The vocal cords <2>

By.天羽ひかり

 その頃は、まだ互いの距離感や様々なことを掴みきれていなかった。たとえば、口に出さなくても伝わることと伝わらないことの見極めが、できたりできなかったりしているような状態で。
 ただ、互いに近づきたいと願っていたことだけは、確かだったのだけれど。
 踏みこみたいのに踏みこめなくて躊躇って黙ってしまったり、少しのことで道化みたいにあたふたしたりしながら、それでもその先に一雫の奇蹟みたいななにかがある気がして――繋がりかけたこの手を、放してはいけないのだとそれだけは信じていた。
 喧嘩らしい喧嘩をしたこともなく、大きな違和感を覚えることもなく、共に居るだけでなんだか楽しかった。なんだかんだで、うまくいっているのだとイルカは思っていた。カカシがイルカに向ける感情が友情を超えてきているのも知っていたし、自分がカカシに抱く感情もその範疇を越えつつあると自覚していた。ただ、愛だの恋だのいう単語はどうにもしっくりこなくて、そんな単語が浮かぶたびに似合わなさに苦笑した。それでいいのだろうと漠然と感じていたのだ。

 その日は、イルカの家で当たり前のように遅くまで晩酌を交わして、二人とも少々すぎるほどに酒が入っていた。
 その言葉を聞いたのは、本当に他愛ない話からだった。
 ほろ酔い加減のカカシは上機嫌で、窓辺で月を見ながらうたを歌い出した。
 カカシは、いい声をしている。少なくともイルカはそう思っていた。
 間延びしたような話し方をしている時は聞き逃していたその声が、うたを奏でるときは、低すぎず高すぎずに落ちついていてどこか深みがあるその本質を見せる。
 後片付けをしながらイルカは、知らない言葉のそのうたを耳に心地よく聴いていた。
「いいうたですね。アナタの声にあってる」
「だいぶ前に岩の国で覚えたんですよ。ふいに思い出して」
「カカシ先生、うたもお上手ですね。知りませんでした」
 イルカが感心したように見つめると、カカシは照れたようにその瞳を和ませた。
「なに云ってるんですか〜。イルカ先生こそアカデミーの子供に歌ってるの聞きましたけど、お上手じゃないですか!」
「ええっ、オレなんて声ばかり大きいだけでうまくないですよ」
「謙遜しなくたっていいんですよ〜。この間、ばーっちり聞いちゃったんですから」
「この間? いつですか? 恥ずかしいから止めてくださいよー。それにやっぱりアナタの方がいい声ですよ」
 赤面するイルカにカカシは笑ったまま、のんびりした声で続けた。日常会話の延長上で、特に深く考えた様子もなく、ただ思っていることを口の端に載せたといった風情で。

