[2001/8/22]

言葉の魔法

 

 

「言葉の魔法」

 魔法にはいい魔法と悪い魔法がある。いい魔法は奇跡を起こして人々を
生きる力で満たし、逆に悪い魔法は生きる力を吸い取り、奪い去る。

 言葉というのも一種の魔法だと思う。いい言葉の魔法と悪い言葉の魔法
があると思う。だが日々の生活の中で、私たちがどちらにより多くかかり
やすいかというと、悪い魔法の方のような気がする。

 悪い魔法は聞こえのいい、または仰々しい呪文で唱えられて知らず知ら
ずのうちに私たちの心を縛り、蝕んでいく。

 心の教育、という言葉がある。

 ここ数年、未成年による残酷な犯罪が増えてきて、この言葉が盛んに使
われるようになってきた。だがよくよく考えてみると、なんか変じゃのう。

 というのも、元々心というのは教育の中に入ってるんじゃないの?と思
うからだ。教育というのは「心込みで」教育って言うんじゃないの?だか
ら心の教育というのは言葉が重複してて何だかオカシイ気がするのである。

 ジャイアンツの長嶋監督が「疲労の疲れを取る」とか「歓迎でウェルカ
ム」とか言って爆笑されていたけど(笑)、「心の教育」も十分笑えると思
うのだ。

 ちょうど時の文部大臣が「これからは心の教育にもっと力を入れるよう
にしなければならない」と発言しているのを聞いたことがある。

 なんか怖い。だって一応日本の教育を司っているトップとされる人間が、
自分の考える教育には心なんか入っていませんということを、何の疑いも
なく恥ずかしげもなく表明してしまったことになるのだから。

 “心の教育”という聞こえのいい呪文が、「本来、教育って何?」という
本質部分を考えないように魔法をかける。

 別に言葉尻をとらえてあげ足を取っているのではないよ。何が言いたい
かというと、言葉というのは何も考えなくても使うことができて、何も考えな
くても受け取ることができるのだな、ということへの怖さを感じてしまったの
である。

 “最近の親は子供への躾けが甘い”

 躾けという言葉にはいいイメージがある。だけどこれをマインドコント
ロールという言葉に置き換えてみたらどうだろう。「最近の親は子供への
マインドコントロールが甘い」一気にイメージが悪くなると思う。

 そもそも躾けって何なの?については考えることもなく、躾けが“甘いか
厳しいか”だけの観点になってしまっている。

 余談だけど、躾けに関してはこんな言葉がある。「子供は親の思う通り
には育たないが、親の通りに育つ」これが躾けの本質だと思う。

 先にも言ったように、私たち大人というのは考えなくたって意味が分か
らなくたって“言葉が使えて”しまう所に実は恐ろしさがある。

 それに対して子供はまだ言葉を十分に知らないので、言葉の意味を知ろう、
本質を探ろうと一生懸命になる。

「しつけってなに?」「みんしゅしゅぎってなに?」「こくさいじんってなに?」

 私たち大人は「ああ、躾けね」「なるほど民主主義ね」「ふ〜む、国際人
ね」と、言葉を聞いた瞬間何となく分かった気になる。それどころか言葉
を並べ立てれば何か意見を持った気にすらなる。

 「民主主義を守らねばならない!」声高に叫ぶ政治家の何人が民主主義
の本質を知っているんだろう。国際人に至っては恥ずかしくて口にも出せん。
何やねん、国際人って(笑)。

 その言葉の本質は分からなくても、“使い方”は何となく分かっている
だけにタチが悪い。

 自分らしく生きる。個性を活かす…etc。氾濫する心地いい言葉。
人は言葉を獲得した瞬間から言葉に振り回され翻弄される。

 寡黙と無口。寡黙な男は格好いいイメージがあるのに、無口な男は気味
悪いイメージがあるのはなぜだろう。どっちもただ黙ってる男なのに(笑)。

「私は妻を信頼している。だから子育てには手を出さないんだ」
信頼という名の“無関心”もある。

 値段と値打ち。似ているようだが、値段が高いモノが値打ちが高いとは
限らない。

 言葉を覚えれば覚えるほど、一つ一つの言葉の意味がどんどん軽くなり、
注意していないと本質が見えづらくなっていく気がする。

 そして、ワシが考える最も恐ろしい悪い言葉の魔法は『正論』だと思う。

「人に迷惑をかけてはならない」
なるほど正論である。だけど実を言うと正論というのは「正しい」という
字が入ってるけど、正しいという“言い方”は違うように思う。

 正論というのは正しいのではなくて、ただ単に“間違ってはいないだけ”
の話なのだと思う。

「人に迷惑をかけてはならない」これは“間違ってはいない”。
だけど正しいとは言えないと思う。

 なぜなら、どうしようもなく不完全な生き物である私たち人間は、知ら
ず知らずのうちにお互い迷惑を掛け合うことでようやく生きていっている、
という真理があると思うからである。被害者であると同時に、本人が気付
かないだけで必ず加害者にもなっているのが人の生だと思う。

 だから、迷惑をかけてはならない、どころか私たちはすでに迷惑をかけ
ちゃってるんである。そういう意味で正しくない気がするのである。

 正論を言う時、人は自分が“ひとかどの人物”になったように錯覚し、
『自分の中の愚かさ、罪深さ』に思いをはせることができにくい。自分の
中の愚かな部分にキチンと思いをはせることができない人は、他人に対し
ても自分に対してもすごく傲慢なことのように思う。

