カルテ開示は国民医療を破壊する

環境整備の無いままのカルテ開示には反対である

「はじめに」
 今、この時点で非開示の意見を言う事は非民主的な医師、非論理的な医師、非非非非・・・もうどうしょうもない医師というレッテルを貼られてしまいます。しかし本当にそうでしょうか。世の中、開示、開示の大合唱です。そしてそれにとてつもない時間を浪費?しているような気がします。
これは本当に、そんなに時間をかけて論じるような問題なのでしょうか。
私自身は全ての検査結果、薬を日常的に開示しています。時には気軽に自身の記事も見せる事があります。そして、いわゆる「私のカルテ」も作って必要な患者には渡しています。
しかし、だからと言って私は開示論者ではありません。それどころか開示は患者の権利だとか、全ての医者は開示すべきだと言う意見に対して少々疑問を持っています。
そしてこの開示は日本の医療を破壊していく道ではないかと危惧しています。更に言えば国民が勝ち取ってきた大切な権利を自ら壊していく運動のように思えてなりません。

 さて、カルテの開示(全面開示だけを指しています。一部開示は開示ではないので論外とします。)を巡って様々な意見が飛び交っています。
開示論者の「開示論の根拠」は様々ありますが要約すると次のようなものでしょう。
  医療従事者・患者の信頼関係の強化、
  医者と患者の上下関係の是正
  情報の共有化による医療の質の向上
  個人情報の自己コントロール権
  自己決定権のため
  インフォームドコンセントのため(十分な情報の提供を受け、自由な同意)
  開示をすれば医療記録の整備がすすむ
  他者の作成でも自分について書かれたものは自分の情報
  閉ざされた医療に倫理は育たない
  真実を共有するため。 嘘のない医療のため
  プライバシーを守るため
しかし、これらの意見と開示との関係は何等ありません。開示が無くともすべて可能な物ばかりです。開示と関係のないモノを無理矢理取り上げて「だから開示が必要なのだ」と叫んでいるようです。開示論者はなんとしても開示の方にもっていきたいのでしょう。

例えば「インフォームドコンセントのため」に開示が必要だという論議は誰がみても可笑しい論議です。口頭でも図を描いてでも十分に説明する事はできます。開示をしなければインフォームドコンセントにならない事はありません。
WHOのヨーロッパにおける患者の権利の促進に関する宣言 1994年3月において「患者は、容体に関する医学的事実を含めた自己の健康状態、提案されている医療行為およびそれぞれの行為に伴いうる危険と利点、無治療の効果を含め提案されている行為に代わりうる方法、並びに診断、予後、治療の経過について、完全な情報を提供される権利を有する。」。開示論者は、この文書をよく引き合いに出して、だから開示が必要だと述べています。しかし、この文章のどこにも全面開示が必要だとは述べられていません。情報の提供をする事が大切だと述べているだけです。世界医師会・患者の権利に関するリスボン宣言改訂(1995年9月)も同様です。情報の提供が大切な事をうたっていますが、カルテの全面開示などという事は一言も言っていません。
「医療記録」の整備を進めるために開示が必要という論議は本末転倒です。勿論、開示をするためには医療記録の整備は必須ですから整備は進むでしょう。しかし、開示をしなくても整備はきちんとすべきですから、整備のために開示をするという論議は頂けません。(カルテについての小生の論文ー 1992年6月27日、医事新報を参照して下さい。)
「医療従事者、患者の信頼関係の強化、情報の共有化による医療の質の向上」も開示をしなければ出来ないというものでは無いことは自明です。インフォームドコンセントを十分に行う事で解決すべき問題でしょう。
「個人情報の自己コントロール権」「自己決定」も殆どインフォームドコンセントの世界です。検査用紙の複写を渡すなど、いわゆる「私のカルテ」等も有効でしょう。開示をしなくても出来ることばかりです。
医者と患者の間に上下関係などあろうはずがありません。もしあると考えている医者がいるならそれはその医師の人間性の問題です。カルテ開示で、その人間性が変えられると思っている方がおかしいのではないでしょうか。医師と患者の関係は人間的には全く平等です。ただ立場の違いがそこにあります。診られる者と診る者です。診られる者は診られやすいようにします。診る者は診やすいようにします。そこには椅子の違いも服装の違いもでてくるでしょう。これは上下関係という差別ではありません。立場の違いの区別です。男と女は平等であるが、男風呂と女風呂があります。これは差別ではなく区別からくるものです。これと同じなのです。
真実の共有化のために開示は必須でしょうか。真実は口頭で十分に伝えられるし共有できるはずです。カルテを見ないと医師が信じられない患者、カルテを見せないと患者から信頼されない医師、この関係がそもそも不正常ではないでしょうか。しかし、私は真実の共有化は必ずしも必要ではないと思っています。なぜなら「真実は言わないで欲しい」という患者も相当数いるからです。「死ぬまでだまして欲しい」という患者に真実を言う必要はないでしょう。最後まで上手にだましてあげるのも医療だと思います。
「真実を共有するため」も「嘘のない医療」も、それをやりたければ口頭で十分出来ます。
 ガンの告知とカルテ開示は本来別々の問題です。検査をしてから告知を検討しようとするから問題が起こるのです。検査をする前に「癌であればあなたはどうしますか。告知を受けますか、それとも受けませんか。家族の方に話をしますか。等々」を聞いておけば告知の問題で悩むことは決してありません。
このように全面開示でなければ出来ないものは何一つないのです。要は十分な説明と同意ではないでしょうか。いわゆるインフォームドコンセントに尽きると思います。

