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日記風くみこママのコメント

作文

自分に自信がもてるまでやりこんでゆかないと、本番は自分を出せない。そして、--であると伴に、パーフォーマーである。どこかで聞いた言葉であるが、こんな時代かもしれないと思った。書き留めておこう。

たくさんの師匠

2014.12.6

今回のリフォームで漆喰のコッテリ感を学んで、塀瓦の断ち落としの漆喰の落ちたところを直すことができた。また、円形にくり抜くのを間近で見ることができたので、壊れた椅子の台座をつくったし、大工の師匠の間違って開けた穴を利用して棚の下の引き戸や棚を考工できたので嬉しかった。サンダーかけや、丸鋸、ドライバーなどを駆使できた。端材で鏡を枠どりして利用できたのも、作り付けの棚を考えられたのも良かった。シリコンのマスキングテープ貼りも相当上手くなったし、本当に私は何を目指しているんだろうと自分の開拓に余念がなかった。ニスや白蟻薬を塗るタイミングをつかんだ。残った檜の歯切れを子供たちの表札にして遊ぼうともくろんでいる。その時の台も作ってしまった。大工さん、水道屋さん、電気屋さん、左官屋さん、指物師さん、無理難題をよくぞ突貫してくださいました。ありがとう。

限られた中で楽しむ

2014.12.6

何にもできないのではなくて気は持ちようで、限られた中で楽しめない馬鹿さが損をしているのかなあと思うようにもなった。まだまだ無理であるが、限られた中で気分転換できたらどんなに気楽だろう。

未来というもの

2014.12.6

子供の頃は早く大人になって、自分の思うままに生きてみたいと思った。

成人してもまだダメで、結婚したらいいかとも思ったけれども、まだ思うようにならなくて歯がゆい。だが、時代はどんどん変わって自分が追いついていけなくて取り残されている感じがする。

ゆく川の流れはもとの水にあらずと故人が言っていたが、その否定的な物の見方よりもいいことを聞いた。予測のつかない未来というものがくる。それが当たり前。という考え方である。今までなかった考え方が来るから未来だ。という。古いことばかりを言ってなげいていても魅力的ではない。自らも進んでいってこそ時代とともにいきる。そして、その中で昔が新しいとその時いえるのだと。

形骸化

2014.5.21

 

ありがとうの形骸化という言葉をおもいついた。

なんでもいいからありがとうというものだと、誰かが言っていたが、それに反発する言葉がみつからなかった。やっと心のもやもやが消えた。感謝の心があってのありがとうだと思うのだが、それでは言われたとてウレシクモない。いただきますの形骸化も、ごちそうさまの形骸化もだんだん世の中がそれに慣れてきてしまっているから形骸化には腹が立たずに、食事の前後の軽い儀式のようになっている。だからそれには反発しなかったが、ありがとうの形骸化だけはカチンときた。いわんや、おいしいね。の形骸化なんて、あきれてものも言えない。かえって聞いた時には人間性をうたがった。

付け焼刃教育

2014.5.20

東海地区の市長が一堂に会するという企画のビラを見て、閃いた。

近頃の子供たちは書道を習わない。昔は読み書き、そろばんと行って、物心ついたら書道を習いにお寺にゆき、それから算盤に週に二回ばかり出かけてあとは遊んでいたものだった。それが、バブルとともにリッチ感のあるピアノレッスンに高額を払うようになり、体の為とプールに通う。お受験時代になって、勉強塾に通う。次の時代の洒落者として英会話をならう。ゆえに、書道教室に通うとしても、付け焼き刃的に学校教育の授業に認定された34年になって、ひどい時にはその手前の手前ひと月前に、習いに行こうかと考える親が増えてきている。まさに付け焼刃教育の骨頂である。そして、いまや稽古ごとの多さで時間がないから書道は習わないままとなり、書道離れが始まっている。これこそ、いかがなものかと思う。教室に張られた字は低レベルで学制をひく前の田舎の子供とさして変わりがない。筆の運びは正に筆の物ではなく形をまねただけのサインペンで書いたような入筆である。情けない。

これでここが日本といえるのだろうか。

教育法では学年別で習っていない字は書かせないという時代も終わっている。子供たちは変換というツールを以て、正しい漢字を見て知っている。

そこで逆に習っていない漢字を例えは新聞から書き出して、書かせるという国語の授業かあってもいいかと思う。書き順の基礎を知っていれば、正解に近い形で書けるはずだし、印刷化けの字やパソコン字を反省する良い機会になると考える。

 

ゴールデンウィークの池の掃除を独りでした。

20013.5.5

 

池の掃除をひとりでした。日曜の10時くらいから三時まで。25匹にへっていた。ポンプの使い方がうまくなったのでかろうじてできたが最後の電源切りは主人に手伝ってもらった。もうのびのび。明日は理事会だから何としても、やろうとがんばった。

