題名:「ラグナ戦記外伝 とある試練」
<三題噺テーマ テーマ F「ストリキニーネ」「液状化現象」「金環日食」:出題者 人形使い様>
ウィング砂漠のどこかに建つ『賢者の塔』。
そこは、天界にて地上に住む者を加護する天神の一柱、賢者神アズサが居を構える地上の神殿。
かつては人の身ながら、その膨大な知識と、ある神を助けて地上に一時の平穏をもたらした功により、神々の末席に列せられた大魔術師アズサ。
以来、彼女は何者の接近も許さぬ砂漠の結界の中に建つ塔にこもり、地上の平穏を乱さんとする魔界よりの侵攻やその企みに目を光らせていた。
その日も、女神アズサは『賢者の塔』の中に広がる端の見えない巨大書庫の虚空に座し、己が放つ光によって書架に開き置いた書物に目を落としていた。
ゆったりとした汚れ一つない白く輝くローブの裾と、立てば膝に届くであろう黒髪がゆらゆらと漂い、その深き知性を宿した瞳は文字を追う。
不意に、そのおとがいが上がり、瞳は虚空を見やる。ほんのわずか、眉根に皺が走る。
「……ふむ。一線を越えた者が出たか」
一瞬だけ、哀れむような感情の色を瞳に映したものの、すぐに元の深い知性をたたえた色に戻す。
「ラグナに任せるか」
ほのかに光の灯った人差し指を、すっと下から上へ走らせる。
すると、足元に長方形の扉が現れた。壁もないのに一枚扉が立っている。
その扉を開けて、一人の少年が入ってきた。
額に革のヘアバンドだか鉢金だかを巻き、牛皮をなめした鎧を身に着け、腰に一振りの剣を帯びたその少年は、外見上十五、六歳に見えるにもかかわらず、いっぱしの修羅場を潜り抜けてきた戦士特有の鋭い眼差しをしている。
「師匠、なんでしょうか」
師匠、と呼ばれた女神アズサは、少年を見やることもなく書物に目を落としたまま告げた。
「試練の時間よ、ラグナ」
ラグナ、と呼ばれた少年は表情を変えずに、頷く。
アズサは講義をするかのように、淡々と続ける。
「今日、久々に日食があるわ。今回は月が少し遠めだから、一部地域では、きれいな
金環日食が見られるでしょうね。とはいえ、天の運行上の意味と、地上で観察する者の意味とは往々にして異なるもの。日食は、魔術的に言えば天神の力を削ぐ凶兆。この機に乗じて、色々たくらむ不心得者がいるわけよ」
「御託はいいです、師匠。俺は、命じられた相手を殺してくるだけですから。で、どこの誰です」
「………………」
ページを捲るような所作――床を埋め尽くして積まれた図書の中から、一冊の本がラグナの後頭部を狙って飛んでくる。
それを、ラグナは鞘に収めたままの剣の一振りで叩き落した。
「生意気」
ふっと愚か者を嘲る笑みが、女神の頬に浮かぶ。
たちまち、ラグナの周囲に積まれた本の山が崩れ落ちてきた。
「ぐあっ……!!」
剣一本で崩れ落ちてくる本の塊に抗しきれるわけもなく、ラグナは雪崩に飲み込まれた。
―――――― ※ ―――― ※ ――――――
「まだわかってないようね。お前は」
崩れた本の山の中から魔法によって猫の子のようにつまみ出されたラグナは、反抗的な目をアズサに向ける。
師匠もまた、愚か者を見る目つきで応えた。
「私が言うことは聞いておきなさい。私がお前に与える言葉は、必要だから与えているもの。理解できずに質問することは構わないけれど、私の言葉を拒むことは許さない」
「………………」
それでも殺気のこもった眼差しを改める気のない少年を、アズサは本の山の上に降ろした。
「いい? やっていることが似ていても、私はお前に殺し屋を期待しているわけじゃない。命じられたことだけをする役がほしいなら、お前みたいな半端者に頼まず、もっと腕の立つ専門の者を使うわ。それとも、私の指示は聞きたくないお年頃ってわけかしら?」