『診療録とは何をいうのか』
 診療録とは何を指すのかを整理しておきます。一言で言えば診療録とは患者にかかわる全ての記録物でしょう。
そして大きく分けて、カルテとカルテ以外のものとに分けられます。
カルテは表書きの一号紙、診療記録の二号紙、計算用紙の三号紙を基本としています。
そのほかに尿、血液検査、生理検査、画像検査等の記録用紙が入る事もあります。
また紹介状、診断書、証明書、入退院記録、その他文書控え等の各種文書が入る事もあります。その他にも、院所により様々なものが入っています。そして、それらを全てをカルテと称しているのが現状です。
入院カルテには看護記録、温度板、重症指示表等、外来カルテにはないものがあります。これらはカルテ内に納まっている事もあれば、カルテ外にあることもあります。
カルテ以外の診療記録には各種のレントゲンフイルム、心電図、眼底フイルム、エコーフイルム、内視鏡フイルム、脳波記録紙、呼吸機能記録紙、その他諸々の記録物があります。そして日進月歩の医学ですから、様々な記録物が大量に増えています。
また外来カルテと入院カルテは少し内容が違っています。

『カルテの中の主観的なものと客観的なもの』
 診療録の開示は「カルテの開示」と同義語と言っても差し支えないでしょう。カルテ以外の診療録の開示に抵抗を示す人は少ないと思います。カルテ以外の診療録は医療人の主観が何ら入らない客観的なものです。患者そのものを写しています。
カルテには客観的なものばかりでなく主観的なものも多く入っています。
客観的なものは一号紙、三号紙、尿や血液検査等の記録紙です。
主観的な物は検査の所見用紙、二号紙でしょう。
所見用紙は医師の意見が記載されていますので主観的なものと言えるでしょう。
二号紙は日付印以外は殆ど医師の主観・裁量が記載されています。
このように診療録には主観的なものと客観的なものがあります。

『客観的な個人情報は見せるべき』
客観的な記録はカルテ内、外を問わず開示するしないは問題にならないでしょう。
客観的な情報は、見たければみなさいと言えるし、見せて説明した方が分かりやすい事が多くあります。見せるほうも見せられるほうも問題ないでしょう。
画像検査等の所見用紙も主観的な物ですが、さほど問題はないものです。それは既に客観物である画像検査等を説明した後だからでしょう。
一番の問題点は主観的なものの代表である二号紙と看護記録でしょう。
そこで主観的なものの代表である二号紙を例にとって話しを進めていきます。





