「実録 ある愛の詩 20歳編 (最終回)」
仙人は面食らっていた。今のようにブランド品を高校生が持つこともなく、
一切興味がなかった私にとって、百貨店1階の本格的な当事者になるのは
これが初めてだと言ってよかった。
見れば、読み方もさっぱり覚束ないブランドがお互い鼓舞し合うかのように
軒先を連ね、ジャラジャラと金銀財宝たわわに実らせた女ツタンカーメンとい
ったおば様たちが、時にはウットリ時には目血走らせながら獲物に舌なめずり、
その他の住人もお洒落な戦闘服に身を包んで喧騒する様は、まるで戦時の
ような高揚感を空間全体に生み出しており、単なる貧乏学生でしかない私は
あらためて場違いな物欲伏魔殿に身を投じていることを自覚していた。
そういった中でのお目当ての「クリニーク」であるが、結局、阪急にはなかった。
私は向かいにある高島屋に身を滑り込ませた。
あった。活字でしか見たことがない「CLINIQUE」のロゴを見つけた時は、結構
リアルに感動した。だがそこまでだった。白衣着用の女医然とした店員だか売
り子だかマヌカン相手に、破れかけのジーンズという丸腰で対峙する勇気は、
この時代の純情な私にはなかった。
翌1月22日。高島屋京都店1階に、入学式で使ったスーツ着用の七五三の
ような私の姿があった。その時点で考え得る限り最強の戦闘服を身にまとった
私は、正真正銘、掛け値なしのキ○ガイだった(笑)。
私は一気にクリニーク本丸に攻め入った。「あのっ、石鹸下さいっ」
一瞬、脅えた光を目に宿したマヌカンだったが、すぐに満面の笑みを取り戻し
た。というより、この目の前にいる明らかにスーツだけが浮いてしまっている
長身痩躯の男を、どう値踏みしてよいものやら笑顔で時間稼ぎしている感が
強かった。
「お客様がお使いですか?」マヌカンの思いもよらぬ先制攻撃にカァーッと
汗を噴き出させた私は、「彼女、いや、というか違います、贈り物で…」と
しどろもどろに答えた。
「お相手の方は今どちらに?」「え?あの…、京都にいますけど」
マヌカンは阿呆を諭すように続けた。「いえ、そういうことではなく、今日そ
の方はこちらに来ていらっしゃいますか?」「いえ、来ていらっしゃいません」
「申し訳ございません。それでは、お売りできません」「えっ?なぜですか?」
動揺する私にマヌカンは、既にこの男の正体見たりと、かさに掛かって攻めて
きた。「当クリニークでは、お客様一人一人のお肌に合ったソープをご用意さ
せていただいております。そのためにはご本人様に直接お越しいただいて、お
肌の状態などをチェックさせていただかねばなりませんので、ご本人様がいら
っしゃらないと…」
ソープを石鹸と呼んでいた自分に今さらながらに気付いたことも手伝って、
顔を真っ赤に染めた私はその場からダッシュで逃げ出した。
京の街がグルグル回っていた。私は狂ったように新しいプレゼントを捜し求め
て京の街をねり走った。それはまるで袴をひるがえらせ走る幕末の志士のよう
でもあった。
だがそんな状況の中、何を血迷ったか京都名物「生八ツ橋」とかを手に取り
ジッと見つめていたり、「誠」という文字が染め抜かれた新撰組のちょうちんや
ノボリなどに目奪われたりしている自分に気付いて「こんなもん贈るつもりか!
