073: 伊達眼鏡


 女には、男が酒を飲むときの癖が感染るものだ。
 あたしはそう思っている。

 あの男とは、同じアパートに住む「ご近所さん」同士だった。
 日々を過ごすうち、なんとはなしに言葉を交わすようになり、酒を共にするようになり、
 やがて時にはシーツを共にするようになっていった。
 あの男の身体は変わっていた。
 でもあたしは別に気にしなかった。
 あたしを金で買おうとするような男たちには、少々不都合な身体を
 もてあましている者も多かったから。

 互いに行き先は告げない。
 予定なんてものは聞きもしない。
 ただ、会えば立ち話をし、時に互いを部屋に呼び合い、共に夜を明かす。
 それだけの仲。
 あの男がいなくなっても、あたしは別段何とも思ってはいなかった。
 あたしと同じ、一人で生きている男。流れるように。
 あの男もまた、どこかへ流れていったのだろう。

 それなのに。
 今夜、一人部屋で酒を飲んでいるあたしはどうもおかしい。
 あたしの男なんてものではなかったはずのあの男の癖が、
確かにあたしに感染っている。

 あの男は、あたしが出す氷を入れたウォッカには妙な振る舞いをした。
 グラスの氷にじっと目を据え、遠い表情をする。
 手にしたグラスを一度だけ軽く振り、氷をカラリと鳴らし一息に飲み干す。
 そして解けかけた氷をまるで無理にするようにガリガリと噛み砕いてしまう。

 今夜のあたしもそう。
 ウォッカと砕かれる氷の冷たい痛みが
喉を焼きながら口の中であの男の残像を結ぶ。
 どうかしている。
 あたしは立ち上がると、粗末なクロゼットの下の引き出しから度の入っていない
 眼鏡を取り出し、無造作にかける。

 縺れた髪には淫らに見える眼鏡姿のあたしは、
意味のないガラスを一枚通して、
 そこに映る意味のない世界のあるはずもないあたしの癖を眺めてみる。
 マニキュアを落とした黄ばんだ長い爪で、
グラスを一度だけ揺らして。


                                                (2004年9月30日)

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036: 火酒(ウォッカ) 


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