「二号紙とは?二号紙には何が書かれているのか?』
 二号紙には日付が書かれます。日付印が押される場合もありますが、これは必須条件です(医師法23条)。
次に診察記録を記載します。どのように記載するかは個人の裁量に任されています。
医師法23条には「病名及び主要症状」「治療方法(処方及び処置)」を記載せよと書かれています。また療養担当規則には「遅滞なく記録せよ」とあるだけです。
しかしそれだけではなく患者の訴え、患者の客観的状況、医師の判断、そして医師の診療計画(S,0,A,P)も書くべきでしょう。さらに、検査をするならその検査を何故するのか、検査結果が出たなら検査結果の記録をきちんと記載します。そして投薬内容、検査の指示、処置の指示、診断書等の文書の指示等、公的資金である保険請求の元となる内容をきちんと記載します。指導料をとるなら指導内容も記載します。

『カルテは患者の物ではない。医療機関の物。』
 カルテの二号紙は医師が患者の様子を記載した医師の記録用紙です。これを開示論者は「患者のものだから患者にも見せるべきだ」と主張します。
しかしそうでしょうか。「患者の事が書かれているから患者のものだ」と言う乱暴な話しがとうるなら次のような例は如何でしょうか。
例1。大工と下書き。画家の下絵。
 大工さんに家の建築を依頼しました。家を完成させ、引き渡す、これが注文主と大工の契約です。注文主は家を貰えばいいのです。大工は家を完成させるまでに何枚も下絵、下図を書きます。大工はその一枚を見せながら説明もするでしょう。しかし注文主が大工の描いた全ての下絵、下図を見せて下さい、見せるべきだと言ったらどうでしょう。注文主がその下絵、下図を見る権利はない事は誰の目にも明らかです。家を引き渡す事を契約したのであって、途中経過の下絵、下図まで要求する権利は注文主にはないのです。医療も同じです。最終的な検査結果を報告する義務、治療をする義務はありますが途中の思考過程を見せる義務はないのです。
画家に絵を注文した時も同じように言えるでしょう。デッサンの全てを見せろ、それも私のものだとは言わないでしょう。
例1は不適当だと言う人もいます。そんな事はないのですがもう一つ例をあげます。
例2。隣の家についての作文。隣の家の写真撮影。
 隣の家の人について散文を書きました。散文は誰が何を書いてもいいものです。しかし隣の家の人が「それは私の事が書かれているから、私のものだ。見せるべきだ。コピーさせるべきだ」と言ったらどうでしょう。開示論者だって「隣の人の事を書いてあっても、書いたのは私だから、これは渡せません。見せられません」と言うでしょう。
患者の事が書かれているから患者のものだという論理は可笑しいのです。
写真を例にとっても同じ事です。隣の家を写したら、確かに隣の家が写っていますが写したのは私だから写真を見せる見せないは私が決めればいいことです。自分の家が写っているから、その肖像権を理由に見せるべきだ、写真をコピーさせるべきだという事はいえません。写真も、散文も私のものなのです。
しかし、こういう分かりやすい例を上げても、分かってもらえないのが現状です。
開示論者の弁護士でさえ、上記の例は法的に間違っていない事を認めています。しかし見せろと言います。彼らも矛盾を承知しているのです。
 カルテは誰のものか?という議論がよくあります。開示論者は患者のものだと言います。これは明らかに間違っています。患者の事が書かれてある物である事は間違いありませんが「患者の事が書かれている物=患者の所有物」ではありません。開示に反対する医師の中には、医師のものだ、医師の私物と言う意見がありますが、これも少し違います。カルテは「医療機関のもの」なのです。その責任者はその医療機関の保存義務者です。個人医師経営の診療所においてはカルテ作成者と保存義務者が同一人となります。同一人ですが、カルテ上のトラブル、罪は医師としてではなく管理責任者として責任をとる事となります。
患者のものではないから患者にカルテを渡す等という事は決して許されないことなのです。医師法24条2項には「カルテは医療機関に5年間保存しなければならない」と書かれています。
同様にレントゲンフイルムは誰のものか、心電図は誰のものか?結果の記録された検査伝票は誰のものかと言う議論もしばしばありますが、結果は同じです。
写真家があなた写したからと言って、その写真は私のものだと言う人はいないでしょう。それと同じく、レントゲンフイルムに誰の胸が写っていようと、撮った医療機関の所有物なのです。こういう簡単な意見が中々分からないようです。

