[2001/11/6]

いつでも迷子。いつまでも迷子

 



「いつでも迷子。いつまでも迷子」

 皆さんは小さい頃、迷子になったことはありますか?たぶん誰でも
1回くらいはなったことがあると思います。

 ワシはよく迷子になる子供だった。動物園とかで、東にライオンあれば
駆け出し、西にキリンあればかぶり付きで、気が付くと自分の周りは知ら
ない人ばかり。そのままお約束の大泣き、迷子センターへ護送、というの
がいつものパターンだった。

 センターでは、ただただ泣いていた。だが自分より大声で泣いている子
がいると、その勢いに圧倒されて泣き止んでしまうのもまたいつものこと
で、そうなると今度は迷子センターの古株のような顔をして次々運ばれて
くる新顔と一緒に遊んだりしていた。

 で、親が迎えに来る頃には、ちょっぴり大人になったようで誇らしげな
気分の子供仙人が、「僕、泣かなかったよ」
嘘つけ。目と鼻を真っ赤にしてよう言うわ(笑)。

 子供仙人にとって迷子というのは、“自分の事も他人の事も、自分がこ
れからどうなるのかもさっぱり分からない”という非常事態だった。
 それは子供にとって死を予感させるくらいのストレスだったが、それを
回避するだけの経験も知識もまだ持たない子供仙人は、分からないこと
とか分からない状態をそのまま受け入れざるを得なかったのである。

 それに対して一応経験も知識も持っている私たち大人は、もう迷子には
ならない、自分も他人も人生もある程度は分かっている、予測がつくと思
っている。

 だけどそれは、自分はこういう人間、あの人はこういう人、こういう選択
をするとこういう人生を歩む、とレッテルを貼っているだけのことも多い。

 他にも偏差値、世間体、人気ランキングや勝ち組負け組などの言葉、
そして常識といわれるもの。これらの知恵で“気持ちを片付けて”何とな
く知っているつもり、分かった気でいることがある。

 これらは一種の宗教のようなものだと思う。
キリスト教、イスラム教、仏教と同じく、偏差値教、世間体教、ランキング教、
勝ち組負け組教という名の宗教。

 分からない状態、迷子の状態がイヤで、とにかく答えが欲しい一心で、
宗教それ自体を目的にすると表面上は気持ちが片付く。だけど同時に
それは、自分や物事の本質を見失ってしまう危険性もはらんでいる。

「聖戦なら自爆テロを起こしても神様の元に行って幸せになれる」と、
“気持ちを片付ける”イスラム原理主義者がいる。
「我こそが正義なり」と“気持ちを片付ける”アメリカ原理主義者がいる。
「とりあえず勝ち組の職業へ、偏差値の高い学校へ行けば幸せになれる」
と“気持ちを片付ける”勝ち組原理主義者、偏差値原理主義者がいる。

 彼らは皆、“分かっている”と思っている。

 その一方で、イスラムを信じながらもアメリカを信じながらも気持ちを
片付けることをせず、本質を見つめて行動している人がたくさんいる。

 それは偏差値教、世間体教を信じながらもそれで気持ちを片付けたりせ
ず、自分の本当の気持ちを見つめようとする人と同じで本物の賢者なのだ
と思う。

 もちろん今回ワシが書こうと思ったのは、気持ちを片付けるな、という
ことではないよ。そんな傲慢なことは絶対言えません。
 メチャ貧乏なワシなんか今日のパンが欲しくて欲しくて気持ちを片付け
てばかりの毎日やからのう。偉そうなことは何も言えないのである。

 そうではなく私たち大人は、自分が分かっていると思っていることは実
は思ってるほど分かってなくて、そしてその分からなさというのは生きて
いる限り自分と共にある、ということをもっと知るべきなのだと思う。

 親の多くは自分の子供のことを知っているようで知らない。自分の息子、
娘が何を誇りに思い、何に傷つき、そして何を望んでいるか本当には知ら
ない。彼らがいつ初恋の歓びを知ったかも、どんな失恋の涙に震えたかも、
そして五歳の幼子でさえどれほど親のことを気遣っているかも本当には知
らない。それは逆も然りだ。