俺は修学旅行生か!」と己を嘆き地団駄踏むのであるが、光陰矢のごとし、
時間はドンドン経っていくのであった。デートは明日に迫っていた。
結局何も見つからず、戻った部屋で深夜までつくねんと呆けていた私に1本
の奇跡の電話があった。泥酔状態のY沢君であった。
事の顛末を説明すると、
「そうかー、俺にも責任ありそうやし、ちょっとミーシャに聞いてみるわ」との
思いもよらぬ言葉に驚く暇もなく、電話から聞こえてきたのは何と「こんばんは、
噂のミーシャです」というミーシャ本人の照れを含んだ肉声だった。
ミーシャにミーシャと言っているとは…。私は思わず彼女に「すいません」と
謝ってしまっていた(笑)。そんな私にミーシャは提案した。
「マニキュアなんかどう?女の子にとって邪魔になるものでもないし、もらっ
てそんなに重くもないし…」「マニキュアかあ。全然思いつかんかった」
自分独自の贈り物をと思っていたが、この際そんな世迷い言は言ってられなか
った。ミーシャが続ける。
「シャネルとかイイと思うよ。安いのもあるから」「シャネルってどこにある
の?」「高島屋に入ってるよ」「ゲッ、また高島屋か…」
その後ミーシャから「頑張ってね」の激励を受け、電話を換わったY沢君
の「これからセックスでごじゃいまするー♪」という、ますます酔いが進んで
しまっているらしい声を聞いて電話を切った。何はともあれ感謝であった(笑)。
だが不安と緊張、それまでの精神的肉体的疲労から、一睡もできないまま次
の日を迎えた私は異様に体調が悪く、さらに大学の医務室で調合してもらった
素性のよく分からない薬が、その体調不良に劇的な拍車をかけていた。
真っ青な顔に玉のような汗を浮かべた私は3日連続の高島屋に足を踏み入
れた。シャネル、シャネルと…、あった。しかし、あるにはあったが、なんと
シャネルは昨日赤っ恥をかいたクリニークのド真ん前に、その居を構えていた。
私はクリニークのマヌカンに顔を見られないように、妙な方向に首を捻じ曲げ
ながらシャネルに近づいた。まるで寝違えの患者みたいであった(笑)。
シャネルのマヌカンは優しかった。最初に出してくれた淡いピンク色のマニ
キュアを一遍で気に入ってしまった私は、それを懐に飲み、待ち合わせの場所
である向かいの阪急百貨店の正面に、30分前キッカリに着いたのだった。
本当に長い道のりであった。もう何かを成し遂げてしまったような達成感を
得ている自分がコワかった(笑)。大丈夫か>俺。しかし、彼女は来るだろう
か。何しろ彼女と最後に電話でしゃべったのは1週間前なのだ。結構大ボケ
な彼女は忘れている可能性も大である。
だがこの時の私は、彼女が来なくてもいいかなとも思っていた。もうホント
に気持ちが悪くて仕様がなかったのである。最後まで持つかな>俺、であった。
阪急前は午後6時ともなると結構な人だかりであった。と、その時である。
来たっ!来てもうた!彼女は忘れていなかったのである。彼女は微笑みながら
向こうからテケテケと走り寄って来る。
「ごめんね、待った?」彼女の第一声に、私は声も出ずバカみたいに大きく
首を振った。ブルンブルン。
私の独りよがりな好みもあるのだが、その時の彼女の神々しさといったらな
かった。白を基調とした毛素材の衣服をまとった彼女の、外面内面からにじみ
出る美しさはまさしくミューズ(女神)のそれであった。私は体調不良からだ
けではないめまいを覚え、腰からくだけ落ちそうになった。か、帰りたい!(笑)
そこにいる全員の視線が女神と挙動不審者に集中している気がして、私はす
ぐに彼女を連れて新京極通りにある映画館に避難した。
ラブコメディ映画の内容など目にも耳にも入ってこなかった。暗い館内で自
