[2003/3/22]

父 (中編)

 

 


 「父 (中編)」


 仙蔵が中学を卒業する頃、仙衛門が体を壊し山に入ることができなくな
った。

 家計を助けるため、とうの昔に大学進学をあきらめていた兄が働きに出
て一家を支えた。

 母も早朝は近くの農家を手伝い、昼は教職、夜は内職と、休む暇もなく
働き続けた

 戦争が終わったからといって何が変ったわけでもなかった。空襲で命を
落とすことはなくなったが、深刻な物不足から配給だけでは飢えを満たす
ことができず、非合法な闇市がそこここに立って、皆、その日の命の糧を
確保するのに精一杯の毎日を送った。

 仙蔵が高校3年の夏、ずっと無理を続けてきた母が脳溢血で倒れ、寝
たきりとなった。

 仙蔵は高校を毎日のように休んで母の看病をした。

 高校の卒業式は出ることができなかった。その日、母の容態がいよいよ
切羽詰ってきて、明日にも引導を渡されるかもしれないからだった。

 母は荒い息の下、何も見えていない目を天井に向けながら時折わけの
分からないうわ言を吐いていて、その意味はほとんど分からなかったが、
母の命のろうそくが急速に短くなり、今にもその火が消えようとしている
ことだけは確かだった。

 そして母はそれらのうわ言を最後に危篤になると、翌日、今まさに満開
になろうとしている梅の薫りの中、あっけなく天に還って行った。

 不思議にその瞬間は涙が出なかった。しかしそれは魂が抜けた母と同様、
仙蔵も魂が抜けたようになってしまっていたからだった。

 通夜、葬式の準備に忙しい父や兄を尻目に、仙蔵は丸一日、い草が飛び
出したボロ畳の上に根が生えたように座り込み、ただこの世で苦労するため
だけに生まれてきたような優しい母のそばを片時も離れようとしなかった。

 思えばまだ仙蔵が小学校に上がるか上がらないかの幼い頃、母が仙衛門
や兄に内緒で、仙蔵を隣町に連れて行ってくれたことがあった。

 大好きな母と遠出ができる嬉しさは、父や兄を差し置いて自分が特別
扱いされているような気持ちと相まって格別のものがあったが、それも
隣町に着くまでのことだった。

 隣町の駅を出ると、自分の手を引いて歩き始めた母が急に無口になり、
その横顔もいつになくこわばっていて、仙蔵は「お母さん、どうしたんだろ
う。これからどこ行くんだろう」と不安になったが、帰ろうと駄々をこねる
までの理由も思いつかず、母と一緒にいる安心感を唯一の支えにして
そのまま歩き続けた。

 着いた先は小学校だった。母は校庭と道の間にある、自分の胸の高さ
ほどの垣根に身を隠すように立った。

 そして1時間くらいが過ぎた頃だろうか、授業が終わったのだろう、たくさん
の子供たちが校庭に出てきて歓声をあげ始めた。

 母は校庭で遊んでいる子供たちの顔を一人一人確かめるように見つめて
いたが、一人の少年に目を止めると、ハッと息をのむように固まった。

 真っ黒に日焼けした顔に白い歯をのぞかせ、楽しそうに走り回っている
その少年は、小学校6年生くらいの丸刈り頭だったが、横顔はどことなく
母の面差しがあった。

 そう、少年は母と前の暴力夫との間に生まれた子供だった。前夫の実家
に取り上げられ、泣く泣く生き別れとなった、仙蔵にとっては父の違う兄だ
った。

 母は口元を押さえたまま少年を目で追っていたが、その目には見る見る
うちに涙があふれてきて、しまいには声を押し殺して肩を震わせ始めた。

 事情を知らない仙蔵は、突然泣き始めた母にビックリした。

 仙蔵は母が病気になってしまったのかと思い、「おかあさん…、どこか
痛いの? 」と聞いてみた。

 だがそのか細い声は母の涙と嗚咽に溶けて流れて、母の中までは届か
ない。

 仙蔵は急に自分ひとりだけ放り出されたような孤独に襲われ、身も世も
なく動揺した。

 垣根に寄りかかるようにして声にならない声を飲み込んでいる母は、
なにか全然知らない人のようで、怖くて怖くてたまらなかった。

 もしかしたら自分のせいなのかもしれないとも思って、焦りに焦ったが、
かといってどうしたらいいのかも分からず、母の悲しげな嗚咽を聞くうち、
仙蔵もどんどん悲しくなってきて涙がにじんできた。

 仙蔵はしばらく母の着物のすそをつかんでじっと我慢していたが、とう
とう矢も盾もたまらず母の足にしがみ付くと、そのままシクシクと泣き始め
てしまった。

 母は自分の足にしがみ付いて泣き始めた仙蔵にようやく気づくと、夢から
覚めた思いでしゃがみ込み、仙蔵を強く抱きしめた。そして細い肩を震わせ
たまま「ごめんね、ごめんね」と謝った。

 仙蔵はなぜ母が泣いているのかも、なぜ自分が謝られているのかも分か
らず、ただ母の着物を濡らすしかなかったが、その着物ごしに伝わってくる
熱い体温に包まれながら、「これからはお母さんが泣かないように心配を
かけないようにしよう」とだけ、その幼な心に誓った。

