[2001/5/31]

闇より生まれ出でしもの

 



「闇より生まれ出でしもの」

 火曜日の夜11時からNHKで「ドラマDモード」という番組が放送されて
いるのをご存知であろうか。今はスマップの稲垣吾郎さん主演で「陰陽師」を
やっている。平安時代、宮中に仕えた陰陽師(おんみょうじ)、安倍清明(あ
べのせいめい)の活躍を描いたドラマである。私は大の京都ファンなので大体
毎週見ている。

 阿倍清明は、京の都に跳梁跋扈した物の怪(もののけ)たちを式神(しきが
み)を使って退治したとされている人物だ。まあ、退治とはちょっと違うかな。
幽霊や妖怪、鬼といった、物の怪たちとの交流、みたいな感じであろうか。
ドラマもそのような流れで進んでいる。

 って、別に阿倍清明や吾郎クンの大活躍はいいのである。ドラマを見ていて
ふと気付いたことがあるのだ。それはあの時代、というか電灯がない時代の「夜
の暗さ」である。いやはや暗いのである。まあ、光源がロウソクしかないのだ
から当然と言えば当然なんだけど、部屋も明るいのはロウソクの辺りだけで、
隅の方は真っ暗、庭などの屋外にいたっては漆黒の闇である。

 で、その闇に乗じて、もう開き直ったかのように物の怪たちが屋敷に入って
くるのである。「こんばんは〜、また来ちゃいましたあ♪」ってな感じで(笑)、
うじゃらうじゃらと登場する物の怪たちによって、さまざまなエピソードが
展開されていく。

 まあ、本当に物の怪たちが実在したかどうかは別にして、その種類というか
エピソードの豊穣さは、それくらい当時の人々にとって、様々な神秘だとか、
不可思議だとか、分からないものに対する「畏れ」みたいなものが、普段の
生活の中に当たり前のように息づいていたことを表わしていると思う。

そしてそれは考えるに、「夜の闇」が織りなした豊穣さのような気がするのだ。

いや、そりゃ怖いって。何にも見えないんだもん。夜の大通りを貴族がお付き
の者を従えて牛車なんぞでしゃなりしゃなりと歩み進んでいる、その1メー
トル先はおろか文字通り「一寸先は闇」なのである。皆、マジ涙目だったんだ
ろうな。ワシならホントに泣いてるよ(笑)。

 何かいる。絶対いる。闇に目を凝らせば凝らすほど、何かがいる気がする。
鬼なのか妖怪なのか分からないけど何かいる。その何かを突き止めようと必死
になって、見るだけではなく、音や臭いや肌触りといった五感をフルパワーで
そばだたせる。ケモノの遠吠え、生暖かい風の感触、ちょっとした臭いなどに
敏感に反応して、見えぬ何かを想像する。

そう、とにかく見えないから想像するしかないのだ。目の前、通りの先、庭先、
部屋の隅、廊下。見えないのである。分からないのである。となれば、あとは
必死こいて死に物狂いで想像するしかない。見えないものは想像力で補うしか
ないのだ。

 日本では明治にガス鐙が登場するまで、そんな状態が続いたと思う。そして
その間に培われた日本人の想像力ってスゴイものがあったと思う。
えっ?TVとかで見る時代劇の町とか屋敷内が明るいって?ありゃ、照明さん
のおかげである(笑)。

 闇のおかげで、海外でそのまま「KAIDAN」と通用する、豊かな怪談が生
まれたんじゃないかな。
そして見えないもの分からないものを見よう分かろうと必死に努力する姿勢は、
自分は今現在、見えていない分かっていないという謙虚さにもつながっていく
と思う。

 見えないものというのは物だけじゃない。「人の気持ち」なんてのもそうだ。
闇によって培われた想像力は怪談とか作り出しただけじゃなく、もしかしたら
当時の人々は、今の時代に生きている我々より「人の気持ち」というものを
よく理解していたかもしれない。

またいつ起こるか分からない天変地異などもそうだ。一発で飢饉に直結だもん。
空や山や川や海などの自然に対して畏れを抱き、色々想像してたんだろうな。
海坊主とか河童とか(笑)。