分の吐き気を必死の腹式呼吸で押さえようと息を荒くしている私は、誰がどう
見ても本格的な変質者であった。
映画が終わり、感想など述べ合いながら飯屋に向かう私の歩様も異様だった。
ホントに何回も右手右足が同時に出てしまいそうになり、よくつまづいた(笑)。
彼女の横をロボコップが歩いていた。
「ごめんね、仙人君。このあと女の子の友達のウチに行って後期試験の
勉強すんねん。あんまり遅くなられへんから軽いものでイイよ」という彼女の
理由から、私たちはちょっとした軽食が食べられる飯屋に入っていた。
いきなり釘を刺されてしまった私は、彼女と二人きりで歩いたり映画を観たり、
こうして飯を食うことで遠ざかっていた現実が、また目の前に戻ってきたことを
感じて少し落ち込んだ。でも関係ない!ワシはNちゃんのことが好きなんや。
「Nちゃん、その服めっちゃ似合ってるで」「ほんま?ありがとう。これ、私の
一張羅やねん」ワシとのデートにお気に入りの一張羅を着てきてくれたと舞い
上がり直した私は、やっぱりどこをどう切っても単なるバカであった。
だが、そうしている間にも私の体調はどんどん悪化していった。もし仮に、
食べているエビピラフを彼女の面前で吐いてしまったら、彼女との関係が終
わるだけでなく、私の人生も享年20歳となる(笑)。
私は頃合を見計らって懐からプレゼントを出した。動作をしているうちは吐き
気が少し収まる。「あんな、Nちゃん、きのう誕生日やったやろ。これあげるわ」
「うわあ、私の誕生日知ってるんや」「あ、当たり前やん。何でも知ってるで」
「ホンマに?他に何知ってるん?」「え?」
会話終わり、であった。
彼女はマニキュアを喜んでくれた。「仙人くん、ありがとう。めっちゃ嬉しいわ。
高かったんと違うの?」「いや、全然、全然」謙遜でも何でもなくホントに安かっ
た(笑)。
「今塗ってもイイ?」「エエよ、エエよ」彼女は嬉しそうに自分の爪に塗り始めた。
その塗り姿がすごく愛しくて、私はたぶん白痴みたいな顔をしていたと思う。
彼女は一通り塗り終わると指を見せて「どう?」「おおー、めっちゃエエわ」
「大切にするね」
プレゼントというのは、贈られる側というよりむしろ贈る側が幸せになれる
ものなのかもしれない。相手に何を贈ったら喜んでくれるかなと思案熟考する
その想いこそがすべてで、物というのはオマケなのかもしれないと思う。相手
が大切に使ってくれようとくれまいと、想いは昇華する。
「今度は仙人くんに塗ってあげる」「え?」「手出して」私はオズオズと右手を
出した。彼女はホントに一生懸命塗り始めた。時間が止まっていた。周りの
音も消えていた。私も彼女も私の指先だけを見つめていた。私は限りなく静か
に息をしていた。この初めての二人の共同作業が永遠に続けばいいと思った。
そしてこの時私は彼女を永遠に愛そうと決心した。
「はい、できた」「おおー、エエねえ」「なんかアブナイ人だよ、仙人くん」
「ホンマに?はっはっはっ」アホ丸出しであった。
だが、この日の幸せ気分もそこまでであった。彼女が「ちょっとお手洗い行
ってくるね」と席を外してから、猛烈な吐き気が戻り襲ってきた。我慢できな
くなって、彼女と入れ替わりにトイレに走った。指突っ込んでリバースしよう
としたができなかった。顔を洗った。つ、つらい。何が悲しゅうて、彼女との
デートの真っ最中に指突っ込まなアカンねん。とにかくこのデートを粗相なく
大過なく終えること、それがその時の私のすべてになっていた。
何とか取り繕い、涙目で席に戻ってきた私に彼女が言った。
「そうそう、きのう仙人くん見たよ」背筋が凍った。見た?まさか、スーツ姿
のクリニーク?おいおい…。だめだ、吐きそー(-_-;)
「仙人くん、スーツ着てた」着てたよ、着てたよ!
