「いやはや、女性は変わる」
いやはや、女性は変わる。時間が経つと何もかも変わる。何が一番変わ
るって、そりゃ外見だろう。いや、それは年をとって老いるという、いわゆる
容姿という意味での外見ではなく、化粧、髪型、服装など、体の一番外側
をおおっている文字通りの外見のことだ。
わたしゃ、それで何回失敗してきたことやら。というか去年もさっそく大恥
をかいているのだけど、その話をする前に一つ、エピソードを書いておく。
すぐ終わります
数年前に後輩が大阪へ栄転することになり、その祝いもかねて仲間内で
同窓会をすることになった。一次会は銀座の蟹の店。私は当日、待ち合わ
せの30分くらい前に店に着いたのだけど、まだ誰も来ていなかった。それ
で一人で席に座っているのも寂しいので外で待つことにした。
5分くらい経ったころ、一人の女性が向こうから歩いてきた。彼女は店の
名前を確認した後、私の方をチラと見て、軽く会釈したような気がした。
“気がした”というのは、私はそうとう目が悪くて、しかもその時のメガネの
度もかなり弱くなっていたので誰なのか全く分からず、会釈したのかどうか
すら自信が持てなかったのだ。
私も一応会釈しようかとも考えたのだけど、細部は見えずとも彼女の全
体的な外見の印象からいって知り合いには思えなかったし(私はかなり記
憶力に自信がある)、もしかしたら気のせいかもしれないし、さらにジロジロ
見て間違っていたら恥ずかしいという思いも手伝って結局そのまま無視す
る形になった。
すると彼女は私から離れたところに行ってそこに立った。どうやら彼女
もこの店の客らしく、早く来過ぎたらしい。その日は私たちの集まりの他に
もたくさん団体予約が入っていたし、そっちの人なんだろうなと私は結論
付けた。
しかし、しばらくの間そうしていたのだけど、彼女が私の方をチラチラ
チラチラ見ているような気がする。いや、あくまで気がするだけ。私の
視界はぼんやりとぼやけてしまっているので別に私を見ているのでは
ないのかもしれない。
と、向こうから「仙人さ〜ん! お久しぶりです〜」と別の女性が走って
きた。彼女ならよく知っている。彼女は私の後輩でそれまでもたまに会っ
ていたし、電話や手紙、メールのやり取りなどもしていた。
しかし彼女は私のところまで来ると、7,8メートル離れたところにいる
例の女性に気づき、「あっ、Aちゃん! 久しぶり〜っ! 」と嬉々とした
声をあげた。
私は「えっ! Aちゃん!? え、ちょっと、え? マジ? 」とアホ面で
おどろく。
Aちゃんと呼ばれた例の女性は向こうから照れくさそうにやってくると、
「仙人さんに無視されちゃいました」と意地悪く私に笑った。
そう、彼女も私の後輩だった。彼女は知り合った当時は私とそれほど
親しくしていたわけでもなかったし、この時も私が知らんぷりをしたと
思って彼女の方も声をかけづらかったようだ。でもまぎれもなく彼女は
Aさんだった。
私はしどろもどろに「いや、無視したっていうか、その、いや、しかし
Aさん、変わったねえ。いや、いい意味でだよ、もちろん」と金魚のよう
に口をパクパクさせた。
彼女は今、フライトアテンダントというのかキャビアンアテンダントという
のか、昔で言うところのスチュワーデスをやっていて、服装から化粧から
髪型まで私が知るAさんとは何から何まで変わっていて、もし私の視力が
良くても分からなかったかもしれなかった。
いやはや、女性は変わる。私はこれからはちゃんとしっかり確認せんと
いかんなあと、こんな失敗は二度としないということと、すぐにメガネの
レンズを新調することを固く心に誓ったのであった。
で、その心の根も乾かぬうちの去年ですよ、去年。とんでもない大失敗
をしでかしてしまったのは。ここからが本題だ。
去年の夏、プライベートな用事で大阪に行く機会があった。それで世話
になっている後輩と大阪の梅田で会うことになったんだけど、せっかく久
しぶりに関西に行くのだから京都に寄って行こうと色気を出したのがそも
そもの間違いだった。
当日、京都に着いたのはすでに夕方近かった。で、メルマガで使おうと
思っていた写真を河原町で撮ったりしていたのだけど、ふと気がつけば
もう6時近く。梅田での待ち合わせが7時だったから完璧にギリギリである。
「こりゃ、イカン」と私は阪急四条河原町駅に走った。左肩には巨大な
ボストンバックをかけ、背中にはこれまたデカいリュック、そして右手に
