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邂逅

 1

 1876年に準州から州に昇格したコロラド州。
 その大地は、州を南北に貫いて走るロッキー山脈の東と西で大きく風景を変える。
 バッファローがのんびり草を食む東部の大平原。
 峻険な山岳地帯を灰色熊(グリズリー)がのし歩く中・西部――そこは大森林が広がる人跡未踏の地でもあった。
 コロラド河に流れ込む無数の支流・源流によって刻まれた深い峡谷と、切り立った崖で囲まれた多くの台地。その上をピノン松や杉の古い針葉樹林が覆う。
 この広大な森の大地をテリトリーとして生きていた、北米先住民族の一部族があった。
 ユート族である。
 白人と北米先住民族の激烈な闘争において、滅亡する部族も数多くあったこの時代、彼らは例外的におおむね白人とうまく折り合って生きてきた。
 元々遊牧と狩猟の民族であった彼らは、南北戦争直後の1868年、連邦政府と協定を結び、衝突事件を起こす事もなく、ロッキー山脈以西に用意された居留地へと移動していた。
 その土地は居留地としては珍しく、肥沃な土壌に恵まれていた。連邦政府の勧めもあって、ユート族の中には酪農、農業の定住を始める者もいたが、ほとんどの者はこれまでと変わらない生活を続けた。
 近代文明から隔絶したロッキー以西の森林風土そのままに、そこに生きる人々もまた白人の世界にあまり近づく事なく、平和に生きていたのである。

 1878年、ユート・インディアン監督官の肩書きを持つ一人の男が現れるまでは。


 2


 風が逆巻く。
 九月初旬の太陽が、遥かなる高みから照りつけている。
 ロッキーの山肌を駈け下りた風は、台地を覆う針葉樹の緑をざわめかせ、もの悲しげな唸りをあげて堆積岩の露出した深い峡谷を吹き抜ける。
 赤褐色の大地を深く刻むV字峡谷の底では、激流が両岸の断崖絶壁にぶつかり、白い飛沫を噴きしぶいている。風はその激流とともに断崖にぶつかり、そのまま絶壁を駈け登って中空に張り出した大岩を吹き上げた。
 大岩の上には、渓谷へ背を向けて立つ騎影があった。栗毛の馬に跨るのは、大地と同じ色の肌を持つうら若き娘。
 一点の曇りもなく輝く黒耀石の瞳に、強い意志を内に秘めて固く引き結ばれた口許。一つに編まれてもなお腰まで届く艶やかな黒髪。
 額に赤い民族特有の鋸歯文様入りのヘアバンドを巻いている。
 薄汚れたケープが、吹き抜ける谷風に弄ばれてはためく――容赦なく吹きつける風の中でも、娘は身じろぎもしなかった。
 その厳しい眼差しは、張り出した岩の根元に陣取る三人の白人に向けられていた。
 馬に跨り、各々の銃を娘に突きつけているその三人は、ニヤニヤと薄笑っていた。
「どうした、インディアン。もう逃げねーのかよ?」
 三人組の真ん中、金髪の青年が右手に構えたリボルバー型拳銃を揺らした。
 くっくっく、と両側の中年男達が、いやらしげに忍び笑う。
 一人はヒゲ面で樽のような体型、もう一人は痩身長躯、この暑いのに黒いロングコートを着込んでいる。それぞれ手に青年と同じリボルバー拳銃コルト・ピースメイカーと、レバーアクション式のウインチェスターライフルを構えていた。
 外見も年齢もばらばらの三人だったが、ただ一つ共通するものがあった。その暗い欲望に澱んだ眼――低俗な無法者、アウトローの眼だ。
 娘はきつく口を結んだまま、逃げ道を捜して断崖を覗き込んだ。
 目も眩む高さが飛び込んで来た。遥か下方、轟然と跳ねる白い飛沫が見えた。
 目を上げれば、向こう岸は鬱蒼と茂る針葉樹の森林。その彼方に神の壁、ロッキーが広がっている。
(向こう岸まで……百m……下までは二十から三十くらい……。降りるのも跳ぶのも無理……)
 娘は色が白くなるほど下唇を噛み締めた。絶望の黒い闇が脳裏を染めてゆく。
 道は一つ。落ちて死ぬか、撃たれて死ぬか……町の広場で吊るされるか。
「ほ〜れほれ、後がねえぞぉ? さっきまで逃げ回ってた元気はどうした、ええ? げーひゃひゃひゃひゃ」
「……………………」
 馬鹿笑いをあげるデブの無精髭面を、娘は睨みつけた。黒耀石の瞳に踊る激しい炎は、追い詰められた野獣のものだ。
 デブの馬鹿笑いをにたにた笑いながら聞いていた金髪の保安官は、手の中でくるりと拳銃を回した。
