洪作少年の道

戻る







「街道再発見」・静岡新聞2月10日号

洪作少年の道

『氷壁』『猟銃』などめ現代小説、歴史文学の『天平の甍』や『風濤』、西域物というジャンルを打ち立てた『敦煌』などの作品で知られる井上靖は、幼少年期を天城湯ヶ島町(現・伊豆市)で過ごしました。

靖の湯ヶ島での暮らしは、小説『しろばんば』の中で、"洪作少年"の成長の過程や彼を取り巻く自然、下田街道の移り変わりとともに生き生きと描写されています。

井上家の祖先は四国の出といわれ、十七世紀後半の明和期に湯ヶ島に定住したと伝えられています。代々、医業に携わってきたとされていますが、医者として名を上げ世に知られたのは六代目の潔でした。

潔は、安政年間長崎に来訪したオランダ軍医のポンペの下で医学を学び、明治になって初代陸軍軍医総監を務めた松本良順の弟子でした。門下生として医術の修得に励み、掛川藩医から足柄県韮山医局長、三島の私立養和医院初代院長などの重職を歴任しました。

潔は菊間藩士の娘と結婚しますが、この妻・飛呂が『しろばんば』にでてくる「婚礼の時朱塗の風呂桶と二本の薙刀を持って来て、そのことが長く村人の語り草となっていた」おしな婆さんのモデルとされています。

潔と飛呂の間には実子がなく、実妹の息子で甥にあたる足立文太郎を後継者として、医学を学ばせます。この文太郎は、現在の韮山高校にあたる伊豆学校から一高・東大へと進み、ドイツ留学の後、京都大学医学部教授となって、退官後には大阪高等医学専門学校の初代校長を務めた人物でした。

また、井上家の家督を継がせるために実姉の次男・文治を養嗣子.として迎えました。そのために、飛呂を文太郎・文治らの養育にあたらせる目的で湯ヶ島の家に行かせます。

『しろばんば』に、洪作の曾祖父・辰之助としてでてくる潔は、「一番働き盛りの三十代半ばに、総ての公職を棄てて伊豆の山奥へ引っ込んで、田舎医者として後半生を送ったのである。辰之助は田舎で開業医として忙しく暮らした。駕籠で、半島の基部の三島や、またその半島の突端部の下田まで、往診に出掛けるような繁昌ぶりを示した」と描かれています。

潔は、三島の芸者であったかのを見初め落籍して、湯ヶ島に連れて帰ります。井上家を継いだ文治に本家を譲り、近くに家を一軒構えて、そこで開業してかのと暮らしました。かのは医院の受付から看護婦のようなことまで努め、潔が亡くなるまで蔭になり日なたになり面倒を見ることになりました。

さらに、かのを養女として入籍後分家させ、文治の子・八重をかのの養子としました。

自分に尽くしたかのの晩年を潔はそのようにして報いてやったのです。

この八重と、同じく井上家の家督とするために養子に迎え、金沢医専卒業後に陸軍軍医となった隼雄と八重との間に一九〇七年に生まれたのが井上靖です。

「そもそもの事の起りは、洪作の母の七重が、洪作のあとに妹の小夜子を生んで、幼児二人を育てるには人手もなく、そんなことから、ごく短期間のつもりで、洪作をおぬい婆さんに預けたのであった。おぬい婆さんは自分の懐うに転がり込んだ願ってもない宝物を、一度手に入れた以上終生決して離すまいと決心したのに違いなかった。おぬい婆さんがそうした考えのところへ、洪作自身が、おぬい婆さんの許で五歳から六歳へかけての一年を過ごすうちに、両親よりおぬい婆さんの方になついてしまって、家へ帰りたがらなくなってしまったのである」曾祖父潔が他界してから六年後、このようにして井上家の分家の土蔵での、靖とかのの生活が始まりました。

江戸時代の将軍親閲の「村々様子大概帳」には、当時の町や村の様子が記録されています。各地の村に「大困窮」、「賑ある村」、「大概の村」といった具合に等級がつけられています。それによると、伊豆の中では、下田、熱海が「賑ある村」とされ、一般的に豊かな村は「大概の村」ということで、侮岸部の網代、大瀬、松崎、山間部では市山、湯ヶ島などが挙げられています。

市山や湯ヶ島には林業もあり炭も生産、山葵や椎茸なども栽培しており、現金収入のある豊かな地域であったようです。古くからの血筋が残り旧家も多く複雑な縁戚関係が形成された土地柄でもありました。

そんな中、靖は多くのしがらみの中で少年時代を過ごすことになります。洪作少年"洪ちゃん"を主人公にした『しろばんば』には、大正のはじめのころの湯ヶ島の風景や下田街道の沿線の村々の当時のありさまがさまざまな場面ででてきます。

駕籠で行き来した曾祖父・辰之助の時代の昔話、喇叭(らっぱ)を持った御者にあやつられる馬車のことや大仁部落から出て三島へと通じていた軽便鉄道に乗る様子なども描かれています。