「いえ……ごめんなさい」
「では、続けるわよ。……日食の時間は天神の加護の力が落ち、魔界の力が増大する。幸い、今回は魔界との扉を開こうとする動きはないようだけど、それでも魔界の神々――魔神や邪神に供物を捧げて望みを果たしてもらおうとする愚か者は後を絶たない」
「ええと、師匠。質問してもいいか?」
本の山の上にあぐらをかいたラグナは、手を挙げて発言を求めた。
「許します。なにかしら?」
「そもそも、なんで日食が起きるんだ? 天神の中には、太陽や月の力を司る神もいたはずだ。それらが力を使って、初めから日食が起きないようにすればいいだろうに」
「いい質問ね」
アズサは初めて、にっこり頬をほころばせた。
「まず、天体の運行自体は天神の及ぶところではないのが一つ。これは、存在と時間の神々の領域で、その神々には天神も魔神も接触が出来ないわ。その力を借りたり、運行上のイベントに意味を与えることは出来るけれどね。そして、もう一つには、日食によって魔界との境が薄くなるということは、なにも不利益ばかりではないのよ」
「そうなのか?」
「日食になって薄くなった境界から、地上に溜まっている悪しき瘴気が魔界へ流れ込む。結果、地上の穢れはある程度除かれる。……あまり知られてない話だけれどね」
「なるほど。嵐で澱んだ貯水池の水が抜けるようなものか」
「そうそう。さすが我が弟子。いい表現をするね。ともかく、そういうわけで日食自体を止めることは出来ないし、するつもりもない。とはいえ、魔界が近づくからバカなことを考える奴も出てくる。そこでお前のような、神の下僕の出番というわけ。仮にも神に列せられし私が、直接動くわけにはいかないからね」
アズサの指が虚空に円を描く。すると、そこに映像が浮かび上がった。
二十代後半ぐらいのさえない男だ。厚手のローブとぼさぼさの髪から受ける印象は、修道士か魔道士。
「
ストリキニーネ、と名乗っている魔道士よ。
ストリキニーネは毒の一種。自分たちを毒になぞらえて、世に対する反抗心を誇示してる邪神崇拝者の一派というわけ」
「ということは……こいつは毒使い?」
「さあね。……全ての情報を得なければ不安? ふふ」
是か非か、どちらなのか読み取れぬ妖艶な含み笑いを漏らす女神。
「まさか」
笑い返すこともなく、ラグナは腰を浮かせた。不安定な本の山の上に立ち上がる。
「くれるって言うんならもらってやるだけの話さ。くれないならくれないでもいい。とにかく、こいつを――」
「止めるのよ。日食が……
金環日食が完成する前に」
「止める?」
ラグナは怪訝そうに眉をしかめた。
アズサは意味ありげにしっかりと頷いてみせる。
「ええ。手段は問わない。彼……おほん、この男の企みを止めなさい。制限時間内に。それが今回の試練」
「……………………」
考え込むラグナに、女神アズサは微笑を浮かべる。
「あら、なにも聞かないのね」
弟子は、師匠を睨みつけた。
「師匠がそういう言い方をするときは、必ずなにか裏があるからな。わかった。ともかく、行ってみよう」
「待ちなさい。その前にこれを」
虚空から出現した懐中時計が、ラグナの手に落ちる。
しかし、よく見てみると針がない。文字盤もない。金の円があるだけだ。
「それは日食計。どこにいても、頭上の日食の状況を報せてくれるというだけの魔道具。まあ、壊れないように私の加護を与えてはあるけれど。魔道士
ストリキニーネは洞窟の奥、埋もれた神殿の中にいるからね。それがないと日食の状況が把握できないでしょ」
