☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ まえがき ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
今回はおバカでマヌケな話を書こうと思ったんですが、考えてみたら今年最後
の配信でした。ということで、最後らしい話を。
って、最後らしい話ってどんな話なんでしょうか(汗)。
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「会うこと」と「出会うこと」
「犬神家の一族」という映画を知っていますか。
ご存じ名探偵“金田一耕助”が、那須の旧家「犬神家」で起こった殺人事件
を解決する、今で言うホラーの要素も入った探偵映画の傑作です。
この映画が封切られたのは私が小学校の3年とか4年の頃だったと思う。
あの悪名高き角川映画の第一弾だったのだが、当時としては画期的な、新聞、
雑誌、テレビなどあらゆる宣伝媒体を総動員するメディアミックス戦略で、それは
もう、日本中の話題をさらっていた。
臆病者だけど無類の映画好きだった私は、一発奮起、ワクワクとドキドキ半々
の思いで友達と一緒に観に行った。だが…、
さっぱり分からなかった。
そりゃ、そうである。
地方の因習だの、複雑な血縁関係と人間関係だの、終戦直後というなじみの
ない時代設定だの、さらに独特淫靡な不貞の関係だのが入ってくれば、牧歌的
な町でノホホンと暮らしているガキに何一つ理解できるわけがなく、というか
そのへんの機微が分かったら相当ヘビィなものを背負った小学生である。
私たちは真犯人が誰なのかすら分からず、いかにも怪しい言動を一身に任さ
れていた猿蔵(さるぞう、ホントに猿のような動きをする、笑)という男を勝手に
犯人だと思い込んだばかりか、そのモノマネとかでクラスの皆を笑わせたりして
いたのだから、いやはや、名匠市川昆監督に申し訳ない体たらくだったのである。
次に『犬神家の一族』を観たのはその10年後、大学に入ってからだった。
レンタルビデオ屋さんで、その日に限って観たい映画がすべて借りられてし
まっていたのだが、なぜかふと私の目に飛び込んできたのが『犬神家〜』だった。
別に観たくはなかったけど時間もあったし懐かしさも手伝って軽い気持ちで
借りた。
ところがなんと私はその夜、『犬神家〜』を観てボロボロ泣いてしまったので
ある。思い込みに反して素晴らしい映画だった。
それはホラーというよりむしろ切ない恋愛映画であり、深い親子愛、母性愛
の慈しみを描いた映画であり、優れた歴史映画でもあり、そして何より第一級
の探偵推理映画だった。
もちろん、10年前私たちに犯人扱いされた猿蔵は犯人ではなく、それどころか
メチャクチャいい人だった。ごめんね、猿蔵(笑)。許してね、猿蔵(涙)。
そうなのだ。
私は小学生の時、一度『犬神家の一族』という映画に「会って」いた。
だけど、「出会って」はいなかったのである。
私は最初に会ってから10年後にして初めて、あの映画に出会ったのだった。
「会うこと」と「出会うこと」
この二つは似ているけど、根本的に違うものだと思う。
「会う」のは簡単である。だけど「出会う」ためには準備がいる。そしてそれ
に加えて“運”がいる。
9歳で『犬神家〜』に会ってから大学で“出会う”までの10年、私は知らず
知らずその準備をしていたのだった。
友達とケンカしたり、遊びや勉強や部活で喜んだり、逆に悔しい思いをして
人を嫉んだり、初恋をして振られたり、先生を通じて大人の汚さを知ったり、
親と言い争ったり、ウソをついたりつかれたり、Hな本を見て下半身がムズ
ムズしたり(笑)。
そうやって自分なりの喜びや哀しみや怒りや憎悪や嫉妬や欲情などの感情
を知ってきた上で、それに加えて10年経っても、映画サークルに入るほど映画
が大好きなままの人間でいたという小さな奇跡、そしてその日、観たい映画が
全てレンタルされていたという小さな偶然が重なって、とうとう私は『犬神家の
一族』に“出会った”のだった。