150-8001 NHK放送センター「こころ旅」係
(1)
住所 (2)お名前 (3)電話番号 (4)性別 (5)年齢 (6)思い出の場所 (7)場所にまつわるエピソード (8)写真(あればでOK
を明記の上、上記あて先までお送

2013.5.29

朝お姑さんと毎朝見ています。遠く離れて下宿しているサイクリング部にはいっている息子とダブらせてみています。

岐阜県の南に接する愛知県の江南市には民間市民の手によるてづくりの大仏さんが野ざらしに立っています。それが稲の田の向こうに見えてとても微笑ましいです。朝745分にはその手前に見える青木側の向こうを小学生の分団が男の軍団、女の軍団と一列で北を向いて歩き、しばらくすると今度は川の流れに沿って急いで自電車をこいて高校生が南下します。行き交うと、まだ「おはよういってらっしゃい。」という習慣が何とか残っているそんな街です。大仏さんは有名でないにしろ日本の3大仏に入る大きさです。子供から大人までここらあたりの市民の風景になっています。火野さんにぜひ見ていただきたい風景だとおもいます。

これからも楽しい番組を楽しみに期待しております

 

あの頃

 

今思うと学校から帰ってすぐに机に向かっていた一年生になったばかりの彼が思い起こされる。宿題をするのだと神妙に静かに。善い姿勢で父からのお下がりの机に向かっていた。一つの神聖な空間を作っていて、犯しがたい気持ちになったのを覚えている。その彼が学校の誰よりも早く、入学する前からめがねをしているので、いじめられていた。宿題をしなくなって遅刻気味になったので問い詰めて、問い詰めて吐き出すように泣いたのだった。学校に行けたくないと泣いた。それが、親として切なくて守ってやろうと思った。あれから12年がたつ。

あと4分だぁ

2013.3.21

先の前期試験は受かったというので期待していたのに、だめだった。まるで肩すかし感抜群。

今回はまた十分というので半信半疑の信頼で、祈るようにスタンバッテいる。

イチゴ4

2013.3.20

土曜日のお稽古の後、五時から皆でいつもの飾り付けをすませ、今回初の一人夜当番をして、それから娘のアトリエのお迎いにいって、翌日のパンも買いに走って。とやっていたらその翌日からのどが痛くて声が出ない。仕事は予定の八時からおけいこをした。喋られないので筆談で添削した。そしたら子供も小さな声でしゃべったり、筆談を書いたりした。でも、聞くのはできるのでそれは違うと話しかけてくれたりした。いたってそのときは元気だったので笑ったりしていた。そのあと、ばあちゃんの送り迎えをして取り外し終わり。翌日は不燃物当番で朝の六時半から立っていなくてはいけなかったけれども、遅刻してしまって。それでも下の娘の卒業式だったので30分早く早びけをさせてもらって九時半には会場にいるようにした。いつもがやがやしている私も沈黙の面持ちでした。帰宅してからがSOS。ひるには赤飯を炊けるようにしておいた。ちょっと頑張った。食べ終わってふとじわじわときしむ腕。ずんずんとする頭痛。やばい寝るねと言ってからもう3日。

大分いい。さっきイチゴ4個くれて、今は手巻きずしを持ってきてくれた。それまであんまり食べてなかったので極楽だった。

考えたら月火と札幌にいて終末は展覧会でいたのだから忙しかったよね。作品継ぎや何やらとあんまりしないようにしてもしてたものね。そりゃあ疲れるよね。展覧会終わってから夜中にメールしてたのも、よくやったと思うよね。おばちゃんのことも弟子さんたちのことも気になってたしね。

フェイスブックに

 

2013.1

登録しかけてめんどうくさくなったのでやめているのですが、やたらと、勧誘のメールがくる。その中に、息子の名前が入っているのが笑える。見たことはないけれども親戚には見ている人がいるらしい。アコを引いてみたり、ジャンべを二個ならしてみたりと、まめに更新しているらしい。ロン毛も観られるようだ。

大波が寄せる前に

2013.1

どんぶらこっこと乗り切るために思うことは体勢を小さくして揺られるしかないかな。塩を贈ろう。

あらあらとうとう

2013.1.

