「父 (前編)」
私の父、仙蔵(仮名)は、日本各地にある小京都と呼ばれる地方都市の
一つで生まれた。
時あたかも日本は国際連盟を脱退し世界から孤立の道を歩み始め、遠く
ドイツではヒトラーが首相に就任、翌年には大統領も兼任して「総統」となり、
名実ともに独裁者への一歩を踏み出している頃だった。
静かにではあるが、確実に世界が発狂していく息遣いが聞こえてくる中、
仙蔵はその生臭い吐息を胸いっぱいに吸い込みながら成長していくことと
なる。
仙蔵にもの心もついた8歳の冬、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、
米海軍に屈辱的なダメージを与えた。これにより戦争に参加したくて焦っ
ていたアメリカが待ってましたとばかりに参戦、世に言う太平洋戦争が始
まった。
子供盛りの仙蔵少年にとって長くつらい時代の始まりであった。
仙蔵の父、つまり生きていれば私のおじいちゃんにあたる人は名を仙衛
門(せんえもん)と言い(仮名ですが、本名も本当に“〜衛門”です。すごい。
侍みたい)、林業が盛んなこの町で、山に入って木を切り出す仕事をして
いた。
仙蔵の母は再婚だった。前夫は今で言うDV男(家庭内暴力)で、彼女は
殺されそうになる寸前に命からがらこの町に逃げてきた。大正生まれにし
ては珍しく女学校を出ていたおかげか、教師をしながら何とか生計を立てる
ことだけはできた。
彼女には前夫との間に子供もいたが、子供は前夫の実家に取り上げられ、
何度命がけで出向いてもとうとう会わせても返してもくれなかった。
そんな傷心の日々を2年ほど過ごしていた時、仙衛門と出会ったのだった。
豪放磊落な一方で神経の細やかな男だったという仙衛門と、「ウサギや
ニワトリが絞め殺されるのは忍びない。かわいそうでとても食べられない」
と、肉をほとんど口にしなかったという優しい母は、出会うとすぐに恋に落
ち、夫婦となった。そして二人の子供をもうけた。
仙蔵の4つ上の兄は、いつも仙蔵の行くべき道を照らしてくれた自慢の
兄だった。小さい頃から成績優秀で、終戦の前年か前々年には未来の
将校を育成する海軍兵学校に、その地方で2人しか合格しなかったうち
の1人となって家族を大いに喜ばせた。
仙蔵も自分が受かったことのように喜び、「ウチの兄ちゃんは戦艦の艦
長になってアメリカをやっつけに行くんだぞ」と友達に胸を張って回った。
だが日々の軍事教練で胸を傷めていた兄は身体検査ではねられ、結局、
海軍兵学校へ行くことはなかった。
本人や家族はもちろん、隣近所の誰もがガッカリしていたが、兵学校は
広島の江田島にあり、その広島には原子爆弾が落とされるのだからその
まま行っていたら兄はもうこの世にいないのかもしれず、本当に人の運命
など、特に戦争のさ中の人の運命など誰にも分かるものではなかった。
仙衛門一家が住んでいたのは山仲間が集まって暮らす長屋だった。骨も
肝も太く、ガッシリとした体つきの豪快な仙衛門や兄と違い、母に似たのか、
その外見通りとても繊細な少年だった仙蔵は、その長屋生活があまり好き
ではなかった。
時々仙衛門に叱られ軒先で泣いていると、隣に住んでいる顔の下半分に
強い(こわい)ひげを蓄えた巨漢男が、「坊主、男は親が死んでも泣いたら
いかん。死ぬまで肝を練れ」と、人懐こい笑顔を見せながら頭を撫でてくれ
たが、将来自分が父や兄やその山男のように強くなれるとはとても思えず、
ただただ落ち込むばかりの仙蔵であった。
また特にイヤだったのが、長屋の便所だった。長屋の便所は共同便所で、
しかも屋外にあった。夜は真っ暗でとても怖く、朝は長屋じゅうの人間が列
を作るのでゆっくり用を足すこともできなかった。
