「バールと東京ドームと中部の喫茶店」
先日、新聞でこんな記事を見つけた。といっても特別なものではない。
今まで皆さんも何度となく目にしたことのある記事だと思う。
深夜にATM(現金自動預払機)が何者かにバールのようなものでこじ
開けられ、現金いくらいくらが盗まれたとか何とか。
こういう時、ワシは「しかしバールのようなもんで、案外簡単にこじ開け
て盗めるもんなんやなあ」って、変な感心してるのが常なんやけど、よく
よく考えてみたら、「バールって何?」なのだ。そうなのだ。わしゃ、バール
ってどんなもんか知らんぞ。なのに何が「バールのようなもんでよく盗める
なあ」だ。
まるでワシはバールがどんなもんか知ってるみたいではないか。
正真正銘、知らん。いいかげんなことを言うなよ>ワシ、だよ、全く。
だけど、バールもバールだ。大体バールという代物、ATM荒らしの時
ぐらいしか聞かんぞ。というより、そのためだけにある気さえしてくる(笑)。
何となく金属の棒って感じはするんだけど、本来どんな目的に使うのか
皆目見当もつかない。ホントにATM荒らし以外の用途ってあるのかな(笑)。
しかも、「のようなもの」だもんなあ。バールでさえ分からないのに、それ
に「のようなもの」が付いたら、もうお手上げである。でも、ニュース読んで
るアナウンサーも絶対知らずに言ってると思うんだけど。
って、別にバールやアナウンサーはどうでもいいのである。これと同じよう
に知らず知らずに納得してしまっているのが「東京ドーム何杯分」だろう。
昨年日本で飲まれたビールの総量は、東京ドーム5杯分に相当します、
みたいなニュースを、「へぇ〜、東京ドーム5杯分かあ。日本人よく飲んだん
だなあ」と、仙人これまた感銘面して聞くのだが、待てよ>ワシ、東京ドーム
5杯分ってお前、具体的にイメージできるのかよと、はたと自問してしまうの
である。
イメージもできんのに、驚くことだけは自分に課してしまってる感じなんだな、
これが(笑)。
仙人、東京ドームへはコンサートで1回行っているのだが、なるほどデカイ
入れ物である。あそこ5杯分なら、そりゃ相当な量というのは何となく分かる
のだが、やはりどうがんばっても「何となく」なのだ。全然現実的なイメージ
が湧いてこん。まず、東京ドームという入れ物を想像する段階で体力を使い
切ってしまう。
わざわざドームに換算せんでも、中ジョッキ何億杯分とストレートに言って
もらった方がナンボ助かるか。というか、むしろその方が断然分かりやすい。
あと、富士山何個分とか、並べると月まで届きますとか。月行ったことある
人ってたぶん10人20人ってレベルだと思うんだけど(笑)。アインシュタイン
並みのイマジネーションをほとんどの人は持ち合わせておらんのである。
とてつもない量だから、入れ物や尺度もそれに合わせてとてつもないデカさ
にして、分かりやすくしてあげようというサービスだと思うけど、そのサービス
が逆に裏目に出てしまっている。
本質を分かりやすく説明しようとして色々な手練手管を使うのだが、その
手練手管のインパクトが強い場合、ついにはその方法自体が本質を凌駕
してしまうというマヌケ、というのは世の中さまざまな所で起こっていると思う。
って、別に仙人グリグリと目くじら立ててるわけではない。東京ドームだの、
富士山だの、こんなもん、何となく想像できればそれでイイのである。
甘んじて相手のサービスを受ければ万事解決なのである。
だが仙人、万事解決じゃなかったことが、けっこう多々あるのだ。それも、
さっきサービスって言葉を出したけど、その分野で多い気がする。
仙人、学生時代は関西、現在は東京に住んでいるが、元々の出身は中部
地方である。関東中部関西と日本の3大商圏を渡り歩いてきたのであるが、
中部地方には関東関西にないケッタイな風習がある。それは喫茶店のサー
ビスだ。まあ21世紀、スタバなどのシアトル系全盛のこの東京で、喫茶店とい
う呼び方も恥ずかしいが、他に呼びようもないし、そう呼ぶしかない。