 上司は部下の、部下は上司の何を知っているんだろう。本当はお互い何
を望んでいるのか、自信を持って分かり合っている夫婦はどれほどいるの
だろう。

 もしかしたら私たちは、親や子供、夫や妻、上司部下、恋人友人、とい
った“立場”から相手を見ているに過ぎないのかもしれない。

 なのに誰もがお互いをよく知っていると思っている。

 人間というのはとても多面的で中途半端で曖昧な生き物だと思う。
正直なことを言うその口で時々嘘をつき、正義を行いながら卑怯な仕打ち
もできたりする。

 責任感や正義感、自己主張が強い人。実は気が付かないだけで、自分の
弱さ、やましさを隠すためにそれらが強くなっていることだってある。

 ワシもこの数年で色々な自分を知ってしまったのう。意志や責任感が強か
ったのは、実は自分を救うために強くなっていた部分が大きいということ。
想像していたよりもはるかに情けなく卑怯者で自堕落な自分。逆に想像し
ていたよりちょっぴり強い自分。

 今知っている自分だけが自分のすべてじゃない。環境や立場が変われば
全然知らない自分がゾロゾロ出てくる。思いもよらなかった、見たくもなかった、
気付きたくもなかった弱く醜くおぞましい自分。そして逆に強く美しく凛々しい
自分。

 私たちは自分すら本当には分かっていない。実を言うと自分が何を望ん
でいるのかだって知らないのかもしれない。他人ならなおさら分からない。
 私たちは明日どうなるのか本当には知らないはずだ。いつ病気になるか、
事故に遭うか分からない。自分の寿命でさえ分かっていない。

 なのに大人は傲慢にも自信たっぷりに言う。「子供でも分かる」「そんな
ことは考えなくても分かる、常識だ」「あの人はこういう人だ」「自分のこと
は自分が一番よく知っている」

 人生がうまくいっている人もうまくいっていない人も、「今の立場の自分」
が絶対的な自分だと信じて疑わず、勝手に“分かっている”と思い込み、
その分かっている通りに事が運ばないと勝手にストレスを抱える。

 私たちは誤解されて自分のことを分かってもらえない時、悲しくなる。
それは自分は人のことを分かっている、人も自分のことを分かってくれる
はずと考える所から来るように思う。

 それに“分かってもらいたい自分”というのはどういう自分なんだろう。
正直者の自分、嘘つきの自分、卑怯者の自分、正義の自分…。
どんな自分を分かってもらいたいんだろう。

 結局、“分かってもらいたい自分だけ”を人に分かってもらいたい、と
いうことなのかもしれない。でもそれはやっぱり難しいのである。

 私たち人間は自分も他人も正当に評価ができないでいる。自分のことも
分かってもらえていないけど、人のことも“完全に”“正確に”分かることが
できないのである。

 でもだからこそ私たちは自分や他人を理解しようと激しく人を求めてやま
ないのだと思う。

 簡単に伝わらない想い、伝えきれない想いがあるからこそ、人は傷つけ
合いながらも恋をし、仕事や友人や家族をつくり、芸術を生み出しながら
“自分や他人に”想いを伝えようと真摯になる。

 その伝え合う行為が人が生きるということそのものなのだと思う。

 私たちが生きていくというのは、一生をかけて自分やこの世に気付いて
いくという作業そのもの。まだ知らぬ自分や他人に想いを馳せ、理解して
いく過程そのものなのだと思う。

 そして私たちは何も分かっていないからこそ、人やこの世と安心して付
き合っていけるとも言えるのである。

 超能力者のように完璧に相手を読み、自分を読まれてしまったら、全て
の人間関係は成り立たない。私たちは適度に鈍感で、自分や他人の小さな
間違いに適度に気付かないでいるから人とも自分とも付き合うことができる。

 人は緩やかな誤解の上に生きていて、知らないうちにお互いの誤解を許し
合っている。自分を、そして他人を許している。人間だけがその切なくて優しい
力を持っている。

 誤解というものは悲劇も生むが、他方では笑いや涙や恋や感動を生んで、
人生を濃厚なものに彩ってくれているのもまた事実なのである。

 人は自分の思い通りにならない世、分からない世を嘆くことが多い。
だけどいいことも思い通りにいかない反面、悪いことも自分の思い通りに
いかないから私たちは安心して生きていられる。

 できないと思ったことが“思い通りにならず”、できてしまったりする
から私たちは希望を持つことができるのである。

 “何も分かっていないからこそ”自分や他人を受け入れ、そして明日を
信じて生きていられるのである。

 人は人であるから迷う、人であるから痛みを感じる。人であるから分か
らないことに不安を感じる。でも、それこそが血の通う人間である証だと
思う。

 新興宗教とかでマインドコントロールを受けている人は迷うことがない。
だけど迷わないということの何と非人間的なことか。まるでロボットだ。

 大人は時に知恵を使ってわざわざロボットになろうとする。誰かから命
令を与えてもらおうとする。迷子を恐れ、迷うことを否定することで不安
を打ち消そうとする。

 だけど迷子になって泣いていた子供仙人が泣き止んだのは、親が迎えに
来て迷子から脱出した時じゃなかった。泣き叫んでいる他の子供を見て、
自分が迷子であることに今さらながら気付いた時だった。

