花を埋める


 ハインリヒは、花を買った。
 滅多にすることではなかった。何日も迷った挙句のことだった。

 地味な花屋の店先でその花を見つけたとき、息が止まるような気持ちになった。遠い日々が一気に押し寄せて、眩暈がした。
 この花を手元に置くことなど二度となかろう、そう思ったのに、夕方から明け方まで続いた長距離輸送の仕事の間ずっと、青い花は彼の胸から去ることがなかった。仕事が終わって街へ戻ったとき、彼の足はまっすぐに花屋へ向かっていた。

 束ねてもらった地味な花束を手に部屋へ戻ると、ハインリヒは何か花瓶になるものを探した。花を買うことなどないので、ふさわしいものは何も見つからず、大き目のコップに花束を挿した。もとよりみすぼらしかった花々はコップの中でばらばらに首を傾げ、いっそうみすぼらしい姿になった。
 日当たりのあまりよくない住まいの中、少しでも光に当ててやろうと、彼は花を窓辺に置いてやった。まだ早い朝の光をわずかに受けて、青い小さな花に宿る滴がきらきらと光った。みすぼらしかった花は、急に美しい光を宿した。
 
 ******

 青い花束を両腕に抱えて、ヒルダは部屋に現れた。
 約束より、30分も遅れていた。少しはなじろうかと思っていたのに、花を持った彼女の様子を見たら、そんな気持ちなど一気に消えてなくなってしまった。
 「ごめんなさい、このせいで時間がかかっちゃったのよ。」彼女は少々すまなそうに、それでもいたずらっぽく顔中で笑って、花の中に立っていた。
 キスしようとしたが、花束が邪魔をした。ハインリヒは彼女を後ろからそっと抱きしめると、うなじに口付けた。

 「この花、あなたに似ていると思って…。」白い陶器の花瓶にたっぷりの水を注いで花を活けてやりながら、彼女は言った。
 「俺が、花だって?」面食らっているハインリヒに、彼女は一本の花を差し出して言った。
 「ああ、この方がしっくり来るかな。花束にしちゃったら、分からなくなっちゃう。」
 淡い青色と、そっけない佇まいと、そして少し寂しいような様子が、似ているのだという。

 テーブルに飾られた青くけぶる花束と、手の中の一本の花を見くらべながら、ハインリヒは苦笑した。そして、いつかヒルダに似た、可愛い花を贈ってやろうと決めた。

 ******

 花は、窓から吹き込む風に花びらをかすかに震わせている。

 味気ない日常に急に現れた昔の欠片に戸惑い、ハインリヒはそれらにまともに目を向けることはできなかった。それでも、寂しげな命のために、手をかけてやることを忘れることはなかった。コップをいつも新鮮な水で満たし、窓際の光に当ててやった。

 青い花は、幸せだった日々の端々を水の滴と共に彼の窓辺に零しているかのようだった。

 幾ら手をかけても、花の時間は無情に過ぎてゆく。
 ある日長い夜勤から戻ると、出掛けにはまだ綺麗だった花は、すっかり萎れてしまっていた。

 やはり、花など買うのではなかった。
 花は、枯れてしまうから。大切な何かまでもが、一緒に死んでしまうから。
 子供でもあるまいし、分かっていたことなのに、胸が痛んでどうしようもなかった。

 あのときは、どうしたのだったか。萎れた花は、無造作に捨ててしまったのか。記憶の中の花は美しいばかりで、その行く末などもう覚えてはいなかった。

 彼は枯れた花を手に取ると、部屋を飛び出した。助手席に花をばさりと乗せ、郊外の森へと車を走らせた。
 森の遊歩道のそばに車を止めると、彼は花を手に歩き出した。どこか、適当な場所はないか。この花を埋めるのに。

 道の脇の少し柔かそうな土に膝をつくと、ハインリヒは土を掻き分け始めた。子供の遊ぶ声がどこかから聞こえてくる。十分な深さまで掘り進めると、彼は青色の褪せた花束をそっと横たえて、土をかけ始めた。夢中だった。
 「あなたに似ていると思って…。」
 「花束にしちゃったら、わからなくなっちゃう。」
 花の中に立っていたヒルダ。
 花を手に戸惑っていた自分。
 光に満ちて瑞々しく香っていた、青い花束。
 それらすべてが、ざらざらと注ぎ込まれるこの土の下に消えてゆく。

 ふっと我に返ると、脇に子供たちが立っていた。ぎくりとして見上げる。 
 「おじさん、何を埋めているの?」子供の一人が訊いた。
 「死んでしまったものだよ。」
 「何が死んじゃったの?」
 「とても、大切だったものだ。」
 「ふーん…。悲しいね。」

 花をすっかり埋めてしまうと、ハインリヒは深い息を吐いた。そしてゆっくりと立ち上がると、服に付いた泥を払った。子供たちは、何か思いついたように走っていく。

 遊歩道を戻り始めると、枯れ枝と落ち葉が、ざくざくと音を立てた。花の香りなどととうに消え果て、木々の葉の匂いの風が吹き抜けていった。ふと、子供の声のするほうを振り返って、彼はどきりとした。
 
 子供たちは、枯れた枝で十字架を作っていた。
 あの日、光の中に揺れていた青い花の、墓標とするために。



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