そうそう、中部地方って言っても広いし、もしかしたら仙人が住んでいた地
域だけかもしれんので、中部出身の方が「そんな話知らんぞ」って、それこそ
目くじらを立ててしまうかもしれないので、中部の一地域、とあらかじめ断っ
ておきます。
さて仙人の喫茶店デビューなのであるが、メチャ遅く、高校1年の頃である。
今と違ってスタバなんてもちろんないし、田舎だったのでいかにも喫茶店然
とした店ばかりだし、だいたい不良学生の溜まり場になってるしで、あらゆる
意味で敷居が高かったのである。
まあ何よりコーヒーがあまり好きではなかったことが1番の原因なのだけど。
で、ある日、「実録 仁義なき戦い 健康ランド編」にも登場したY沢君と、
学校サボって喫茶店に行ったんだけど、そこで初めて我が地方の喫茶店
ルールに遭遇することになったのである。
それはコーヒーを頼むと、ちょっとした小皿におやつが付いてくるのである。
その店ではピーナッツだった。「えっ、ピーナッツなんて頼んでませんけど」と
言った私に店員は、「サービスです」と、さも当然のように答えた。
店員が去ると、Y沢君は大きくうなずき、「仙人、恥ずかしいこと聞くなよ。
常識だぜ」みたいなことを誇らしげに言った。その時のY沢君には「ワリィ。
俺って大人?」みたいな目一杯の背伸び感が感じられたんだけど、それでも
私は心底「Y沢、カッコええなあ」と感心したものだった。コーヒーで背伸びした
り感心できたりするのだから、ホンマ安上がりなガキどもであり、時代であった。
Y沢君は前からちょくちょく茶店(さてん)に行っていて、その因習を知って
いたみたいであった。それから私もけっこう茶店に行くようになったんだけど、
ある店では海苔巻あられ、ある店ではチョコレートなどと、店によって出される
おやつが違うことを知った。
店独自のこだわりや趣向みたいなものがあって、例えばアイスコーヒーの
時はビスケット、ホットの時はあられを出すなど、飲み物の種類によって出す
品を変えてみたり、またそれらを盛る器に凝ってみたりすることで、自分の店
のアイデンティティを競い合っていた。
1回、「コーヒーに浮かべてお飲み下さい」って、マシュマロを出してきた店
があってメチャ閉口したのだけど、ここまではまあ、企業努力と受け取って
あげられる「俺って、大人?」然とした詰め襟仙人でいられたねえ。
だが、蒸しパンやケーキを出す決心を固め始めた頃から、あの地方の喫茶
店経営者の感覚が麻痺し出した。
まだピーナッツだのチョコだのの、居酒屋の「お通し」レベルまでは良かった
が、ケーキって、そりゃ明らかに「単品」だろう(笑)。「お通し」から焼き鳥
レベルに突入であった。
私はそのレベルの時代に大学に受かり、いったん中部を離れ京都に上洛
した。関西では普通の茶店ライフを満喫した。ピーナッツは出ないが、何の
問題もなかった。だってコーヒー飲みに来てるんだから。
「全く、蒸しパン出すくらいなら値段下げろよなー」という故郷への思いは、
グローバルスタンダードな関西茶店ライフと共に消え去り、茶店に関しては
何の感慨も抱かない大学生活を送った。
だがその4年の間、地元では茶店同士の血で血を洗う内戦が繰り広げられ
ていたのだ。それを知ったのは、いや思い知らされたのは、卒業間近に帰省
して、入った茶店でコーヒーを頼んだ時だった。
「お待たせしました」のウエイトレスの声に、読んでいた新聞から顔を上げた
私の目に飛び込んできた物、それはコーヒーがなみなみと注がれたカップと、
茶碗蒸しだった。
全く訳が分からず狐につままれた面相の私は、高校時代にピーナッツが
出されていたことなどすっかり忘れ、思わず聞いた。当たり前ですわな。
「あの、オーダー違うみたいなんですが。茶碗蒸しなんて頼んでませんよ」
ウエイトレスは言った。「こちら、サービスになっております」
言い切った。彼女は完全に言い切っていた。
自分の言っていることに対して何の疑問もなく、その瞳には一点の曇りもない。
