「井上靖の源流1」(静岡新聞)
旧制沼津中学校で学び、「夏草冬濤」など多数の名作を生んだ芥川賞作家井上靖をテーマにした第二回沼津文学祭が十「十二月、沼津市を中心に本格的に行われる。沼津など県内での生活は井上に大きな影響を与え、数々の作品にその体験が表されている。文学祭を機に肉親、研究者らが井上の実像に迫った。五回にわたり各氏の寄稿を紹介する。
家族ぐるみの付き合い・浦城いくよ
父井上靖は中学時代を両親と離れて沼津で生活しておりました。その頃のことは自伝小説「夏草冬濤」に詳しく書かれています。藤井(小説では藤尾)や金井(金枝)など何人かの文学少年仲間のことはあちこちに書き、紹介されています。「夏草冬濤」の後半に「磯村」という東京から転校して来た良家の少年が登場し、藤尾、金枝、洪作の三人は磯村家に招待され、フランス料理をご馳走になります。父はこの時代の仲間とはその後も親しく付き合い、家にもたびたび来られていました。しかし、私たち家族にとって一番親しみがあり、思い出深く、一生のお付き合いとなった方といえば「磯村」さんです。「磯村家」でのフランス料理は父によほど強い印象を与えたことらしく、とても楽しそうに何度も話してくれました。「フォークとナイフが置いてあってね。スープがお皿に入れられて出てきて…。フランス料理というものをあの時初めて食べたねえ」等々。
昭和三十二年、父の五十歳の時世田谷に建てた家(現在も母が住んでいます)を設計したのが「磯村」こと磯山正さんでした。沼津中学校卒業後、東京美術学校(現在の東京芸大)建築科を卒業され、住宅設計家になられ、芸術家の住まいなどを沢山設計された方で絵や歌も上手で大変素敵な方でした。小説では「肩幅の広いがっしりした上半身を持っている」と描かれた磯山さんの設計した家をいくつか見せてもらいましたが、いずれもその人柄と風貌を反映したがっしりとしたびくともしないような家でした。世田谷の家ができてからは毎日のように来られ、食事も一緒にしていました。自分で選ばれたどっしりとしたマスターチェアにはいつも磯山さんが腰を下ろしていたのを懐かしく思い出します。父は当時作家として最も忙しかった時期で、磯山さんの相手をする時間は殆どなかったのですが、書斎は大変気に入って「磯山君はやはり確かだね」と信用しきっているようでした。この書斎で「しろばんば」「夏草冬濤」「北の海」など自伝小説や後半の代表作を次々と書きました。数年後に建てた軽井沢の山荘も磯山さんの設計によるもので、今も家族が夏を過ごしています。
実は私の自宅も磯山さんの設計で、もう三十年以上も住んでいます。設計図は尺寸で書かれ、当時はやり始めたサッシなどは一切使わない磯山流の設計ですが、今もとても気に入っています。(うらき・いくよ氏井上靖記念文化財団評議員。1936年京都市で生まれる。青山学院大学卒。東京都町田市在住。)
「井上靖の源流2」
「負函」への思い絶筆に・伝田朴也
井上靖先生は、平成三年一月二十九日、八十三歳でお亡くなりになられたが、先生が亡くなられる前年の夏の暑さは例年になくきびしく、健康な人間にとってもたえ難いものであった。食道がんの摘出、肺がんのコバルト照射などを克服された中で畢生(ひっせい)の大作「孔子」に二年の歳月をかけられた先生のお体には、ことさらこたえる夏であったと思われた。
先生は自分の体のことについて弱音を吐かれることはほとんどなかった。八月下旬お伺いした時「どうも食欲がないんだよ。食道がないのでね。胃が食道の代わりをするといわれたが、そうはいかないね。栄養が不十分だと熱量が足りなくなるのか、この暑さの中で毛糸の下着をつけている始末だ」と笑われていた。先生のお顔はひと頃にくらべてやせてはおられたが、むしろ眼は輝き魂が燃えているといった感をうけた。「私にはやらねばならない仕事があるんだ」と。「九月十九日には旭川市が建ててくれた文学碑の除幕式に出席したい。十月には中国を訪れ、小説『孔子』の最後の舞台になる負函の地にもう一度立ちたいのだ」と。私は先生の眼にただならない決意のようなものを感じた。
九月に入って主治医の検診と指示に従って旭川行きの日程が決定された。除幕式当日、夜六時から、「孔子を語る」と題する記念講演会が行われた。論語の古注(こちゅう)を柱に高度の内容をわかり易くお話しになられた。十月の中国行きは準備が進んでいたが、直前になって主治医からストップがかかった。従って旭川行きは、先生にとって最後の旅となった。しかし、没後に絶筆として残されたものは負函の遺跡にかかわる随筆であった。