『二号紙は公文書か私文書か』
 二号紙は私文書か公文書かの論議をもう少し丁寧に行えば、開示出来るものなのか出来ないものなのかがはっきりする筈です。ここのところの論議が煮詰まらないまま開示論争が流れているところにお互いの歩み寄りがないのではないでしょうか。私文書であるという結論ならば、個人の日記、手紙と同じですから見せろと言っても見せる必要はありません。反対に公文書であるならば、手続きを踏んで見せるべきでしょう。
法律的には、公務員の医師が書いたカルテ以外は私文書です。
それは前記の『二号紙とは?』で述べたとうり私的な医療機関の医師の主観的な記録物だからです。そして、六法全書を繙いても、療養担当規則を隅から隅まで読んでも何処にもカルテは公文書であるとは書いてないからです。公文書的な性格はありますから、カルテ以外の診療録は3年の保存、カルテは5年保存と決められています。
しかし、これは飽くまでも公文書的な性格であって公文書ではないのです。
公文書は情報の公開が必要です。それを求める事は何ら問題はありませんし当然の権利です。しかしカルテが私文書である以上、医師、看護婦など、記載者本人、医療機関の了解なしには本人と言えども見る事は出来ません。ましてや見せろ、見せるべきだとも言えません。






『私文書なのに見せろ、見せるべきだというところに問題あり』
現在のカルテ開示論争の問題点は、私文書という見ることが出来ないものを「見せろ」、「見せるべきだ」と言う点にあります。
そしてまた、通常の方法では見ることの出来ない私文書を「見せるべきだ」と、見せたく無い人に強要しているところに問題があるのです。個人の日記を「見せろ」というのと何等かわりがないのです。
私文書であるが「見せたい人、見せてもいいと考える人」が見せればよいのです。
見せるのが正しいのだ、何を隠し事をするのだと、見せたくない人にまで強要しているところに現在の問題があると思います。
これだけくどく説明しても尚、分からない人は東京高裁昭和61年の判例をご覧下さい。判例では患者に所有権がないことはもちろんのこと、閲覧請求権もないことを明確に述べています。

『診療契約』
 患者が受け付けに来て「診察して下さい」と言えば、そこで診療契約が成立します。
我が国では、この診療契約を民法上の準委任契約とするのが通説です。
そこで、契約が委任であろうと更にそれが準であろうと契約は契約なのですから医療側は、患者に対する報告義務の一環として診療情報を提供しなければならないでしょう。これは「民法第645条」の解釈です。しかし開示の義務などという文書はどこにも出てきません。現在のところでは判例、学説において開示を義務と確立したものはありません。開示に基づかなくても、十分に報告出来ると考えているからです。報告が主なのです。

『二号紙の大部分は医師のメモ』
熱と咳が出る風邪の患者が来院したとします。
カルテに患者の住所、氏名、性別、年齢を書きます。次に2001年2月1日と印鑑を押します。次に主要症状として咳、熱と記し、病名 上気道炎と書きます。治療として咳止めA薬3日分と書きました。診療と同時に以上を書きました。法的にはこれで完璧です。これ以上書く必要はありません。
 しかし現実には、その咳はどういう性質の咳か、何時からのものか、下痢、食欲等を質問し記載します。喉を見て胸を診察したらそれらを記載します。眼が黄色ければそのように記載しておきます。熱は何度か?いつからか?等も記載します。そうしてこれらから風邪と判断した旨を書き、治療計画を記しておきます。風邪のように見えるが急性肝炎のようにも思えたら急性肝炎の疑いありと記します。吐き気がして食べれない状況ならば、嘔気あり、食思不振などとも書きます。
このように、カルテの中には法的に要求されている以上に様々な患者さんの情報を書き込みます。これらは医師のメモと言ってもよい部分です。カルテは「医師のメモ」では無いという人たちがいますが、法的には二号紙の大部分はメモなのです。メモだから乱雑に書いてもいいのだと言っているのではありません.勿論、SOAPできちんと明瞭に書くことが大切です。

