「視力検査」
私がメガネをかけ始めたのはたぶん高校生くらいからだったと思う。
以来、今日まで形は変われど鼻の上にはずっと奴が乗っかっている。
そして「度」が弱くなって物が見えにくくなるたび、レンズや、時には
フレームも換えて過ごしてきた。
私の場合ずーっと近視だけだったのだが、2年前、今のメガネに換える
時の視力検査で、乱視が少し入ってるのが見つかった。
基本的に社会人になると、視力検査をするのはメガネやコンタクトの
レンズ交換をする時くらいになる。
そして特にワシはめんどくさがりやなのでそうなのだが、度が弱くなっ
ても、レンズを換えてもらうのが中々おっくうなのだ。
見えにくくなったとはいえ、とりあえず見えるわけだし、まだいいかな、
と中々メガネ屋さんへ足を向けられない。
でもそうやって度の合わない眼鏡をかけ続けると、どんどん視力が
落ちていき、もっと物が見えにくくなる。そうするうちに乱視なども
入ってくるわけだ(乱視はそれで入るかどうか分からないけれど)。
で、とうとう映画館で字幕を見る時、目じりを引っ張ってキツネ目状態
にしなければならないくらいになって、ようやく重い腰を上げレンズ交換
に向かうことになる。
ここでメガネやコンタクトをされている方ならお分かりだと思う。レンズ
交換してもらい、店を出た直後の、あの鮮やかな街の景色を。
今までぼやけていたモノの輪郭がくっきり浮き出ているのはもちろん、
風景の細かな部分にまでキッチリ色が着き、看板の文字が当たり前の
ように目に飛び込んでくる。
これがいつもと同じ街か? おいおい、昨日まで自分が見ていた景色
は何だったんだ!? という、まるで知らない街に降り立ったかのような、
ある種新鮮な衝撃を受けることになる。
それは“昨日までは何も見えていない目を向けていただけだったんだ”
という今さらながらの発見と同時に、「こんなことならもっと早くレンズ
を換えればよかった」といういつもの後悔へとつながって行くわけだが、
これは何も物理的なメガネだけの話ではないと思う。
物事を色めがねで見るという言葉があるが、私たちは生まれてから色々
な「心のメガネ」をかけて世の中を見ていると思う。
私たちがこの世に生まれて最初にかけるメガネ、それは親からもらった
メガネだ。
親のメガネ、つまり親の価値観を通して幼い子供は世の中を見る。
だけど反抗期あたりでそのメガネがだんだん自分に合わなくなってくる。
それからは自分でメガネレンズを作っていくんだけど、そこには時に友達
のメガネが混じったり、学校のだったり、本や音楽からのメガネ、あるいは
大切な人、恋人の視点から世の中を見たりもするようになる。
会社から与えられるメガネは何十年もかけ続けることになるかもしれな
いだろう。
会社のメガネはレンズが厚く、中々強力である。その分、度の進み方も
早い。客観的に世の中を見ていると思っていても、実は会社の価値観を
通して世の中を見ているだけだったということになるかもしれない。
それでもまあ何とか自分オリジナルのレンズを磨いていくのだけど、
どんな心のメガネにしろ、同じものをかけ続ければだんだんと心の視力
が落ちてくるのは避けられない。
そして心のレンズも実際のレンズと同じで、交換するのは中々億劫だ。
見えにくくなったとはいえ、とりあえず見えるわけだし、ついつい、まだ
いいかなと、そのままかけ続けることになる。
見えづらいままかけていると更に視力が悪くなっていく。ぼやけて見え
ているのに、そのままで済ませてしまう。
だから私は、「今見えるものが全てじゃない」という視点が大切のよう
に思う。
今、自分が見ているのは、慣れてしまった「度の弱い」レンズで見ている
ぼやけた人、モノ、景色であって、本当のものはまだ何も見えていない。
長い間付き合っていると、その人の良さを忘れてしまう、ぼやけてしま
うというのは、そういうところから起きてくるような気がする。
例えば結婚する前も、結婚した後もとても優しい夫がいるとする。
でも「とても優しい」という非日常は、一緒に暮らし、日が経つにつれ、
奥さんにとっては当たり前の「日常」となり、慣れてしまう。