当然、家に風呂などもなく、近くの公衆浴場へ行って、その頃には珍しく
もないノミやシラミを移され、いつも頭や体をかきむしっていた。
誰にも気がねのいらないトイレと、ノミやシラミがいない風呂。そして
家族だけの一軒家。これは仙蔵の一生の夢となった。
そんな仙蔵の小学校時代は飢えとの戦いだった。
真珠湾攻撃成功の高揚感は、わずか半年後のミッドウエー海戦の大敗北
で完全に消え、以後、海上補給路を絶たれた日本の窮状と歩を合わせるよ
うに、仙蔵の生活もジワジワとその喉首を締め上げられていった。
白米のご飯など夢のまた夢で、イモと大根を炊き合わせただけの主食で
腹をごまかし、それさえ食べられない日もあった。
新聞や町の至るところには『ぜいたくは敵だ! 』『欲しがりません、勝つ
までは』『石油の一滴は血の一滴』などの標語が踊っていたが、そもそも
生まれた時から不況の中で育ち、ぜいたくをしたことがない仙蔵にとって
どういう状態がぜいたくなのか、よく分からないというのが本当の所だった。
仙蔵は学校から帰ると毎日のように山に入り、食べられそうな山菜や木
の実を見つけては家に持って帰った。また友達と山で戦争ごっこをしてい
ても、気が付けば皆、栗を拾って生でガジガジとかじって飢えを満たすのに
躍起になっていて、戦争ごっこはあえなく終戦というのがいつものパターン
だった。
仙蔵が小学校5年生の夏にサイパンが陥落すると、そこを足がかりに
したアメリカ軍の日本本土への空爆が始まるようになった。
仙蔵の住んでいた街は数多くの文化遺産を抱え、京都や奈良と同じく
アメリカの空爆目標から外されていたが、他の都市への通り道になるのか、
毎晩のようにB-29長距離爆撃機の群れが飛来した。
その度に悪魔のうなり声のような空襲警報が鳴り響き、灯火管制のしか
れた真っ暗闇の中を腰が抜けそうになりながら走った。
そして毎日なけなしの体力で掘った防空壕へ飛び込み息を殺していると、
山の向こうから「ドンドン」「ドロドロドロ」という、まるで鬼が太鼓を打ち鳴ら
しているような爆弾投下の音が響いてきて、あの音の下で確実に人間が
引き裂かれ焼かれているのかと思うと生きた心地もしなかった。
年が明けての3月の東京大空襲では、わずか2時間あまりの間に一般
市民10万人が焼き殺され、東京は文字通りの焼け野原となりどこからで
も富士山が一望できるようになった。翌4月には旗艦「大和」が撃沈され、
帝国海軍が消滅。日本は事実上、本土防衛力を失った。
制海権も制空権も失い、燃料も食糧も底を尽いた日本の事情を引き写し、
仙蔵の長屋でも時々蛇を捕まえて食べることまで始まっていた。
それは日本各地も同様で、どんぐりまで食糧として考えられ始めていた
この頃、盛んに言われ出した「一億総玉砕」という言葉も現実味を帯びて
きて、毎日をただ死なないためにしのいで生きている状態が蔓延していっ
た。
そしてこの年の6月にとうとう沖縄が陥落すると、アメリカ軍の日本本土
上陸は時間の問題となった。
アメリカ兵が上陸すれば、男は銃で皆殺しにされ、女は犯された後なぶ
り殺し、子供はそのままアメリカに連れて行かれて奴隷にされるとの噂が
広がり、仙衛門たちは夜な夜な集まってアメリカ軍が町に攻めてきた時の
対策を話し合った。
そして万が一自分たちが玉砕した場合、女子供は近くの橋から身投げ
することが決められ、その順番までもが真剣に話し合われたという。
自分の身投げの順番を聞かされた夜、仙蔵は怖くて怖くて眠ることが
できず、母の布団に入ってガタガタ震えているしかなかった。
7月末、アメリカをはじめとする連合国はドイツ郊外のポツダムに集まり、