しかし患者が読めるように記載する必要はありません。医師自身が読めればそれで十分なのです。患者にわかりやすく日本語で書こうなどと言う意見がありますが、そんな必要はありません。自分が読めればいいのです。横文字で書くのはけしからんという声もあります。横文字で書こうが縦文字で書こうがそれは医師の自由です。横文字で書くのは日本語と比べて速さがあるからです。略号も簡単に使えて便利だからです。患者に読まれないためではありません。患者との上下関係を作り出すために横文字を使用しているなどと考える医師は一人もいないと思います。どの業界にもその業界の特有な用語があるように、横文字記載は医師の業界用語なのです。市場や証券取引上の業界用語をけしからん、わかりにくいから標準語でやるべきだという人はいないでしょう。
二号紙の記事は診断治療にいたる思考過程です。主要症状と診断名以外は、まったく医師個人の「著作権」に基づくものです。作家の文章が「著作権」でしっかり守られているのと同じ考えかたで医師の文章も法律的に守られているのです。ここをしっかり捉えておく必要があります。


『カルテ開示の運動は国民医療を破壊する』
開示することが当たり前のようになったり、法的に強制されるようになると開示のために沢山の文章をカルテ上に残さなければならなくないます。
通常のカルテのままでいいではないかという人がいます。そんなことはとても恐ろしくて出来ません。今の不十分な記載のままのカルテで訴訟に対して十分戦えると思う医師は非常に少ないと思います。開示論者の医師の勇気には本当に感心してしまいます。
開示を要求されて今のカルテを見せたとします。「何だ、おなかを診察したと言うが、書いてないではないか。風邪だって腹部の診察は必要でしょう。リンパ腺の触診は?黄疸の有無は?背中を診察したという証拠は?薬の説明をしたというが証拠は?アレルギーについて記載がないではないか、等々」。不十分さが沢山でてきます。それが不十分だと知りながらも医師は診察、カルテの記載をせざるを得ないのが現状です。
開示に耐えられるように、きちんと診察し、きちんと記載したならば、通常なら5分で終了する風邪の患者にも最低でも20分の時間が必要になります。
なぜなら、主訴を書いて、経過を書いて、胸も、腹部も、背部も、咽頭口頭等々、診察を十分にして、その客観的事項を細かにきちんと書きます。異常なかったものは異常なかった旨、記載します。異常なかったから記載しなかったではとうらないからです。そして、それによる判断、計画を書いて、それらをきちんと患者に説明して、処方・処置を記載しなければならなくなるからです。そして、その処方・処置でいいか患者の同意を得ます。さらに薬の説明をします。勿論副作用についても。そしてきちんと説明した旨を記載します。そうしなければ、とても恐ろしくて開示になど望めません。それをしないことは説明義務違反と言う医療過誤になります。あちこちの裁判で、医療にはミスはないが説明義務違反という理由で負けています。
埼玉県保険医協会ではカルテ開示を念頭に置いた診療がいかに多くの時間を要するかを内科と耳鼻科を例にとりビデオ撮影にて実証しました。ビデオは無料貸し出しをしております。是非、一度ご覧下さい。
日本の保険制度の中では沢山の患者を診なくては経営が成り立たないようになっています。3分診療、5分診療が批判されようとそういう仕組みになっています。
国が作り上げた、いわゆる低医療費政策なのです。この低医療費政策を論じることなくカルテの開示論争をしてるところに怖さがあるのです。一人の患者に20分も30分もかかっていたのでは医療経営は成り立たなくなります。成り立たなくなれば開業保険医は地域から消えてゆかざるを得ません。そうなると、国民も大いに困ってしまいます。
一人の医師が診る患者数が大幅に減少し、開業医が町から消えてゆけば、国民は気軽に医療機関にかかれなくなってしまいます。国民の受療権が大幅に制限されてしまいます。
国民がいつでも何処でも安心して平等に医療を受けれるのが今の日本の良い点です。
問題はあってもこの良い環境が根底から崩れてしまうのは恐ろしいことです。
尤も、これを国は狙ってカルテ開示を言い出したのでしょうが。

