雪の夜

 冷え込む日が続いている。
 ただでさえ灰色のこの街の石畳の端々に、この国の義務として丁寧にどかされた雪の塊が、灰色に汚れた姿を晒している。
その灰色がうっとうしくて、胸がふさぐ気がしてたまらず郊外へ車を走らせた。ライトが雪に反射する。

「…雪が好きなの」灰色の冬の街で、彼女は言っていた。
「街では邪魔じゃないか?一度道端で転んだことがあったろう」
 彼女は美しく笑った。
「そうだったわね。でも…こんな街の真っ黒な空でも、舞ってくる
最初の雪はまるでお砂糖のように見えるじゃない?」

 車が交差点を飛び出してくる。スリップしたのだろうか。
ブレーキを踏み、やり過ごす。信号の赤が濡れて凍った道路に映っている。

 最後の冬はどんな話をしたか…最初に雪の降った日も、そして最後の雪の夜も…一緒だったか。

 全てが遠くなって今は一人雪の中車を走らせている。
人通りもなくなり、周りに見えるものは森とも呼べるほどに木ばかりになった。

 広い道路の端に車を止める。
 
雪原に向かって歩き出す。

 林の中で広く真っ白なそこは、まるで湖のように見えた。
さくさくと足を踏み入れ、ただ雪に埋もれながら歩く。ふんわり積もった雪は暖かい空気を含み、足先も痛まない。
…もっとも感覚を調整すればどうということもないのだが。

 そろそろ真ん中へ来たかと思ったとき、…
 そのとき、
懐かしい香りが降って来たように思えて白い雪に目が眩んだ。

 ひとひらひとひら舞う雪が、あの懐かしい香りを纏っている。
 こんな冷たい氷の結晶が、こんなにも暖かい香りを纏っている。

 立ち尽くした。
 その場所に。
 香りの降る場所に。

「寒くないか?」
「今年最初の雪は見たか」
「子供のように喜んだのか」
「白い雪を子供のようにまるめて、美しい唇に運んだのか」…
白い手でいつもしていたように。

 問いが溢れ、想いが溢れてくる。
 止まらない。止められない。
まるでこの雪のように、懐かしく暖かく、胸を灼く思い出が胸に降り積もる。

「寒いのは平気」
「今年の雪も綺麗ね」
「いつも雪を喜んでいるわ」
「今年の雪は少し甘いみたい」


 問いかける数と同じだけ、言葉が胸に返ってくる。
 帰って来ている、君はここにいる。
 思わず香りに手を伸ばす。

…触れようとして

離した。

 この指で触れたくない。今のこの手では君に触れられない。

 そう思った。
 そして立ち尽していた。ずっと、ずっと雪の中に。
 彼女の傍に。

「風邪を引くよ」
「大丈夫」
「雪は冷たい」
「雪は綺麗よ」
「あんなに灰色に汚れて」
「溶けて空に帰り、また白く降るわ」
「凍るようだ」
「…肩を抱いて」
「出来ない」
「…私に抱かせて」
「……」

「…泣かないで……」

………


 彫像のように立ち尽くす男の、髪にも肩にも
いつしか重たくつめたい雪が降り積もり、涙とも見える粉雪が睫毛に絡んでいた。
 その上に、ただあの香りだけが、軽やかな雪を纏いいつまでも降り続いている。



(数年前に描いた「雪の夜」という絵に文章を書いてみました。)
雪の夜イラストへ


back to *VERSES*