「あー、てめーがどこの誰だか知らねーがな、インディアン? 牛泥棒の容疑で逮捕だ。観念しな」
 胸の星型バッジが太陽を弾く。
「げひひひひ……インディアンはどいつもこいつも吊るし首だぜ」
 茶色く変色した汚い歯を剥き出し、げらげら笑うデブ助手。
 そのとき、それまで黙っていた娘が唸るような声を絞り出した。
「――このクソ野郎」
 金髪の青年保安官は顔をしかめた。
「あぁ? なんか言ったか、インディアン?」
「私は何もしてない! 牧場の傍を通りがかっただけじゃないか。……お前達白人は私達を見つけると、何かと因縁をつけてくる。そんなに私達が憎いのか。私達が一体お前達に何をした!」
「憎いかって? あ〜あ、憎いね」
 若き保安官は蔑みを隠しもせず嗤った。
「貴様らのような、薄汚くて下等な猿どもと同じ大地で暮らしているのかと思うと吐き気がするぜ。貴様ら頭の鈍い原始人も、薄気味悪い東洋人も、クソみてえな黒人もぜ〜んぶ、地上から消えちまえばいいんだ。いいかぁ? ここはアメリカだ。俺達白人の国だ。ミーカー監督官も言っていたろうが。インディアンは法的に一エーカー(約四千u)だって土地を所有しちゃいない。この広い大地は全て合衆国政府、つまり俺達白人のものなんだよ」
「それは白人同士で勝手に決めた事じゃないか! 私達はお前達がこの大地に来る遥か昔から、私達の決まりのもとで生きていた! この大地は、我々の偉大なる父祖のものだ!」
「――ほざくな、猿」
 ぞっとするような冷たい声で口を挟んだのは、ライフルを構えた黒コートの男だった。
 口の回る青年保安官、下品なデブ助手とは対照的に、陰にこもった雰囲気の男の一言だけに威圧感がある。
「土地の使い方も知らない未開の猿に代わって、人間様が有効に使ってやろうと言っているんだ」
「……私達の土地に勝手に入り込んで馬を殺し、牧草地を掘り返すことがか」
「そうだ。馬がいなくなれば、お前ら猿も人間様に従って文明開化するか、尻尾巻いてお山の奥へ消えるしかないとわかるだろう?」
「母なる大地にナイフを突き立てるような真似を、私達に強いることがお前達の言う文明開化か! ふざけるな! そのせいで……私達の集落ではこの冬、餓死者が出たんだぞ! お前達があの生活を押しつけるまでは、そんなものは一人も出なかったのに!」
 娘は溢れそうになる涙を必死に噛み殺し、三人の白人を睨みつけた。
「私達には私達の暮らしがある! どうしてそっとしておいてくれない!」
「馬ぁ鹿」
 若い保安官はへらへら笑いながら、両手を広げた。
「この大地は神が俺達白人に与えたもうた楽園だ。そこに猿がいりゃ、飼い慣らすか、駆除するしかねーだろう。要するにだ、お前ら目障りなんだよ」
 へひゃへひゃと笑う青年に、他の二人も下品な笑みでもって応える。
「しかし、まぁ、いかに猿とはいえ、この国に生きる者は全てアメリカ合衆国憲法の下に服す義務がある。お前はそれを破ろうとした。処罰されるのは当然だろ?」
「まだ破っていない!」
「いずれ破るさ。そうなる前に駆除する。それが町の秩序を守る保安官の仕事だ。なあ、ボブ?」
 保安官は黒コートの助手に同意を求めた。その男ボブは悪意に満ちた笑みで即座に頷いた。
「その通りだ。悪い芽は早めに摘んでおくに限る」
 青年保安官は、どうだ? とばかりに肩をすくめてみせた。
 屈辱にぎりぎり歯がみする娘を小馬鹿にするように、無造作に馬から降りる。
「ボブ、チャーリー、ちゃんと狙っておけよ」
「おう」
 髭面のデブ、チャーリーがピースメイカーの撃鉄を引き起こす。
 娘は右手を背中に回した。ケープの下、腰の後ろに隠したトマホークの柄を握りしめる。
 抵抗は即射殺――しかし、捕まって彼らの法で絞首刑にされるのも御免だ。
 滅びの美学の信奉者として育ってきた娘は、ただで死ぬつもりはなかった。
 どうせ死ぬなら華々しく……若い保安官だけでも道連れにしてやる。
(偉大なる精霊よ、我を守りたまえ……少なくとも、こいつだけは……)
 蒼天に輝く太陽――父なる精霊に祈りを捧げ、トマホークを握る手に力を込める。
「待て、マイク」
「ああ?」
 不意にコート男・ボブに呼び止められた若い保安官マイクは、不快そうに振り返った。
 娘の背を冷汗が伝う。バレたか……?