「でも、オレは声が出なくなっても困らないですよ」

 あっさり云いきったカカシの言葉は、最初風のように通りすぎた。僅かに脳の侵食を始めていたアルコールを、通りすぎてゆく言葉が吹き飛ばす。
 耳が記憶したカカシの声が残響となって同じ音を繰り返し、イルカの酔いを瞬時に醒ましていた。
 それは、残酷な神の宣告にも似ている。呼吸すら苦しいように感じられる中でイルカはそんなことを思った。
 身体中の筋肉が、和らぐ術を失ったように強張っていた。自分がなににそこまで動揺しているのか、イルカはわかっている、と思いたかった。
 少なくとも、カカシの言葉へと行きついた思考は、わからないわけではない。
 おそらくは、忍として敵の存在を察知するのに必要な、視覚、嗅覚、聴覚、それらと比べた場合に必要性が低いとか、そんなニュアンスなのだろうとは思う。どうしようもない選択を迫られた場合には、己だって同じことを云うかもしれない。それはいいのだ。
 そうではなくて―― 
 苦しい胸をなんとかしたくて意識的に口からも酸素を取り入れながら、カカシを見つめる。
 困ったような顔と、落ちつかない指先。
「あ〜イルカ先生、ごめんなさい。オレまた変なこと云っちゃいましたね? ……すみません。アナタを哀しませるつもりはなかったんです」
 イルカの感情はあっさりと読むのに、自分自身への希薄さをカカシは少しも自覚していない。
 執着、という単語がふいにイルカの脳裏に浮かんだ。
 カカシには、それが欠けている気がする。カカシが何かに強く執着するさまを、想像できない。
 それはとてもあやういことのようにも思える。
 生への執着さえ持たなくなったら……そう思ったらぞっとした。
「ただ、忍同士ならば口の動きだけで意志疎通ははかれるし、声がなくて困るのは、きっと死に瀕して独り忘れ去られたどこかで偶然通りすぎる助けを呼ぶときぐらいでしょう?」
 カカシの告げる理由を聞くほどに、イルカの胸は痛んだ。 
「変な話、始めちゃってゴメンナサイ」
 見当違いなことを謝るカカシにイルカはただ静かに首を振る。
 遠い。
 初めてイルカはそう感じた。
 少しずつ近づいていると思っていたのは、錯覚にすぎなかったのだろうか。
「つい先日、知人が敵にとっ掴まってね、喉潰されて帰ってきたんですよ。邪魔だからって声だけ出せないように喉潰されて、でもそれ以上何かされる前に助けが入ったらしいんですが。……で、その後に色々話をする機会があってね。まぁ、忍として考えた場合、声帯潰されただけなら、目や耳や鼻に比べたらマシだな、と俺はその時思ったわけです」
「それは、わかります」
 普通、を強く意識していたのだが、イルカの声音は少しだけかたくなってしまった。それでも意見を肯定されて、カカシは幾分ほっとした顔をした。
「今ふいにそれを思い出したもので。ほら、声が出せないとうたは歌えないなぁなんて思って」
 ま、困りませんけどねぇ、とまたしてものんびり続ける。
 カカシとの間には、簡単には埋められない距離がある。それは最初からわかっていたことだ。それでもちょっとずつでも歩みよって、手を伸ばせば触れられるくらい近づいた気になっていた。
 それがどうだ。
 たった一言、告げることすらできない。彼に伝わるような言葉はなにも思い当たらない。
 なにを云ったらいいのだろう。
 どうしたら伝わるのだろう。
「イルカ先生? あ、やっぱりこんな話やめればよかったですよね、スミマセン」
 俯いてしまったイルカを気遣うように、様子を伺うようにしながらカカシは再度謝った。それに首を振ってみせながら、イルカは視線を上げた。
 答えのわからない、アカデミーのこどもみたいな瞳。
 左の写輪眼はいまだ隠されたままだったけれど、揺れる蒼い右目を、ただ綺麗だとイルカは思った。多くのものを見て、多くの哀しみを知るその瞳に、「綺麗だ」なんて感想は失礼かもしれない。頭の片隅でそんなことも思ったけれど。濁りのない蒼は、純粋なこどものそれによく似ていて――その瞳を見つめていたら、いっそう言葉が出てこなくなった。
 こどもに伝える言葉はたくさん使ってきている筈なのに。
 ああ、見つからない。
 彼は、イルカの生徒じゃない。それに、間違ったことを云ってるわけでもない。
 こんなときは、どうしたらいいんだろう。
「……悪いのはあなたじゃない」
 ようやく搾り出した言葉は、少しもわかりやすい言葉ではなくて、カカシの瞳に更にクエスチョンマークが灯る。
 もどかしい。
 話せば話すほど、遠くなる。カカシは、目の前にいるというのに。
 更に言葉を継ごうと薄く開かれたイルカの唇から、音は発せられなかった。
 違う。このままじゃ伝わらない。
 ふるふると首を揺らして、イルカはゆっくりと目の前のカカシの頬に触れた。
 そして音にできない言葉の代わりのように、静かに唇を寄せる。
 まだ数えるほどしか交わしていない口づけ。
 イルカからのその口づけに、カカシは驚いたように右目を見開いた。
 イルカから口づけるのは、初めてだったから。
 ただ、イルカは伝えたかった。言葉にできなかった想いを。
 困るとか、困らないとかじゃなくて。
 ただ、カカシの一部が欠けることを想像するだけで、つきぬけるように痛むこの胸の想いを、せめて識っていてほしくて。
  たぶんイルカは、酷く複雑な顔をしていたに違いない。
それでも頤に絡むカカシの指先と深まりゆく口づけの感触に、僅かに安堵していた。拒否されると思っていたわけではなかったけれど、遠いという認識を埋めてくれるようなぬくもりが嬉しかった。
 深まる口づけに、身体の芯が震えるように沸き起こる情感。
 このままもっとつよくいだきあえば、伝わるだろうか? 
 たとえ伝わらなかったとしても、新しいなにかがわかるだろうか?
 もっとカカシに、近づけるだろうか? 
 切ない祈りにも似た願い。
 自分がどれほどカカシを大切に思っているのかを、全身が訴えている。
 きっと、それは気持ちが近づくことに比べたらずっと楽なことなのだ。抱きあうだけならば、動物にだってできる。刹那的な触れ合いは、難しいことじゃない。人の心の難解さと比したらよほど。
 それでも、いい気がした。いまはまだ。
 少なくとも、より悪くなることはないように思える。
 きっともっと近づいていたなら、遥かに簡単にこの溝を埋める術がわかっただろうし、ずっと気楽に言葉を告げることができたのだろうけれど。
 でも、いまはこれでいいのかもしれない。自分とカカシは、何年も何十年も付き合ってきたわけじゃない。わからなくても当然なのだから。
 だから、いまは云えなくてもいい。いつか云えるなら。
 もっと互いが自然な存在になって、ふとした機会に伝えられたらそれでいい。贅沢は望まない。
 見つめる瞳が、僅かに迷うように揺れた。
 窺うようにイルカへ向けられる珍しいほど真摯な眼差し。イルカに触れようとする指先と裏腹に、戸惑う瞳と言いよどむような唇。それが微かに開く。
 その様子に、その口から飛び出そうとしている問いかけがわかって、イルカは小さく微笑んだ。
 こんなにも近くでこの姿を見ていられることだけでも、とんでもない僥倖なのだと、鼓動を早める心臓を叱咤しながら、イルカは下ろされたままの左腕をゆっくりとその背へまわした。
 

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 update 20020330

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 前のページいらないじゃん、と自分でツッこんでみたり……書いてる目的がずれまくり。相変わらずアタマ悪い感じであります。しかもなんかアチコチ破綻してきそうな気配(がくり)。文章も相変わらずヒドイし……。