 だがこうしていざ母の死に直面してみると、心配をかけないようにする
どころか迷惑のかけ通しで、何一つ親孝行のできなかった我が身の不実
ばかりがこみ上げてくるのだった。

 魂が抜けて元々小さかった体がさらに小さくなってしまった母の遺骸を
前に、泣き顔だけは見せるまいと固く決心していた仙蔵だったが、もうこ
れからはどんなに望んでも何もしてあげられない無念に全身を押し流され、
気がつくと人目もはばからず泣いていた。

 すり切れた畳に手をつき、その上に涙をポタポタ落としながら「お母さん、
お母さん」と大声をあげて涙が涸れ果てるまで泣いた。

 「男は親が死んでも泣いたらいかん」と言っていたあのヒゲ面の山男も
この時は何も言わず、ただ泣くがままにしておいてくれた。

 後日、仙蔵は職員室で一人だけ卒業証書を受け取り、高校を卒業した。


 「仙蔵、これからの世の中は法律が今まで以上に大事になる。お前、
大学へ行って法律を勉強しろ。金なら俺が何とかする」

 出来の悪い自分などよりよっぽど大学に行くにふさわしい兄がそう言っ
てくれたが、小さい頃からの貧乏生活、そして戦後の混乱で、大学など
現実として想像もできなかったし、事実、考えようとしたこともなかった。

 仙蔵は兄の思いだけを胸にもらうと、亡き母のつてで代用教員の職を得、
母の初七日を終えるやすぐに、自分と年の変らぬ生徒たちに勉強を教える
日々が始まった。

 母に恥じぬ男になりたい。一人前の男になりたい。そして一人残された
老父に少しでも楽をさせてやりたい。その一念だけが悲しみの仙蔵を支え
た。

 初めての給料日。仙蔵は給料のほとんどをはたいて懐中時計を買い、
仙衛門に贈った。

 妻を亡くしたばかりでふさぎ込みがちだった仙衛門は、「仙蔵が初めて
の給金でワシに懐中時計を買ってくれた! 」と、それはもう踊り出さん
ばかりの喜びようだったという。

 そしてよほど嬉しかったのだろう、「仙蔵には負けておられん」と、翌日
からまた山に入るようになった。

 だが仙衛門が体を壊す前に従事していた山仕事は、3年のブランクを
経た病み上がりの五十男にとても勤まるようなものではなく、仙蔵も兄
も必死で仙衛門を止めたが、彼はまったく聞く耳を持たなかったという。

 そしてその2週間後。待ち構えていたかのように悲劇は起った。

 「仙さんっ! 危ないーっ! 」

 仲間の絶叫に老木こりが振り向いた時、気違いじみたスピードですべり
落ちてきた丸太はすでに目の前に迫っており、情け容赦のない直撃を受け
た仙衛門は冗談のようにはじき飛ばされ、立木に激突すると、そこに再び
丸太の横殴りを受けた。

 丸太と立木の間で押し潰された仙衛門は、木偶人形のように手足をねじ
曲げさせピクリとも動かず、口と鼻からはドクドクとドス黒い血があふれて、
全身の骨折はもちろん、内臓の破裂も一つや二つではないことを物語って
いた。

 山仲間は番小屋の戸板だか襖(ふすま)を外し、それを担架代わりにし
て仙衛門を家まで駆け運んだ。素人目にももう助からないであろうことは
明らかで、遠くの医者より近くの家族に会わせる方が先だとの配慮だった。

 知らせを受けた仙蔵が家に駆け込んできた時、仙衛門はかろうじて息を
していた。だが文字通りの虫の息だったという。

 仙蔵や兄の「お父さん! お父さん! 」の呼びかけにも、「痛い」とも
「苦しい」とも聞こえる呻き声が返ってくるばかりで、駆けつけてきた医者
も仙衛門を一目見るなり首を横に振った。

 そして誰も何も手の施しようのない一時間が過ぎた頃、「こんなことなら
懐中時計なんて贈るんじゃなかった」という仙蔵の後悔と、「山に入ろうと
する父をなぜ止められなかったのか」という兄の悔恨、一秒でも長く彼を
この世にとどめようとする親類、山仲間たちの叫びの中、二ヶ月前に旅立
った最愛の妻の後を追うように仙衛門はその51年の生涯を閉じた。

 仙蔵18才の春。生まれた時から様々なものを失ってきた少年が、失い
ついでに失ったような、両親との別れであった。


<後編につづく>


☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆ 

長年連れ添った夫婦というのは、どちらかが亡くなると寂しくて相手を呼ぶ
と言いますが、私の祖父母はまさにそんな夫婦だったのかもしれません。

そしてそんな夫婦がたくさん存在する時代だったのかもしれません。

今は叶わぬ夢ですが、一度、仙衛門おじいちゃんとおばあちゃんに会って
みたかったですね。

彼らはどんなおじいちゃん、おばあちゃんで、自分は彼らにとってどんな
孫だったんだろうと、小さい頃よく考えていました。

 

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つぎ

 

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