(お願い、偉大なる精霊よ……)
 死ぬのは怖くない。しかし、一矢も報いずに終わるのは嫌だった。
 全神経を相手の動きに集中させる。撃たれるとしても最初の弾を避け、トマホークを投げつけてやる。
 いつしか涙は乾いていた。
「お〜いおいおいおいおいおい、ボォ〜ブ〜? 言ったはずだぜ〜?」
 マイクはボブに向かって首を小刻みに振った。
「いいかぁ? 仕事中は俺をマイクと呼ぶな。保安官と呼べ」
 途端に岩の無表情を保っていたボブは、げんなりした様子でため息をついた。
「ああ、悪かったな保安官。そうだった」
「わかりゃいいんだよ。で、なんだよ?」
「ああ。こいつをいちいち町まで連れて帰るのは面倒だ。どうだ、見たところインディアンの女にしてはなかなかの上玉だし……」
 途端にマイクの顔付きが変わった。不審そうにボブを見上げる。
「おい、ボブ…………おいおいおいおいおいおい、な〜に考えてんだぁ? なんか、すっげえ悪いこと考えてねーか、この保安官様の前でよぉ?」
 言いながら、妙に嬉しそうに身体を揺する。
「猿の駆除ついでの役得ってやつだ。知事やミーカーさんには抵抗したからやむなく射殺したと言えばいい。……悪いことかね?」
「全っっっっ然」
 けけけけ、と妙に甲高い声で嗤ったマイクは再び娘に振り返った。
「い〜いアイデアだ。ここでバラしちまやぁ、手間も省けるしな」
 娘の顔色が変わった。たちまち貌から血の気が失せ、全身が総毛立ち、思わず身震いする。
 冗談ではない。
 死ぬのは怖くない。だが、白人に犯されるなど……考えるだけでも吐き気がする。その屈辱だけは、絶対に我慢できない。
 いやらしい笑みを満面に貼り付けてにじり寄ってくるマイク。
 思わず娘はトマホークを抜き放った。逆手のトマホークを空中で器用に順手に持ち直し、啖呵を切る。
「そ、それ以上近づくなっ! その汚い手でちょっとでも触れたら、こいつで脳天ぶち割ってやるっ!」
 三人は思わずぎょっとして立ち止まったものの、すぐに顔を見合わせて笑った。
 マイクは娘を睨めつけながらピースメイカーを抜き、その顔にぴたりと狙いをつけた。
「バカか、てめえ。そんなもんで銃相手にどうしようってんだ、ああ? せっかく、少しばっか長生きさせてやろうってのによ。ちぃともったいないが、お望みならすぐに死なせてやっても――」
 しかし、マイクのセリフを娘は聞いていなかった。
 恐慌の極みで混乱しきった娘は、実のところ、今自分が何をしているのかもよく分かっていなかった。
「さあ、そんなもんは捨てちまえ。そうすりゃ、ちったーいい気分にさせてやってもいい。これでも町じゃあ、女たらしのマイクって、結構名が通ってんだぜ? けけけけけけ」
 トマホークを構えた娘と、にじりよる三人の暴漢。両者の間を、強い谷風が吹き抜けて行った。


 3


 谷を渡る風が悲しげに歌い、森の木々がざわめく。峡谷の底を早瀬が奔る微かな轟きも聞こえている。
 自然の奏でる音色の中、独特のリズムを刻む馬の蹄鉄、そして……この世界にたった一人存在する人間のぼやき声。
「……ちくしょ〜、どーなってんだよ。行けども行けども町なんか見えねえじゃねえか」
 峡谷を見下ろす断崖の上に出てしまった男は、馬の歩みを止めて辺りを見渡した。
 見えるものと言えば、地平の彼方まで伸びている巨大な峡谷とその向こうに限り無く広がる大森林。それに、ペイル・ブルーの空に浮かぶ銀白色の雲。
「おっかしいなぁ。デンバーといやぁ、石炭と金……近くまで行けば、ボタ山が目印になると思ったんだがな。……あれは違うよな」
 遥か彼方に見える山々の連なり――まるで岩の壁だ。人の力で作り上げられるようなものではない。
