「父 (後編)」
仙蔵の両親の死んだ年、日本は西側諸国とサンフランシスコ講和条約を
結び、戦争に一応の区切りを付けると、翌年にはGHQが日本を離れ、終戦
以来7年にわたったアメリカの占領からようやく解放された。
それは曲がりなりにも日本に独立国家としての主権が戻ってきた瞬間で
もあった。
そしてこの夏19才になった仙蔵も、日本の独立と合わせるように長屋を
出て一人暮らしを始めた。同時に代用教員も辞め、地元の小さな銀行に
就職した。
世は2年前に始まっていた朝鮮戦争の特需景気によって、夜明け前の
薄闇へと変じつつある頃で、後に続いた神武景気などもあって、仙蔵の
20代はかつてないほど忙しく過ぎていったが、自分でお金を稼ぎ自分の
生活を支えている“一人前”の手ごたえは、焼け野原にされた日本が徐々
に復興して行く高揚感とも相まって、人生で初めてと言っていいほどの充
実した時を過ごした。
そんな20代を生き30になろうかとしていた仙蔵が、一番許しがたかった
のが60年安保、70年安保の学生運動だった。
日米安保反対から左翼闘争へと続いたこのムーブメントは、日本が先
進国になるための“はしか”のようなものだったが、飢えも戦争も知らない
学生たちの主張は理想のための理想、大儀のための大儀としか思えず、
生まれた時から人間が生きていくということの“のっぴきならない現実”を
イヤというほど思い知らされてきた仙蔵にとって、頭の中だけの書生論を
ぶつ学生たちや、その論に踊って機動隊と衝突したり、大学封鎖をさせた
りする彼らは仙蔵が一番嫌っていた戦争をもう一回起こしている不埒者と
しか思えず、いわんや運動はしなくても大学生とは名ばかり、雀荘や喫茶
店に入り浸って遊んでいるその他大勢の学生たちには我慢がならなかった。
「アイツらは一体何のために大学へ行ったんや。親のスネをかじってる
くせに勉強もせずバカ騒ぎしやがって。甘ったれどもが」
事実、偉そうなことを言っていても卒業すれば熱が引いたように会社に
就職していく彼らに対して、仙蔵の不信や嫌悪は深まるばかりで、それは
後の彼の子育てにも色濃く反映していくこととなった。
一方、皇太子ご成婚、東京オリンピック開催、新幹線開通、そして続く
1970年の大阪万博と、怒濤のような高度経済成長に支えられたこの頃
の日本は、明るい未来以外の未来を想像するのが難しいような根拠なき
希望に溢れていた時代でもあった。
仙蔵が結婚したのはそんな30半ば前のことで、その一年後に私を授かり
父となると、40才までに2人の娘ももうけた。
そして末の娘が生まれたのと同時に、仙蔵は小さい頃からの夢を実行に
移すことを決意した。ノミのいない風呂、自分たちだけが使うトイレ。そう、
家族だけの家だった。
1年後に大借金して建てたその家は、猫の額ほどの庭に二階建ての母屋
という標準的なものだったが、やたらにデカイ風呂と、わざわざ男性用女性
用便器の付いただだっ広いトイレが威容を誇っており、全体の規模から言っ
て明らかにその2つが浮いている家だった(笑)
そして家にこだわった仙蔵〜父のもう一つのこだわりが教育だった。
学歴ヒエラルキーが絶対の銀行業界にいたこともあるのだろう。また、
戦争と家庭の事情で大学進学をあきらめざるを得なかった兄の無念を
慮ってか、とにかく教育だけは恥ずかしくないものを、というのが父の私
たち子供に対するスタンスだった。
娘二人は地元の公立幼稚園ではなく、大学付属の私立幼稚園へ無理
して行かせると、私にはもの心ついた時から「大学は絶対国立へ行け。
それも旧一期校(東大・京大・阪大etc…)じゃなければ許さん。お前らは