「 医師法第19条第1項」
医師はこの法律によって診療の拒否が出来ないようになっています。
 法律には「診療に従事する医師は診療の求めがあった場合には正当の事由がなければこれを拒んではならない」とあります。
しかしカルテの開示が一般的になれば上記のような状態で、とても沢山の患者を診るわけにはいかなくなります。しかし、医師法19条にて診療の拒否が出来ません。診療の拒否、そして患者を選べない医師が「カルテ開示」に縛られるのです。
医師が自由に患者を選べて、そして少ない患者でも経営が成り立つ環境の整備がないまま、また環境の整備が論じられないまま「カルテ開示」だけが一人歩きをしているところが問題なのです。

「カルテ開示は誰が言い出したのか」
色々な見方があるでしょうが、ほんの一部の患者と、それを支援している弁護士ではないでしょうか。そして、それに厚生省が乗っかったのではないでしょうか。
医療訴訟でもめている患者にとってはすぐにでも、当のカルテを見たいわけです。しかし現行法のもとでは、カルテを見るにはそれ相当の労力と費用がかかります。
患者は「証拠保全の申立書」をつくって裁判所に提出します。費用は20〜30万円です。そこで裁判所は裁判官と書記官、撮影係、患者側の弁護士とともに医師を訪れカルテを中心に様々な医療記録を写真に撮ることが出来ます。しかし、この証拠保全は拒否できるので必ずしもこの段階でカルテを見ることは出来ません。
そうなると、裁判所の開示命令まで待たないとカルテは見ることが出来ません。費用はさらに20〜30万円かかるでしょう。裁判を起こしている患者にとっては大変な負担です。そこで簡単に見たいのです。それが開示運動です。
それに厚生省がここぞとばかり相乗りしてきたのです。厚生省は医療の統制、医療費削減に利用したいだけです。ですからここでカルテ開示を論じる事はまさに国の思う壺なのです。カルテを見る道は現行でもあるのです。自分が見たいという理由だけで多くの国民の権利を奪うような運動は是非止めて欲しいと思います。

「二重カルテの出現」
カルテを開示することが一般的になれば、必ず二重カルテが出現してきます。
現にカルテ開示を始めた某有名病院では既に二重カルテが始まったとのことです。
カルテ開示が前提になれば、医師は必然的に防衛しようと言う心が働きます。
二重カルテは必ず出現してきます。開示になれば多くの医師が二重カルテを作るでしょう。
私も作ります。その二重カルテも開示の対象になるのでしょうか。
安易なカルテ開示は、このようにイタチごっこを生むだけです。

「カルテの非開示は国民の大切な権利である。」
なぜそんなに見せたがるのでしょう。本当に不思議です。
現在、カルテを見せる医師はよい医師で、見せない医師は悪い医師であるかのように世評がなりつつあります。こういう世評に乗じて、この「開示運動」を医師・医療機関が宣伝に利用し出しました。医療機関の一種のパフォーマンスです。国民は開示をしているという理由だけで、その医療機関が医療過誤はなく、医療内容も優秀かのような錯覚に陥ります。そんなことは決してないことは医者ならば誰でも知っています。
そして国はここぞとばかり医療機関の広告規制の緩和という手法でカルテ開示を押し進めようとしています。国のやることには抜け目がない物です。
自分のことが書いてあるカルテであっても簡単に見ることが出来ないのは、自分のプライバシーが法律によって大切に守られているからです。警察でさえ簡単に見ることが出来ないのです。そういう大切な権利をむざむざ放棄しようとしている、放棄させようとしているのが現在の「開示」運動ではないでしょうか。
また、医師もカルテをきちんと管理する義務が課せられています。しかし、カルテは患者の物だという安易な論理によって、自らの義務を放棄しようとしています。院内の人手不足の解消に、カルテを患者に平気で渡している医療機関が多々見受けられます。カルテは医療機関が厳格に管理、保存しなければならない物です。そういう厳格さが求められているのに平気で患者にカルテを運搬させたり、閲覧させると言うことは、医師の義務の放棄といわざるを得ません。
また、カルテを患者が見ることが出来ないと言うことは、医師のプライバシーの保護の観点からも大切な権利といわざるを得ません。
患者を守り、医師自らも守る大切な権利を、「開示」という流れで医師自らが放棄していいものでしょうか。医師が「開示」の運動に加わると言うことは、そういうことを意味しているのだと思います。