 ここまで来たら、認めざるをえない。
「道に迷ったか……むー。どうしよう」
 ふと背後を振り返る。今しがた通ってきたはずの小道が、全く見知らぬ土地へ続く道に見えた。
 そもそも、デンバーはロッキーの東側、大平原の縁に位置するはずだ。
 だが、この風景を見続けること既に三日が経つ。普通に考えてここはロッキー山中か、もしくはロッキーの西側だ。
 そして、一番やばいことに食料が乏しくなってきていた。
「こんなとこでは人に道を聞くわけにもいかんしなぁ……」
 とぼけたことを呟いてみても、道を訊ける人間などいるはずもない。
 傍らの渓谷をのぞき込んだ。白い紐のような流れが遥か下に見える。
「降りるのは無理だわな。……仕方ねえな。この渓谷沿いに下ってみるか」
 男は馬首を下流に向け、馬の腹を軽く蹴った。


 しばらく進むと突然、銃声が聞こえた。すぐ傍だ。
(この銃声……ライフルか)
 馬を止め、警戒しつつ耳をそばだてる。
 二発目は聞こえなかった。その代わり、風に乗って話し声が聞こえてきた。
 方向は……前。どうやら目前の小高い岩の丘の向こうに誰かいるらしい。
(いやはや、助かった……かな? とりあえず道を訊いてみよう)
 馬を降りた男は、ゆっくりと声の方へと近づいていった。


 乾いた火薬の炸裂音とともに、突然娘の右腕が後方に吹っ飛んだ。
 そのまま背中から地面へ落ちる。主を失った馬は驚きいなないて棒立ちになった。
「な、なんだ!?」
 驚くマイクの背後で、ボブがウィンチェスターのレバーを引いて薬莢を排出する。
「世話を焼かせるな、保安官」
「ボブ? なんだおい……なんで撃ちやがった!?」
「お前がそいつの頭を狙っていたからだ」
「はぁ?」
「頭を吹っ飛ばしちまえば、死んじまうぞ。腕なら――ほれ、その通りだ」
 ボブに促されて振り返ったマイクの目の前で、娘がもがいていた。
 トマホークは撃たれた衝撃で飛ばされ、袖の破けた右腕は血に染まり、力なく垂れ下がっている――それでもなお、立とうとしていた。
 血まみれの右腕を支えに立とうとして倒れこみ、次は左手を支えに立とうと悶える。
 脇目も振らず、ただ立ち上がろうと悪戦苦闘を続けるその姿は、まさに猟師に撃たれた獲物の最期のもがきだった。
 最初のうちこそ、その必死の気迫に気押されていたマイクは、すぐに気を取り直した。
 優越の笑みに頬を緩める。獲物が動けない今がチャンスだ。
「ったく、びっくりさせんなよな。まあ、いいや。へへ、それじゃあいただきますか」
 もはや危険はないと判断したチャーリーとマイクは銃の撃鉄を戻し、腰のホルスターに押し込んで娘に近づいた。
 焦点の定まらぬ目。意識の飛びかけている娘の薄汚れたケープを剥ぎ取る。娘は抵抗らしい抵抗を見せなかった。自分の身に起きている事態が理解できず、ただマイクを押しのけて立ち上がろうとした。
 その抵抗を鼻で笑ったマイクが、さらに上衣を引き破ろうと襟元をつかんだとき――
「おいおい、そりゃあ、やめといた方がいいぞ」
 突然背後から飛んだ声に、三人は弾かれたように振り向いた。
 いつの間にやって来たのか。
 渓谷の上流側に風体のよくない男が馬の手綱を引いて立っていた。
 くたびれたカウボーイハット。乱れ伸びたブラウンの髪。無精髭で青々とした顎。埃だらけの革ジャケット。よれよれの縦縞模様のシャツ。ずっと馬に乗っていたためか、内股だけ薄く変色したジーンズ。泥だらけの拍車付きブーツ。
 ジャケットの陰、腰のガンベルトには左右のホルスターに一丁づつ銃が収まっている。
 無精髭のせいで多少老けて見えるが、実際は二十代後半から三十の頭ぐらいかもしれない。
