「世界に一つだけの花は本当か」
以前、やたら流行った曲がある。スマップや槙原敬之が歌った「世界に
一つだけの花」だ。
この曲は高校野球の入場行進曲になったり、演歌歌手が務めることの
多かった紅白歌合戦の大トリをスマップが担当したことでも分かるように、
まさにその年を代表する一曲で、世代を越えてあらゆる人々に受け入れら
れていた。
この曲がヒットした要因は色々あるのだろうけど、その中でも特にサビの
部分、『ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン』が
かなりの癒し効果を人々に与えていたように思う。
でも私はこの曲があまり好きではなかった。しかもこのサビの部分が特
に好きではなかった。なぜならこのサビに何かものごとの半分しか言って
いないような物足りなさを感じていたし、それからなんて言うんだろう、
どうもみんな、自分を肯定するための理由を必死になって探し過ぎている
ような印象を持っていたからだ。
ものごとの半分しか言っていないというのは、「ナンバーワンにならなく
てもいい」という歌詞と同時にこういう一節も付け加えると説明しやすい。
“ナンバーワンになってもいい”
私はあのサビを聴くたび、なぜ「ならなくてもいい」方ばかりを強調する
んだ? と座りの悪い思いをしていて、もう一つの選択肢もあるじゃない
かとそのバランスの“えこひいき”に引っかかっていたのだ。
私たちは「ナンバーワンにならなくてもいい」のと同時に「ナンバーワン
になってもいい」のである。私は最初あの歌を聞いた時、ナンバーワンを
目指すことを拒否しているように感じられて、それはちょっと健全じゃない
なと思ったのだ。
ただここで注意してもらいたいのはあくまでナンバーワンに「なっても
いい」ということ。ナンバーワンにならなければならないということでは
ない。
ならなければならないというと、それは義務になる。だからたぶんあの
歌はナンバーワンにならなければならないという“高圧的な義務”に対する
アンチテーゼとして出来たものなのだろう。「ナンバーワンにならなければ
ならないなんてことはない。ナンバーワンにならなくてもいいんだよ」という
具合に。
だけどいくらキムタクにナンバーワンにならなくてもいいと諭されても、
実際には世の中のありとあらゆるところにランキングというものが存在し
ていて、それは私たちの生活の中で厳然たる力を持って影響を及ぼして
いるわけで。
会社は業界ナンバーワンの製品を目指してその開発に血まなこになって
いるし、それは物を売る時の宣伝文句にもなるだろう。個人的にも物を買
う時、映画を観る時など色々な機会にランキングは利用され、それにオリ
ンピックでも連日連夜キ○ガイのように「金メダル! 金メダル! 」って
大騒ぎしてたんだから。ナンバーワンを目指して死に物狂いで頑張ってい
る選手たちの前であの歌を歌う勇気はさすがのスマップといえども、また
槙原クンといえども持ち合わせてはいないだろう。
私たちはナンバーワンにならなければならないことはない。
でもナンバーワンになってもいいのだ。「ナンバーワンにならなくても
いい」と「ナンバーワンになってもいい」の二つは同時に存在している。
それからサビの後半部分「もともと特別なオンリーワン」に関しても私
はちょっといぶかしい思いを抱いている。
だって本当はもうみんな薄々勘づいているはずなのだ。自分の中に人に
誇れるようなオンリーワンなものなど何もないということを。だからこそ
オンリーワンの代わりに目指すことが容易なナンバーワンという称号を欲
しがっているのだということを。
でもこれも誰かが言ってあげるべきなのだ。自分にオンリーワンなもの
が何もなくたって全然大丈夫、何も心配することなどないということを。
そして自分のことを特別なオンリーワンなどとことさらに肯定しなくても
この世で生きていてもいいということを。
もちろん私はあの歌が言うように元々特別なオンリーワンの存在だ。だ
けどオンリーワンではない自分も確かにいる。だって仮に私たちが特別な
オンリーワンなだけの存在だったらこの世はものすごく困った事態になる。
たとえばサラリーマンの人、転勤がありますよね。その転勤というシス
テムが遠まわしに示していることは何だか分かるだろうか。それは「この
部署からあなたがいなくなっても代わりはちゃんといます」という事実だ。
もし本当にその部署からその人が出ていってもらっては困る、その人は
オンリーワンな人だ、部署替えは絶対に許さないというのであれば転勤と
いうシステムは成り立たない。逆に転勤というシステムが成立していると
いうことは会社にいる全ての人がオンリーワンではないことを意味してい