正月講座でとうとう書道のシリーズがアシェットから出てしまった。裏を読んでそれで講座を開設しようかと思う。道具が安く手に入るだけでももうけものだ。

秋の作品

2012.11

俯瞰図という鳥瞰図の反対の技法で作品に取り組んではみたものの、まだまだの出来なので来年も同じテーマで取り組んでもいいように思う。狙いが定まらなくて欲が出てきた。でも、ちょっとそれはつまらない。このところねらったように表現できてきていたから、これはつまらない。年賀状にもしなかった。三点透視図法である。

ばくち打ちのような受験

2012

バカではないから全く確率がないわけではないのだけれども、センターの点いかんではなくあくまでも二次の割合の重い所狙いらしい。やってもらおうじゃないの。見せてもらおうじゃあないですか。

 

うーんまいった。

2012.12

旅行に行って買ってくるものというと醤油とかだし汁とかカルカン粉、土産物屋でなくてスーパーに飛び込んで野菜などを買う。生活品が好きだ。それでかばんがものすごく重くて、旅行の帰りにはいつも手が痛くなる。ごろごろのかばんもとうとうころがいかれてキュルキュルいうようになってきたし、コロが回転しなくなって、負荷が重い。そんな私ですから、買うものが半端じゃない。きにいったら、鍋やえのぐや本、ふつうは買わないものをかばんに超コンパクトに入れ込む。それで、友達曰く、くみちゃんは旅行でなくて、移民のように飛行機に乗る。と。なるほど、いいえて妙だ。さすが旧知の友である。

サンタに直訴してオーブンを頼んできた。

2012.12

サンタさんには英語で手紙を書かなくてはいけない。以前にカナダでサンタさんに出すための英文のレターセットをかった。英語でほしいものの単語だけを書きいれるようになっている文章が印刷されていた。当時小学生だった子どもたちは単語の調べ方もわからなくってローマ字でicirinshaとか書いていたように思う。今回は普通の便せんに自己紹介を兼ねて欲しいという文章を書いてもらって、サンタさんに直訴してきました。普通、サンタ村を訪れる人は記念撮影をしてもらうのが目的ですが、私の場合は読んだというサインをもらってくるのが目的でしたから、快くサインをもらって感激。それに、長時間並ばなくても、本来いる以外の建物にsanta is hereと書いてあったので行ってみたら記念撮影ブースがあってサンタさんがいたものですからラッキー。手紙を読んで会話しているそのときにサンタがアシスタントに現地語で撮影をするように言って、その写真を私が証拠に買ってきたという具合。アシスタントがこれはうるのかと現地語で聞いているのがわかりましたが、サンタさんは商売上手でした。日本に来たことのあるサンタさんでしたから日本人をよくわかっているのでしょうね。江南は名古屋の近くかと聞かれました。

観光協会

201272

観光協会は残念ながら商工会でした。次の手を考えましょう。かいしゃの広告というと相当経費がかかりますね。

棚の修理

201274

途中だった棚の修理です。重いものを入れるので地盤が大丈夫かも見てもらわないと。

池の掃除完了

2012.7.2

 

伯父さんが来てくれたので体調をおして池の掃除をした。ポンプが働いたし、自分が都合で出かけたので疲れたとは言えない。そして、いつも以上に動かないと今度次に出掛けにくそうな気がしてがんばった。延四時間かかり、水抜き、デッキ掃除。コイは30匹に減っていたが浮餌を与えるようになって太っていた。満足である。 

帰還しました

2012.6.30

 

 

 

 

 

前日の春の台風で増水した大川の滝。飛び散るしぶきが下の通路まできていました。さて、今回の旅行はいけるともわからず飛行機をとって鹿児島から屋久島にわたりました。同行してくれたのはママ友です。普通の旅行なら準備は要りませんが10時間を一緒に歩くとなると取り組み方が違いました。予行練習として二回ばかり300メートル級の多度山や金華山の馬の背をトライし自分の体調や家族関係を話し、もしものときに対して解っておいてもらう必要がありました。大正解でした。仲良くなれました。ありがとうございました。

データとしては前日に渡って滝などの観光をして、JRホテルの温泉で太平洋の夕陽を見、当日は朝一番の登山バスに揺られ六時から歩きだしました。10時半には折り返しの縄文杉にいましたがランチにウカウカ油断して後半は三時のバスを目指すためにタイムペースがつかめずガイドさんと伯父さんの後をついていってペース配分できました。結果的に二時半にはバス停に着いていましたので休憩を入れて8時間半の行程でした。48おばさんにしては上出来でしょう。終了には思わずハグでした。おかげで余裕時間ができグリーンホテルで(650円)貸切温泉につかり、その日に離島フライトとしました。翌日は例のごとく諸事をこなして最終フライトで家に戻りました。温泉に入るたびに痩せていましたが自宅では何度乗っても前と変わっていないので不満でした。毎日のラーメンがいけなかったのでしょうか。顔つきが変わったようですし、足もむくんでいます。

 

クレンジングクリーム

2012.5.

