[2001/6/20]

触れる力

 



「触れる力」

 五感を働かす、とはよく言う。
その中で、視覚、聴覚は言うに及ばず、味覚、嗅覚も1日の内で何も食べな
いという人は滅多にいないだろうから、毎日お世話になっている実感がある。

 だが触覚はどうなんだろう。これはもうあまりに当たり前すぎて考えたこと
もなかった気がする。で、そんな先々月、4月の頭なんだけど、それをちょっ
と意識する出来事があった。

 私には今年で御年86になるおばあちゃんがいる。一緒に暮らしたことはな
いが、私にとってたった一人のおばあちゃんだ。ここ数年、体の調子が悪かっ
たのだけど、先々月、とうとう入院したと田舎から連絡があった。

 抵抗力が落ちているので、結核に罹ってしまったらしい。かなり深刻な状況
で、もしものことがあるかもしれんからお見舞いに帰って来いということだっ
た。私は自分の事情は脇に置き、取るものもとりあえず新幹線に飛び乗った。

 お見舞いは2年前結婚した妹と、母の3人で行った。その日は春爛漫という
陽気で、山の中腹にある結核療養施設に着いた時は、結構額に汗がにじん
でいた。だが満開の桜に、メチャ不謹慎なんだけど、とても心地良くもあった。

 結核病棟に入る前に、売店で白いお椀のような専用マスクを買った。鼻と口
をピッタリ覆い、ちょっと息苦しい。だがそれを着けないと病棟に入ることは
許されない。廊下を歩きながら妹が言った。「兄ちゃん。おばあちゃん、もの
すごく変わったよ。ショック受けるよ」
 その妹の結婚式で会って以来だった。私はよく知るおばあちゃんの顔を想像
しながら病室に入った。

 別人だった。知らない人がベッドに横たわっていた。2年前までのおばあち
ゃんではなかった。逆立った髪は真っ白で、目は落ち窪み、皮しかない感じの
顔は、入れ歯を外しているので干し首のように小さい。呼吸用の管を鼻に入れ、
口を大きく開けて苦しそうに息をしている祖母は、人相が変わってしまったな
んてものではなく、私の知る面影すらなかった。

 私は「おばあちゃん」と声をかけてみた。おばあちゃんは子象のような目を
うっすらと開け、不思議そうに私を見た。「…あんた、…誰?」
おばあちゃんは私を忘れていた。

 母の話によると、ボケが始まっているらしい。耳もかなり遠くなっているよ
うで、私は耳元に顔を近づけ大声でささやいた。

「俺や、仙人や。おばあちゃんの孫やで」「…孫?私に…、あんたみたいな…
孫、…おったかね(いたかね)?」

 私はどう説明してよいものやら言葉に詰まってしまった。おばあちゃんも私を
不安そうに見ている。母が助け舟を出したが、分からない様子であった。
私は自分のことはあきらめ、それからは世間話に終始することにした。

今日の陽気のせいなのか、マスクのせいなのかすごく暑かった。おばあちゃん
も暑そうな感じだったので布団を少しめくってあげた。すると、枯れ木のよう
にやせ細った腕が目に入ってきた。その手はベッドサイドの格子を、それこそ
指が白くなるほど、ぎゅっと握りしめている。

 「おばあちゃん、手、白なってもうてるで」と、私は指を外してあげようと
したのだが、おばあちゃんは「ええ、ええ」と言って、手を離そうとしない。
しがみついているといった感じだった。

 それはまるで不安を紛わそうとしているかのような握り方だった。とにかく
どこでもいいから触れていたいという握り方だった。すがっているという感じ
もした。

 私は手を外すのをやめ、代わりにおばあちゃんの手の上に自分の手を置いた。
おばあちゃんの手は冷たかった。

「…アンタの手は、…あったかいなあ」
「今日は暑いから俺の手も熱うなってるわ」
気のせいかもしれないが、おばあちゃんの表情がちょっと安らいだ気がした。

「…仙人ちゃん、…相変わらず…背ぇ高いなあ」
妹が唸る。「うわ、おばあちゃん、急に兄ちゃんの名前思い出した」

 そうだった。顔を見ても声を聞いても分からなかった私を、おばあちゃんは
唐突に思い出した。「…でも仙人ちゃん…、幅はないなあ」「そ、そうやねん、
相変わらず痩せてるで」