先生は人生最後の旅を旭川と中国の負函と決められた。中国の旅は実際には行けなかったが、病床の中で遺跡の中をさまよっていたのだと思う。しかも、それを作品として残すという作家のすさまじい姿があったのだ。なぜ先生はこれ程、負函にこだわっておられたのか。先生は「私は楚という国をこよなく好きなのですよ。楚国の葉公は今までの為政者が思いも及ばなかった他国の遺民(いみん)の収容という新しい発想の都市、負函を建設し、経営をやったのです。『葉公 政を問う子曰く 近きものよろこび遠きもの来る』」。先生のお話は楚、負函に対して熱い思いにあふれ、尽きることを知らなかった。本年もまた暑い残暑が続いた。いまや世界の情勢も急をつげ、明日が見えない。(でんだ・なおや氏 芹沢・井上文学館友の会会長。元同館長。などを務めた。1923年長野県で生まれる。沼津市今沢在住。)
「井上靖の源流3」
仏小説に感化、若者群像・藤澤 全(日本大学国際関係学部教授)
沼津文学祭のテーマは「井上靖と沼津」。そこで注視されるのは、靖にとっての沼津との関わりである。期間としては中学二年から卒業した年の夏まで(四年数カ月)であったが、この多感で人生の重要な時期を両親と離れて奔放かつ孤独に過し、文学的にも覚醒して、後日の大成の根幹をなした。周知の傑作『夏草冬濤』『あすなろ物語』、詩「海辺」などの作品の創出も、この地の豊かでやわらかな風土がさいわいしている。
この場合、靖が潮騒を背に読んだフランスの小説、フィリップの『ビュ・ビュ・ド・モンパルナス』(井上勇訳、大15・2新潮社刊)の感化影響の問題についてもチェックすべきこととなる。『私の自己形成史』に「初めて自分の若さの意昧を考え(略)自分の人生というものが、ひどく生き生きとした、幾らでもそこから享楽を引き出すことができる、そしてまた、それを劇的なものに組み立てることのできる、いろいろな可能性を含んだものとして現われてきた」と認め、自己語りのコードを沼津に繁げているからにほかならない。旅立ちの後はさらに文学的修錬を積んでいるので多くのことを考慮しなければならないが、私見では、先に挙げた諸作品とフィリップの前作品との間には、ある面での近似があるように考える。
ちなみに『ビュ・ビユ・ド・モンパルナス』は上級職受験準備中の苦学青年ピエールに、同世代の街娼ベルト及び紐のビュビュが絡む理不尽な展開をなす。靖の受容は専らその点にあったというべく、だから己の身辺にちなむ作品の構想に当たっては、若者による無意味で不条理な行為を作品に加えた。事実、詩「海辺」における学生集団間で起こった一瞬の闘争、『夏草冬濤』の洪作が帰郷の途中で不良少年達から「お前、生意気だぞ」と絡まれての鉄拳の非情さ、『あすなろ物語』の梶鮎太が「おまえの頭は少しどうかしているな」と上級生から受けたいじめ、などといった場面が散在、筋を彩って意味を添えている。このように見てくると、靖が沼津の風土の中に嵌め込んだ若者たちの群像のうちのワル達は、フィリップの造型した紐「ビュビュ」に似ていることに気づく。
しかし「ビュビュ」もそうなのだが、彼等とて自己のアイディンティティーに悩んでいるのである。誰しも「ビュビュ」的なものを持ち合わせているとの直覚が後日の前記諸作品の創意を育んだのだろう。かく内実をなす靖の文業の水源が沼津にあったことは、靖伝の急所として再認識を促さずにはおかないのである。
(ふじさわ・まとし氏 日本大学国際関係学部教授。日本文学・比較文学専攻。博士。「若き日の井上靖研究」などの著者。1937年北海道生まれ。三島市南本町在住。)
「井上靖の源流4」
少年歌人の繊細さ凝縮・四方一瀰=沼津文学祭開催実行委員長=
かつて母校沼津東高の『沼中東高八十年史』の執筆を依頼された。資料調査担当の方々のご努力で収集された『学友会報』の第三十二号に「五A井上靖」の名で九首の短歌が掲載されていた。私は自分の目を疑った。先生は、中学時代、作品は書かなかったと著書に記しているからである。改めて『夏草冬濤』をはじめとする自伝的小説や、『わが一期一会』『私の自己形成史』その他の著作を読み返してみたが、短歌を作っていなかったという叙述が多い。『学友会報』の短歌は驚きであった。作品が掲載されていた、」と以上に、それらの作品が中学生とは思えない繊細な心の襞のにじみ出た、深みのある短歌で未経験者の作品とはどうしても思えなかった。
