猫の棲み処

天羽

 

 月もない厚い雲に覆われた夜空から、静かに雨が降り出してきていた。
 春とは名ばかりのこの季節。
 音もなく静かに降る細いこまかな夜の雨は、酷く冷たかった。
 それをよける物などなにも持ってはおらず、しっとりとカカシの忍服を濡らしていく。里まではあと少しのところだったが、天はカカシの帰還を待ってはくれず、どこか重い雨が全身を覆う。
 否、おそらく重いのは、雨ではない。
 鈍って傷さえ忘れた身体が疲労を、心に淀んだ澱がその重みを訴えている。
 ここ数日当たっていた任務は、Bランク。カカシに傷一つつけられるような敵はいなかった。
 この身体は、近頃傷を知らない。
 痛みを、忘れている。
 かつては日常のように晒され続け、慣れきってしまったというのに。
 スリーマンセルを受け持ってからは、傷を負うような任務がない。
 それに危機感を覚えていたのか、少し前から無意識のうちに強い敵を求めていたらしい。
 その事実に気づいたのは、この任務中。
 あっさりと倒れていく敵に無表情に舌打ちして、その音にはっと我に返った。
 ひやりと冷たい何かが、背を伝い落ちていくような悪寒。
 心底ぞっとした。
 自身への嫌悪感に苛まれながらも、一人の任務でよかったと、そんな傲慢な音を誰にも――きっと誰よりもイルカに――聞かせなくてよかったと、心の片隅で思い、どこまでも身勝手なその考えをまた嫌悪した。
 ひとを殺すいたみすら感じないで、強さを求めるなんて。
 カカシに強烈な訓戒を残していった数少ない者達の存在すら、その瞬間は忘れていたのだ。 
 こんな心は、イルカには見せられない。
 会えばきっと、ポーカーフェイスではいられないだろうから。
 水を吸い込み始めた地面の上を足音もなく歩きながら、カカシは貼り付くような額あてと髪を不快気に掻き上げる。
 暖かなイルカの部屋に、今日は戻れない。
 自らに云い聞かせるようにしてぬくもりを諦めようと溜息を吐いた時。
 静寂の中、弱々しい僅かな生物の気配に、カカシは気づいた。
 夜に溶けこみそうな目立たない毛色。道端の薄汚れた箱の中で、それでもまだ生きている。
 酷く弱った真っ黒でみすぼらしい仔猫。
 その黒い眼差しが、まっすぐに己を捉えるのを、カカシはぼんやりと見つめた。
 冷たい雨に震えるちっぽけな生き物のその瞳が、やけに綺麗だと感じるのを不思議に思いながら、ゆっくりと足はその方向へ向いていた。
「……逃げないの?」
 小さな生き物は、近づくカカシに脅えた様子も見せず、黒い瞳はそのまま見据えられている。
 きっとこのままでは、明日の朝までもたない。
 殺した方がこの猫のためだろう。
 無造作に伸ばした手に、ぬくもりに擦り寄るようにじっとしたまま猫は逃げない。
 初めての人間に、懐くような生き物ではない筈だ。
 よほどひとに慣れているのか、まだそんな判断もできないほど幼いのか。
 そのまま抱え上げても暴れることもなく、ちょんもりとカカシの両手の上にいる。
 その首は、容易く手折れそうなほどに細い。
 どうしよう。
 にゃあ、と微かに届く力のない啼き声。
 猫のいる両手が、僅かに温かくなっている。手に乗るようなこんな小さな生き物でも、温かい。
 すべてをカカシに委ねるかのように、静かに見上げてくる漆黒の大きな瞳。
 その瞳の静けさが、似ていると思った。
 死を待つひとに。
 そしてその色が、穏やかなあのひとに――

 

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