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気が付けば、そこは固いベッドの上だった。 消毒された陽の温もりの無い白いシーツは冷たく、自分のちっぽけな重みに沈んでいた。 どうして生きているのだろう。自分は敵に捕えられたのか。 まず目を覚ました時に真っ先に考えたのは、その事だった。暗部6人での任務の最中に 手練れの上忍らしき男に斬りかかられた所までははっきりと覚えている。 頭の中は覚醒して数秒でもう冷静に働き始め、忍びの習性が重く軋む身体を起こさせた。 薄暗い部屋の中に目を凝らす。生き物の気配は無い。だが相手も忍びであれば油断は出来ない。 音を立てぬように慎重に懐に手を伸ばした。何時もそこに在る筈の冷たい刃の感触は案の定 感じられない。周りを見渡しても武器になりそうな物は何一つ無く、わかっていても心中で小さな 溜め息を一つ。 そして――改めてもう一度落ち着いて部屋の中を見回せば、そこはどうやら病院の一室だと いう事に気付いた。更に殺気の名残も感じられない見覚えのある場所だという事も。 大丈夫。ここは安全だ。研ぎ澄まされた意識が数十秒の長い沈黙の後にようやく下した判断。 不覚にもそれがわかった途端どっと力が抜け、腹部に氷を押し付けられた様な痛みが生じる。 傷口は冷たいのに一斉に身体中が火を噴いたようだ。零度から一気に沸点に達したかの様な衝撃。 ぐらり、と傾いだ視界の中で白いドアが大きく開いた。 「――おい!まだ起き上がるな!・・・ったく大人しく寝ていると思えば」 固い床にそのまま接近しかけた自分の身体を受け止めた男は、小さく苦笑しながら大丈夫だ、と 囁いた。その声は馴染みのある物。共に任務に当たった事のある仲間の物だった。 「俺の声が聞こえるか、カカシ? 助かったんだよ。もうお前は大丈夫だ」 その声は任務中の忍びには無い温かさを含んでいて、本当に自分は命を取り留めたのだと認識する。 自分は任務に失敗した。そして――生き残った。誰かに助けられて。 ただその事だけがわかった。それだけの事が閉じかかる瞼を更に重くする。 意識が落ちる前に知りたい。漠然とそう思って、カカシは視線を微かに上げた。 それは実際には相手の腕にかかった指先か微かに動いた程度の物だったのだが、彼は小さく笑った。 「あいつ、だよ。あいつがお前を助けたんだ」 あいつ。それだけでわかった。 仲間内で名前を呼ばれずとも通じる相手は唯1人。――では、彼なのだ。・・まさか。 相手の言葉を受け取る脳とそれを否定しようとする心に、カカシは重い口を開こうと唇を震わせた。 「ああ――わかる。ありえないと思ってるんだろ? あいつは、絶対に仲間を助ける様な事はしないからな」 その苦笑混じりの声に、胸中で小さく頷く。その通りだ。 彼が自分を助ける事などあり得ない。ある筈が無い。 何故なら――彼は任務に利益をもたらす事のみしか、決して実行しないから。 それが依頼人や、失って困る立場の忍びなら間違い無く助けただろう。 だが――自分は明らかに違う。自分は彼にとって若輩者の単なる同僚でしかない。 手負いの同僚は足手まといになりこそすれ、救った所で彼に利益など生じる訳が無いのだ。 そして彼の目には殆ど全ての同僚がそう映っているであろう事も、カカシは知っていた。 ありえない。そう唇から声にならない息が微かに洩れると、男はカカシの身体をベッドに そっと沈めながら呟いた。 「だが――本当の事だ。生き残ったのは、お前とあいつだけだった。 お前は三日前の真夜中、あいつの片手に血塗れの頭陀袋の様に引き摺られて戻って来たんだよ。 あいつはたった一人で任務を成し遂げて、お前を連れ帰って来たんだ」 その言葉を遠くで聞きながら、カカシはもはや落ちてくる強烈な睡魔に身を任せざるをえなかった。 次に目覚める時の事を、色が急激に遠ざかる数秒の間考える。そこで――意識は完全に落ちた。 困惑の応えを、得られないまま。 ・・・思えば、何かの前兆を感じ取ったのは――あの時からだったのだ。 再び彼に出会ったのは、ようやく動き始める事が出来た1月後の事だった。 彼が鍛錬をしている現場を自分は一度も見た事が無い。