誰が間違ってクレンジングをつかっているのよ。といったら、間違いではなくて、日焼け止めを塗った日は使っているとのたまわった。年頃になったのねe

プロモーションdvd? 2011.11  去年から今年にかけて特に仕事としてきた庭の手入れなどが実を結んでDVDになりました。東京のおじさまが来て生誕110年に記念に作るその何秒かに晴嵐館が出たのです。結実でした。今年になってしていたことを書いたら切りがありませんが、木のぼりをして枝うちをして、ペンキを塗って、セメントで補強して、三メートルの深さの池をデッキブラシで三度もこすって、の傍らで作品の写真撮り、名刺、パンフレットの作成等々。すべてこの日の為につながっていたように思います。古木を燃やした駐車場に砕石を入れて整地もしました。イメージ的に今時に追いついた感じですが、まだまだですね。しかしよく役に立った嫁でした。
大竹しのぶさん 2011.11  結婚前から彼女のことが大好きでした。昔取ったビデオドラマを子供たちに半強制で見せたこともあります。何しろその取りつかれたようなところが好きでした。それから結婚など話題になることが多かったのですが、私にはそんなことはどうでも好くって、彼女の演じる物が精神的に好きでした。それで彼女のピアフは千秋楽の最終列で見ることができました。20年たっての夢の舞台です。当日に席が取れたことだけでも奇跡なのに、途中で席を代わってくださる方にめぐりあって後半は七列目ど真ん中で見られました。麻薬が切れて震える指の先まで見ることができて、最後の重なるアンコールでは涙が止まりませんでした。彼女の狂気のピアフは最高でした。寂しさと、芸術家の心意気とが十分に伝わってきました。舞台前にアコの演奏者桑山さんにエレベーターで挨拶できたのも感動でした。その桑山さんが前日になかわまんの所に行ってチューニングをしていたというのも舞台前に分かって感動でした。私としては何しろ趣味がごったごったになって繋がった感動でした。
老後の楽しみ 大人のおけいこ書道 2011.12 堂地肇茂さんの会話より起稿
老後にしようとしていた書道を15年前倒しで始めてしまった。毎年先輩からもらう達筆の年賀状に、いつしか僕もこうして先輩の様に筆ですらすらと書きたいものだと思っていた。それが永年の夢だった。
 しかし、中間管理職の僕のへとへとの毎日からそんな時間を作る気持ちは生まれようもない。夢は夢でしかなく、老後になったらというかすみのような具体性のない気持であった。それが、ひょんなことから先に先生が見つかって し ま っ た。家内のピアノの生徒さんが習い始めた習字の先生が大人も一緒に教えているというのだ。のぞいてみよっかなあと。電話して伺ってみたのが、、、はじめていた。
 家にある道具で十分という。そんならと敷居は高くなかった。一週間に何度かよっても月謝は増えない。僕は日曜朝2時間と月曜の夜2時間を稽古の時間とした。仕事柄外にいてまっ黒に日焼けしている僕が正座して筆をにぎっているとは誰に言ったって信じてもらえない。その日常と逆の時間が心地よいとやってみてわかった。静の集中は工面した時間ではあるが、この時をもって今までの考え方やモノの見方を変化するほどにいい効果を生んでいる。看板を見ても筆を使ったものに目がいく。気づかなかった展覧会にも家内と行くようになった。夫婦の時間が楽しい。本当に書道を始めてよかった。師匠の教え方がよいのか、どうやって教わったのか、ぼくの学習したものが飛んで行かないように書きとめることとした。
 子供が習うのとはちょっと違う。大人は手ではなく頭で納得しないと満足できない。そこで文句や口上が必要だ。習練ではなく理論に走るのだ。僕の受けたその指導は的を得ていて自分でも日々上達しているのが分かり、書いているという充実感がある。手本の進め方にもそつがなくてその日その日のテーマにそって止めはね等の基本点画というものをどんどん進んでいるように思う。師匠の手腕である。横線の引き方。縦線の入り方。そった線。どんどん感心することが始まる。師匠だけではない。教室に来ている先生級の大人同士もいろいろと情報交換をしてその会話を聞くのも楽しい。子供から教わることも多い。彼らは僕よりも先輩なのだから。会社で威張っている僕が子供のような気持ちになっている。
 そんな週末、師匠の出ている日展を味わう。本来ならば、日展出品者の教室にずぶの素人が通うこと自体稀有な事だと後で知る。全く僕はラッキーだ。次の週末も僕は時間切れで見られなかった工芸の部を見るために日展に行き、そのあと先生から券をいただいた日本の二十人展に出かけ、その説明に感動した。書の大家でも、たった1500円の筆に命を込めて書いているというその説明に。その翌月は子供の塾の書きぞめ展にいって、わかりやすい子供の為の説明文を書いたプリントをゲットした。僕には役に立ちそうだからと机の前に貼ってある。どんどん学べる。どんどん楽しい。そんな日々が僕に来るとは思ってもみなかった。書道から派生する副産物が僕の生活の中に入り込んでいる。とうとう陶芸展に行って文鎮まで買ってくるようになった。講じて何でも楽しいし、とがっていた日常が暖かく温和になったように自分でも思う。部下の気持ちをくむ余裕も生まれた。本当に前倒しをしてよかった。      (1344文字)
熱心なお弟子さんの登場 2011.1  今年のわくわくの一つに面白いお弟子さんの登場がありました。別枠で作文しましょう。題して、それは老後の楽しみ