デジカメという、完璧な“おのぼりさん”スタイルで全力疾走。
そしてゼイゼイの息で切符を買い、改札を走り抜けて階段を下りると、
ちょうど梅田行きの特急がホームに止まっていたところだった。私は急い
で車内に乗り込んだ。しかしまだ客は数名しかいなくてホッと息をつく。
どうやらこの特急はホームに入ってきたばかりのようだった。
その証拠に「発車まであと10分少々となります。いましばらくお待ち
ください」という関西弁トーンの車内放送が流れる。
私はふぅと息を吐き、車内の中ほどまで進んで座席に座った。ボストン
バックを網棚に上げ、リュックを隣の席に置いて中からハンドタオルとミ
ネラルウォーターを取り出す。
阪急京都線の『河原町・梅田』間を走る特急の座席構成は新幹線と同じ
だ。真ん中に通路をはさんでその両側に進行方向に向かって座席が並ん
でいる。新幹線は2人がけと3人がけの座席だが、阪急の特急は2人がけ
である。ちなみに特急券はいらない。
私は滝のように流れる汗を拭き拭き、ミネラルウォーターを飲んだ。遠
い記憶をたぐりながらすばやく頭の中で計算する。
「たしか阪急の特急で梅田までは4,50分だったよな。6時10分にココを
発車するとしてちょうど7時前には梅田に着くな。お、完璧やん、俺」
なんだか時間を得したような気がして嬉しくなる。
なおも汗を拭き拭きミネラルウォーターをゴクゴクやっていると、一人の
女性が通路をはさんで私の隣の座席に座った。私はその女性の横顔を
見るとはなしに見る。そして思わず『あっ』と心の中で叫んだ。
この人…、どこかで会ったことがある。
私はあわてて前に向き直った。と、彼女も私の横顔をチラっと見る仕草。
そして同じく『あっ』というような気配。もちろん彼女も声を出さない。だけど
確実に私に気づいたようだった。彼女も私のことを知っているのが雰囲気
で分かる。
“誰だったっけ? ”
私はすばやく思い出そうとする。彼女と私の間には通路があるのでそれ
なりの距離がある。先にも言ったように私は目が悪いのでしっかりとは見
えない。しかも彼女も前を向いているので横顔しか見えない。だけど私は
確実に彼女とどこかで会っていた。
私は顔を前に向けたまま目だけを動かして横目でチラッチラッと彼女を
盗み見る。年の頃は20代半ばから後半、髪はロングまでいかないミディ
アム、勤め帰りという感じで学生ではない。細部までは覚えていないけど
その時はこういう感じではなかったというおぼろげな記憶があるし、それ
も東京で会ってるはずだ。そのことも覚えている。なんで今京都にいるん
だろう。どんな知り合いだったっけか。
私はなおも必死に考える。私には銀座での失敗がある。同じ失態はもう
許されなかった。
そして記憶の海を必死でかき回しているうち、唐突にそれが目の前に浮
かび上がった。ああ、あの女の子だ。私はようやく思い出した。
8年ほど前、仕事先で知り合った女性と飲みに行ったことがある。私は
その当時、人生で最も苦しい時期だったので妙に印象に残っている。その
女性は関西出身で、私も関西弁を話すのでけっこう気が合った。その日は
その女性の妹が東京に遊びに来ていて、それで3人で一緒に飲んだ。妹は
その当時、学生。今、私の目の前にいるこの女性は妹の方だった。
あれから8年。そりゃ変わるはずだ。学生から社会人になったのだし、
髪もその当時はショートだった。化粧の感じもだいぶ変わったように思う。
だけど確かに当時の面影がある。妹は関西で就職したんだな。しかし世の
中は広いようで狭い。そんな陳腐な言葉が浮かんでは消えていったが、私
はすぐに“困ったことになった”という焦りも感じ始めていた。
なぜなら一緒に飲んだとき、妹の方とはあまり盛り上がらなかったから
だ。彼女が人見知り系の女の子だったということもあるにはあったと思う
が、彼女とは共通の話題もなく、なにより笑いのツボも全く違っていて話
が全然弾まなかった。
えーと、名前、そうだ、名前…? なんていう名前だっけ…。
素性は思い出したものの、苗字も下の名前も完全に忘れてしまっている
ことに気づいて私はさらに焦った。
どうする、話しかけるか。しかし梅田まで4,50分。話しかけたとしても、
あの時の様子じゃとてもじゃないがそれだけの時間、間を持たせられない。
じゃあ、このまま40分間無視し続けようか。しかし彼女に気づいてしま