 男は空いている右手で鼻をこすりながら、三人の方へゆっくり近づてきた。
「女一人に三人がかりかよ。無法の西部とはいえ、せめて女ぐらいは自分の甲斐性でものにしろよ。情けねえなぁ」
「何だ、お前は……?」
「俺はジェラード・マクスウェル。賞金稼ぎだよ」
 ボブの冷ややかな視線に全く動じず、男は飄々と答えた。
「なに?」
「つまり、前達がその女をやっちまったら、俺はお前らを捕まえなきゃならない」
 言葉の内容とは裏腹に全く威圧感がないのは、垂れ気味の目尻のせいだろう。
 突然の闖入者が同業者らしいとわかって、ボブは顔をしかめた。チャーリーも眉をひそめる。どうするべきかと目顔で会話を交わす。
 しかし、怖いもの知らずの青年保安官だけは違った。
「おう、こら。出しゃばるなよ、おっさん」
 盛り上がった興奮に水をさされたマイクは、娘の胸元をつかんだままピースメイカーを抜いた。その銃口をジェラードに突きつける。
「邪魔をするなら、あんたも死ぬことになるぜ」
 慌ててボブとチャーリーも各々の銃を構える。
 途端にジェラードの顔に緊張が走った。
「……おい、俺に銃口を向けるな。死ぬぞ」
「ふふん? なんだ、ビビってんのか? へへ、その腰の二丁拳銃は伊達かよ。……ついでだ、撃鉄も起してやろうか?」
 緊張に顔を硬張らせたジェラードをせせら笑いながら、マイクは撃鉄に親指をかけた。
 撃鉄を起すのは、殺意の証明に等しい。
 シングルアクションと呼ばれる種類の拳銃は、撃鉄を起さなければ引き金を引いても撃てない。したがって、法的にも撃鉄を起していない者を撃つのは、いかに銃口を突きつけられていても過剰防衛になる。逆に、撃鉄が起きていれば正当防衛は成立する。
 マイクの親指がゆっくりと撃鉄を起してゆく。
 刹那、乾いた炸裂音が渓谷一帯の空気を震わせた。
 のけぞってぶっ倒れたのは、マイクだった。
 両手両脚を大きく広げ、天を仰ぎ見る彼の額空いた小さな孔――そこから鮮血が溢れ出し、硬張ったデスマスクを赤く染めてゆく。
 即死だった。自分の死に気づきもしなかったのだろう。目を大きく見開いたその顔には、優越の笑みが貼りついたままだった。
 ボブとチャーリーは、ただ呆然としていた。
 ジェラードの右手に握られた見慣れない銃。まるで魔法でも使ったように、こつ然と出現したそれは、確かに彼の腰に下がっていたものだった。
「……言ったろ。死ぬぞってな」
 まだ銃口から漏れている青い硝煙の向こうで、ジェラードは静かに呟いた。
 ボブはマイクの握るピースメイカーを見た。撃鉄は完全に起きていた。
 目の前の男がマイクを抜き撃ちで射殺したとようやく理解できても、ボブとチャーリーは動けなかった。
 頭の中が混乱して次に何をすべきか判断がつかない。
 保安官が射殺されてしまった。この男は何者だ。あの抜き撃ちの技量、只者ではない。残る俺達はどうすべきなんだ。
 銃を構えたままゆっくりと進み出て来る男に合わせて、顔面蒼白の二人はじりじりと後退していた。
 追い詰められた者の恐怖を、今度は二人がそのまま味わっていた。
「ライフルは……ウィンチェスター、拳銃はピースメイカーか。シングルアクションの銃は撃鉄を上げなければ撃てないよな」
 ジェラードはあくまで冷静だった。
 言いながら人なつっこい笑みを浮かべ、銃口をライフルを持つボブに向けた。チャーリーのピースメイカーは、まだ撃鉄が上がっていない。
「俺のはコルト・ダブルアクション・サンダラーだ。知ってるか? ダブルアクションの銃は、引き金を引くだけで撃鉄が起きて――撃てる」
 指に力を込めると、かちかちと撃鉄が鳴る。
「……野郎っ! 弄(なぶ)るかっ!!」
 突如、ボブがライフルを肩付けし、ジェラードに向けて照準をつけた。
