『00:プロローグ(柳)』



越前リョーマという少年は、鋭い輝きをもって時代に斬り込み、この先何年も消えない伝説を刻んで彗星のように去っ―――たりはしなかった。全く腹立たしいことに、我々立海が実際に血を滲ませながら積み上げた歴史を、木っ端微塵に突き崩した上でそこに居座ってのけたのだ。
つまり…この話をどう語ったらいいか未だわからないが、とにかくその日、越前リョーマは立海の正門前に立っていた。
夕方も遅い時間、朱色に染まった少年は、まるで数日ぶりというような気安い空気で口を開く。

「アンタ達って、いつもつるんでるんだね。へぇ」
精市と弦一郎と、そして俺を眺めての第一声がそれ。
全国大会終了直後に渡米したはずの彼は、いつもの青学のジャージではなく、制服ですらなく、白を基調とした私服姿だった。
見慣れぬ装いと言える。
あのなじんだ帽子がなかったら見過ごしていたかもしれない。なにせ、小さいしな。

「久方ぶりだな。しかし、ジャージでもなくラケットも持っていないということは、我々と争う気はないと見える」
「いや柳…。その解釈はどうだろう」
ラケットを持ってると、ケンカ売る意志があることになるのかい? と精市が首を傾げた。

「武器がなければ喧嘩にはならないだろう?」
「ラケットがないと試合が出来ないと言ってくれないか」
「そうだぞ、蓮二。そんな言い方では、まるで我々が喧嘩っ早いと言っているようなものだ」
「まるでというか、お前達はラケットを持っていたらそれが一年だろうとおかまいなしで容赦しないだろう」
「違うよ、柳。ラケットを持っていて、かつ身の程知らずに俺に挑んできたら、容赦しないだけだよ」
「左様。己のレベルもわからない輩には、身の丈を教えてやるのが親切というものだ」
「そういうところが喧嘩っ早いと言うんだ。少しは――」

「ねぇ。盛り上がってるところ悪いんだけど、無視しないでくれる?」
意見の相違で割れる俺達に、越前が苦情を訴える。
ふん、と鼻を鳴らした弦一郎が、ある意味帽子仲間である少年を見下ろした。

「久しぶりだな、越前。いきなりやってきて挨拶もないとは、礼儀知らずな。手塚はどういう教育をしたのだ」
無礼を咎めた弦一郎に、越前は予想通り不敵に笑みを返す。

「なんか誤解してるようだから言っとくけど、別に手塚部長はオレの保護者ってわけじゃないんで」
「だから君はボウヤなんだよ。自分が青学の代表だって自覚がないんだね」
精市が冷たく笑うと、少し意外だったが、越前は困ったように軽く首を竦めた。

「その、ボウヤっての、やめてくんない?」
「だったら、少しは大人になってみたらどうかな」
「こないだは名前呼んでくれたのに」
「呼び方は、君の態度に合わせてるだけだよ」
つまり精市は、越前が生意気であればあるほどボウヤと呼ぶつもりらしい。
まぁ、精市らしい底意地の悪さではあるな。

「あのさ」
越前は白い帽子のつばをピンと弾く。
「オレ、あんたに用があって来たんだよね」

「笑止。お礼参りか?」
弦一郎が一歩前に出て越前を威嚇した。
試合に負けた相手が精市に喧嘩を売りに来るのはよくあることだった。
部長に負けたからではなく、立海に負けたからという理由で、精市が指名されることも多い。
その相手の心理について少し研究したことがあるが、どうも我々三名の中では精市が一番弱そうに見える、というのが理由らしい。
勿論、誤解だ。一番弱いのは無論、平和主義者の俺に決まっている。

「……てか、なんでオレが勝ったのにお礼参りとかしなきゃなんないの?」
「む」
我々三名は同時に黙り込んだ。
そうか。そう言えばそうだったな。負けたのはこちらだった。
あまりにも珍しい体験過ぎて、不意に思い出せなかったが。

「……や、真面目に黙られても困るんだけど」
「ごめんね、ボウヤ。喧嘩を売る以外の目的で他校生が訪ねてくるのは珍しくてさ。つい忘れちゃってたよ。それで、一体何の用かな?」
つい、じゃねーよ。という目線を投げつつ、越前はちょい、と精市を手招きした。
挑発に挑発として、わざわざかがんで身長差を強調した姿勢で精市が耳を貸す。