った以上、しかも彼女に気づいたことを彼女に気づかれてしまった以上、
無視し続けるわけにもいくまい。
いっそのこと車両を変えるか。いや、ダメだ、ダメだ。それはあまりに
わざとらしい。というか私もそれなりの大人だぞ。そんな情けないマネを
してどうする。
頭の中でブツブツと自問自答を繰り返す私と同じように、彼女も私に話
しかけようか迷っているらしく、ソワソワした緊張感が伝わってくる。
『あと3分ほどで発車いたします』という車内アナウンスが流れた。
早く決断しろとも聞こえるそのアナウンスに私はとうとう腹を決めた。
ええい、旅の恥はかき捨てじゃ。彼女も社会人になったんだしそれなり
の話もできるだろう。できなかったらその時はその時や。
私は、お久しぶりですねとか、お姉さん元気にしてますかとか、関西で
就職なさったんですねとかのセリフを箇条書きにして頭の中でシュミレー
ションし、彼女がこちらをのぞき見るタイミングを見計らって飛び切りの
笑顔で会釈した。
すると彼女は一応会釈を返してくれた、ような、でも見ようによっては
無視したような、そのどちらとも取れる、やはりあの時と同じような微妙
なトーンの仕草をみせた。う〜ん、やはり彼女の中では私の印象は良く
なかったか。それとも会釈が今イチ目に入らなかったか。ちょっと欝にな
ったがここまできたら話しかけるしかないと判断した私は彼女の方に体を
向けた。
と、そのとき後ろから不意に「すいません」と声をかけられた。
振り返ると和服を着たご婦人が立っている。料亭の女将のような楚々と
したいでたち。京都では珍しくない女性だ。私はすぐに思い当たる。私の
横にはリュックが置いてあり、席を占領してしまっていた。車内はほぼ満
員になっており、私の隣しか空席がなかった。
「あ、すいません、すぐ網棚に上げますので」
私はリュックを手にして立ち上がった。その瞬間だ。私の体内にザワッ
という緊張が走った。
え?
私はその違和感の正体が分からず、反射的に隣のあの彼女を見る。
何と彼女も私を見ていた。だがその顔には私が見知っているはずの
女性の面影はもう微塵もなかった。というか改めて彼女をじっくり見て
みると、横顔は確かに記憶の中のあの妹に似ていたが、正面の顔は
全くの別人も別人、他人のそら似もいいとこの、私の全く知らない女性
だった。私が完全に勘違いしていたのだ。しかもだ。彼女は今、下を向
いてクスクスと笑っている。
私は混乱した。あれ? え? あれ?
私はキツネにつままれたような思いで自分の姿に目をやり、続いて
車内に目をやる。息を呑んだ。
…車内の客が、私を見ていた。しかも全員。
そこへ和服婦人が「あの、」とふたたび声をかけてくる。
振り返った私に、婦人がとても優しい、だが、あくまで生硬い声で言った。
「ここ、女性専用車両ですよ」
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
言い訳をさせてほしい(汗)
私がふだん乗る電車というのは、先頭車両が女性専用なのだよ。
だからいつもは先頭車両に乗りさえしなければまずセーフで、体がそう
覚えこんでしまっている。
だがこの時乗った梅田行き特急電車は真ん中あたりの車両、確か5号車
か6号車が女性専用だった。大慌てで階段を駆け下り、ちょうど手近なドア
から飛び乗ったらそこがまさに女の園だったというわけだ。しかも電車が
着いたばっかりでほとんど客がいなかった。
和服婦人から指摘された後、私は大汗をかきながら満員の女性客たちの
“大失笑”の中、ボストンバック、リュック、デジカメの“おのぼりさん”スタイル
でドアを目指したのだけど、ちょうど発車するところで運悪く目の前でドアが
閉まってしまった。そこでまたさらに大失笑。
で、車両の連結通路を通って隣の車両に向かったのだけど、狭い通路に
巨大なボストンバックがつかえて中々前へ進めない。そこでさらにまた失笑
の嵐ですよ。ほんとにもう、電車から飛び降りたかった。
しかし私が知り合いだと勘違いした彼女もさぞかしビックリしただろう。
女性専用車両に乗ったら、男が我が物顔で座ってたんだから。ミネラルウ
ォーターをグビグビ飲んで。
しかもその男は自分に会釈までしてきたんだから。“満面の笑み”and
白い歯まで見せて。
その時の私の姿、彼女の気持ちを思うと、今でも顔が紅潮して汗が噴き
出してくる。
気持ち悪かったやろうなあ、俺…。(T◇T)