 この世には、迷惑をかけてはならないという正解と、迷惑をかけること
は生きることそのものの行為、という矛盾した2つの正解があるのだと
思う。だから正論は半分だけ正解なのだと思う。だから“間違ってはいな
いだけの話”なのだ

 そもそも矛盾した2つの正解というのは人間そのものでもある。私たちは
臆病なのに勇気をふるえ、卑劣と同時に正義を行なう可能性を持ち、
強気なのに弱気で、清潔なことを考えながら同時にエッチなことも考えて
いる。

だけど正論はその矛盾という真理を許さない。完全無欠“しか”許さない。
それが怖い。

 人は不完全だからこそ人と付き合える。不完全だからこそ努力できる。
不完全だからこそ、互いに許し合い認め合い、生きていけるのだと思う。

 人は正論を言う時も聞く時も、他の正解について考えない。正論はとりあ
えず聞こえのいい方の正解なので、それ以上他の正解を考えなくてもいい
からである。

 それは心の教育、躾けが甘い厳しいと聞いて、それ以上何も考えないの
と同じことだと思う。そうすると本質が見えなくなり、心が曇るとともに縛られる。

 それに私たちは迷惑を被ったら「人に迷惑をかけてはならない」のように
主語がなく責任が曖昧な言い方をするのではなく、「自分」を主語にして
“私”がイヤなんです!という言い方をするべきだと思う。

 「人に迷惑をかけてはならない」ではなく、“私が”迷惑しているから
ヤメテくれ、と。

 主語がないことは正論の特徴だと思う。だけどそうやって責任の所在が
あやふやになると今の日本の公共事業やら外務省問題のように、やっぱり
本質がぼやけてくる。

“間違ってはいないだけ”の意見ではなくて、間違っていても自分を主語
にした意見を言わないと、言う方も言われる方も自分を見失いやすくなる。

 よく正論をまくし立てたあげく「どう?私の言うこと間違ってる?」と
“自分の手柄のように”胸を張る人がいるけど、何だかなあと思う。だっ
て、ハナから間違ってないことしか言ってないんだから(笑)。ハナから
自分を主語にしてモノを言ってないんだから。ハナから攻撃されない場所
に立ってるんだから。

 迷惑をかけたならその迷惑だけを反省すればいいのである。正論が要求
してくる「完全無欠しか許さない」という悪魔の呪文には耳をふさぐんで
ある。完全無欠、それはもはや人間とは呼ばない。神様と呼ぶのである。

心の教育、正論。聞こえのいい言葉には悪い魔法がかかっている。

 それじゃあ、いい言葉の魔法ってどんなものだろうか?それはもうこの
世にある言葉すべてがなり得ると思う。見栄えが悪かろうが、耳ざわりが
良くなかろうが、とにかくすべての言葉である。

 こんにちは。ありがとう。ごめんなさい。今日は暑いですね。夕焼け。
Tシャツ。ありとあらゆる言葉。

 例えば、人との関係はおろか自分との関係をも断ち、死に場所を求めて
フラフラと歩いている人がいるとする。空にはキレイな夕焼けがあるのに
目にも入らない。

 そんな時、ふとすれ違ったその土地の見知らぬ人間が、「こんにちは、
キレイな夕焼けですね」と声をかけてきた。自殺しようとしていた人は初
めてそのキレイな夕焼けを目にするだろう。だけど夕焼けを見る見ないが
問題なのではないよ。

 その人にとっては、キレイな夕焼けがどうこうではなくむしろ、言葉を
かけられた、という事実の方が圧倒的な重みを持つように思う。

 どんな言葉でもいい。見知らぬ人から言葉をかけられたことによって、
その人はこの世とのつながりをたとえ一瞬でも再び実感するかもしれない。
そしてその一瞬こそがその人を救う奇跡の瞬間なのかもしれないのである。

 『キレイな夕焼けですね』は単なる普通の言葉である。心の教育のよう
にこれみよがしの言葉ではない。言った方も人を救おうとして言ったわけ
じゃない。だけど言われた人にとってはこの世に自分を繋ぎとめる奇跡の
言葉になり得ると思うのだ。

 ただの「キレイな夕焼けですね」が、ある人にとってはたった一つの「キ
レイな夕焼けですね」になる。

 ただの「ありがとう」、たった一言の「ごめんなさい」が永遠の憎しみ
を溶かすこともある。

 ただの「おはよう」で涙が止まらなくなることもある。

 ただの「お腹すいてない?」が、愛してると100回言うよりも愛の告白
になることもある。

 そんな目立たないけど私たちにそっと寄り添ってくれている言葉、それ
がある日突然奇跡を起こす魔法になる。
 すべての言葉が私たちにとってたった一つの特別な言葉になる。

 言葉は無力だとよく言われる。それはある意味真実だと思う。と同時に
言葉は圧倒的な力を持っている。これも真実だと思う。

 だから私はできるだけ言葉と真摯に向き合っていきたいと思う。そうす
ることで生きる力を消耗させる悪い魔法にかからず、そしてかけないよう
にできる気がするからだ。

 そして自分にも人にもできるだけいい魔法をかけて生きていきたい、そ
う思ってやまない仙人なのである。

 

 

book1.gif - 684Bytes
つぎ

 

book1.gif - 684Bytes          book1.gif - 684Bytes
もくじ           表紙