「Y沢君のバンカー」
「仙人、大変なことになった!頼む、30分早くアジトに来てくれ!」
高校2年の初夏、ニワトリも眠る早朝の受話器からY沢君の悲痛な声
が噴き出してきた。
その頃、私とY沢君は自転車で1時間以上かかる遠い遠い町の高校へ
通っていたのだが、その通学コースが山また山を越え、川また川をなぞる
まるでツール・ド・フランスのような道のりで、そのためコースの途中にアジト
と呼ぶ休憩ポイントを設けて、そこでパンとか食べるのを毎朝の儀式として
いた。
「一体何事やねん」
眠い目をこすりながらアジトに着くと、Y沢君はすでに熊のようにウロウロしな
がら待っていた。
「仙人、遅いよ!」 「どうしたん、こんな早く」 「仙人、笑うなよ! 絶対に笑う
なよ!」 「?」 「だから、笑うなよ! 」 「う、うん」
私がうなずくと、Y沢君は勝手にあきらめたような表情になって、クルリと
“まわれ右”をした。
「うわっ、その頭…」
なんとY沢君ご自慢のオシャレな頭、その後頭部に10円大のハゲが
4つか5つくらい顔をのぞかせていた。まるでゴルフ場のバンカーであった。
「それ、どうしたんや…」「くそー、最悪やー! Fちゃ〜ん!」
事の次第はこうだった。
前日に私たちのクラスは月に1度の席替えを行なったのだが、その結果、
Y沢君お気に入りのFちゃんという女の子が、彼の真後ろの席に来ると
いう僥倖がいとも簡単に成立することとなったのだ。
「これはもうFちゃんと付き合えってことやぞ!おいおい、来たよ、来
たよ!参った。毎日話しかけちゃうぜ、マジ付き合っちゃうよ、俺♪」
彼はその日、家まで本当に自転車でスキップしながら帰った(笑)。
その日の夜、かなりオシャレにうるさいY沢君は、これからFちゃんに
毎日見られることになる後頭部のチェックをしたらしいのだが、何だか
髪の毛が少し多いような気がしてきて居ても立ってもいられなくなった。
「これはマズイ」
Y沢君は後頭部を水で湿らせるとカミソリを適当に当てて、髪をちょっと
削るというか、“梳こう”と、鏡も見ずにジョリジョリやり始めた。
5分ほど作業したY沢君、結構うまくいった気がして上機嫌であった。
さっそく鏡を2つ使って「後頭部ちゃん♪ ご対〜面♪」と頭の後ろを
映してみた。
「…」
その後一晩中身じろぎもせず虚空を見つめていた彼は、バンカーの毛が
生えそろうまで学校には行かないという選択肢まで大マジメに検討したら
しいのだが、最終的に出した結論は、
「仙人、これで頼む」油性の黒マジックを私に差し出した。
「塗ってくれ」
人の頭を油性マジックで塗るのは初めてだった。笑い涙で視界がぼやける。
「だから、笑うなよっ!ちゃんと塗れてる?!」
どう塗ることが“ちゃんと”なのか分からなかったが、私はできるだけ丁寧に
マジックを振るった。手羽先を塗っているようで気持ち悪かった。
「どう?ハゲ、消えた?」彼の不安げな声。
結論から言って消えてなかった。一応黒く見えることは見えるのだが油性
マジックの油成分が原因なのか何なのか、光の当たり具合によっては緑色
やらオレンジ色に滲み光って目立つことこの上ない。
「なんか、カナブンが5匹くらいとまってるように見える…」
「マジに?もう、ダメやーっ!Fちゃんに会いたくないよー(涙)」
Y沢君はみるみる生気が抜けて即身成仏のミイラのようになってしまい、
学校に着くまで何回も車に轢かれそうになった。
朝のホームルームが始まった。Y沢君の背中が異様にこわばっている
のが分かる。そしてFちゃんはというと…、当然だが彼女は明らかに気が
付いていた。
ただ何と言うか、その、意味をつかみかねているというか…(笑)、どう解釈
していいのか困っているというか…、何とも複雑な表情をしていた。
その日、Y沢君とFちゃんと私の3人は、まるでお互いの首を真綿で絞め合って
いるかのような空気の中、ただひらすらに時を過ごした。
次の日の朝、Y沢君は墨汁を持ってきた。「塗ってくれ」
藁にもすがる溺死寸前の彼の姿は、もはや哀れを通り越して痛々しいこと
山のごとしであった。
私は前日のマジックがうっすらと残るバンカーに筆を振るった。その様は
優秀な脳外科医のようでもあり、毛づくろいをしているニホンザルのようでも
あった。
朝のホームルーム。事件は起こった。
「キャッ」Fちゃんが口を抑え小さく悲鳴を上げた。
見れば、Y沢君のバンカーがものの見事に再出現していた。そしてうなじ
から一本の黒い筋。頭から黒い汗を流している男がそこにいた。
休み時間、私の腕の中でさめざめと泣くY沢君の姿があった。私にできる
ことと言えば再び油性マジックで彼の頭を塗ることだけだった。
だが人生とは何が幸いするか分からない。その事件をキッカケにY沢君と
Fちゃんは急激に仲良くなった。Y沢君のバンカーは2人の格好の話題となり、
彼女はバンカーに何を塗ったらいいか提案するまでになった。
「いやあ、このまま毛が生えてこない方がええかもしれん」
喉元過ぎて熱さ忘れたうつけ者がカラカラと笑った。
で、最終的には靴墨だったか何だったか忘れたが、バンカー隠しの最良
の処方箋が見つかり、それをアジトで施すのが日課となった。
そしてその作業も必要なくなってから1ヶ月くらい経って、Y沢君とFちゃん
はめでたく付き合い始めた。
あれから10数年。ゴルフ中継などでバンカーにつかまり四苦八苦して
いるプレーヤーを見ると、その度なぜか『雨降って地固まる』という言葉
を思い出し、「しかし何がどう転ぶか分からんもんやなあ」と、しみじみ
噛みしめずにはいられない仙人なのであった。
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
マジックの問題もあるんですが、髪の毛って純粋な黒色ではないんですね。
光の加減や髪自身の色つやで同じ黒でも人それぞれの黒色があることに
この時初めて気付きました。