「本当に必要なことは」
 国民が医療機関に求めているのはインフォームドコンセントです。十分な説明が最も求められているのです。十分な説明がないところに医療の不信が生まれています。
カルテの開示が主流ではないことは開示論者も十分に承知しているはずです。それは開示に踏み切った医療機関の殆どで開示請求が全くないという事実です。これに対して開示論者は、「全くないのだから開示をしよう」と言います。全くない物に大きな時間を割き、国民の医療を危うくするほど、ばかばかしいことはないのではないでしょうか。
もう一つは、医師同士の自浄作用です。
医療事故、医療不信の記事がマスコミを毎日賑わしています。確かに、世間にはとんでもない医療を平気でする医師がいます。これはどう弁解しても弁解できない、紛れもない事実です。こういう医師がいることを同僚の医師達も十分に承知している場合も多々あります。こういう医師を見て見ぬ振り、かばい合いをするのではなくみんなでなくすようにすることが大切です。基準はEBMです。EBMで医療が行われているのかいないのかが判断の材料です。
開示反対の意見の中に、自分の医療が暴かれるから反対する、(後ろ指をさされそうな医療を毎日行っているので)開示されるのが怖いという意見が少なからずあります。これは全くナンセンスです。情けない考え方といわざるを得ません。こういう意見があるから開示論者は勢いずくのです。いつでも何処でも、絶対に後ろ指さされない綺麗な医療をすることは大前提です。医者として全く当たり前のことです。
しかしどんなに注意していても医療事故は起こるでしょう。その時に潔くすぐに謝らないところに「開示運動」があるのです。事故をごまかそうとするのではなく、悪いことをしたのですから素直に過ちを認めて、きちんと説明することが大切です。すべての医師がこのようにしていたならば開示運動は起こらなかったでしょう。医療事故をごまかそうとするのは交通事故のひき逃げと全く同じ犯罪行為です。厳しく責任を追及されるのは当然です。また態度の悪い医者のいることも事実です。横柄な口をきき、患者を怒鳴り散らしたり、患者の弱みにつけ込んだりしています。こういう医師がいるから開示運動が起こるのです。本当に残念です。
次は、国民の医療知識の向上です。自分の医療が正しく行われているのかどうかいつでも見つめて欲しいと思います。それには国民にも分かるようにEBMを解説し、啓蒙する必要があります。他にも色々工夫して、悪徳な医療が行われないような監視の機関を沢山作ることではないでしょうか。
そして国の低医療費政策に対して反対の声を大きくすることです。
本当にカルテ開示が必要なら、少ない患者を診ても十分に経営が成り立つように診療報酬を引き上げることです。そしてゆっくりと患者を診ることができるように、医師の数をもっともっと増やす必要があります。また、十分なコメデイカルが雇えるような環境の整備も必要です。


 殆どのマスコミが賛成意見を中心に報じていますが、慎重論に対してもきちんと対応してくれるマスコミもでてきました。このことに希望を持ちたいと思います。
今、カルテ開示の大合唱の中で非開示の医師は小さくなっているような気がします。
小さくなる必要はありません。堂々と非開示を貫きましょう。

               



参考 カルテに関する法律
    医師法第24条
     医師は、診療をしたときは、遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなけ     ればならない。
    医師法施工規則23条 診療録の記載事項は、左の通りである。
     1 診療を受けた者の住所、氏名、性別及び年齢
     2 病名及び主要症状
     3 治療方法(処方及び処置)
     4 診療の年月日
    療養担当規則
    第8条
    保険医療機関は、第22条の規定による診療録に療養の給付の担当に関し必要な    事項を記載し、これを他の診療録と区別して整備しなければならない。
    第22条
    保険医は、患者の診療を行った場合には、遅滞なく、様式第1号又はこれに準ず    る様式の診療録に、当該診療に関し必要な事項を記載しなければならない。
東京高裁昭和61年判例 患者に所有権はない。閲覧権もない。





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