今年の大損失。 2011.夏   親友が拒んだ。それは私の更新を知らせていなかったためなのだと反省した。
人生はアップロードする必要があった。主人の時々もらってくる会報にちょうどそうゆう記事があって合点がゆきました。いつも年賀状を怠っていた付けがこれだ。自分の自信をなくすくらいのショックだった。本当に辛いときにも、私には彼女がいると思うだけで乗り越えてきたように思うから。これは;何かの間違いと思いたい。
引用文章 2011.11.  人は変わる。何年かで変わる。以前の他者も更新された他者も、そして以前の自分も更新された自分も、ときどき披露し合わないと、じぶんのことすらわからなくなるのではなかろうか。異業種間交流まではいかないが、異専門間交流の最大のメリットだ。 栂 正行さんの引用 中京大学国際教養学部英語文学 
白光膏 2011.  今年のヒット商品は筋肉痛に効くというシップで、漢方薬だかの茶色い貼り薬である。すこぶる腱鞘炎に効く。但し貼ると色がつく
もう一つのヒットはビイソフテンである。痒いところの保湿といい、痩身といい良く効く。足が細くなるので、そうゆう効能はあるかと医者に聞きましたが、ないというものの、血流促進だからやっぱりあると、私は思う。
今年のおばあちゃんの名言  2011.11.  段分と前ですが、駅から歩いてうちに帰ってきた私に、ばあちゃんが言いました。山に登るくらいの人だから歩かなきゃねぇ。それから弱音を吐けなくなった。私は山ガールですから、歩きますし、重くても運ばなくてはなりません。はい。\_(^◇^)_/
一番大事な事 2011.11.17  面談は以前と変わらず。今やり始めないともう時間切れギリキリ。自分が変わらないと目標達成不可能。と嗜められる。引っ越しする下宿屋さんに挨拶。鹿児島ラーメンの梯子と以前旨かって楽しかった寿司屋に行く。半年前のことなのにお店の人が覚えていて、やっぱり、うちらオモロかったんだあ。とわかる。え?うちらでなくて、わたし?
軽で走って日本一の大楠を見る 2011.11.17  飛行場を降りて段取りだけは抑えておいたレンタカーを借りて県内にあるという大楠を見に走った。大きなものというのはそれだけで存在しないということがわかった。境内の入口右にも大きな銀杏の木が黄色く鎮座し、左にも大楠があった。本当の大楠も期待道りに大きかったが、その門前のクスの方が高さがあって存在感があった。日本一というのは形式で判断しきれないものがあるんだと思った。それは翌日の屋久杉にも言えることだった。記録の横には名もないのに素晴らしいモノがあるとものすごく思った。
とうとう島に渡る2   2011.11.18  ホテルから歩いて30分。朝一のトッピーに乗って二時間。息子に警告されていたので船酔いに恐る恐る乗っていたが水面から浮いているので2.5メートルの波にもそうはダメージがなく、座ったままの規制の中、予定外に見られた水上の薩摩富士を撮りまくり。接岸すぐに予定の接続のバスを待ち40分。上りの崖横真下にさっきの宮之浦港が小さく、絶景かな。細い山道にバスは上がり下がりの道を譲り合い待避所にバックする。レンタカーを借りなくてつくづくよかったと思う。同乗者は三人。山ガールはタイツだし、脂ののった若者はスーツケースに軽装だし、大丈夫かと不安に思いつつも、バス停で途中から乗ってきた前泊のできる人々に道中をホッとしていた。途中のワイパーが動き出しカッパを出す音がする。それが役に立たないようにと願いつつ自分も準じて上だけ羽織りナップにカバーをかける。一人登山者は多く、途中で仲間となって意欲的に歩き四時間で制覇。突風の太鼓岳頂上を極めた後、別れた千葉女性は一人縦走で宮之浦にゆくという。飴出し、着替え、写真撮影中だけの休憩で殆ど休みなしの雨の登山だったが、帰りのバス時間とのせめぎあいの中最後は弥生杉からバス停に下りを走った。仲間になった山初心者の25歳君はバス停に座ったとたん膝が笑って置いていた手が震えるさま。そりゃあそうだよ。何しろ、屋久島は行ってみないと分からないし、多分どこもかしこもああなんだっ。と云うことが分かった。名もない杉もでっかく苔むして素晴らしいし、どんな石も景色も全て感動の世界だ。歩く距離は時間や体力には直結しない。岩の険しさや、アップダウンが問題だった。沢の音はダウンの後に過酷なアップが有る知らせと後半になってわかる。雨だったのでぬかるんでいたし、それだからこそ緑が綺麗だったのだが、一度滑っで転んだ。予定の一時間早くバスに乗れたので飛行場横の温泉の足湯に浸かって靴下や靴を履き変え落ち着いて買い物をする時間が生まれた。六時の飛行機はゲートインした後歩いて飛行機に寄ってタラップを上がった。小学校以来で新鮮だった。JALとANAの乗り継ぎでは相当時間があったので夕食と買い物ができた。何しろ、一人登山では荷物を増やせないので手ぶらで帰ることを危惧していたのでなんとかメンツは立った。
二日間の行動は出来るかどうかという相当の不安があったが元気に帰ってこられてよかった。途中でなんども置いてきた家のおばあちゃんのことが心配で心配かけるようなことになってはいけないとそればかり気になっていた。ものすごく責任を感じて神妙に行動した。しんまで湿った体は調度あった温泉に心の底から入りたかったが、遅れたりのぼせたりしてはいけないからと慎重に時間や、体力に気を使って前日の飲酒もほどほどにした。帰りの飛行機中は髪はボサボサすっぴんのおばさん姿で知り合いにあっても暫く私とは確認されなかった。心は錦だったけれどね。何しろ日帰り屋久島ですから。
仙人退陣
 
