまくる。叫んでいるうちに声が
かすれ始め、気が付いたらみんな泣いていた。泣きながら叫んでいた。
おーいっ、おーいっ、という自分たちの叫びを追いかけるように、追い
つ追われつ叫んでいた。
だけど私たちの必死の“泣き叫び”は砂地に水がしみこむように力なく
闇に吸い込まれ、帳尻合わせのこだまさえ返ってくることはなかった。
このまま脱出できなかったらどうしよう。絶対に凍え死ぬ。野犬にだって
襲われるかもしれない。なぜか家のキッチンが思い出され、父や母や妹
たちが笑いながら夕ごはんを食べている光景が浮かんだ。
そう言えば今日、山に入ることを誰にも言ってない。このまま山から抜
け出せなくても誰も助けに来ないじゃないか。
今さらながらに気付いた事実に一気に足元が無くなったようになり、手
を振り回すようにして近くの木につかまる。
怖い、助けて、お願いします、誰でもいいから助けてください、お願い
します、お願いします。
しばらくするともう誰も何も叫ばなくなっていた(というより叫び疲れて
叫べなくなっていた)けど、ハアハアという荒い息遣いだけがそう叫ぶ
代わりにしていることを伝えていた。
それからはもうただ夢遊病者のように山の中をさまよった。誰もしゃべ
らなかった。何の意思も目的もない闇の亡者のようだった。
それでも電池を節約するため一人だけ懐中電灯をつけてその後ろに他の
二人が続くという知恵はあった。だけどそれは脱出への積極的行動という
より、暗いのは怖い、一秒でも長く明かりをもたせたい、ただそれだけの
理由からの行為に過ぎなかった。
そんなことを何回、何時間繰り返しただろう。とうとう私たちは疲れ果て
てその場に座りこんでしまった。真っ暗闇の中、あまりの疲労に口も聞
けず何も考えることもできず、ただ惚けたように、ある者は前方の闇に、
ある者は自分の足元に視線を落としてジッとしていた。
文字通り目の前真っ暗だった。もうどこに進んでいいのか分からなかっ
た。どこに進む元気もなかった。どこに進んでも同じような気がした。
一切の音がなくなり時間の感覚も空間の感覚もなくなった中、どれくら
いそうしていたのだろう。
突然、友達が叫んだ。
「あ、光った! 」
私たちはビクッと頭を上げ、声のした方に「どこ?! 」
「あそこ! 」 友達はどこかを指差してるようだ。だけどその指が見
えない。懐中電灯をつける。
「だからつけるなって! 」
消した。目をこらす。見えない。必死に目を開いた。顔を左右上下に動
かし必死に探す。でも見えない。また気のせいじゃないのかよ。そう言お
うとした時…、あ、み、見えた! 確かに見えた!
「オレも見えた! 」私は叫んだ。
次々にオレも、オレも、という声が闇の中にこだまする。
それは点のような光だった。遠近も分からないし、しかも消えたり点い
たりする。でも点滅という感じじゃなかった。
「ホタルじゃねえか」「真冬にホタルなんているかよ」「家かな」「いや
そんなデカくないだろ」「じゃ、車か」「でも動いてねえぞ」「街灯じゃな
いかな」
私たちは真っ暗闇の中、光の正体についてあれやこれやと議論し合った。
でもそんな議論はすぐに終わり、その光点をめざすという結論に達するの
に時間はかからなかった。今泣いたカラスたちはもう声に張りが戻り、一
気に元気がみなぎってきていた。
すぐに私たちは歩き始めた。懐中電灯を消しゆっくりゆっくり進んだ。
遠くにまたたくあまりに小さな点のような光は懐中電灯をつけた途端、す
ぐに見えなくなってしまう。私たちは真っ暗闇の中、まばたきもせず慎重
に慎重に歩を進めていった。
そうして1時間以上進んだだろうか。気がつけば木と木の間隔が徐々に
広がってきていた。頭上の空間も空き始めて、星を散りばめた夜空も見え
出してきた。また地面も平坦になって森のような感じになり、木の間から
は目指す光が家の明かりであることも分かるまでになった。
それからはもう自然と早足になり、それがすぐに走るように、いや、実際
私たちは我先にと森の中を駆け始めた。木にぶつかろうが根っこにつま
ずこうが構わず駆けた。闇の中からうっすらと畑や田んぼが見えてくる。
私たちは全力で走った。そして…、とうとう森を抜けたのだった。
「やったぁー! 」
私たちは田んぼのあぜ道を飛び跳ねながら走った。目印となった明かり
を灯す農家の横を抜ける。目の前には窓明かりを煌々とたたえたたくさん
の家々が広がっていた。
私たちはあぜ道からアスファルトの道路に上ると、キャーキャー奇声を
上げながら跳ね回った。まるで山から出てきた子猿だった。自分の踏みし
めている地面が固いことがこれほどまでに安心感をもたらすことを初めて
知った。
しかし3人ともひどいありさまだった。顔は引っかき傷だらけ、ジーンズも
上着もドロドロ、よく見たら友達の一人はピチピチの半ズボンを履いていて
膝小僧から血を流していた。真冬なのに半ズボン。恐るべし、当時の小学
生。
その住宅街は来たこともない場所だった。私たちはウロウロと歩き回り
公園を見つけると、そこの時計を見てビックリした。
なんと夜の8時過ぎだった。私たちは7時間近くも山中をさまよっていた
のだ。
公園の公衆電話から家に電話をかけると、案の定3人の家では親が大
騒ぎしていた。親同士が連絡を取り合い、学校や警察へ届ける一歩手前
だった。公園へは友達の父親が車で迎えに来てくれることになった。
30分後。私たち3人はそれぞれ帰った自分の家でそれぞれの親にそれ
ぞれこっぴどく叱られたのだった。
中編へ続く