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猫の棲み処2
天羽ひかり
風呂上がりに持ち帰った書類仕事を簡単に片づけて、イルカは大きく一つ伸びをした。
そろそろ眠ろうかと寝室に移動する。
ふと、窓の外にほんの微かな温度を感じた。とても小さな、けれど生きているものの気配。
窓からの侵入者にしては、小さすぎる。
ぴりと、精神を集中してみれば、気配を捉えるまではいかないものの、なにもない空間に違和感を感じる。
ちょうど手練れの忍が気配を殺しているかのような……。
そう、たとえば、上忍。
思い当たった顔に、そっと窓を開けば、静かな雨のにおいがする。
雨の中、彼が一人たたずんでいる姿が脳裏に浮かんで、警戒することも忘れて窓を開け放った。
間近な塀の上に、体重のないもののようにすらりと立つ姿とは裏腹に、ぽかんと間抜け面を晒す上忍が一人。
なんでわかったのだろう? と云わんばかりの表情で、窓を開けたイルカを凝視している。
「あ、ど〜も」
目があうと、カカシは決まり悪げに頭を掻く仕草を見せた。
「……そんなところで何をしているんですか?」
「はぁ、ちょっとどうしたもんかと迷ってまして……」
困ったな〜とぼやくカカシの言葉を遮るように、
「にゃあ〜」
というくぐもった啼き声が響いた。
もぞもぞとカカシのベストが揺れ、その胸元から何かが出てくる。
その懐から首だけを覗かせて、仔猫はぐるりとその大きな瞳をイルカへ向けた。
「あ」
ますます情けない顔になって、カカシは伺いを立てるようにイルカを見てくる。
固まったままイルカを見つめる三つの目。
その可愛らしさに、イルカはふっと笑みをもらした。
「玄関にどうぞ」
まるで、捨て猫を二匹も拾ってしまったみたいだと、イルカは笑い混じりに思う。
「その仔と一緒にお風呂に入っちゃって下さい」
「……遅くにごめんなさい。床、汚しちゃいますよ」
猫もカカシも、全身雨に濡れて、泥もつけた酷い格好だ。
カカシはイルカの手間を増やすことを嫌がって、躊躇している。
それで、雨の中すぐに訪ねてこなかったのか。
「大丈夫ですよ、任務帰りでしょう? お疲れ様です」
精一杯微笑んで中へと促してやって、ようやく大きな猫はおずおずと足を進めた。
「もう寝ちゃっただろうな〜と思ってたら電気が点いていたんで、顔みたいな〜と思って。気配消してたんですけど、イルカ先生気づいちゃうから」
「その仔の気配までは、消せないでしょう?」
言い訳しながらまだ困った顔のカカシに、イルカは変わらぬ温度で返答した。
「あ〜そっか。荷物付きでスミマセン」
お邪魔します〜とやっとカカシはへらりと笑った。
いつもと同じ顔、同じ声を装いながら、カカシの様子がどこか硬いのにイルカは気づいた。
任務帰りだというだけの理由ではないような気がする。
カカシの着替えと猫のための用意をして、イルカは浴室の前で立ち止まった。
「カカシさん、猫洗ったら呼んで下さいね」
数センチほどドアを開けて声をかければ、間をおかずに猫のアップが飛び込んできた。
「あ、もうちょっとですよ。ほら、これ流したらおしまい」
白い泡に包まれたもこもこした仔猫は、カカシの手をさほど煩わせることもなく洗われているらしい。
忍犬を飼っているというから、生き物の扱いには慣れているのだろう。
「じゃ、ここで待ってますね」
「は〜い」
シャワーの水音が、絶え間なく続く。
イルカは水の音が、好きだ。聴いていると、無心になれる気がする。
猫を拭くタオルを持って、イルカは目を閉じていた。
きゅっと古い蛇口が捻られて音をたて、水音が止まる。
「はい、綺麗になりましたよ」
浴室のドアが開いて届いたカカシの声に、イルカは目を開けた。
そちらへ視線を向けるまでもなく、ぽんっと仔猫が手元のタオルに飛びこんでくる。
「お、綺麗になったなー」
「あと、頼みますね〜」
思わず猫に話しかけていたら、笑いを噛み殺したようなカカシの声が背後から飛んだ。
「あ、はい。こっちは大丈夫ですから、ごゆっくり!」
仔猫がイルカのタオルの中で、ぶるぶると水滴をはらうように全身を震わせる。
温まったせいか、動きのぎこちなさはなくなっていた。
黒い毛並みが濡れて全身にはりついているのを、タオルで拭いてやる。
手の中の、小さな小さな生き物。
おとなしい性質なのか、大きく暴れたり逃げ出したりしようとはしない。最初の汚さから、長期間放置されもっと衰弱しているのかと心配していたのだが、思ったほど痩せ細ってはいなかった。誰かが餌ぐらいは与えていたのかもしれない。
これを拾ってきたカカシの心境を思って、イルカは仔猫を拭く手はそのままで、浴室へと視線を向けた。
一見なんでもなさそうなカカシの所作から、その真意を読み取るのは難しい。
イルカの感じた違和感は、なんの根拠もない直感にすぎない。ただ、カカシが傷ついている気がした。理由など到底わからないけれど。
任務で何かあったのかもしれないし、その他の理由かもしれない。イルカはなにも、知らない。
