「心のかさぶた」
いきなりの話だが、私のすぐ下の妹は中学の時、額にあるホクロを手術
で切除した。だって見栄えが悪くてヤダもん、がその理由であった。で、
実は、そのヤダもんの原因を作ったのが誰あろう私であった。
彼女が3,4歳のころ、私が小学1年か2年のころだったと思う。水疱瘡
(みずぼうそう)に罹った彼女は全身発疹だらけになり、その多くはかさ
ぶたに変化した。
皆さんはどうか分からないのだけど、当時私はかさぶたが非常に気にな
る子供で、擦り傷や切り傷で出来たかさぶたを無意識に触っていたり、そ
ろそろと剥がしてみようとしたりして、よく親に叱られていた。
そんな子供仙人の前に、かさぶただらけの絶好の獲物がぶら下がった
のだからたまらない。私はスキを見つけては“かさぶた幼獣”のかさぶたを
取ろうと画策し、彼女から猛反撃を受けて大ゲンカを繰り返していた。
そんなある日。ふと気付くと、幼獣がスヤスヤと昼寝などに興じているで
はないか。私は魅入られたように彼女に近づいた。その額には付けるとは
なく目星を付けていたかさぶたが、まさにめくって下さいと言わんばかりに
私をジッと見つめている。
私はそぉ〜っと手を伸ばすと、かさぶたに手をかけピリピリと剥がし始
めた。もう直っているのか簡単に取れ始める。これだったら痛くないし大
丈夫や、そう思った時だった。彼女が寝返りを打ち、その瞬間ぺりっとか
さぶたが取れてしまった。そしてまだ直ってなかったのか、そこから血が
にじみ始めた。
彼女は「痛いっ」と叫んで、ワンワン泣き始めた。庭の方から「どうしたー
っ!」という父の咆哮。私は腹の底から凍りついた。駆けつけた父の目に
飛び込んできたのは、額から一筋の赤い糸を垂らして泣き叫ぶ妹と、父へ
の恐怖で真っ白になって立ちすくむ子供仙人の姿だった。
「仙人っ!お前、何したんやーっ!」「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、
わ〜ん(涙)!」その後の子供仙人がどうなったかは、恐怖のあまりよく
憶えていない(笑)。
それから妹の額のかさぶたの跡はホクロみたいになってしまい、事ある
ごとに本人、父親から突き刺すような視線を浴びた。
いやあ、妹よ、悪かったねえ(笑)。
そしてこの一件で学んだのが、かさぶたを無理矢理に剥がすと痛いわ、
怖いわ、将来は手術だわ(笑)と、ロクな目に会わんということであった。
このように子供仙人がオモチャにしていたかさぶたであるが、パッと見、
あまりイメージのいいもんではない。色も手触りも何だか気持ち悪いし、
できれば早く消えてほしい。むりやり引っ剥がしてしまいたくなる気持ち
も分からんでもない。
だが、その本来の目的は、傷口をばい菌から守り、その下で安心して傷
が癒えるのを助けるためにできる大切なものである。傷を治すために、人
間に備わった必要不可欠な生理現象なのである。
で、人間にはもう一つ、目に見えないかさぶたがあると思う。それは心
に出来るかさぶたである。
人は毎日を生きていく中で、イヤなことや、ムッとしてしまうことに遭遇し、
心にちょっとしたスリ傷とか、切り傷を負ってしまうことって結構よくあると
思う。
また失恋、死別などで最愛の人を失ってしまったり、ひどい裏切り、失敗
などで、心にかなり大きな傷を負ってしまうこともあるかもしれない。
そういう時、人は落ち込んだり、ひどい時にはノイローゼや鬱になったり
して気が滅入ってしまうんだけど、実はこれが心のかさぶたと呼べるもの
なのではないかと思う。
落ち込んだり、気が滅入ったりという心のかさぶたは、身体にできるか
さぶたと同じでやっぱりあまり良いイメージはない。できれば早く消えて
ほしい。
だけど、気分が落ち込むということには、とりあえずそれによって行動
を抑え、これ以上心の傷口が広がらないよう守っておいて、じっくり自分