一つ一つの経験、そして偶然は小さなものかもしれない。だけどその小さな
ものがある日いっぺんに集まって、突然大きな奇跡が生まれる。
その大きな奇跡が“出会い”だと思うのだ。
曲に出会う、本に出会う、仕事に出会う、光景、風景に出会う、メルマガに
出会う、“ことば”に出会う。そして、人に出会う。
私たちは毎日、電車や雑踏で、あるいは仕事場で、ネットで、あらゆる場所
で数え切れない人々やモノとすれ違う、会う。
だけど会った人やモノ、すべてに“出会える”訳じゃない。
苦しかったあの試練、ぞっとするほど人を憎んだあの経験、逆にたくさん愛
した、天にも昇った、笑った、安らいだあの出来事。
自分がどういうふうに傷つき、どういうふうに感動し、何に喜び、何に怒り、
どうやって人を傷つけ、どのように人を裏切り、逆に裏切られ、そこで何を感
じてきたのか。
そのすべてが今の自分を創り、私たちはそうやって知らず知らずのうちに準
備をしていた。
そしてまるで時が満ちるのを待っていたかのように神様が用意した偶然。
たまたま配属された部署で、何の気なしに入った店で、たまたま席が隣りで、
ついでに寄ってみたら、たまたまネットに繋いだら、何となくクリックしてみたら、
適当に手に取ってみたら…。
そう。そうして私たちはあの人に、あの曲に、あの本に、あの光景に、あの言葉に、
“出会った”のである。
準備だけでもなく、偶然だけでもない。
準備と偶然、その両方が織りなす天文学的確率の産物。それが“出会う”と
いうことだと思う。
だから“出会うこと”は、神様からの奇跡の贈り物だと思うのだ。
そして不思議なことに強く思えば思うほど、念ずれば念ずるほど、行動すれば
するほどに、偶然は必然へと変わっていくような気もする。
出会うべくして出会った、という言葉はそういうことなのだろう。
もちろん悲しい出会いだってある。良い意味においても悪い意味においても
この人と出会わなければよかったと思うこともあるだろう。病気との出会いだって
あるかもしれない。
でももしかしたらそれは、気付かぬふりをしてきた自分、棚上げにしてきた
自分、“過去の自分からの宿題”が、出会いという形で現れたのかもしれない。
たぶん誰かや何かと出会うというのは、自分に出会うということでもあるの
だと思う。
あの人に出会いさえしなければ、こんな出来事に出会いさえしなければ、で
はなく、出会ったからこその今の自分。
その出会いを経た自分だからこそ出会える出会いがある。そんな自分だから
こそ出会える人や音楽や言葉や光景、そして自分自身がある。
私たちは毎日のように傷ついたり落ち込んだり悩んだりする。喜んだり泣い
たり笑ったりする。毎日、準備をしているのだ。何かに、そして誰かに出会う
ために。
人は永遠に出会い続ける。そしてすべての出会いは繋がっている。
私はそう信じている。
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
この世には数え切れない数の人間がいます。
そして数え切れない数のメルマガがあります。
その中で読者の皆さんにめぐり逢えた、この出会いの奇跡に感謝しています。
本当にありがとう。
しょーもないバカ話、目をそむけたくなるような(笑)お下劣話、こっ恥ずかしく
なるような恋愛話、お前何者やねんというマジメ話などなど、毎回自己嫌悪に
陥りながらの配信でしたが、読者の皆さんのおかげで何とかここまで漕ぎつけ
ることができました。
来年はまた初心に戻りながら少しでもいいものをお届けできるよう頑張りたい
と思います。
本当に今年一年(9ヶ月ですけど)ありがとうございました。
来年が皆さんにとって素晴らしい年でありますように。
よいお年を。
東京仙人
P・S
「犬神家の一族」、暇があれば一度、皆さんも観てみてください。
最後の謎解きのシーンなんてゾクゾクしますよ。石坂浩二の金田一もハマリ役
です。
えっ?猿蔵が犯人じゃないことをバラしてしまったって?
大丈夫、安心してください。
猿蔵はあまりにも“安い怪しさ”を撒き散らしているので、彼が犯人じゃない
ことは大人が見れば一目瞭然ですから(笑)。