その無事だけを、少し前に知ることを許されただけだ。それすらもこの仔猫の気配に気づかずにイルカが寝てしまっていたら、知らされなかったのかもしれない。
そう思うと、胸がざわざわと嫌な感触にざわつく。その距離を、思い知らされるようで、痛い。
複雑ではあってもカカシのその本質は、優しいのだとイルカは思っている。それでも、考えもなく捨て猫を拾ってくるようには思えない。カカシには忍犬がいるし、おそらくこの猫を飼うことはできない。
それをわかってなお、今日に限って見捨てずにはいられなかったのには、些細であってもきっとなんらかの理由がある筈だ。
けれど、おそらくイルカには立ち入れないし、仮にカカシが話したところでどうなるものでもないだろう。むしろ彼を理解したいと思うイルカ自身の自己満足にしかならない。それでは意味がない。
なせることがないのは、やるせない。
それでも今は、イルカの元へ足を運んでくれたことを、喜ぶべきなのだろう。
一つ大きくイルカは、全身から吐き出すように息を吐いた。
仔猫の体からざっと水分が拭き取れたのを確認して、ドライヤーと新しいタオルを左手に、右手に猫を乗せてイルカは居間へと移動した。
人肌に温めたミルクを平べったい皿に入れてやれば、おなかがすいていたらしく仔猫は綺麗に飲み干した。
飲み終わるのを見計らってドライヤーを向ける。
仔猫を軽くあぐらをかくように組んだ足の間に置いて、初めはタオルの上から弱めの温風をそっと向けた。スイッチを入れた時に音に反応したものの、宥めるように撫でてやれば仔猫はもうおとなしかった。
ふいに、空気が揺れるような感覚。
ドライヤーの音で掻き消されて周囲の音は聞こえなかったが、振り向けばカカシが風呂から上がってきたところだった。
だんだんと足に馴染むようにくっついてきていた猫もイルカの視線を追うようにして、パジャマのボタンを留めているカカシを見上げている。
カカシの指先が自身の着るパジャマを指し、その口が「今日は泊まっていっても?」と動く。
「もちろんですよ」
「すみません」
頭を下げてカカシはイルカから目を逸らした。
気にしないでいいと告げようとするイルカの言葉を待たずに。
少し大きな声を出せばカカシなら聞こえるだろうけれども、なんとなく聞きたくないのだと告げられたようで、イルカは音にするのを諦めた。
猫へと意識を戻して、イルカは乾いていない場所を探しながらドライヤーをかけていく。
お腹に触れたとき、一瞬びくりと仔猫はその身を竦ませた。
無造作に触れすぎたかとイルカがその瞳を見れば、仔猫は窺うような目を向けながらも危害を加える気がないのはわかっているらしく、ゆっくりとその緊張を解いた。怖がらせないようにそっと猫の体勢を動かして、その腹部にも弱い風を当てる。
その時、意識の片隅が、ちりりと焼けるような視線を捉えた。
ぼんやりと近くの椅子に座っていたカカシが、どこか遠くを見るような目でイルカと仔猫を見ていた。
濡れた髪を拭く所作もないまま、惚けたように固まっている。
「カカシさん、あなたも乾かさないと風邪をひきますよ」
ぽたぽたと、肩にかかるタオルにその銀髪から水滴が落ちている。
「……え? ああ、はい」
イルカの声にはっとしたようにカカシは、珍しくも表情を変えた。イルカの視線から逃れるように俯いて、がしがしと乱雑にタオルを銀髪に絡ませる。
「こちらにいらっしゃいませんか?」
考えが形になるよりも早くに、言葉が口をついて出ていた。
微かにカカシの顔が紅潮したようにも見えた。
無言のままカカシはふらっと近づいてくる。
「イルカセンセ、左はお借りしますよ」
イルカがその言葉を理解するよりも早く、ころりと猫の仔のようにカカシは転がった。
「っ、どうぞ」
どう見ても膝枕の体勢だ。
辛うじて平静な声を出したものの、揺れが仔猫にも伝わったらしく、眠そうな目を向けてカカシを認識し、それだけで再び瞳を閉ざす。安心したような仔猫の寝顔。その短い毛並みは、ほぼ乾いたようだった。
カカシの髪はと、触れてみればまだその芯がしっとりとしている。
ドライヤーを今度はカカシに当てながら、イルカはゆっくりとその銀の髪を梳いた。
心地よさげに、カカシのその色違いの瞳が細められている。猫のように喉を鳴らしそうだと、イルカは微笑ましく思った。ちょうど猫が体を丸めるような体勢で、カカシは床に転がり、頭だけをイルカの足に預けているのだ。
こうしていると、まるで猫二匹を寝かしつけているみたいだ。
ふっとイルカは、口元を綻ばせた。
小さいもの、弱いものを見ていると、無条件で守ってやりたいと、できるかぎりのことはしてやりたいという愛おしさに似た感情を呼び覚まされる。
でもカカシは、小さい子供でもなければ、弱くもない。イルカより遙かに強い上忍だ。
それなのに、どうしてなのか。
どうしてこれほどまでに、強い愛おしさに感情が揺さぶられるのだろう。
温かな風が、カカシの髪を揺らしている。
さらさらと掌から零れ落ちていく銀色を惜しむように、イルカはそっと口づけを落とした。
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