る。それは社長であってもだ。
でもそれは悲しいことでも悪いことでもなんでもない。むしろその人の後任
がいない方が怖い。もしその人に代わる人がいないのであれば間違いなく
その会社はつぶれる。オンリーワンでは困るのだ。
それに自分の代わりが誰かいるということは、自分も誰かの代わりにな
れるということだ。もし自分がオンリーワンだけの人間だったら、その人は
一生同じ職業、職種をやり続けなければならない。
私はかけがえのない唯一無二の私という意味でオンリーワンだ。それは
誰も汚せない。あの歌のオンリーワンというのはそのことを言っているの
だろう。だけど誰かの代わりになることができるという意味では私はオン
リーワンじゃない。私の父や母にとって私は唯一無二のオンリーワンだろ
うし、私にとっても彼らはそれぞれオンリーワンだ。だけど今も言ったよう
に私の社会的立場など誰とでも替えが効くし、効かなきゃ困る。
つまりさっきのナンバーワンの時と同じだ。「ならなくてもいい」と「なって
もいい」が同時に存在しているように、人間というのはオンリーワンであ
ってオンリーワンでない。この二つが合わさって一個の人間ができている
のだし、その二つともが必要なのだ。
最初にも言ったけど、どうもみんな、自分を肯定するための理由を必死
になって探し過ぎているように思う。
しかもそのとき「ならなくてもいい」方だけを強調してしまったがために
それに変わる価値観を提示しなければならなくなってしまった。そこでオ
ンリーワンという価値を出したんだけど、今も言ったように私たちはオン
リーワンでない自分も確実に背負っているので、オンリーワンという価値
だけにしがみついていれば必ずどこかで矛盾が生じて破綻する。
私たちは特別なオンリーワンになどならなくてもいい。私たちは特別な
オンリーワンの人間だからこの世で生きる許可をもらっているのではない。
そうだったら誰もこの世で生きていられない。私たちはナンバーワンであ
ろうとなかろうと、オンリーワンであろうとなかろうとこの世界で生きていて
もいい。
私たちはナンバーワンとかオンリーワンとか言う以前にすでに肯定され
ている。すべての人が心臓の動いている限り生きていてもいいと肯定され
ている。生きなければならないじゃない。「生きていてもいい」だ。
よくドラマなんかで自殺志願者に向かって『人間はどんなに苦しくても
生きなければならないんだ! 』と諭す大バカが出てくるけど言語道断だ。
私たちはどんなに苦しくても生きなければならないのではない。どんな
に苦しくても生きていてもいいのだ。私たちは命ある限りこの世で生きて
いてもいい。そのことにもっと自信を持ったほうがいいと思う。
すでに肯定されているのに、なぜ改めて「ナンバーワンにならなくても
いい」などという言葉で自分を肯定し直さないとダメなんだろう。ナンバ
ーワンにならなくてもいいなんて当たり前のことなのに。そしてナンバー
ワンになってもいいのも当然のことなのに。
なぜ自分のことを特別なオンリーワンなどと言って安心しないといけな
いんだろう。私たちはオンリーワンでもありオンリーワンでもない存在で、
だからこそ生きていけるのに。
私たちはナンバーワンになってもいいし、オンリーワンにならなくても
いいのに、なぜ「ナンバーワンにならなくてもいい。特別なオンリーワン」
と殊更に言わなければならないんだろう。
ちょっと堂々巡りの感もしてきたし、どうも自分の伝えたいように伝え
られないもどかしさがヒシヒシとしてきたのでここでいったん止めるけど、
次号で似たような話を出そうと思います。実は去年のクリスマスに出そう
と思っていた話があって、でも勝手にお蔵入りにしてしまった回があるの
です。
「東京の夜空」というタイトルで、前編・後編からなります。前編は私が
小学校3年生の時に山で遭難しかかった時の話で、後編はそのコラムで
す。そっちの方が今回より具体的に書けそうな気がします。すいません(^^ゞ
ただ後編がやたら長くてお蔵入りにしたんですが、今、バッサバッサと
切っている最中で。
というわけで近々出しますので良かったらまたお付き合いください。
お楽しみに。
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
ちなみに私、槙原敬之クンは好きです。それはやっぱりあの声でしょうか。
最近はNTTのCMで流れていた「遠く遠く」をよく聞いています。
だけどやっぱり音楽が出来る人はいいですねえ。音楽は一瞬で何かを伝え
られる気がします。変な話なんですが、メルマガを書いている時、言葉の
意味が邪魔になることがあります。何か余計なものがついでに付いてきて
しまうというか。ちょっとうまく言えないんですが。