 マイクの二の舞だった。
 ウィンチェスターの引き金を引くや否や額を撃ち抜かれ、ボブはのけ反り倒れた。彼の放ったライフル弾は空気を切り裂いて、あさっての方向へ飛び去った。
「う、うひゃぁああっ!」
 頼りの二人を目の前で失ったチャーリーは、たちまち恐慌に陥った。腰砕けに尻餅をついて、そのまま後退る。
「銃を捨てな。撃鉄さえ上げなきゃ……」
「ひいいいいいいぃっ! く、来るな、来るなぁ!」
 錯乱したチャーリーはジェラードの忠告も聞かず、銃の撃鉄を起した。
 瞬間、ほとんど時間差なしでサンダラーの銃口が火を噴いた。
 左胸に鉛玉を食らったチャーリーの巨体はもんどりうって転がった。
 大地を抱くように倒れ伏した身体の下から、鮮血がにじみ出す。
 ジェラードは大きく吐息を漏らした。
「……やれやれ。だから言ったのに。人の話は聞くもんだぜ」
 サンダラーを腰のホルスターに収め、襲われていた娘に目を向ける。
 彼女はよろけながらも何とか立ち上がろうとしていた。
「大丈夫か……ありゃ?」
 手を貸してやろうと近づいたジェラードは、眉をひそめた。近隣の町の娘が野盗にでも襲われたのかと思っていたが、そうではなかった。振り返って痛々しい微笑を浮かべる娘の肌は、赤土を思わせる赤褐色だ。
「お前、インディアン……か? 変な服着た女だとは思っていたが」
 娘の微笑がたちまち硬化した。眼差しが挑戦的な熱を帯びる。
「だったらなんだ? 助けなければよかったと?」
「い、いや、そういうわけじゃないが……」
 言い澱むジェラードを尻目にトマホークを拾い上げた娘は、それをベルトに挟むと、口笛を一吹きして馬を呼んだ。
 近寄ってきた馬の背にひらりと跨ろうとして、苦鳴とともにあっさり落馬する。
 左手で右腕を抱え、噛み締めた歯の間から聞いているだけで痛そうな呻き声が漏れてきた。
「おいおい、大丈夫か? そんな腕で馬なんて……見せてみろ」
 ジェラードは娘の傍に寄って、その右手を取った。
 娘の右腕の中ほどに抉られたような銃創があった。出血はさほど酷くない。骨も無事のようだ。次いで慎重に肩の状態を調べる。
「……ああ。こりゃ、脱臼してるな。けどまあ、この程度なら喜ぶべきかもしれないな」
「な……に……?」
 じっと痛みを噛み殺していた娘は、ジェラードを睨みつけた。その面持ちは硬張り、蒼ざめている。顔中脂汗だらけで息も荒い。
 ジェラードは困惑した面持ちで、娘の眼差しを受け止めた。
「ライフル弾を至近距離から食らったんだ。下手すると骨が砕けてたかもしれないんだぜ?」
 言いながら、三角巾になりそうなものを探す。
 傍に落ちていた薄汚れたケープを見つけ、それを取り上げた途端、娘は横からそれをひったくった。
 ジェラードが口を開く前に、それを羽織ってしまった。
「……ともかく、まずは礼を言わねばならないな。お前、名は?」
「ジェラード。ジェラード・マクスウェルだ。そっちは?」
 ジェラードが愛想のいい笑顔で答えると、娘の緊張した面持ちがふっと緩んだ。
「私はナノ・ユートのアンナ。……ジェラード、ありがとう。お前は命の恩人だ」
「いやなに。ああいうのは見過ごせない性分でな」
 照れ臭そうに親指で鼻をこする。
「私はもう少しでこの保安官に犯され、殺されるところだった。心から礼を言う」
「そうか、そりゃ大変だった………………は? はあ!? 保安官だと!?」
 素っ頓狂な声をあげたジェラードは、大慌てでマイクの死体に駆け寄った。
「ああ、そうだ。私に牛泥棒の濡れ衣を着せて殺そうと……どうした?」
 死体の胸倉をつかみ上げたジェラードは、目を剥いた。
