「King of 王将 〜出町王将〜」
皆さん、「餃子の王将」って知ってますか?関西を拠点とした中華料理のフ
ランチャイズチェーンなんだけど、別に餃子だけを出してる訳じゃなく、廉価
で中華料理全般を出してる大衆店である。って、何で急に王将の話を持ち出し
たかと言うと、この間夕方のニュースを見ていたら驚いた。出町王将のことを
放送していたのである。
出町(でまち)というのは京都御所の北東にある一帯を言うんだけど、大学が
京都御所の北隣りにあってその近くに住んでいた私は、出町王将には近かったし
好きな人間も周りに多かったので、週2,3回のペースで行っていた。
で、そのTVニュースによると、現在の出町王将はお金を持ってなくとも皿
洗いをすれば飯代をタダにするというサービスを行なっており、貧乏学生にと
って苦しい時の神頼みのような店になっているとのことであった。懐かしい店
の映像と、相変わらずのデタラメぶりに、私はしばらくセンチメンタルな気分
に浸っていたのであるが、次の瞬間、ふと降って湧いたような欠落感を覚えた。
「あれ?そう言えば、大将とジュンイチは?」
そうなのだ。大将とジュンイチの姿が見当たらないのである。大将とは出町
王将の主人兼料理人であり、ジュンイチとはバイトのアンチャンである。その
2人がいない。ジュンイチはともかく、出町王将の象徴ともいえる大将がいな
いではないか。
おいおい、あの2人がいなければ、いくら出町王将の看板を掲げていても、
それは似て非なる出町王将だぜ。私は、本物の出町王将に思いを馳せた。
今はどうだか分からないが、当時の「餃子の王将」というのは、料理、従業
員の接客態度、衛生管理を含めた店構えなど、どれを取ってみても、どの店を
取ってみても、他の追随を許さないレベルの低さであり、そのハジケっぷりは、
王者の風格さえ醸し出していた(笑)。まさに“王将”であった。
中でも出町王将は群を抜いていた。店はウナギの寝床のような感じで異様に
狭くカウンター席だけだったが、15〜20席はあったろうか。
大将は、齢六十前後、身の丈五尺八寸程の、ダルマそっくりの親父である。
どことなくパグ犬にも狛犬にも似ている。対するバイトのジュンイチは、我々
と同じ当時20歳前後で、ガタイはたくましいのだが異様に色白で、強いのか
弱いのかさっぱり分からない容姿面相をしていた。
しかも学生なのかフリーターなのかその素性も全く知れず、名前も何ジュン
イチなのかよく分からない。客もジュンイチとしか呼ばないし。大将が三条大橋
の下で泣いていたジュンイチを拾ってきたという噂もあったくらいだ。
とにかくイチローと同じく、何はともあれ「ジュンイチ」なのであった(笑)。
出町王将はその2人だけで切り盛りしていた。ということは満員になれば15
人くらいになる客を2人で捌かなければならないということであり、夕方の
繁忙時には、気の毒なくらいパニックに陥っている大将とジュンイチがしばし
ば目撃された。私が行き始めの頃、こんなことがあった。
「ジュンイチっ!天津飯できたんかっ!」
何と大将は私が注文した天津飯をジュンイチに作らせていた。私の目の前で
四苦八苦しながら中華鍋をテニスラケットのように扱っている彼は、どこから
どう見てもズブの素人であった。結果、スクランブルエッグを白飯にのせただ
けの見切り発車のような「天津飯」が誕生した。
「何回やったら気が済むんやっ!ふざけんじゃねえぞ、テメェ」風貌のわりに
甲高い大将の怒号が店内に響き渡る。
「こんなモンが天津かっ?!くだらねえモン作りやがって!アホンダラ」
大将がその天津飯もどきにアンをかける。
「今度こんなもん作ったら叩き出すぞっ」
大将はそれを私に「ほい、天津飯お待ちっ」と出した。
その後私は、出町王将で二度と天津飯をオーダーしなかった。
だが、だいたい大将からして危なっかしかった。焼肉定食を頼んだ時のこと
だ。「焼肉一丁!」と復唱した大将は、お金を扱った手を洗いもせず、冷蔵庫
から親のカタキのように肉をわしづかみにするや、中華鍋一杯に張った油にぶ
ち込み、カス揚げでかき回し始めた。その時間からして、それはもはや油通し
と呼ぶような生易しいレベルを越えており、明らかに「肉を揚げて」いた。
焼肉なのに、なんで肉を揚げるの?みたいな疑心暗鬼は大将には通用しない。
モクモクとそのオリジナルなクッキングに余念がない。で、揚げ終わった頃合
を見計らって、やおら隣りの中華鍋に今の今まで油の中で悲鳴を上げていた肉
どもを投げ入れ、ケンカ腰で炒め始めるのである。
どう考えても、揚げる理由が分からないのだけど、大将の背は黙して語らずだ。
たぶん大将も理由知らないんだと思う(笑)。
危ないのは大将やジュンイチだけではなかった。食材もまた危険をはらんで
いた。なにしろ厨房が目の前にあるのですべて「お見通し」なのだ。出町王将