『八十年史』はスペースに余裕はない。しかしこの九首がいずれもすぐれていたし、全作品を分断してしまってはこの作品群の醸し出す靖少年の創作意図を損なってしまう畏れがあった。と同時に、今まで知られていなかった人間井上靖の成長過程をうかがい見ることができる作品であること、さらに作品研究・人間研究に不可欠の資料であることなどを考慮して九首全作品を採録することにした。
『八十年史』が刊行されて間もなく、大岡信君から電話があった。その詳細は学研から出された『井上靖エッセイ全集』第一巻の「月報3」に掲載された大岡信君の「少年歌人井上靖について」に記されている。大岡君にとっても中学時代の井上靖の短歌は驚きであった。「井上さんは中学時代には詩も歌も書かなかったと、いろんな文章の中で何回もはっきり書いているだろ」と信じられないとばかりの発言であった。私も「気になってさ。井上さんの本をよく調べたんだ」と答えると、「これは四方の貴重な発見だぜ」と応えた。そしてさらに「この短歌を紹介させて貰っていいか」と尋ねるので、「いい歌だものね」と喜んで彼の要望を受け入れた。以後いろいろな機会に大岡君はこの短歌を紹介している。彼は「これは、井上さん、すっかり忘れているのかしらねえ」と話していたが、井上先生ご自身、中学時代の短歌のことはすっかり忘れておられたようである。
『エッセイ全集』第一巻と「月報」を学研の有働氏がお届けに上がり、短歌のことを伝えると、先生自身驚かれ、「僕の歌があるよ」と、嬉しそうに声を挙げて詠みながら隣の部屋に居られた奥様のところへ知らせに行ったとのことである。
(よも・かずみ氏沼津史談会会長。元国士舘大学教授。主な著書は「『中学校教則大綱』の基礎的研究」。1930年沼津市で生まれる。同市松下町在住。)
「井上靖の源流5」
人間信じる哲学にあふれ・勝呂秦(静岡聖光学院教諭)
四十代になって、ぼくは井上靖の文学に親しんでいる自分に気付いて驚いたことがある。家父のささやかな蔵書の中にあった井上作品に読み耽っていたのは、遠い思春期のことだ。『あすなろ物語』『しろばんば』『夏草冬濤』など、今思えばそれは夢深い心を文学の蜜で養ってくれる経験だった。けれども、ぼくの中で井上が長く親しい作家としての位置を占め続けたわけではなかった。
井上の文学は中庸の明るさと言えばいいか、青春を過ごすぼくには、やがてそれがもの足りなくなった。もっと頽廃的な匂いを文学に嗅ぎたくなった。そんな嗜癖を追い回すうちに「井上離れをし、卒業したかのように思い込んだのだ。それを錯覚と気付くのに、随分と回り道をしていたのである。
十年ほど前、ぼくは眼の角膜を痛めて、瞑の裏の暗がりを思うだけの生活をしたことがある。その時に慰めとなったのは、「井上靖が語る川端康成」という一本のカセット文芸講座だった。枕元に置いたデッキを、指先で繰り返し操作するうちに、そこに語る温容の浮かぶ声はぼくのなかに棲み始めた。懐かしい優れた鑑賞家がそこにいた。以来、促しに従って川端を再読するに留まらず、井上作品と向き合い直し始めた。折から天城昭和の森会館の故梅原實雄氏のお誘いで、文学講座の講師を勤めたことが手伝って、ぼくの井上勉強は深まった。会館敷地内に移築された旧井上邸で話す機会を得たことは忘れ難い。改めて読み進めた井上作品は、かつて不満にした理由が、そのままに豊かな魅力になって感じられる不思議に満ちていた。『しろばんば』『夏草冬濤』は、還ることのない幼年の、また少年の時をあるがままに愛しむ思いの光に包まれていた。『姨捨』や『わが母の記』には、静かに息を継ぐような人生の思索があり、ぼくの胸の裡に灯をともした。気付けば井上文学に人生を敲くようになっていたのである。
今もし井上文学の一冊を問われるなら、ためらいなく『孔子』を挙げる。大河に譬えられる井上の文学の軌跡を大成した作品だからだ。天命をめぐって深まる思索には、学究の書とは截然と異なる人生論が横溢している。それはよき人間を信じる哲学である。井上の作品に眼と耳を、そしてなおき心をこれからも開いていたい。
(すぐろ・すすむ氏静岡聖光学院教諭。上智大学大学院修了。芹沢光治良、井上靖、小川国夫らの研究を続ける。1955年伊豆市(旧土肥町)生まれ。静岡市葵区北安東一丁目在住。)
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