戦争もなければ食べるものにも困ったことがないんや。そんなぜいたく
三昧な暮らしで勉強がイヤとは絶対言わせんぞ! 国立がダメなら就職
や! 」が口癖だった。
だがすでに高校の頃には将来は映画や映像に携わって生きていきたい
と漠然と考えていた私は、正直どこの大学にも全く興味が持てなかったが、
進学だろうと就職だろうととにかく家から離れようということだけは固く決心
していた。
それはもはや趣味とも呼べるような父の私への否定から、そして不条理
と理不尽の権化ともいうべき父が支配するこの家から一刻も早く出なけれ
ば、自分がダメになると無意識に感じていたこともあったのだと思う。
戦後ずっと右肩上がりを続けてきた日本経済は、日米経済摩擦が問題と
なったあたりで一応の頂点を極めたものの、第二の敗戦までにはまだまだ
余力を残していた頃で、浦安には東京ディズニーランドが開園、そして1985
年のプラザ合意を機に世が年ごとにバブル社会へ突っ走っていった80年代
後半、高校を卒業した私は、とりあえず試験だけは受けることを許された
同志社大学法学部に合格した。
どうしても家を離れたかった私は地元名古屋大学の試験など上の空で、
とうぜん不合格になると、すぐに京都行きの準備を始めた。
だが父は「あんな金持ちのバカ息子が遊びに行くような大学、絶対許さ
んからな! それにあそこは学生運動も激しかったんや! 甘ったれども
が! 約束どおり働けっ! 」と、殴りかからんばかりの勢いで怒り狂った。
私は「いつもいつも戦争やら、学生運動やら、一体、何時代の話をして
いる! 」と、たぶん生まれて初めてだろう、父と取っ組み合い寸前の大
ゲンカになった。
興奮した父は「私立にやる金なんてビタ一文あるか! 行きたいなら奨
学金を受けろ。卒業してお前が返せ! 」と怒鳴りつけてきたが、私も『言
われんでもそうするわ! 』と、翌日さっそく母校の高校へ行って奨学金
手続きのための成績証明書をもらってきた。
その日から父は鬼瓦のような顔で一切口を聞かなくなり、私も黙々と京
都へ行く支度をした。
私は生活費はともかく、親の同意がいる奨学金が取れなかった場合、
学費の工面をどうするか、そして大学へ行けない場合、どこでどう働こう
かなど眠れない夜を過ごしたが、父と母も毎晩家族が寝静まってから
何やら相談している様子だった
そんなある夜、父がふらりと部屋に入ってきた。
自然と肩に力が入り、身構える私に父は「奨学金の書類持ってこい。
理由を書いたる。それから1万円か2万円だけは何とか仕送りしてやる。
無駄遣いしたらいかんぞ」と意外な言葉を口にして、そのまま部屋を出て
行った。
ポカンとあっけに取られた私は、たとえ1万円でも決して楽ではない家計
の中から仕送りしてくれる両親への感謝で胸が熱くなったが、それも一瞬
のことだった。すぐに春からの新生活に胸躍らせ始めたこの時の私は、尻
のどこを切っても真っ青な、くちばしの黄色い子供仙人だった。
その春、奨学金はとうぜん返済義務のあるものだったが、私はそれを受
けての進学となった。
大学在学中にベルリンの壁が崩壊し90年代に入ると、膨らみきってい
た虚飾経済の泡がはじけ散り、時を同じくして私は大学を卒業した。そし
て奨学金を返すため、一旦サラリーマンとなった。
しばらくして父は銀行から取引先の食品商社への出向を打診された。
商社といっても家族で経営している従業員10人ほどの同族会社で、出向
とは名ばかり、バブル崩壊に伴うリストラの先兵と言ったほうが正しく、
もう2度と戻ってくることはない片道切符の放出であった。
給料が半分以下になる条件を飲めば銀行に残ることもできたが、まだ2