それは他の同僚もどうやら同じだった。 人間ならば、前線で動く者ならば、鍛えていない筈は無い。だがいつも何処で彼が訓練を 重ねているのかカカシは知らなかった。 「・・・・あ」 だから――偶然その現場に居合わせた時は、驚いた。 彼は木立の中で面を付けたまま、その刀を振るっていた。 その太刀筋は人間の耳に聞こえる様な音すら立てず、無駄な動きも力も一切存在していなかった。 重さも癖も形も存在しない悟りすら超越した、正真正銘の感情の無い太刀筋。 そんな物がもしこの世にあるのならこの彼の太刀筋を指すのだろうと思う。 とてつもない凄腕だとはわかるのに、それは恐怖も畏怖も感動も心酔も自分に与えなかった。 不思議な程に。 そんな事を思いながらふと目を上げると、いつの間にか面がこちらを静かに見ていた。 何も言わずに静かに佇んだまま、刀だけが腰に納められて。 その少年期を抜けかけた白く引き締まった体は、まるで人形の様に見える。 「助けてくれて――ありがとう・・・ございました」 反射的に形だけの言葉を返した為に、たどたどしい返事しか返せなかった。 唇から零れ出たその言葉は勿論嘘ではない。だが――100パーセント正直な気持ちでは無かったから。 任務に全力で当たる事。失敗すれば死在るのみ。幼少の頃から心身共に過酷な訓練を受け、 暗部に所属してからは常に前線に立ち生命を晒して疾走する刃の様に戦う日々。 そんな中にあって、任務が失敗した時には自分も共に散る覚悟は出来ているつもりだった。 その覚悟が無ければ忍びとして任務をこなす資格は無い。木の葉を守る為であれば躊躇いは無い。 自分の手で命を奪った忍びを目の前にして、いずれ自分もこうなるのだろうと そうぼんやりと思っていたのだから。 そして――それはまた同じ忍びとして生きる者として、彼も同じ筈だ。 「・・・構わない。――お前の為に助けた訳ではないから」 彼から返って来た言葉は、あっさりとした物。 任務に失敗した自分を責める様な口調でも、傷を労わるような口調でもなく、淡々としていた。 だがその後にぽつり、と付け加えられた言葉。 「ただ――お前が死んだら困る者がいるのかと、ふとそう思っただけだ」 それは、自然な言葉だったかもしれない。だが、およそ彼らしくない言葉だった。 その零れた何気ない一言だけが浮き上がるように彼の「感情」を帯びているかの様に 聞こえた。まるで――生身の身体を手に入れた機械のようだ。 カカシはそんな事を思い、今まで自分が彼の事をどう思って見ていたかに改めて気付く。 機械。それは人形の温もりすら存在しない物。 自分は彼を尊敬すらしていたが、そんな風にも思っていた、と。 長い過酷な任務の中で強さをひたすら求め、その為に絶対的な強さを持つ彼に憧れすら抱き、 それ以外の感情はそれ程重要では無いという様に――敢えて目を向けなかった自分。 その事を改めて突きつけられたような気がして、カカシは僅かに瞠目した。 「何故・・そんな風に思ったんですか?」 そしてまた、彼が自分にそんな言葉を向ける事に違和感を感じた。 何故暗部の最たる所に立っている彼が、そんな事を言うのか。 何故、そんな事を言うのか――この自分に。 彼の口から意外な言葉を聞いた驚きが自分にそんな言葉を吐かせた。 「――何となく」 だが彼は自分の心中など知らないかの様にぽつり、と呟いた。感情も色も無い様な声。 それは――不思議な事に冷たくは聞こえなかった。だが、温かい物にも聞こえなかった。 その太刀筋と同じ様に掴み所の無い物。 だが、その響きはカカシの腑に落ちる物ではなかった。 何故、それを自分に言うのだろう。自分に。 何を自分に伝えたいのだろう、彼は。 考え過ぎだと思っても、その気持ちは燻られた焦げ目の様にどんどん大きくなって行く。 見る間に広がって行く自分でも原因のわからない困惑。 それを抑える為に、手の平に爪を微かに食い込ませた。 動揺した自分を戒める様に。 ・・だが、この時感じた勘の様な物が外れていなかった事を、カカシは後日に知る事となる。 思えばこの時交わした会話が――彼と交わした最後の会話だったのかも知れない。 自分が憧憬と畏怖を混同させた様な感情を向けていた、「彼」との。 〜NEXT〜 |