「わかった。これが黒くなる前に止めればいいんだな」
「そういうこと。じゃ、行ってらっしゃい」
女神の見送りを受けて、ラグナは来た時に開いた扉を開けて出て行った。
残された一柱は――最前まで貼りつけていた笑みを全て削ぎ落とし、冷徹な面持ちに戻る。
「……毒。毒とは身体を害するものだけではない。精神を、人生を歪め、壊す毒というものもある。そして、毒を生成する生物は、自らの毒で死ぬこともあるのよ。さて……ラグナ、あなたはこの毒を受けて、無事戻って来られるかしらね?」
そう呟く女神の瞳は深く、緩やかに揺れていた。
―――――― ※ ―――― ※ ――――――
扉を開いた先は、洞窟の入り口だった。
門番代わりに飛び回っていた小型の妖魔インプを二体、即座に切って捨て、洞窟の中へ踏み込む。
こうして塔の外へ出て戦闘やら探索やらの経験を積む『試練』を与えられるようになった折に、師匠から最初に与えられた魔法道具『永続のランタン』を取り出し、行く手を照らしながら進む。
眩い光を放つ魔法『フラッシュ・ライト』を宿したそのアイテムと、さっき預かった日食計だけが、ラグナの持つ魔法の品。その身にまとう革の鎧も、腰に帯びた剣も、上質ではあるが魔法の力のような特別な力を持ってはいない。
その程度の装備しかない普通の冒険者なら、こうした洞窟探索には罠や待ち伏せに気を払いつつゆっくり進むところだろうが、ラグナは委細構わずずんずんと奥へと進んでゆく。
果たして罠はなかったものの、妖魔ゴブリンの襲撃を受けた。
五体のゴブリンを一分少々で片付けた少年は、再び同じペースで進んでゆく。
まさしく、無人の野を行くがごとく。その剣腕といい、肝といい、見た目どおりの少年ではありえなかった。
―――――― ※ ―――― ※ ――――――
洞窟の奥に、埋もれた神殿はあった。
儀式を守るべく襲い来る、邪教の徒をことごとく返り討ちにして、埋もれた神殿の最奥、穢れし邪神を祀る本殿に踏み込む。
扉を開く直前に確認した日食計によれば、既に太陽を示す黄金板は四分の一ほどが欠けていた。残り時間はあまりない。
本殿の中には魔法の明かりが灯され、かなりの広間になっていた。
ラグナが押し開けた扉の正面奥、一段高くなった壇上には荒れ狂う波濤を写し取ったかのような彫刻がある。おそらくなにかの神像の類だと予測できた。
目標は――その前に跪いている、ローブ姿の背中。
その周囲には、不自然なものが散らばっている。ぐしょ濡れの衣服だ。
男物女物、そして子供物……まるで、それを着ていた者たちが、突然水になってしまったかのように、それぞれ不自然な水溜りの中に落ちている。その数、十数着。
波を象る神像。水溜りに沈む衣服。邪神崇拝者。日食に合わせた儀式――それらから予想される最悪の結末に、ラグナの眼が細まる。獲物を狙い定める獣の如く。
「くくく、来たか……天神の犬め」
引き攣るような笑い声とともに、ローブの男が立ち上がる。
ラグナは歩幅を縮めることなく、真っ直ぐその背中に向かっていた。
「ここは邪水神ガリア様の聖なる神殿。貴様ごとき天神の犬が、汚らわしくも――」
ラグナは駆けた。剣を抜き放ち、魔道士
ストリキニーネに風を巻いて襲い掛かる。
「――うぬっ、問答無用かっ!! 守れ、ガーディアン!」
ストリキニーネの脇に立っていた甲冑が動き出し、ラグナに襲い掛かる。
ラグナは振り下ろされた剣を躱し、どこへ逃げるか一瞬迷いを見せた
ストリキニーネの腹へ手加減なしの蹴りを見舞った。
見た目どおりやわな魔道士は、胃の中のものをぶちまけながら悲鳴を上げて床に転がった。