 この世に存在するありとあらゆるものに対して、想像力や畏敬の念を持って
接したんだと思う。暗闇で見えないとか先が見えないとか、「見えない」とい
う状況では、人間は努力をし謙虚になるものらしい。

 人を好きになった時なんかもうホントにグルグルグルグル想像しまくりだも
んな。なんてったって、先が見えないのだ。彼は彼女は何を考えてるんだろう、
何を想ってるんだろう。それを知るため人は有形無形の色々な努力をし、謙虚
になる。全ては見えないがためだ。そして時にはワシのように、自分でつくっ
た物の怪に襲われて自滅する(笑)。

 あの時代、恋の歌が花盛りだったのも分かる気がする。そして月を題材にし
た歌が多いのも。月明かりという明かりがどれだけ心の平安を保障してくれた
ことか。見えるということにどれだけの憧れを抱いていたことか。

ひるがえって、今はもうバッチリ見えまくりである。明るい明るい。特に東京
は24時間営業だ。繁華街はもちろんのこと、住宅街でも街路灯が整備され、
家々やコンビニの明かりも漏れて、夜中に出歩いていても全然怖くない。

 でも見えるっつうことは、それ以上見ようとしないということでもある。
それ以上想像しないということでもある。だって、見えてるんだもん。
分かれば、それ以上分かろうとしない、聞こえれば、それ以上聞こうとしない。
それが見えた「つもり」、分かった「つもり」、聞こえた「つもり」に過ぎない
かもしれないとしても。

 見えないものを見ようとする力、聞こうとする力、分かろうとする力、姿勢。
それが想像力と呼ばれるもののような気がする。ならば24時間明るく何でも
見えて、人工衛星のおかげで地球の裏側のことが瞬時に分かり、ネットで様々
な情報を取り出せる今の時代、想像力はどうなんだろう。
 なまじ「見えてしまっている」だけに、「中途半端に」分かったつもりにな
って、色々見失ってるような気もする。ワシもその1人だ。

 いや、まだ見えているのならいい。闇のない世界で想像力を失った結果、
見えているものまで見えなくなると、ゾッとするのう。

 もしかしたら、むりやり闇、何も見えない状況に身が置かれてしまうことも、
まんざら悪いことではないのかもしれない。
 今、日本は平成大不況の真っ只中で、閉塞の「闇」に追いやられているとさ
れている。個人的にも出口の見えない闇の中で、にっちもさっちも行かない人
も多いと思う。家族の問題、仕事の問題、心、体の問題…。ワシもしんどくて
かなわん。早う楽になりたい。

 だけど、そういう何も見えない時こそ、見る力、聞く力、本質に触れる力が
蓄えられていっているような気もするのだ。手探りでジタバタしているうちに、
知らず知らずに豊かな力が付いていってる気もするのだ。

 案外なんだかんだ言って、人間はいつの時代も闇というものを必要としてい
るのかもしれない。それが自分を高めてくれることを、本当は知っているのか
もしれない。

必要なのは分かっているけど、本能的に闇の持つ底知れなさは怖い。その恐怖
の部分を陰陽師に担当してもらいたがっているのかもしれんなあと思う。

 だって、明かりのないあの時代、明かりがある今の時代。全く対照的な両方
の時代に陰陽師「阿倍清明」がもてはやされてるんだから。

 それはつまるところ、人々が闇を怖れながらも、その必要性を感じ、求めて
いることの裏返しでもあるような気がしてならないのである。


☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆ 

もののけと言えば、宮崎駿さんの「もののけ姫」ですよね。彼の「となりの
トトロ」に出てくるキャラクター。私の知り合いにソックリな人多いんですよ。

王将好きなS谷さんは、言動から容姿に至るまでホントに笑ってしまうくら
い「猫バス」にそっくりで、事あるごとに「にゃーっ!」って叫んでいるし、
トトロそのものの後輩もいる(笑)。

で、私なんですが、メガネをかけているという理由だけで、さつきやメイちゃ
んのお父さんということにされてしまってるんですわ。
いくら何でもそりゃ無理があるだろう(笑)。
まあ、不思議と雰囲気だけはあるんですけどね。

 

 

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つぎ

 

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