2011.10.22.  何しろ台風だった。彼が来るというとなんどもお茶を出さなくてはならなくって、煎茶番茶紅茶コーヒーと順番にお運びすることの連続だった。それが仲良くなるひけつとは知らずに授乳期などは途中で二階に逃げ込んで横になったことが思い出される。あの声が追っかけるようにして私を包む。その仙人がなくなって今日葬式に行ってきた。なんだか仙人のように帽子をかぶって杖をついて現れたので子供たちが仙人と呼んでいた。その人が亡くなって私はものすごく回数会うことの大切さを思った。
会いたくでも忙しくて合わない友人との仲が今までずっとだったけれどもこれからは会いたい人には努力して会おうと思った。後、おもしろかったのはセックスしろと事あるごとに言っていたことだ。そんなことはお構いなしに三年と三カ月で3人の子持ちになったのですからまあ彼のおかげかなあとは思います。有りがとさんでした。何しろ89歳の大往生ですから私も、残された者の思い出が強烈でよかったと思う次第です。今となっては楽しかったですよ。
新婚旅行 2011.10  念願だった新婚旅行に行きます。
一泊二日間からだが空いているので飛行機をとって念願だった利尻富士という北海道にある羊蹄山を見てきます。千歳空港で車を借りて運転です。非常に楽しみですが、楽しみすぎて行けなくなるような気がしてちょっと怖いです。
高校ママ友の遠足は 2011.10.19  高校生の子供の通うPTAの研修で国立大学見学に行ってきました。
こうゆうときには近場の観光地をと思っていたのだが、この四年ばかりこの企画のようで、実に有効でした。母同士が仲良くなれたのは言うまでもなく大学の事務の方々の説明もあり、企業努力が伝わってきた。
先日の勉強会の講師の先生の大学であったのでその研究室で欲しかった資料も直接行って入手できた。帰り道で訪れた有松の街の懐かしいお店が閉店になっていたのが驚きであった。日頃の交友関係の音沙汰無しを反省させられました。最近とみに連絡を取らないうちに会えなくなる人がいるように思います。今回の秋の作品のテーマである今を生きるということに持つならリますが、日日に追われておなおざりにしてしまっている自分の不精が思われた一日でした。
今年の作品の題材 2011.10
 
 Morrie is now somewhat dependent on an oxygen machine to breathe. Mitch asks him how one can be prepared to die. Morrie responds with a Buddhist philosophy that every day. one must ask the bird on his shoulder if that day is the day he will die. Morrie adopts values and parables from many different religions; described by Mitch as a "religious mutt." Morrie had been born into Judaism. but turned agnostic during his teen years. Morrie reveals that it is only once a person knows how to die that he can then know how to live. He repeats this idea for reinforcement. and Mitch asks him if he had considered death before contracting ALS. Morrie responds that he had not thought very much about death before his illness; in fact. he had once vowed to a friend that he would be "the healthiest old man" his friend had ever met.

