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背後の陽光に縁取られて佇む闇色の影。割れた面から覗く瞳だけが 冷たく光っていた。 生温く生臭い赤い幕のかかった視界越しに、はっきりとそれだけが見えた。 ・・・ああ、彼だ。 生きているかと口にしたその影は、ゆっくりと一歩揺らぐように近付いた。 止まっていた空気が動き、小さな風が自分の方へと吹き付けられた。 身体を支えるのが精一杯の自分に覆い被さってこようとする圧力を 反射的に受け止めると、脈を失った二本の腕がだらりと脇へ落ちた。 息が一瞬詰まる。もう何度目かわからず麻痺しかけていた鼻を強い刺激が襲う。 一瞬前まで自分がなるかもしれなかった相手の姿。 「――帰還できそうか」 氷の様な声が更に近くですると、自分にかかった骸の重さが取り除かれた。 圧迫されていた肺に冷たい空気が流れ込む。 視界の下でどさり、と重く湿った音がくぐもったように聞こえた。 気が付くと、目の前に陽光を受けて白銀色がかった薄青の一対の瞳がある。 割れた面は、その下の肌と同じ蒼白い色をしていた。 「はい」 乾いた唇から反射的に返事が洩れた。 言葉を発すると、覗き込まれた瞳からようやく縛られていた視線を外す事が出来た。 そして手の中に固く握りこまれていた刀から指を剥がす様に開いた。 手を離れたそれが地面に落ちる前にもう片方の手がかろうじて受け止める。 固く冷えて流れを止めていた指先に、温かいものが流れるのを感じて 小さく息を吐くと、呼吸を束の間忘れていた事を思い出した。 面の下の瞳が微かに笑うように細められた気がした。 「帰還できるな――あの里へ」 「はい」 そう応えるより他になかった。 この人と――自分の命を二度救ったこの人と里へ帰るのだ。 ぼんやりと思うと、重く崩れ落ちそうな脚がほんの少し軽くなったような気がした。 ゆっくりと立ち上がろうとすると、手も脚もまだ動いた。 大丈夫だ。里まではきっと、もつだろう。 ほっとして視線を改めて彼に向けた。大丈夫だと、行きましょうと促す為に。 だが、そのままその視線は彼の瞳に向けられる前に止まった。 その下方で凍りつくように。 ――まさか。彼がまさか。 あの「彼」が。 そこに見た物を冷静に見ている自分と、認められない自分がいた。 自分はここに至るまでに何度も命の色一色に視界を塗りつぶされて来た。 そのせいで、その赤い色に麻痺した視界がもたらした錯覚なのだと そう思おうと、そう思わせようとしている自分がいた。 「それ程、驚く事ではないだろう」 もうその声に少年の影は無い。 その瞳にもう、人形じみた冷たさはなかった。 その白い指先がそっと静かに胸元に置かれた。 いつから。どうして今の今まで気付かなかった。 そこから密やかな泉の様に湧く、真紅。 それが彼の白く長い指先を染めていた。 その熱が滴り落ちて、暗い大地に吸い上げられていた。 「誰に、やられたのですか」 そんな言葉しか口から出なかった。 それでも彼は至近距離で微かに笑ったように見えた。 「自分、だろうな」 こんな表情の、声の彼を見た事はあったろうか。 彼を見ている自分がどんな顔をしているのかなど、わからなかった。 けれど呼吸の音だけがまるで他人の物の様に五月蝿く聞こえた。 彼は自分の顔を見ると目を伏せて、静かに口を開いた。 「敵の刃の切っ先が目の前に迫った時に――わかった」 彼は小さく笑った様に見えた。その微笑みを正面から見つめられなかった。 どうしようもない指先の震えを止めようと視線を落とすと否が応でも飛び込んでくる光景がある。 ぽたりぽたり、と滴り落ちた命の赤い水が、落ちた白い面の上に滲んで広がっている。 小さな囁きの様な声でも、こうして話している事が信じられない程の量だった。 「任務の達成でも、忍びとしての誇りでも――ましてや里の事でもなかった。 自分でも思いもしなかった」 声が徐々に霧の中へと消える様に遠ざかって行く。けれどもう、引き戻す事は出来ない。 それでも彼はただ、静かな囁きの中で続けた。命を削りながら。 「その時、悟った。 もう、自分は忍びでは――暗部に属する者ではないのだと」 カカシは自分でも驚く程その言葉を冷静に聞いて、受け止めていた。受け止めて理解していた。 暗部に属する者ではない、と。暗部の最たる彼が言うのだ。 そう思う事。