友達から「いいよねえ、旦那さん、優しくて」とか言われても、優しい
のは当たり前の日常になってしまっているのだから、今さらそれほど
特別のこととも感じられない。
むしろ優しさは頼りなさとも紙一重だから、最近では頼りない人とさえ
見えているかもしれない。
それがある日、奥さんの問題や子供の問題で、夫の優しさを再発見する
かもしれない。それも意外な強さをまとった優しさを
それは昨日と同じ姿の夫のはずなのに、まるで違う人のように感じられ
るだろうと思う。あたかもいつも見ている同じ街が違う街に見えたように。
実は景色も人もただそこにある。それが長い間にレンズの度が弱くなっ
てぼやけて見えるようになってしまう。
夫婦関係に限らず理想の人間関係というのは、この「度が弱くなり矯正、
度が弱くなり矯正」で、どんどんお互いが深まっていく関係のように思う。
もちろんその逆もある。悪い意味で相手の正体が見えてくる。
また私の場合、コイツとだけは絶対仲良くなれんやろうなあ、と思って
いた人が、実は自分の出し方が私とは反対なだけで、本質的にはよく
似ていたことがある。その人とは10数年来ずーっと付き合っている。
自分が見えているもの、見ているものって、案外当てにならんもんやなあ、
というのは時々感じる。
私たちの人生に襲いかかってくる苦しい状況にしても、慣れてしまった
度の弱いレンズで見ていることは多いように思う。
私たちはぼやけていようが見えにくかろうが、やはり今見えているもの
がすべてだと思ってしまう。
今、自分がしがみ付いている価値観やものの見方を手放すことはやはり
難しいし、とても怖い。
だけど状況というものは一日一日変わっていっている。今の自分や他人
がすべてじゃない。
見た目は何の変わりのない毎日であっても、目に映るほどの劇的な変化
がないだけで、自分を含めた世界は瞬間瞬間変わっていっている。
価値観を変えたくないと思っていても、人は年月を経るごとに少しずつ
気づかぬうちに変っていっている。
ずーっと前、このメルマガで書いたことがあると思う。自分のことは信頼
しなければならないけど、信用しなくてもいいんじゃないかって。
どうしてもこうじゃなくてはいけない! ではなく、こうでもいい、と
考えるだけで、暗幕がヒョイっと簡単に取り払われることがある。
未来からの視点で見れば、今の悩みって、5年後の自分にとって取るに
足りないものになっているんだろうなあ。
だって今から5年前の悩みは、あの悩み方しかなかったのかって思うもん。
そう考えると、今の悩みだって、この悩み方しかないのかな。たぶん違
うんだろう。どうせ5年後の自分は、あんなことであんな悩み方するん
じゃなかったって思うんじゃないかな。
そういう未来からの視点で今を見てみると、違った現在の風景が現れ
るのかもしれない。これは未来からのメガネだのう。
また、何かを失うことで手に入れられるメガネがあるし、もっと言えば
失うことでしか手に入れられないメガネだってある。
そんな時のメガネってすべてが絶望的に見えるメガネなんだけど、ずー
っと後から考えると、やっぱり必要なメガネだったんだと必ず思う。
そうやって手に入れたメガネを心の中に何種類も持っておくことは大切な
ことのように思う。
手に入れて損するメガネなど一つもないことだけは確かだ。特にこれか
らの時代、たくさんのメガネを手に入れていることで人生の幅も広がって
いく。
最近では実際のメガネだって一つだけではなく、たくさん持っていて、
TPOに合わせてオシャレしている人もたくさんいるし。
「ああ、俺は見えているつもりだったけど、何も見えていなかったんだ」
という、あの新鮮な感覚を味わうために、心の視力検査はいつでもやって
おきたい、そう思う仙人なのでした。
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
私が今かけている心のメガネ。最近、つくづく度が弱くなってきたと感じて
います。視力検査をして矯正せねば。
そうそう今にして思えば、諸星隊員がゴーグルみたいなメガネを目に当てて、
ウルトラセブンに変身するというあの発想、あれはとても象徴的なシーンだと
思いますね。