 それからはけっこう話も弾んだ。弾んだといってもおばあちゃんは息も絶え
絶えだったけど。でも嬉しかった。めちゃくちゃ照れくさかったのだけど、私
はずっと手を握りながら話しかけた。

 帰り際、ふと思い立って、私は母と妹を廊下に残し病室に1人戻った。
縁起でもないと思ったが、「もしものこと」というのが頭に引っかかり、最後
に一言おばあちゃんに伝えたかったのだ。私はまたおばあちゃんの手を握って
話しかけた。
「おばあちゃん、今までありがとな。ホンマにありがとな。小さい頃からホン
マにありがとな」
「うん、うん、…仙人ちゃん、…気をつけてな。…体に、…十分気をつけてな」
 それはワシのセリフやという言葉を飲み込んで、私は涙目で病室を後にし、
そして東京へ戻った。

 触れるという行為は何なのだろうと思う。
私は今回のことで、もしかしたら触れるというのは、見たり聞いたりするより
も遥かに膨大な量の情報を、しかも瞬時にダイレクトにやり取りしていること
なのかもしれないと思った。

 例えば、愛しく想い合っている恋人どうしが手をつないでいる時。
その時、二人はしゃべらなくても触れ合っている手を通して会話をしている。
触れあうことで、相手の顔を「見なくても」声を「聞かなくても」それ以上の
「表情や言葉」をリアルタイムで交感し合っている。

 恋人との仲がシックリいっていないと感じている時、表面上は二人とも笑顔
なのに、手をつなげばつなぎ合うほど、体を重ねれば重ね合うほどに不安な気
持ちが増幅してしまうのは、表情や言葉をよそに「魂の情報」とでも言うべき
丸裸の自分が、「瞬時にダイレクトに」お互いの体を駆け巡ってしまうからな
のだろうと思う。

 私たちは愛しい相手に触れたいと思う。
髪に触れる、頬に触れる、腕に触れる。手を握る。抱きしめ合う。キスをする。
 それは、そうすることによって、実際、目にしたり耳にしたりできる情報を越えた
相手の本質を感じとり、また自分の本質を感じとってもらうことができることを
本能的に知っているからだと思う。

 触れる触れられるというのは、お互いが自分を開いている状態だからこそで
きることだと思う。相手が心を開いてくれている時、私たちは安心感に包まれ、
自分の心を開いている時、開放感を味わう。その心地よさをもっと求めていた
いと思う、感じていたいと思う。

 もしかしたらセックスというのは、自分たちがお互いを何の恐れもなく開い
ている感触を確かめ合うために、そしてその開いた状態で、むき身の魂を与え
合い感じ合うためにするものなのかもしれない。
 だから、セックスというのは、気持ち良くって心地よくて、そして安心感に
包まれ、開放感を味わえるのかもしれない。

そういう意味では、腕に触れるとか、そういった基本的な相手に触れるという
行為は、もう既にそのこと自体がセックスなのかもしれない。私たちが手をつ
なぎ指をからめ合っている時、公衆の面前で服を着ながらにしてセックスをし
ているのと同じことをしているのかもしれない。ちと顔が赤くなってもうた
(^^ゞ。

 「握手」なんていうのも、お互い言葉も文化も違う全く知らない者どうしが、
「瞬時にダイレクトに」お互いの情報交換をするために生まれたごく自然な仕
草であり、有効な手段なんだと思う。

 サミットなんか見ていても、外国の首脳は本当に力強く握手をしている。
そして、いつまでも握手をしたまま話をしている。それは意識的に言葉以上の
情報、そして安心を、握手によって与え与えられようとしているのだと思う。
ああいう光景を見ていると、どんなに言葉をつくそうと、体を触れ合う以上の
信頼の証はないのだなと思う。