それは彼にとっては、どれ程の衝撃だっただろうか。 その衝撃は刃の切っ先を退ける力を容易く奪ったに違いなかった。 想いに身を馳せると、指先の震えが遠ざかった。 言葉と瞳の中に映る感情。 今までの彼に関する記憶が唐突にカカシの中でカチリ、と音を立てて合わさった。 途端、眩暈の様な衝撃が全身を襲ったのを感じた。 ああ、そうか。彼は手に入れたのだ。 何よりも大切な物を。 忍を強くも弱くもする、恐ろしくて大切な「諸刃の剣」を。 「お前は――帰還できるな」 「・・はい」 「それなら」 そう、それならきっと彼は帰還しなくてはいけないのだ。 それが何よりも大切な事となった今では。 こんな所で立ち止まっている時間は本当は一秒たりとて無いのだ。 「それなら――お前の命を俺にくれないか」 食われるかと思った。 何処にこれ程の力が残っていたのだろう。 肩に食い込んだ指先が痛かった。重すぎて膝を付いた。 もう二度と立ち上がれないかと思う程に、重く。 その命を、心臓を寄越せ。 里へと駆ける事の出来る、その脚を。 抱き締める事の出来る、その腕を。 全てを焼き付ける事の出来る、その瞳を。 寄越せ、寄越せ、寄越せ、寄越せ。 「俺は――お前の命を二度、助けた。 だから俺の命を、一度助けてくれないか」 引き摺り込まれると思った。 彼が追い求める物は、ただ一つなのだ。たった、一つ。 その破片が、袖からはらりと落ちた。 緋色の袖の切れ端。 いつか自分が拾い上げた物。 それが今、彼の命を吸って重く地に落ちる。 「頼む――カカシ」 彼の口から、彼の物ではない言葉が溢れている。 彼はもう、自分の知っている彼ではなかった。 「彼」の形をした、別の人間だった。 食われる。 そう思った途端、背筋を冷たい物が走り抜けた。 自分の中の何かが壊れていってしまいそうな気がした。 忍としての何かが。 『己の忍道を貫け、カカシよ』 その時不意に言葉が頭を過ぎった。 それが暗闇の中に一つ灯った火の様に。 反射的に肩に食い込む指を刀を持っていない手で握り返した。 『忍は所詮人間。人間であり忍。 何が正しいなど、ありはせぬ。 己の忍道を探せ、カカシ』 「俺には貴方に命を譲れる術はない」 痛みに耐え、震える息を飲み込んだ。必死の思いで吐き出した言葉が全て。 呑み込まれる訳にはいかない。自分の道を探すまでは。 彼には彼の、自分には自分の道がある。 今はまだ、立ち止まる時ではない。 呑み込まれる訳にはいかない。 「そうか――それなら」 もう片方の彼の手が、刀を掴んでいる手の上に重なった。 その手が折れるかと思う位強く握り締められた。 爪が食い込み、ぷつりと突き抜ける感触がして肉が裂けるのがわかった。 「それなら――この刀で、お前の手で――あの人を」 彼の心の深遠が真紅の熱と共に吹き付けて来た気がした。 呑み込まれる。心が奪われる。 気を抜けば、全てを持って行かれてしまう。 「俺の全てを持って行ったあの人から、全てを奪い返さねば」 彼の頬に流れる透明な物が自分の腕に落ちた。 感覚を失い始めた刀を握る手が強く引かれ、彼の胸に向けられる。 彼は何をさせたいのか。 何と葛藤しているのか。 「一緒に、道連れにしてやりたい」 頼む。 その時言外に聞こえた気がした。 忍びとして、人間としての狭間で引き裂かれそうになっている、彼の心の声が。 決して言葉にならない、声が。 それが間違っていない事は、その仮面の剥がれ落ちた顔が物語っていた。 「頼む、あの人をこの刀で」 ・・・幸せになってほしい。自分がいなくなっても。 何よりも大切だから。 「この刀で殺してくれ」 ・・・どうか自分の分も幸せな生を。 何よりも大切だから。 「暗部でない俺の残骸を知る者など、この世に居なくて、いい」 どうか、貴女だけは幸せに。 その為なら他はどうなっても、構わないから。 彼の心の声がはっきりと聞こえた。 痛い位に、はっきりと聞こえてしまった。 ああ、だから彼は自分を選んだのか。 その声に引き摺られそうになる意識を引き止める。 ならば、自分に出来る事は一つだった。 「あんた、嘘吐きだね」 「頼む、カカシ、あの人を」 「心配しないで」 カカシは微笑んだ。 そして、もう血の気が失せかけた彼の手に自分の血に塗れた手を重ねた。 握り締めた刃は命の様に二人の熱で生温くなっていた。 残された力をそこに、込めた。 〜NEXT〜 |