「タヌキを誇る人々」
“彼”が我が家に来たのは、私の大学浪人が決まってちょうど2ヶ月、
緑風心地いい初夏のことだった。
「〜は喜び、庭かけ回り♪」と歌にあるのはホントのことで、庭に放た
れた彼は、まるで茶色いゴムまりのように跳ね回り、弟ができた私や二人
の妹、そして父の目尻を大いに下げさせた。そんな中「世話が大変」と、
母だけは新しい家族を歓迎してはいなかった。
彼は「ムク」と名づけられた。だが3日もしないうちに、まず父が彼の
ことを「シャラすけ」と勝手に別の名前で呼び始めた。「シャラすけ」の
語源は今だもって謎である。
最初は猛抗議していた妹達も、気がつけば「ムクちん」と平気な顔をし
て呼び始めるようになっていた。
その状況に呆れていた私も、1週間ほど経って「ムクすけ」と呼んでい
る自分に気付いて愕然とした。最低限の決まりさえ守れない家族であった。
だが皮肉なことに、彼を歓迎していなかった母だけが、彼を本名で呼んだ。
4つの名前を持つことになった彼は最初のうちこそ大混乱極まりなかっ
たが、慣れるに従いそれぞれの名前にちゃんと反応を見せるようになった。
彼の頭を撫でながら、「やっぱり、血筋やなあ。頭エエわ」と、携えられた
柴の血統書を広げる父の顔には誇らしげな満悦が浮かんでいた。
だが、「ポチ」とか「太郎」でも反応を見せることが判明して、父は家族の
失笑を買った。
来た当初、彼は生みの母を恋しがってよく夜泣きをした。全然眠れんと
文句を垂れ流す家族を尻目に母が彼を慰めた。
また同じ頃、彼はよく下痢をしたので、同じくお腹が弱い私は親近感を
感じて、嫌がる彼をひっくり返し仰向けにし、金色の産毛が生えたお腹を
さすってあげることを半ば習慣とするようになった。
だが生涯、誰が来ても嬉しそうにチ○ポ丸出しのお腹を見せるようにな
ってしまった彼のぶざまな姿に、ほぞを噛んで本気で後悔している仙人で
もあった。
妹たちの最初の約束はどこへやら、平日昼は自然、母が彼の世話をする
こととなった。散歩、下の躾け、物理的に彼女の手しか空いていなかったの
である。だが、常日頃から根っからの天然を炸裂しまくる母は、ここでもその
威力を存分に発揮しようとしていた。
生後2ヶ月、今だ片足上げてオシッコをしない彼を心配し、「もしかし
たら、足を上げさせる訓練をしないとダメやないのかねえ」と突拍子もない
提案をし始めた。私たちはゲラゲラと一笑にふしたが、母は真剣だった。
ある日、庭でうずくまり何やら作業をしている母の背中が目に入った。
何事かと目を凝らす妹と私の目に飛び込んできた光景、それはオシッコを
し始めた彼の片足をつかみ、その足を無理矢理上げさせようとしている母
の狂態であった。
私と妹は腹を抱えて涙する一方、もしかしたら母は深刻な脳の病気なの
ではないかと本気で心配した。
それからしばらく経って、彼に好きな女の子が出来た。近くに住むメス
のシェットランドシープドッグだった。彼は毎日の散歩で必ず彼女に会い
に行き、お互いの鼻で愛の交感をした。私はむりやり帰ろうとして、彼に
噛み付かれたのも1度や2度ではない。誰に似たのかは知らないが、彼
は一途だった。
だが夜中に家を脱走し、翌朝彼女の飼い主に送ってきてもらった彼を見
て、父の眼鏡の奥が決意で光った。
その週の日曜のことだった。
「よーし、シャラすけ。エエとこ連れてったるぞ」との父の猫撫で声に、疑う
ことを知らぬ黒曜石のような瞳を輝かせた彼は、大喜びで車の助手席に
飛び込んだ。
2時間後。
父に抱きかかえられ帰宅した彼の体は覚めやらぬ全身麻酔でグッタリと
し、口からはだらしなく舌を垂らし、世にも情けない声で泣いていた。
そして、その下半身には真っ白な包帯が巻かれていた。
父の弄した奸計にまんまとはまった彼は、子孫を残すことが叶わぬ体と
なり、その後の生涯をニューハーフとして生きることとなった。
その夜、元気を取り戻した彼を「オカマのムクちん」と囃し立てる妹たちを
よそに、私と父は妙に口数が少なかったことを憶えている(笑)。
それ以後の彼は、色気より食い気とばかり、旺盛な食欲を見せるように
なった。その結果、毎秒毎秒デカくなっていき、気がつけばドングリまなこ
と相まって、から笠を頭にかぶせヒョウタン徳利を肩にかつがせれば、
いつでも居酒屋の前に置いておける状態になってしまっていた。
彼が来て1年。「あそこの家ではタヌキを飼っている」という噂が近所で
立ち始めていた。
「あら、ムクちゃん、また太ったのねえ」
近所の奥さん連中の人気者になった彼を、今や一番誇らしく思っているの
が、手綱を握ることがめっきり多くなった母だった。