「新京極で八ツ橋買ってたよね」「…」
私は「八ツ橋と生八ツ橋とどっちが好き?」とか「なぜスーツ着てたの?」
とかの彼女の質問に、先輩の映画の撮影だったとか適当にゴマカした。
逆にNちゃんこそ何でそこにいたの?とは聞かなかった。たぶんカレシと誕生
日デートしてたんだろうなと思ったからだ。恋をすると相手の言葉に異常に敏感
になる。全身をそばだてた自意識過剰装置となる。
私は今さらながら、最初、なんで彼女はわざわざ「女の子の」友達のウチに
行くって言ったのかな、友達のウチでもエエやんと考えていた。
そして「そっかー、彼女はこの後カレシのウチに行くんやなあ」と思い当たって
チクリと胸が痛んだ。
それから、彼女がもう行かなきゃということで、バス停まで送っていった。
バスを待ってる間、私は意を決して「Nちゃん、またこうやって遊び行こっか?」
と聞いてみた。彼女は一瞬とまどって「うん、また今度みんなでね」と屈託なく
答えた。ガーン。「みんな」か…。現実がまた一つ積み重なった。
バスに乗り込んだ彼女は笑顔でいつまでも私に手を振っていた。私も気弱な
笑顔で力なく手を振り返し続けた。で、バスが行ってしまうと、もう我慢できない
ほどの吐き気を催し、急いで四条大橋のたもとから鴨川河川敷に下りた。
鴨川べりでは等間隔にカップル達が座り、愛を育んでいたが、もう限界だった。
私は恋人達が驚きの目を見張る中、川に向かって四つんばいになり、情け容赦
なくケロケロケロケローとリバースした(笑)。
楽しかったんだか、落ち込んだんだか、よく分からないデートであった。
しかも吐いてるし(笑)。訳が分からなかった。とにかく疲れきっていた。
と、その時、聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
「仙人やないか。なにしとんねん、こんなトコで」サークルの先輩たちであった。
び、尾行か!
だが彼らは既に酩酊状態で、ただ単に次の店に行く途中らしかった。
そうやった。必ず鴨川べりを通るんやった…。今夜は一人になりたかった。
が、彼らリーサルウェポンにこうして発見されたが最後、アウト、であった。
私は哀れな子ヤギのように、舌をチロチロ出した数匹の先輩ニシキヘビに抱き
巻かれ、居酒屋という巣穴へ引きずり込まれていった。
私は居酒屋でどうせ気持ち悪いんやからと飲みまくった。その間も彼女の
ことばかり考えていた。ふとY沢君の「これからセックスでごじゃいまするー」の
言葉が思い出され、私は心の中で『Nちゃんはカレシの部屋へ行ったんやろう
なあ。そこでやっぱり…、』と妄想し「うわーっ、絶対そうやーっ!」と叫んでしま
っていた。
もう既に焦点が合わず、ほとんど白目だけになってしまっている先輩たちは、
事情も訳も分からず「そ・う・やっ!そ・う・やっ!」コールを始めたので、
この時点で人生を丸投げしていた私も白目になり、妙ちきりんな振り付けで
イッキをした。
世界がブラックアウトした。
次に気付いた時、私は先輩の部屋の床にまるで行き倒れているかのように
転がされていた。最悪の朝だった。
オシッコに行って手を洗おうと手元を見ると、爪が何やらピンク色であること
に気付いた。ああ、そうだった。俺は彼女と同じマニキュアをしてるんやとしば
らく幸せな共有感に浸り、ずっと自分の指を見ていた。
やっぱり俺は彼女のことが好きや。それでエエわ。これから少しずつ少しずつ
や。仙人の瞳に光が戻ってきた。
それから2ヶ月あまり経った4月1日、2回生になった最初の日。キャンパスの
ド真ん中で、法学部事務室でもらった成績表に虚ろな視線を落とす仙人の姿が
あった。登録単位数50単位中、取得単位数20単位。
成績表から顔を上げた春の空に、雲が一つ浮かんでいるのを仙人は見つけた。
桜風がさわさわと頬にあたり、その雲が「留年」という雲文字に変わっていくのを、
仙人はいつまでもいつまでも見続けていた。
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
ホントにお疲れ様でした。こんなアホみたいに長くなるとは思いませんでした。
どうもスミマセン。もうこんなことはないでしょう。次号はエッセイかコラム
だと思いますけど、普通の長さに戻ります。
ちなみに数号後になると思いますが、この「ある愛の詩」の次回で、とうとう
仙人が結構大胆な行動をとります。それはその時のお楽しみということで。