 子供仙人は迷子から脱出したからではなく、皮肉なことに迷子を受け入
れた瞬間、安心したのだった。

 先に宗教を信じながらも気持ちを片付けない人という言い方をしたけど、
正確に言うと、ちゃんとした宗教の信じ方をしている人は、自分が迷子で
あることを受け入れているので安心しているということなのかもしれない。

つまり、“気持ちを片付ける必要がない”ということなのかもしれない。

 全てを分かっているのはイエス様やアッラー様などの神様だけで、人間
は何も分かっていないということ、でも人間は分からない状態こそが普通
なんだよ、迷子を怖れる必要はないんだよ、ということをちゃんと分かって
いるのだと思う。それは人をとても謙虚にする。

 ワシは、変な言い方かもしれないが、
「自分というのは信頼しなくてはいけないけど、信用しなくてもいい」のでは
ないかと思うことがある。

 もし今、色んな悩みを抱えて自分はダメな人間だと打ちひしがれている
人がいたら、その自分はそんなに信用しなくてもいいのだと思う。
 逆に自分は仕事もバリバリできる、部下や上司からの信頼も厚い、友人も
多く、恋人や夫、妻からも尊敬されている、とイイ気分になっている人がいたら、
その自分もそんなに信用しない方がいいのである。

 いつだって自分や世界は、自分の想像を良くも悪くもはるかに超えるも
のなのだと思う。そしてその想像を超えたものをいかに“素手で”受け止め、
いかに子供のように“丸腰で”迷子になれるか。

 気持ちを片付けて分かったつもりになるのではなく、いかに分からない
ことを裸で引き受ける強さを身に付けるか。

 それが、もう迷子になれなくなってしまった大人が、それこそ今までに得た
経験と知識を使って意識的に目指すべきことだと思うのである。

ブッシュは言う「アメリカは強いんだ。アメリカこそが正義なんだ」
ラディンは言う「アメリカ人を殺せばイスラムは幸せになれる」

 この人たちはなぜそんなことが自信たっぷりに“分かる”のか?
この2人がとんでもなくマヌケ面に見えるのはワシだけなのだろうか。
 もちろん今回の事は宗教や正義は大義名分で、当事国だけではなく各国
の思惑と国益が入り乱れた戦争であることも承知している。

 だが先にも言った。正義というのは自分の弱さややましさを隠すために
強くなることもあると。自分が思い込んでいる自分だけが自分のすべてで
はないと。

 私は国が軍隊を持つことには賛成である。日本も自衛隊を軍隊として
早く認めるべきだと思う。だけど力を持とうとする者は、自分でさえ信用
できないでいられるか、自分の中に正義だけではなく不正議な自分もいる
ことを認めることができるか、都合の悪い自分も認めることができるか、
これができて初めて強大な力を持つことが許されるのだと思う。

 本当に強い人間。それは自分のことを強いと思っている人間ではなく、
自分の弱さを認めることができる人間のことを言うのだと思う。自分が迷
っていること、そして自分はまだ何も分かっていないことを謙虚に受け入
れることができる人間のことをいうのだと思う。

 そういう本当に勇気ある人、本物の賢者になることはあまりに難しい。
だから私は、苦しい時は気持ちを片付けたっていい、自分の気持ちをご
まかしたっていいから、その一方で自分はいつだって迷ってる、何も分か
らない中に生きているということだけは自覚していたいと思うのである。
いつでもそこから始めたいと切に願うのである。

 人はいつでも迷子、いつまでも迷子なのだから。

☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆ 

発行頻度が極端に落ちてしまって申し訳ありませんm(__)m
この1、2ヶ月は生活に追われるわ、テロが起こるわでパニックでした。
ホントは今号は前号と一緒に出すつもりでした。遅れてスミマセン。

今、かなり生活が苦しいので(カッコ悪いのう(^^ゞ)、しばらくは最初の頃
のような頻度で出せないかもしれませんが、読んでくれている人が1人で
もいる限り、何とか頑張って発行していこうと思います。頑張ります。

 

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つぎ

 

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