 また人だけではない。モノだってそうだ。モノを選ぶ時、私たちは何気なく
手で触ってみるということをしている。触れることによって、そのモノの持つ
剥き出しの本性を直に感じようとする。

見えない表情、聞こえない言葉を、何とか必死に見よう聞こう、そして伝えよ
うと思う「けなげな」行為、それが触れることなのだと思う。触れあうことで
人やモノの持つ「丸裸の表情や言葉」が見えたり聞こえたり、また伝えたりで
きるのだと思う。

 そして、自分以外のものに触れるということは、自分を確認するということ
でもある。自分以外の体温に触れることによって自分の体温を感じ、何かに
触れていることで自分が確実に存在している安心感を得る。
おばあちゃんは、ホントに必死につかんでいた。

 昨今流行っているガーデニングも、花木を育て慈しみ、目で愛でるという楽
しみ以上に、土や花に「触れることそのもの」に意味を置いているような気が
してしょうがない。何かに触れていること、何かをいじっていること、それは
人の心に安寧をもたらすのかもしれないと思う。

 そして、土「いじり」をすることによって、「触れること」によって、土や花の
声を聞き、逆に自分たちの声を彼らに聞かせてやる。
その「魂の声」のコラボレーションそのものを楽しんでいるような気がするの
である。

 生まれたばかりの赤ちゃんはほとんど目が見えないらしい。最初は触覚だけ
の「動物」だ。それが触れたり触れられたりする刺激で脳細胞がものすごい速
さで伸び、発達し、目が見えるようになり、耳が聞こえるようになり、しだい
に人間になっていく。何より先に「触」ありきなのだ。

 赤ちゃんは触り触られることによって、どんどん人間になっていき、そして
どんどん自分の世界を広げていく。そして子供は何でも触りたがる。その結果、
痛い目にもよく遭う(笑)。でも、触ることによって世界と交信する。

 私たちは今、ネットで色々な情報を見たり聞いたりできる。世界が広がった
気もするが、触らなければその情報は本当には生きてこないようにも思う。
世の中が便利になることによって、いろんな「手触り」を無くしてしまってい
る気もする。

 そういう意味では逆に、自分の世界を狭くしてしまっているのかもしれない。
たとえ見たり聞いたりすることから入っても、最後は実際に触り、実際に体験し、
実際に経験してみて、自分の世界を広げ、世界と交信したいと思う。

 そうそう、今、日本で一番の「触り名人」といえば、動物王国のムツゴロウ
さんだと思うんだけど、わしゃ、ムツゴロウさんには責任持てません。
前にTVで見た時、ムツゴロウさん、パグ犬の口に食らい付いてからなあ(笑)。

 「動物は触ってあげないといけないんですねー!ヒャ、ヒャ、ヒャ」って、
やり過ぎだよ!ムツゴロウさん(笑)!どっちが犬か分からんかった。
明らかに、パグ犬、足突っ張って死に物狂いでイヤがってたからなあ。
病気になっても、わしゃ責任持たん(笑)。

 で、最後におばあちゃんなんだけど、あれから2ヶ月が経って、何と激烈な
回復を見せて病気など吹き散らしてしまった。今では車椅子に乗り、週刊誌
の下世話な記事などを「フォッ、フォッ、フォッ」と読み散らかしているようである。

 私は最後に今生の別れのようなことを言ってしまっていたので、ちょっぴり
後悔していたのだけど、まずは一安心である。

 そして、それが触れる力のおかげだったのかどうかは、自分でも定かではな
いのだけれど。


☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆ 

HP作りと並行しているので、メルマガ、ほとんど週刊になってしまってます
ね。しかし簡単なHPなのに、もうヨレヨレです。体調激悪です。
つくづく自分のPC音痴ぶりに腹が立ってきます。
し、しんどい。

 

 

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つぎ

 

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