Mettanando Bhikkhu(タイの僧侶が)語っていた Would it be my last day?
Is this the life you want?
Am I living the life I want to live?
Am I ready to die?
Tuesdays with Morrieを読んで考えること 2011.9.15 timeless. bestselling novel Tuesdays with Morrie. and it goes like this: “Put a bird on your shoulder. That's what the Buddhists do. Just imagine a little bird on your shoulder and every day you say. ‘Is this the day I'm going die. little bird? Am I leading the life I want to lead? Am I the person that I want to be?’ If we accept the fact that we can die at any time. we'd lead our lives differently. So everyday you say. ‘Is this the day?’” Apparently Morrie Schwartz’s powerful paraphrasing of the Buddhist proverb touched many people.
作品からの引用 "Well. the truth is. if you really listen to that bird on your shoulder. if you accept that you can die at any time--then you might not be as ambitious as you are."
I forced a small grin.
He stopped. and for a moment we both just looked out the window. I tried to see what he saw. I tried to see time and seasons. my life passing in slow motion. Morrie dropped his head slightly and curled it toward his shoulder.
"Is it today. little bird?" he asked. "Is it today?"
"Do what the Buddhists do. Every day. have a little bird on your shoulder that asks. 'Is today the day? Am I ready? Am I doing all I need to do? Am I being the person I want to be?'"
He turned his head to his shoulder as if the bird were there now.
"Is today the day I die?" he said.
そういえば 2011.5.  娘に携帯を貸していたらダーリンの電話番号の名前がお父さんに変えてあった。それは良くない。私の愛情が減ってしまった。それで戻ってきた2ヶ月後くらいかな、やっぱり愛していますダージリンに戻しました。
ダーリンという呼び名の方が日々の愛情が増す。みなさんやってみてください。
娘の入学式にペアウオッチがお揃いで持てました。 2011.4
ダーリンの時計が日に当たらずにいて止まったので、買っておいた素敵な時計が日の目を見ました。今のところ1日しか使ってもらっていませんが私にとってはその一瞬がうれしかってん。彼は電車に乗るので電波時計しかいやだ。明るい時間に生活していない彼の生活習慣が明るみに出た。それにしても誰か、電波時計のシックなものを作ってほしい。重くない薄型のをね。彼が初代電波時計を買って以来そういう物が出ていなので買い替えができないの〜です。
娘に携帯を与えた。  2011.4  使っていた携帯が最新式過ぎて反応が遅い。だいたいの人が文句を言っている機種のようで、それを解約するのにお金がかかるのでそれを娘たちのものとして、私はシニア携帯のようなものを買った。それはそれで使い勝手が悪くて変換の縦が選べない、色合いが古臭い。と欠点があるが私にはそんなものでいいと思う。
娘としては試験範囲の写真撮りや友達との連絡など使っているようだが、送り向かいなどの連絡には有効である。
改革 2011.4  トイレットペーパーブランドを変えて学校の歴史に名前を残すのだと息巻いていた生徒会の部員の彼ですが、彼の残した記録は、高校生の義務自習の開始だった。
本来、高校生は個室なので自由に思うまま、したいだけの学習時間が取れるはずだったのですが、(ということで彼はあまりやっていなかったと思う)食堂で全寮生の強制的な二時間の学習の時間が決まったという。
はじめ交換手のおじさんから義務自習の開始で電話に出られないと聞き、親としては良いことなので感謝し驚いたのですが、その後息子のいいだしたのがきっかけというのを知って複雑。友たちに感謝されているのか嫌がられたのか。まあ悪い事ではないので表だって息子を避難することはできないだろうと思っている。「みんなでワイワイと教えあうために食堂の開放を先生に掛け合った」ところ、まんまと先生たちの思うつぼ。シーンとしなくてはならない義務自習に大きな声で文句をいっている電話の向こうの彼が困っていた。
公立高校受験 2011.3.  何しろ決まるのが遅いので気持ち的に焦るのです。
そして、合格通知がなくて、入学説明会でも、決定書類がなく、学校の掲示板の数字と中学での子供の先生との会話のみ。書類は教科書や体操服、上履きなどの払い込みの領収書のみ。制服を頼みに行くと60分待ち。皮靴も夏服も何もかもがばたばたであった。何しろどの公立、私学校もおなじ店で同じ日に注文するのであるからして、誰がどこに行くのかも試着室でおのずと知れる。本当だったら頭にくる段取りの悪さであるが、本命の高校に入れるようになったのと、制服がよく似合うので何でも許せてしまう。本当によく似合う。なんにせよ近い学校に行ってもらえるのが助かります。
震災のその後 2011.3.11  その日私は相当疲れていたので風邪がはいり込む気がしてよこになっていた。その時にたまたまついていたテレビで30分後の津波を同期に目にした。主人は三重県の漁港尾鷲の北にいたので泡をくらってすぐ避難するようにメールしたものの、通じず。緊急なのでいつもはやめている電話をしたら、帰りのホームで待っているというので30分後に津波が来るから何しろ北上するようにとつたえた。というものの、いつものトンチンカンな返事。いつものレスポンスとはいえ一段と頭に来たものの、安全なところまで来てくれよと願った。名古屋駅に着いたというのでほっとして私は横になった。そのあとすぐに近鉄電車は止まった。東海地方には大きな津波が結果としてこなかったが3.11の影響たるや散大なものがある。
書道関係としては硯の80パーセントのシェアを占める雄勝市の硯センターの全壊が書道新聞や、テレビで流れている。何とか6団体のうちの5団体はよいという安否を聞いたものである。
東京の知り合いはみなさん何とか乗り切ったようで安心している。
彼のところに私の送ったメールが届いたのはそれから2,3日してからである。
明りのセット 2011.5.2  やっぱり思っていたものがセットになって先月売りだしていたことがネットで判明。3000円で手に入れました。これはすぐ売り切れると思います。後日ご報告しますね。まずは手にとってそれでセーフという気持ち。
ワイヤーワーク 2011.5.3  自己流では分からないところがあったので東急ハンズの90分講座に朝一の乗り入れ。すぐに満員になったものの、一人分は何なく取れて学んできました。ペンチも専用だとか、細いのがあると納得できましたし、やっぱり教わるというのは大事なことです。以前から知りたかったナットのできる理由がわかり気がすみました。母の日のプレゼントにもなってよしよし。
新境地大県越 2011.5.15  75分の山歩き。なんじゃもんじゃの群生にあってきました。片道3キロ。
とうとう島に渡る 2011.5.2.3.4  私の目的を息子がまず果たす。
屋久スギに会ってきたようです。
ゴールデンウイークにクラブの下見に。二晩とも寝袋の山小屋どまり。縦走だったらしい。どうだったと聞くと「やめやあ」と言われた。自分で言ったのではないけれど少しばかり気が済んだ。
新分野 コンクリート 2011.5.8
 