呼吸困難状態に陥って意味不明の呻き声をあげている状態では、戦闘に参加は出来ない。
これで魔道・魔法は封じた。
バックステップでその場を離れ、攻撃を仕掛けてきた甲冑に切っ先を向ける。
甲冑は内側から卵の殻が割れるように、壊れていた。肩と脇から武器を持った新たな手が二対生えてくる。甲冑の中身は、といえば骨。割れた兜から覗くのは側頭部から角の生えた頭蓋骨で、虚ろな眼窩がこちらを見ている。
直ちに師匠に教わった知識を反芻する。
こいつは、魔道士が魔力を与えて操るゴーレムという稼動人形だ。形状から見て、ボーンゴーレムという種類に違いない。
弱点は特にないが、斬撃ではなく打撃の方がよく通る。
ラグナは即座に剣を鞘に収めた。剣が抜けないようにガチリと留め金を下ろし、鞘ごと剣帯から抜き放つ。
自らの身の丈をゆうに越える巨大な敵を前に、その瞳はいささかも揺るぎはしなかった。
―――――― ※ ―――― ※ ――――――
大人の身の丈をゆうに越える巨大な六本腕の骸骨戦士は、殴られ倒した挙句、本殿奥の壁に叩きつけられてその動きを止めた。
「バ……バカ、な! ボーンゴーレムを、こんなガキが……しかも一人で、だと!? げほっ」
口の周りに吐瀉物を貼りつけたまま、
ストリキニーネが呻く。
彼はいまだ腹を抱えたまま、起き上がれてはいなかった。
ラグナは近づきながら鞘ごと抜いていた剣を剣帯へ戻し、留め金を外して再び抜き放った刃をその首筋に押し当てる。
たちまち、
ストリキニーネの表情に恐怖が宿った。
「く、くそ……あと、あと少しだったものを……」
「なにを望んだか知らないが、魔神に頼ったのが運の尽きだ」
吐き捨てるラグナに、
ストリキニーネの顔が歪む。
「貴様に……天神に愛され、喜んでその走狗となった貴様なんぞに……わかってたまるか……。天神に見捨てられた者の絶望……願い……呪い……そして憤怒と……悲しみ……。貴様には、何一つ……わかるはずもない。くそ……くそ……あと、あと少しだったのに……。あと少しで、カザリーンを……彼女の魂を……」
拳で床を叩く魔道士。
「彼女の……魂?」
ふと反応したラグナに、
ストリキニーネは蔑みの笑いを浮かべた。
「ふ……ふん……。青臭いガキには……わかるまい。たとえ……たとえ、この身を外道に落としてでもも……世界を敵に回しても……愛する者を取り戻したいという気持ちは――貴様ごとき、正義気取りのガキには……この深く狂おしいまでの愛なぞ、わかるまい!」
「……………………」
身を起こそうとする魔道士の肩を踏みつけ、動きを封じる。
諦めたか、魔道士はそのまま話を続けた。
「カザリーンは……私の許婚だった女性だ。だが、五年前の夏……結婚の約束の二月前に、彼女は沼に浮いているところを発見された。なにがあったのかはわからん。暴漢に襲われたのか、妖魔に襲われたのか、なにかに引きずり込まれたのか、魔道の業に冒されたのか……いずれにせよ、瘴気の渦巻く沼地で死んだ者の魂は水底から魔界へと引きずり込まれ、邪水神ガリアの所有物となる。貴様も天神の使徒なら、知っていよう」
ラグナはじっと
ストリキニーネを見下ろしていた。その瞳が揺れている。
「私は……私はただ、
金環日食のこの日に――魔界との境界が極限まで薄くなるこの時に……邪水神ガリアに訴え、それを取り返そうとした。……それだけだ。ただ、それだけだったんだ…………カザリーン……」
「……なるほど」
重いため息とともに吐き出す言葉。
「そうか。……お前は……俺か。もう一人の……俺」
「……は?」
痛ましげに唇を噛むラグナに対し、魔道士は顔をしかめて聞き返す。