宗教にハマっている者に特有の、ある種のすがすがしさが彼女の顔面に貼り
付いてしまっている。
そして、激しく動揺し、喫茶店に茶碗蒸しがあることの不自然さ面妖さに頭が
いくわけもない私を一瞥した彼女は、何事もなかったかのようにカウンターに
戻っていった。まるで私の方がオカシイと言わんばかりに。
コーヒーと茶碗蒸しと共に席に取り残された私は、異様な居心地の悪さを感
じながら辺りを盗み見た。さすれば何と、他の席の客達は悪びれもせずモクモ
クと茶碗蒸しを口に運んでいるではないか。
しかも時折チラチラと私を見る目は、「あのヨソ者、なんか変だぜ」みたいなトゲ
が感じられないこともなく、私は文字通り「えーい、郷に入れば郷に従えじゃ」と、
合点がいかない屈辱感を伴いながら、茶碗蒸しを食べ始めた。
で、茶碗蒸しを食べ終わると安心してコーヒーを飲み始めたのだけど、なん
かオカシイのう。これではまるで茶碗蒸しを食べに来て、サービスでコーヒー
を付けてもらったみたいではないか。いや、蒸しパンやケーキの段階でもそう
だった。ケーキがメインでコーヒーがサブのような扱いだ。
しかし、想像を絶する内戦が私のいない間にあったのだな。そうでなければ、
コーヒーのサービスに茶碗蒸しを出すなどといった常軌を逸した凶行が展開
されるはずがない。私の知らない4年の間に、故郷の喫茶店群のサービスは、
焼き鳥レベルから刺身の盛り合わせレベルへと進化ならぬ暴走を遂げていた
のだった。
そして事ココに至り、それは遂にコーヒーを飲むという本質を凌駕してしまっ
たことを意味するのである。
それは、東京ドームや富士山、月まで届くといった方法を「与える」ことで、
分かりやすく説明しようとした「サービス」が、かえって本質を分かりにくくして
しまったことに似ている。それはもうサービスではない。
「コーヒーの値段で茶碗蒸しが食べられるんだぜ。どうだ、嬉しいだろう」は、
サービスとは与えるもの、もしくは与えられるものと思っている人の発想だと
思う。そうではなくサービスとは本来、客の側が「使いこなす」ものだと思う
のだ。そうでなければ単なる善意の押し付けになってしまうし、茶碗蒸しまで
いくと、それは嫌がらせである(笑)。
だが、故郷の喫茶店経営者の名誉のために言っておくと、彼らは断じて
嫌がらせのために茶碗蒸しを出したわけではない。そういった凶行に及んで
しまうくらい競争が激しかったのだろう。
そしてその戦いは、茶碗蒸しサービスが近年まれに見る愚行であることに
気付かないほど激烈なものだったのだろう。
だが私が就職で東京に出てしばらくしてからは、さすがに茶碗蒸しは出さなく
なったみたいである。
そして、今。報告によれば、モーニングセット戦争なる新たなる戦いに血道を
あげているらしい。朝の10時まではコーヒー1杯の値段で、トースト食べ放題、
サラダ、フルーツ取り放題、ゆで卵なんでもありのバイキング状態らしい。
それは素晴らしいサービスだ。
しかし、油断は禁物である。いつなんどき茶碗蒸しが復活するやもしれぬ。
いつの世も歴史は繰り返される危険をはらんでいる。
スタバでお洒落にLatteなど楽しんでいる風景を見ると、かの地のそのよう
な戦争など想像だにできないが、モーニングと言えばモーニング娘とコンセン
サスがとれているこの日本で、同じモーニングという言葉に違うアドレナリン
を燃えたぎらせている人々が確実にいることをお伝えして、筆を置くことにし
ます。
ああ、平和ってすばらしい。何のこっちゃ(笑)。
☆ ☆ ☆ あとがき ☆ ☆ ☆
チョコエッグって知ってます?たまごの形したチョコの中に、精巧な動物模型
が入っていて、マニアに爆発的な人気を博しているらしいんですが。
今はもう収まったのかな。
これもメインは模型でサブがチョコで立場逆転なんだけど、見事に利害関係が
一致してますね。
案外、老舗料亭の茶碗蒸しなんかを喫茶店で出したらウケルかも。
って、そんなわけないか(笑)