「もう、ホントにちくわに目が無くって。ほほほー」とか、やに下がっていた。
彼はちくわと反対に雷と台風が大の苦手だった。その二つが始まると、
裏にある物置の引き戸を自分で開け、中に入ってまた閉め、頭を抱えうず
くまってブルブル震えていた。
そんな彼の仕草を見て私たち家族は、「自分で引き戸を開けたり閉めた
りするとは。案外頭エエかもな」と、親バカとは気付かない感嘆の声を
上げた。
だがその一方、自分のシッポを追っかけて、その場で狂ったようにグル
グル回り続けたり、多種多様の花を咲き乱れさせている母自慢の庭を、片
っ端から掘り返していく様は、やはり利口なのかバカなのか、さっぱり分
からなかった。
母は毎日彼専用の夕食をこしらえた。これ以上のタヌキ化を防ぐためで
ある。だがその味に慣れてしまうと彼は、ペディグリーチャムなどの市販
の食事を完全拒絶するという身の程知らずの態度を見せるようになった。
彼に関しては、「喜びようが違います」のCMは当てはまらなかった。
彼は夕焼けが好きだった。夕焼けが始まるといつも縁側に座って黙然と
いつまでも眺めていた。そんな時はどの名前で呼んでも反応がなかった。
その横顔には哲学する者特有の翳りがあった。株式会社ビクターのニッパ
ー君そのものであった。
彼は自分のことを私たちと同類だと思っていた。寂しい時は自分でドア
を開けて家の中に入ってきた。ソファでテレビを見て、テレビの中の彼の
仲間に本気で吠えていた。
散歩をしている彼はいつも手綱を握る父や母を気遣い、後ろを振り返り
ながら歩いた。父や母は「シャラすけは親孝行や」「ムクちゃんは優しい
子やねえ」と、私たち兄妹に当てつけのように言った。
人間以外の動物は笑わないと言われるが、彼は別だった。
私たちを見上げる彼は、いつだって明らかに微笑んでいた。その屈託のな
い笑顔に家族はタジタジとなり、骨抜きとなり、腰砕けとなった。
この幸せな日々はいつまでも続くかと思われた。
そんな彼がガンを宣告されたのは、彼が来てから14年目のことだった。
彼は開き直ったかのようにドンドン痩せ始め、骨と皮ばかりのキツネのよ
うになった。肺に転移したガンは、家の中にいても庭から苦しそうな息遣
いが聞こえるほど、彼の命のロウソクを急速に短くしていった。
妹の結婚式を2週間後に控え、準備にてんてこまいの金曜のことだった。
既に前日からは散歩にいけないほど弱っていたが、何とか家に入ってきた
彼は、「ちくわ、ちくわ」と母に大好物をねだった。
母は彼の頭を撫でながら、千切ったちくわを食べさせてあげた。
彼はゆっくりと噛みしめるようにちくわを食べた。
そして満足げな顔で母をしばらく見上げてから、庭に戻って行った。
彼が見せた最後の笑顔だった。
しばらくして母は彼の苦しそうな息遣いが不意に聞こえなくなったことに
気付き、「ムクちゃん、どうしたの?」と、庭に出てみた。
彼は庭の隅の方で倒れていた。すでに事切れていた。
パニックになった母は、妹夫婦に電話した。非番だった妹夫婦はすぐに
駆けつけた。義弟はタオルを敷いたダンボール箱に彼を入れた。
その日、次の日と悲報を聞きつけた近所の人たちが、みんな抱えきれな
いほどの花を持って彼とのお別れに来た。みるみるうちに彼は花で埋まり、
姿が見えなくなってしまったほどだった。
土曜日、火葬場で彼は天に帰った。
そこに来ていた他の飼い主に母は「お宅の子は何歳だったんですか?」と
聞いた。その飼い主は「さあ…」と、自分の子を焼き場の人間に預けると、
線香を上げることもなくさっさと立ち去った。
帰りの車の中で母は「自分の子供の歳を忘れる親がいますか!」とさめ
ざめと泣いた。父は黙ってハンドルを握り続けた。
母はその日からキッチリ3日間、ご飯も喉を通らず寝込んでしまった。
結局、彼が家に来るのを一番反対していた母が、一番彼を愛し、誇りに思う
ようになっていた。
一番多く彼の食事の支度をし、手綱を握り、そして母だけが彼をムクと呼んだ。
ムクは、最後まで自分のことを人間だと思っていた。それは彼ら“犬”にとって
一番の幸せに違いない。
あれから2年。ムクの遺影が年老いた父と母を見守り、ムクの小屋は
洗濯用品置き場となって最後のご奉公をしてくれている。
そして、東京。
近くの公園をジョギングしていたら、井戸端会議をしているご婦人たちが
目に入った。そのうちの一人は丸々太った柴犬の手綱を握っている。風に
乗って彼女たちの声が聞くともなく聞こえてきた。
「まあ、タローちゃん、見るたびに大きくなるわねえ」
「ホントにもう運動しないから。どこまで太るのかしらねえ」
そう答えた手綱の主の表情は、やはり憎らしいくらい誇らしげな優しさに
満ちていた。