 ほぼ真上から照りつける太陽光の下、左胸に燦然と光り輝く銀の星型バッジ。
 体温が氷点下に下がった気がした。
 保安官殺しは数ある犯罪の中でも特に重い罪だ。法の執行人にして法の体現者たる保安官を殺害することは、州政府、連邦政府への反逆に等しい。誰も逆らえない、逆らってはならない権威、それが保安官だ。だからこそ胸に輝く星バッジを隠れ蓑に悪事を働く保安官は後を絶たず、その地位が政治的取引の対象となることもしばしばだった。
(おいおいおいおい、俺が保安官殺しだと……いや、これは正当防衛だ。……しかし、証明する者が……このインディアンの娘、アンナでは法廷が納得せんぞ……おいおいおいおいおい、やばいやばいやばいやばいぞどうするどうするどうするどうする)
 ことの重大さに我を失ったジェラードは、いきなりマイクの顔面を張り飛ばした。
「おーいっ! こらっ! 生き返れ! 死ぬなー! 死ぬんじゃない! お前が死んだら俺は指名手配犯じゃないかー!」
 しかし、マイクはこれ以上はないほど完璧に死んでいた。いくら叩いても生き返る気配はなかった。


 なにやら混乱しているらしいジェラードを置き去りに、アンナは馬に跨った。
「それじゃあ、ジェラード……う?」
 別れの言葉を告げようとしたその時、気づいた。デブ助手が生きていることを。その手に握られた銃の銃口がジェラードの背を狙っていることを。
 ゆっくりと持ち上がったピースメイカーの銃口――
「……死にくされ!」
 チャーリーの呻き声に、二人は同時に反応した。
 アンナはトマホークを抜き放ち、投げつけた。
 ジェラードは右手で抜いたダブルアクション・サンダラーを左脇から覗かせ、背後を振り返りもせずに引き金を引いた。
 交錯した銃声の残響が谷底の白い飛沫に呑み込まれていった。
 ジェラードの撃ち抜いた額を、アンナのトマホークがかち割っていた。
 そして――チャーリーの放った最後の弾丸は、アンナを乗せた馬の首に命中していた。
 口の端から血を噴きつつ、一声いなないて棒立ちになる馬。その体が、ぐらりと傾く――谷へと。
(あ、やば……)
 トマホークを投げた後のバランス、肩の痛み、様々なものが重なってアンナの反応が遅れた。
「バカッ……!」
 ジェラードはホルスターにDAサンダラーを戻しながら、空いた左手で馬のたてがみを引っつかんだ。
 しかし馬と娘の重さを、大人の男とはいえ一人で支えられるはずもない。つかんだ瞬間に彼もまた引きずられてゆく。
「早くこっちへ飛べ!」
「無茶を言うな!」
 馬の体は完全に谷の上で宙をさまよっていた。この状態から飛べるのは軽業師ぐらいだろう。
 アンナが跳べないと見てとったジェラードは、咄嗟にたてがみを離し、右手を差し出した。
「――手を!」
 ジェラードは忘れていた。彼女の右腕が動かないことを。そして、アンナ自身も。
 右腕を差し出そうとしたアンナは、肩に走った激痛に一瞬全身を硬張らせた。
 タイミングは失われ、馬の後脚が宙に浮いた。
 半円運動が直線になる。上から下へ。
 どこまでも落ちてゆく異様な感覚に、自然と悲鳴が喉から漏れる。視界のジェラードが遠ざかって――いかなかった。よく見れば彼の表情も硬張っている。
「どわあああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
 ジェラードもまた身を乗り出しすぎたせいか、断崖からのダイビングを敢行していた。
(……馬鹿な奴)
 アンナは自分の状況も忘れて、思わず笑っていた。

 数秒後、崖下の急流に高い水柱が三本立った。


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