「なにを言っている? 私が……お前だと?」
「……同じ日、同じ時に生まれた幼馴染がいたんだ」
ぼそりと告げた一言に、
ストリキニーネは身じろぎを止めた。語りながらも、首筋に押し当てた刃は寸毫たりとも揺るがない。
「十二年間、一緒だった。一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に食事をして、一緒に学び、一緒に遊んだ。それから後も、ずっと一緒だと信じていた。死ぬ時まで。だが……あいつは死んだ。殺された。邪神崇拝者に。生贄として」
「な……なんと……」
「生贄として捧げられた者の魂がどこで、どんな目に合うのか……貴様は知っているはずだ」
「ああ。魔界の……それぞれの神の領域にて……無限に続く苦しみを与えられ…………負の感情を、魔神の拠り所となるエネルギーを搾り続けられる……。カザリーンも……だから、私は……」
「そうだ。……俺の半身、彼女も、ミネアも……永劫の苦しみの中にいる」
「……そうか……。なる、ほど……お前は、私、か」
「ああ……お前は俺だ。師匠に会えなかった俺だ。あいつを蘇えらせるために、天神に絶望し、魔神に魂を売ってしまった俺だ」
「……わかった」
ストリキニーネは体から力を抜いた。
「ここで君と会ったのも、なにかの巡り合わせ……運命なのだろう。任せろ。私の許婚の他に、君の彼女も救い出す。なに、私は魔界のことなら君より知っている。だから、君の彼女の魂を連れ去ったのがどの魔神かは知らないが、君と協力すれば――」
「お前には無理だ」
ラグナのにべもない一言に、
ストリキニーネの顔に朱が差す。
「な……なにを言う! そんなことはない! 君こそ、よく知らないくせに適当なことを」
「では聞くが、あれ何だ」
ストリキニーネは顔だけを横に向け、水溜りの中に沈んでいる衣服を見やった。たちまち、視線が浮つき、口調がしどろもどろになる。
「あれは……その…………
液状化現象の跡、だ……」
「
液状化現象とは?」
「それは……ええと、どう説明したものかな……ま、待てよ? 落ち着け? わかるように、納得できるように説明を――」
「言えないなら言ってやろうか」
口ごもる
ストリキニーネの肩を踏みつけるブーツに、ラグナは力を込めた。魔道士の悲鳴がわきあがる。
「あれは、お前が邪神に捧げた生贄だろう」
「そ、それは……その……なんというか……」
「なるほど、水の魔神だから捧げた生贄の体が液状化したというところか。一つ勉強になったよ。だが……俺はお前を許さない」
「ま、待て! 話を聞いてくれ! 邪神と取引を行うには、しょうがないんだ! 魔界の神々が唯一価値を見出すのは、穢れなき生贄の魂だから――」
「ミネアもそういう身勝手な奴によって、邪悪の化身に捧げられた。確かにお前の境遇は俺と同じだ……だが、同時にミネアを殺した奴とも同じだ。お前は、お前だけは、絶対に許すわけにはいかない」
静かだが、怒りに満ちた声。そして、寒気を伴うほどの殺気。その瞳には炎が宿っているかのようだった。少年がその身に宿すには、あまりに強すぎる感情。
「ひぃ!」
ラグナは剣を振り上げる。
魔道士は喚く。命乞いを叫ぶ。最前――ラグナが現れる前に、彼が邪神に捧げた生贄たちと同じように。
「た、頼む、おい! 待ってくれ! 命だけ、命だけは! 第一、私を殺したらお前のかわい子ちゃんを救い出す術は――」
「せめて……許婚と同じ場所で永遠の責め苦に苛まれんことを祈れ。邪教の徒よ」
「待て、よせ! やめ――」
鋭く磨かれた切っ先が、背中から正確に心臓を突き貫いた。