「あのさ。こないだオレが勝ったんだし、オレの言うこと一つくらい聞いてほしいんだけど。そのボウヤっての、やめてほしいな」
「んー…。気が進まないなあ」
「ふーん」

と、そのまま越前は精市の首筋を捉えて、顔を近づける。
思えば、最初に気付くべきだった。
我々立海が青学と関わったとき、それはいつもろくなことにならないのだと。
…実際に何が起こったのかは明白だったが、俺はそれを言葉にはしたくない。


「じゃ、まあこのくらいはもらっといてもいい…よ…ね」


最後まで言うか言わないかのうちに、越前の身体は落ち崩れた。
糸が切れた人形のように、不自然にぐにゃりと歪んでアスファルトの上に倒れる。
「ゆ、幸村っ! 何を!?」
「おい、越前」

慌ててその身体を抱き起こす。
しかし両目の焦点が合っていない。
口はぽかんと開いたままで、その腕は、だらんと地面に垂れる。

「お前、いきなり五感を五つ奪うことはないだろうッ!」
「精市、落ち着け。相手はまだ子供だぞ」
幸い人通りはなかったが、こんなところを誰かに見られたら大いに困る。
三年がよってたかって他校の一年生を苛め倒した図になってしまう。

「早く元に戻してくれ。頼むから!」
「……え?」
精市は呆然と自分の両手を見つめていたが、呼ばれてぎこちなく振り返る。

「あ、いや…戻すもなにも俺のせいなのそれ」
「お前以外に誰が居る!」
「だってラケットも持ってないのに、そんなことできるわけないだろ」
「いやでも!」

ああ、そうか。落ち着こう。落ち着け、俺。

「落ち着け。そうだな。そうとも。人間が五感剥奪とか、出来るわけがない。越前は貧血で倒れたんだ。そうだ。そういうことにしておこう」
「だが蓮二…」
「人間が五感を奪うとか出来るわけがないだろう、弦一郎」
「そうだよ。現実を見ようよ、真田」
「……………」

現実を見ていないのはどちらかはこの際おいておいて、この死体――ではなくて死に体の越前を、早急にどうにかしなければなるまい。
「よし。真田の家に行こうか」
「待て! 何故俺の家になる」
「お前の家は広いからな。五人以上集まるとなると、やはりそれなりの広さが…」
「五人?」
「俺、お前、精市、越前、そして手塚だ」
「何故、手塚が入るんだ!」
「何故、当然のことがわからない」

越前が倒れた以上、青学を呼ぶしかない。
そして引き取りに呼ぶべきは手塚だろう。
何故なら、俺は貞治をこんなことで呼びたくはないし、他に青学の誰かの電話番号が入っているのは真田の携帯だけだからだ。
部長と副部長の連絡先、つまり手塚と大石の二択ならば、真田にとってよりベターなのは手塚だろう。

「幸村、お前が越前の家に電話をすべきじゃないのか?」
「嫌だよ。むしろ俺が被害者なのに、越前の親御さんにおたくのお子さんの五感を奪ってすみませんって謝らないといけないわけ? その点、手塚なら適当にあしらえるし」
「そうだな。手塚なら越前が大変だと言えばすぐに来るだろう。なんだかんだ言って、後輩が可愛いはずだ」
「お前達…」

口では勝てない弦一郎が渋々と携帯を鞄から取り出す。
俺は仕方がないので越前を背負ってやり、精市は俺の分の鞄を持った。
「…お前が背負うべきじゃないか?」
と聞いてみたのだが、精市はにっこりと笑うだけだった。

「柳。さっきの光景見てたよね? それとも忘れたのかな? 忘れたのなら俺はその方がいいけど、そうじゃないよな? ―――で? どの口がそんなことを言うんだい?」


これ以上藪をつつくと、ろくなことにならない。
精市と付き合いの長い俺と弦一郎は、黙って視線を交わすと、それぞれの役割を果たすことにした。
確かに、精市の不幸にはいたく同情する。
俺はデータを集めるのが趣味で、弦一郎は常に親友として精市に付き添っていて。
だからそれがファーストキスであることを、俺達は知っていた。