の辞書には「知らぬが仏」という文字はない。肉やカラアゲを揚げる油として、
石油かガソリンを使っているとの風評が立ったのも1度や2度ではなかった。
というかその色から言えば、むしろ原油であった。その油で調理された料理は
「さあ、これで思う存分、肝臓つぶしちゃって下さい」と言わんばかりの代物で、
王将マニアの先輩S谷さんは、ある日急性すい炎で七転八倒し入院を余儀なく
された。
餃子を食す時のラー油も注意が必要だった。ときどき小さいゴキちゃんが
容器の中で溺死しているからだ。
また大将やジュンイチが身に付けている調理着も、いつ見ても元は白かった
んだろうなあという色に染まっていた。1回、その姿の大将を映画館で目撃し
たことがあるが、普段着としても使っていたらしい。
出町王将の客層は、土地柄ほぼ100パーセント男子大学生であった。女性
が食べているところを見たことがない。1度、噂を聞いたサークルの後輩の女
の子が興味を示したので、「出町王将ツアー」を組んだことがある。女性に全く
耐性がない大将とジュンイチのスパークぶりは、こちらの期待をはるかに上回
るものであった。
大将は普段見せたこともないようなアクロバティックな鍋さばきを披露しよ
うとして、花火のように肉野菜を厨房全体にぶちまけ、さらに引きすぎた油へ
の引火で腕に大ヤケドを負った。ジュンイチはジュンイチで唯一こしらえること
のできる料理に腕によりをかけた結果、その時居合わせた運の悪い客に、
いつにも増して豪快な天津飯が振舞われることとなった。
しかもサービスというものを「大盛り」という形でしか表現できない彼らは、
そのサービスを女の子たちに断られた時点でどうしていいか分からず、しょう
がないので店の男性客全員の料理を大盛りにするという、さっぱり意味が分か
らない苦肉の策を講じるくらい、完全に舞い上がっていた(笑)。
こんなかんやの出町王将であったが、不思議なことにそれでも客足が衰える
ことはなかった。出町王将の辞書には「風評被害」の4文字もなかった。
たぶん、それは値段の安さとボリュームにあったと思う。また貧すれば鈍する
とはよく言ったもので、食べ慣れてしまえば、その味も中々オツなものであり、
王将の熱烈ファンも結構たくさんいた。急性すい炎のS谷さんもその一人で、
彼は病を押して出町王将のカラアゲを命がけで食べに行き、その数時間後に
生死の境をさまよう大惨事となってしまった。
出町王将の常習性と健康への影響は各種麻薬の比ではなく、出町で食事をし
てから試験などを受けたが最後、確実にその科目の単位はないものとして考え
ねばならず、廃人になる者も後を絶たなかった(笑)。
だが、東京に出てきてから王将で飯を食ったことはない。水道橋に1軒あると
いう噂は聞いたことがあるけど、今の王将はどうなんだろう。現在の出町王将
の飯代タダというその自暴自棄なアイデアは、なるほどかつての残り香を感じ
させるものではあるが、どことなく物足りない。
そんな感慨を抱いていたついこの間、十数年ぶりに王将に行く機会に恵まれ
た。先輩のS谷さんは現在東京というか、多摩に住んでいる。有名なアウトレット
モールなどもある南大沢という所に家庭を持ってるんだけど、久々に会いに行った。
行ってみて驚いた。南大沢に王将があったのである。王将といえば、大体ご
みごみとした場末に鎮座している印象が強かったので、南大沢のようなニュー
タウンというか整然とした街にあるとはよもや思わなかったのである。
しかも建物の外見がファミレスのような感じで、時代も変われば変わるもんや
なあと最初は感心していた。だが店に入る時にS谷さんがつぶやいた、「まあ、
外見はな」という意味深な一言の意味を、私はすぐに理解することとなった。
店でS谷さんはホイコーロー(キャベツと豚肉の味噌炒め)、私は夕食を済ま
せていたので、オレンジジュースを頼んだ。店員はオーダーを携帯端末なんぞ
に打ち込んでおり、そのハイカラぶりに再び感嘆の声をあげたのであるが、
S谷さんは目をつぶり、ただただ首を横に振っているだけであった。
「お待たせしました」
私の目がすぅ〜っと点になった。その正体は分からないが、なにやらオレンジ
色の液体が、なんと「Asahi
Beer」というロゴが入ったビールジョッキ大に
なみなみと波打ち収まって、私の目の前に差し出された。
「こ、これは…」私の脅えを含んだうめきに、S谷さんは一言「なっ?」と言
い残し、自分が頼んだ石油まみれのホイコーローを食し始めた。
私はジョッキの柄をつかみ、ひとしきり電灯の光にかざしてみたり、においを
嗅いでみたりしてから、ありがた迷惑のような顔をして一口飲んでみた。
…、化学の味がした。
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
服部栄養専門学校の服部先生って、調理師免許持ってなかったんですね。
ちょっと、意外。