のことを見つめ直す機会を作ってくれる働きがあるように思う。
そして傷が治ると、気分の落ち込みという心のかさぶたは、これもまた
身体にできるかさぶたと同じで、自分の「役目」を全うしたかのように自
然に剥がれ落ちて消えてなくなってしまう。
落ち込んだ気分がなくなったから元気になったのではなく、元気になっ
たから、落ち込んだ気分というかさぶたが「必要なくなった」のだと思う。
だから、落ち込んでないフリをするような、かさぶたをむりやり剥がすマネ
をすると、再び血がダラダラと流れ出し、中々傷が治らないどころか妹の
ホクロのようにいつまでも傷跡が残ってしまう。
よく「私はいつも前向き」とか「私はいつもポジティブシンキング」とか
「私は落ち込んだことがない」みたいなコピーやセリフを見たり聞いたり
するけど、そんな時私は、無理矢理かさぶたを引っ剥がしてるような
「痛々しさ」を感じてしまう。
「落ち込んだ自分」とか「元気のない自分」をイメージが悪いと否定す
るのは、かさぶたは見た目が悪いから認めないと言っているのと同じで、
なにか不自然で傲慢な気がする。
かさぶたは例えイメージや見栄えが悪くても「役目」を持って生まれて
くるのである。同じように気分の落ち込みや鬱にも「役目」があると思う。
私たちには、怪我をしたら血を止め、かさぶたを作り、傷を癒すという
「能力」がある。同じように、心に怪我をしたら、気分の落ち込みという
心のかさぶたを作り、心の傷を癒す「能力」を持っている。落ち込んだり、
鬱になったりできる「才能がある」と言い換えてもいいと思う。
かさぶたの1つや2つ、いつも体のどこかにあって当然のような気が
るのである。そりゃ、モデルさんのようにかさぶた1つないキレイな肌の
方が、見栄えはするかもしれん。
だけど人間、必死に生きて、歩き、走っていたら、転びもする。転べば
ケガもするし、痛いし血も流れる。そしたら当たり前のようにかさぶたが
出来る。
いろんなケガをして、いろんな傷を作って、いろんな痛みを知って、そ
の数だけ色々なかさぶたがあって。でも、その方がすごく人間臭い。
だから、本来のポジティブシンキングというのは、かさぶたを否定し、
無理に取り去ってしまうみたいなことではないと思うのだ。
本当のポジティブ、前向きというのは、落ち込んでいるという心のかさ
ぶたをいつも1個とか2個、自分たちにくっ付けたまま、てくてくと歩いて
いくことだと思う。
ケガをして傷ついた皮膚というのは、再生する時、傷つく前よりも強い
皮膚となって生まれ変わるという。かさぶたの下の皮膚はかさぶたが取れ
た時、周りの皮膚に比べて強くなっている。
それは心のかさぶた、そしてそれによって再生した心も同じだと思う。
傷つけられた心というのは、心のかさぶたが出来て、そしてそれを経て再
生された時、傷つけられる前より確実に強くなっていると思う。
だから毎日のように、心に擦り傷、切り傷などのケガを負っても大丈夫。
その度に皆、何の苦労もなく落ち込んだりして心のかさぶたを作っている。
そして、毎日のように用済みの心のかさぶたが、役目を終えて気付かぬ
うちに剥がれ落ちていく。大きなかさぶただって、無理に引っ剥がしたり
さえしなければ、時間はかかっても、ある日ポロンと自然に剥がれ落ちる。
そうして出来た心のかさぶたの数だけ、剥がれ落ちた心のかさぶたの数
だけ私たちの心は強くなっている、そう信じて、今日もせっせとかさぶたを
作り続けている仙人なのであった。
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
暑い!暑いよー。
今日、仙人はあまりの暑さにボーッとして、恥ずかしい失敗をしてしまい
ました。
もしかしたら、予定を変更して次号で書くかもしれませんが、まだ分かり
ません。ふー、それにしても暑いですね。