−鏡− 扉を開けると、花の香りが漂ってくる。 そして、愛する人の少しくぐもった、甘い声が出迎える…。 国境ではうまくやれた。 警備兵の目を欺き、何も気づかれることなく恋人を隠して西側へ出ることができた。 新しい生活もうまくいっている。 古い知り合いのつてで、二人とも割のいい仕事にありつくことが出来たし、逃亡者のための施設から日当たりのいいアパートへと比較的早くに移ることも出来た。 近隣に知り合いも増え、職場では親しく口をきく友人も出来た。 二人とも仕事に忙しく、日々の食卓は慎ましいものだったけれど、休日には恋人の手料理や焼き立てのパンが並んだ。 時にはワインを飲んでふざけて笑い、愛を交わし合っては眠たい朝を迎えた。 日々の暮らしを整えるのに忙しくて大分遅れてしまったが、なるべく早く役所へ届けを出し、正式に籍を入れる予定になっている。 「以前は祝ってくれる人が一人もいなくても構わないと思っていたけれど…」 式には新しい友人たちを招待したいと思っているの、と未来の妻は話している。 この前の祝日には、ドレスを見に行った。 白いドレスを何着も試着して、頬を染めてはしゃぐ彼女を見ていると、ここへ来ることを決意したことはやはり正しかったのだと、確信が持てる。 彼女の少年のように短い髪も、白いレースにうずもれると途端に初々しい女性の美しさを引き立てるこの上ない小道具になっていた。 どんな花で、あるいは真珠で、彼女の髪を飾ろうか。 日曜の朝にはいつも、二人で色とりどりの花を買ってくる。 テーブルに花瓶を置いて、部屋を色彩と甘い香りで満たす。 何もかも滞りなく、幸せな暮らしだった。 パンの匂いに、花の香り。 自分たちは、幸福なのだ。 それなのに、ハインリヒにはひとつ、気にかかることがあった。 鏡の中の自分に、妙に生気がないのだ。 もともと明るい顔立ちではないとはいえ、こちらへ来る前までは、緊張はしていたが希望に満ち、生き生きとして見えたのに。 どこか悪いのかとも思ったが、体調は悪くなく、仕事へも支障なく行くことが出来た。きっと新しい生活の疲れが出ているのだろうぐらいに考えて、日々をやり過ごした。 それでも、毎朝顔を洗い、鏡を見ると、自分の姿が映る。 それが、日に日に憔悴してゆく。顔色は蝋のように青白い。 まるで、人形のようだった。 確かに自分自身のはずなのに、鏡の中の顔は別の男のもののように思われた。その男が、時に自分を見つめているような気がして、恐ろしかった。 心配の種など何一つない自分が、なぜこんな風に憔悴するのだろう。 そのうち彼は鏡を見ることをやめてしまった。 ただこの幸福な日々を、ヒルダと過ごしてゆけばいいのだ。彼女には言わないでおくのがいい。 だがある日、部屋でコーヒーを飲んでいるとき、彼女が訊いた。 「ねえ、何か気になることでもあるの?」 白状すべきときが来たらしい。 観念し、この頃自分の顔色がひどく悪いのではないかとたずねると、 「なんともないわよ、疲れているんじゃないかしら?」と無邪気な心配をしている。 こんなに憔悴している姿に、気が付かないはずはないのに。 彼は再び、鏡に向かった。気遣うヒルダが寄り添ってくる。 「ほら、なんでもないでしょう?」 彼女の目には見えないというのか。彼には確かに見える。 そこにはやはり、つくりもののように蒼ざめた男がいるのだ。まるで自分ではないようなその顔。 「そうだな、なんでもないよな。」それでもそう笑って、ヒルダを抱き寄せようと鏡から目を離そうとしたその刹那、ふいに、男の空ろな瞳が彼を射抜いた。意識が遠のく。がくりと膝を付くと、ハインリヒはそのまま床に倒れこんだ。 一瞬、部屋を満たす花の匂いがし、そして遠く、ヒルダの悲鳴が聞こえたような気がした。 ………… 気が付くと、一人、鏡の前にいた。 錠の下りた、真っ白な部屋だった。 花の香りなど、しなかった。 ヒルダの姿など、どこにもなかった。 頭がひどく痛む。 ただ鏡の中の自分だけが、幸福そうに笑っていた。 |