人の娘の進学を控え、彼女たちも何としてでも大学、短大だけは出してや
らねばの一念が父を決意させた。
だが押し付けられる格好となった会社は露骨な迷惑顔を隠そうともせず、
出社初日「ここは銀行さんと違って右から左へ金動かすだけで“おまんま”
が食える訳じゃないからな」の言葉を父に投げつけると、陰に日なたに同
族社員を優遇する措置をとり始めた。
社会では完全週休2日制が本格的に普及し始めていたが、皮肉にもそ
れと入れ替わるように父のカレンダーからは連休が消えた。
3年後、父は身元保証になっている銀行から退職の日を迎えた。
マスコミでは銀行の給与水準の高さに批判が集中していたが、それは
一部大手の話であって、破綻寸前の地方銀行、それも高卒出向社員の
退職金など減らされる一方で、父の四十年近くに及ぶ銀行へのご奉公
の決算は、国産車一台分足らずのお金となって口座に振り込まれた。
それでも「まだもらえるだけマシやて」と、それ以外の思いをぐっと腹に
飲み込んだ父は、退職金で家の最後のローンを払った後、ガタが来てい
る家のリフォームをせにゃならん、まだまだ隠居はできん、とフンドシを締
め直している様子だった。
しかしその虎の子の退職金は末の娘が交通事故を起こし相手の車を全
損させてあっけなく消え、それどころか弁償で足が出る始末となった。
次女は長女の車を借りて運転していたため保険金が下りなかったという
のがそのオチだが、それはあまりに間抜けで悲しいオチであった。
さすがに父は目に見えて肩を落としていた。しかしそれも束の間のことで、
出向先で正社員の契約延長を取り付けると、さらに自分を叱咤するためな
のか、予定以上のリフォームに着手しだした。
シロアリに食われ崩壊寸前となった風呂を直し、広すぎるトイレと、逆に
手狭なキッチンを全面改装、さらに雨漏りの始まった屋根を修復したつい
でに瓦を取り払って軽い瓦に葺き替えると、そこには太陽熱温水器まで
取り付けて家族を驚かせた。
それはまるで「まだまだ仙蔵には負けておられん」と山に入っていった
仙衛門が乗り移ったようで、父は「まだまだお前らには負けんぞ」と家族
に背中で伝え続けた。
そして今年。
“三つ子の魂、百まで”のことわざどおり、風呂とトイレの最後のリフォー
ムを敢行した父は、それを置き土産に自分の仕事人生に幕を下ろすことに
した。
生まれた時にはすでに大不況の真っ只中にあり、少年時代は戦争による
飢えと恐怖の中でのたうち、終戦からはアメリカの占領と、父の成人までの
20年は暗い抑圧の中で過ごした20年間でもあった
だからだろうか、遊ぶことは悪いこと、楽しいことも悪いことと断じ、幸せ
を望んでいるのにもかかわらず、楽しいことや幸せな状況というものに
罪悪感や居心地の悪さ、憎悪の念すら抱いているようなところがあった。
そしてそれを私を始め家族にも徹底的に強要し続けた父。しかしそうや
って生き、働くことでしか自分の存在を証明することができなかった。
親を亡くした18の春に働き始めてから五十年。人生五十年とも半世紀
とも呼ばれるその長い年月を、一昨年の入院を除けば風邪以外一日も
休まず、ただただ馬車馬のように働き続けてきた。
ご苦労さまなどという言葉はあまりに陳腐で贈るのも恥ずかしいが、私
たち子供がこの世で元気に生きていること、とりあえずそれだけは贈るこ
とができる。
まずはゆっくり休んで、これからの人生をゆっくり歩んでいってほしいと
思う。
そして最後に。
「俺もとうとう仕事を引退や」などとしんみり語っている父ではあるが、
ふいに鳴り出した携帯の着メロが、『必殺仕事人』というのがどうにも
気になる今日この頃の私なのであった。
おわり