戦後処理と日本の処遇を決める会議を開いた。そしてここで日本の武装
解除、軍国主義永久放棄と無条件降伏を促すポツダム宣言が採択された。
その宣言には、もし日本が従わない場合「迅速かつ十分なる壊滅ある
のみとす」という不気味な文言が盛り込まれていた。
だが日本政府はこの無条件降伏勧告を無視。それは何か対抗策があっ
てのことではなく、ただ大本営のプライドを満たすためだけの黙殺と言って
もよかった。
そして結論を先延ばしにしたあげく、この期におよんで「国体護持、天皇
在権」という「条件付き降伏」を模索していた日本政府のもくろみは、広島
長崎に落とされた2発の新型爆弾によって一瞬のうちに砕け散った。
昭和20年8月15日。一切の条件も認められぬ無条件降伏。この日の
正午に流された天皇陛下の玉音放送によってポツダム宣言受諾が発表
され、軍民あわせて200万人の命をさらった日本最後の戦争が終わった。
しかし沈痛な面持ちでラジオ放送に耳を傾ける大人たちや、遠く皇居の
方角に向かって号泣しながら土下座する者を見ても、また隣町で「陛下に
申し訳ない」と割腹自殺をはかった者がいるという話が流れてきても、正
直、仙蔵にはあまりピンとこなかった。
山では相変わらずセミが鳴きしぐれ、真っ青な空には真っ白な入道雲が
沸き立ついつもの夏の風景を目の前にして、まず仙蔵が思ったのは、少な
くともこれで今夜は空襲警報に脅えることなく眠れるらしい、というどこまで
も胸に染みわたる安心感だった。終戦の日の仙蔵にとって、その気持ちに
勝るものは何もなかったのである。
それからしばらくして仙蔵の街にもアメリカの進駐軍がやって来た。最
初は恐怖におののいていた町の人間たちも、意外に気さくなアメリカ兵の
態度に、不安半分警戒半分ながら、とにかく生きるため徐々に胸襟を開い
ていった。
ある日、高校生になっていた兄が片言の英語を使い、アメリカ兵から
チョコレートをもらって帰ってきた。
むろん、いまだ鬼畜米英と、アメリカを憎悪している仙衛門には内緒で
ある。
兄はポケットをまさぐると「仙蔵、食ってみろ。お父さんには内緒だぞ」
と、一欠けらの溶けかけたチョコレートを差し出した。
言われるまま、生まれて初めてのチョコレートを恐る恐る口に入れてみた
仙蔵は、ビックリして腰を抜かしそうになった。
小さい頃、近くの寺でくすねて食べた和菓子の甘さとは根本的に違う、
裕福な国だけが生み出せるのであろうその圧倒的な甘さは、まさに寝耳に
水というか衝撃的なもので、仙蔵は鼻の奥がツンとして本当に涙が出てき
そうになったのだという。
それはあまりにおいしかったからだけではなかった。
『こんなスゴイものを作る国と戦争して勝てるわけがない』という子供なり
の納得とともに、『日本は本当に負けたんだ』という事実が静かに胸に押し
寄せてきて、悲しさや悔しさ、情けなさやひもじさといった、それまで知らず
知らずのうちに心の底に沈めて見ないようにしてきた様々な感情が、一気
に溢れ出して涙の雫を作ったのだった。
もしかしたら仙蔵にとって本当の終戦は、ポツダム宣言受諾でも天皇陛下
の玉音放送でもなく、たった一かけらのチョコレートをほおばった時、訪れた
ものだったのかもしれない。
<中編につづく>
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
今回の話は私がもの心付いた時から、父から繰り返し繰り返し、それこそ
子守唄のように聞かされ続けた話です。
昭和40年代生まれの私にとってまったく現実味のない話でしたが、なぜ
かよく覚えています。
でもなにか今と似たような情勢ですね。
次号では父・仙蔵にとって最愛の人たちとの悲しい別れが待っています。