―――――― ※ ―――― ※ ――――――
『賢者の塔』書庫。
空間に現れた扉を開けて、ラグナが戻ってきた。返り血で汚れた姿のまま。
虚空に漂う師匠にして賢者女神を見上げる。
「ご苦労様。時間的にはぎりぎりセーフよ」
書面から目を離さず、事務的に告げる。
ラグナはそんな女神を見上げたまま、なにも答えない。
あまりの沈黙に、アズサの方が珍しくちらりと弟子を見やった。
「どうした、弟子。何か言いたいことでも?」
師匠を見つめる弟子の瞳には、いまだ憎悪と嫌悪と憤怒が炎となって揺れている。
「……俺に似た境遇の奴を殺せるかどうか、試したのか?」
「そう思うのなら……お前はまだまだ思慮が足りないね。その程度の発想では、絶望を退ける思考には程遠い」
「では……ミネアを殺したのと同じことをした奴を前にして、平静でいられるかを試されたのか?」
「それも、遠い」
興味を失ったように、アズサの瞳は書面に戻った。口調も冷たいものに戻る。
その態度が、ラグナのイライラを煽り立てる。
「じゃあ、一体なんなんだ!」
「知る必要はない」
「なんだと!?」
「たかが神ごときの思惑など、知る必要もないと言ったのよ。バカ弟子」
『たかが神ごとき』にわざとらしいアクセント。
ぱたん、と音を立てて書物を閉じ、別の書を書架の上に開く。
そこへ目を落と――さずに、ふとラグナを見やった。
「では、師匠として逆に聞くわ。なぜあいつを殺したの? ……いいえ。なぜ、あいつの口車に乗らなかったのかしら? 彼は、あなたに似ている。あなたはそう感じたのでしょう?」
「愚問だろう。師匠らしくもない」
わかっているのに聞き返されるのは、愚弄である。ラグナは、神を前にしても揺るぐことなくまっとうな怒りを燃やしていた。
「第一、その言い方から察するに一部始終を見ていたんだろう? ……奴と手を組み、罪無き犠牲者をさらに邪神へ捧げてミネアを救い出す? は。そんなことミネアは絶対に望まないし、今も苦しんでいるミネアに対する裏切りだ。絶対にありえない」
「でも……あなたは人間。あなたが目指すものは、人の身ではおよそ届かない領域。それならまだ、彼の申し出の方が――」
「くどい!」
ラグナの放った一喝に、周囲の書物が一斉にざわめいた。
それを驚きの眼差しで見たアズサの頬に、一抹の笑みが浮かぶ。
「俺は邪神を殺して彼女の魂を救うと誓った。そのためにここにいる! あんたが出来ると言ったからだ! もう、そうやって俺の覚悟を試すのはやめろ! 不愉快だ!」
「愚か者」
不機嫌な一言とともにアズサの指が虚空を舞い、ラグナの足元の書物が一斉に波打ち、開き、蠢いた。
たまらず、ラグナはその場に転倒する。
「覚悟というのは常に試され、確かめられ続けるもの。人の心は移ろいやすく、惑いやすいのだから。これからも私はお前の覚悟を試し続ける。お前は常にそれに応え続けねばならない。それがさだめ。……今の言葉、次吐いたら塔から放り出すよ」
「……く……くそ」
転がったまま、虚空の女神を睨みあげる弟子。
今の状況こそが、まさしく二人の関係そのもの。
「まだだ……まだ、言いたいことがあるぞっ!!」
書面に興味を戻そうとした女神を引き止める言葉に宿るは、隠しもしない怒り。
跳ね起きながらも逸らさぬその瞳に宿るは、先ほどとはまた違う、義憤の炎。
アズサは怪訝そうに眉根を寄せた。
「なによ」
「今回の件、なんでもっと早くに言わなかった」
「………………はぁ?」
「俺が到着した時、既に犠牲者は十数人いた。彼らが犠牲になる前に、俺を動かしていれば! 神のくせに……人を守るべき天神のくせに、犠牲を待っていたのか!」
「ああ。そのこと」
アズサが珍しく視線を外して、虚空に泳がせる。
「そうね。それが出来たらよかったんでしょうけど……できなかったのよ」
「神だろう、あんたは」
「ええ、神よ。全知全能でもなければ……まあ、それに近いけれども、万能でもない、ただの神。でも……犠牲者の誰一人として、私には救いを求めなかった。一人でも私に呼びかけてくれていたら、もう少し早く事が露見して、お前に命じられたかもしれないけれど……結局、魔界に犠牲者の魂が移動する気配を感知するしか、気づく方法はなかった」
「他の神の介入は!?」
「神託によって信徒達を動かした天神もいたようだけど、どちらにせよ間に合わなかったわね」
「じゃあ、彼らが救われる目はなかったということか。奴に目をつけられた時点で、救う術はなかったって」
「そうね。神が直接介入することは許されない以上、残酷な話だけど、そうなるわ」
「それで済む話なのかよ!」
「それで済ませなければ、先に進まない話なのよ」
間髪入れずに返った答えに、ラグナは継ぐ言葉を失う。
「あなたは神としての私たちが、絶対の守護者であるように考えているけれど……ならば問うわ、人間。あなたが今殺してきたのは、魔界の住人だったのかしら? 同じ人間同士でなぜこんな悲劇が起こったのかしら? 神の異能に頼る前に、人間同士でどうにかすることは出来なかったのかしら?」
「それは……」
「それを問うのは残酷な話、でしょう? 同じ人間同士でありながら、本来敵である邪神へ生贄を捧げる者、捧げられる者がいる。それさえも神が介入し、統制なければならないのかしら? じゃあ、あなたたち人間の意志は、どこにあるの?」
「………………」
黙り込んでしまったラグナは、しかし、その両拳を握り締めて震わせていた。
「今ここでの回答は期待してないわ。しっかり考えなさい」
女神はふっと笑みをこぼし、再び書物に目を落とそうとして――ふと何かに気づいて視線を弟子に戻した。
「そうそう。回答で思い出したわ。最初の質問」
ラグナは怪訝そうに顔をしかめる。質問した当の本人が忘れていたらしい。
「今回の試練の意味だったわね。……そうね。今のやり取りも含めて、得たものがあると思うのなら、それが答。失ったものがあると思うのなら、それは間違い。私は試練の場を与え、お前は生きて戻ってきた。絶望に陥らず、使命を果たして。私にとってはそれで十分。後はお前が決めること。お前はこの試練でなにを考え、なにをした? なにも得る所がなかったと思うなら……ま、次の試練を待ちなさい。もっときついのを用意してあげる」
「……なんだそれ」
「質問に対する回答」
「……くっ……わかったよ。もういい」
踵を返して扉から出てゆくラグナ。
扉が姿を消し、沈黙の帳が書庫に落ちる。
「やれやれ……。邪神を葬って、奪られたものを奪い返そうという者が、神以下の思考の範疇にいてはいかんでしょうに……」
女神のため息と呟きが虚空を漂った。
しばし、書面に綴られた文字を瞳が追う。
しかし、ふとその瞳が止まり、わずかに細まる。偶然の一致だろう。そこに走る文字は――
「
ストリキニーネ――か」
そこに書かれている説明は、微量なら興奮剤や強精剤として使える薬となる、とあった。
無論、アズサは知っている。世にある毒の多くは、同じように用量や使用法を守れば薬になることを。
ちらり、と弟子が消えた辺りを見やる。
「さて……今回の
ストリキニーネは毒か、薬か。もしくは――毒にも薬にもならなかったか。その答え、いつ見せてくれるのかしらね」
終わり