 母の日であるのにコンクリートの補強工事を4時間強しました。
新分野でしたので技術の開拓になります。階段の妻の部分のタイルが剥がれてきましたので直しました。コンクリートの仕上げなど見ていたことはありますが混ぜ具合など触ったことがありませんでした。一人でするにはちょっと自信がなかったもののとある専門家にサポートをお願いできたものですから鬼に金棒。はげ落ちたタイルの裏をはつるのは私。それを地盤をきれいにしてねったコンクリートの山の上に乗せ、トントントンはプロの仕事。私はその後、めじ間に込んで細かい仕上げを溝へらと刷毛で担当。24時間待つようにと。二日間の雨は計算済み。その雨ではみ出たところを洗う。天を味方につけるのが私に似つかわしい。それで、次の週にハイモルをすると教わる。やった所とのなじみ具合を聞いてその後かたずけ方を教わってから、取りかかろうと思う。
琢斗作文その二 選挙管理委員長を経験して 2010年度後期選挙管理委員長  3月2日の8時間目に次年度の生徒会長を決める選挙がありました。この選挙を成功させるために、自分は4週間ほど前から準備を行って来ました。  選挙管理委員の仕事は簡単です。半年に一回、3月と9月に行われる、生徒会長を選出する選挙を成功させることです。この学校の選挙自体が、あまり大々的に行うものでもなく、選挙の告示から投票までの期間があまりにも短いためだからです。
 最初に行ったのは役員ぎめです。2月9日の昼休み、第二自習室に前クラスの選挙管理委員が召集されました。そこで、二人の役員、委員長と副委員長を決定、その後の予定を発表しました。  その日の放課後、選挙告示のポスターの作成...というわけにはいきませんでした。次の日は高校卒業予選式、休日、土曜日、日曜日をまたぎ、其の次の日は3学期中間考査でした。そう、テスト一週間前でした。テスト一週間前は情報教室が使えないのです。寮生のの自分が寮にパソコンを持っているはずがありません。仕方無しに、水曜日まで待って、情報教室でプリントをつくりはじめました。  まずはじめに作ったプリントは、立候補者募集の張り紙。立候補したいものがいた場合は、選挙管理委員に伝える、締切りは2月の26日の土曜日であることの旨が記されていました。急いで作ったこのプリントを先生のところへ持って行き、掲示申請許可をもらい、各掲示板へ掲載しました。他にも様々なプリントを作りました。投票用紙、立候補者決定の張り紙、当選者発表の張り紙などです。  さて、立候補したい人は2月26日までに多数自分のところに来ました。高一は橋本くん、霜田くん、三枝くん、西田くん、藤田くんの計5名。高二は黒田先輩、柳先輩の二名でした。全校生徒全員が被選挙権を持っているために高2も立候補する権利があります。しかし、高二は来年受験勉強に励まなくてはなりません。また、週に2回ほど8限まで授業があります。生徒会活動を十分に行うことができません。それらの理由のため、先生方の説得で彼ら2名は立候補を取り止めました。  2月26日の昼過ぎ、立候補者を全員集めて、最終的に、高一の5名が立候補することが決定しました。ラ.サール学園の選挙には立会演説会というものがあります。立候補者が自分のマニュフェストを発表したり、応援演説者が立候補者が生徒会長にどれほどふさわしいかを演説してもらう場です。立会演説会において、あまりにもふざけた内容が無いように、その原稿提出の義務があることを伝えました。この原稿は、担任団に回され、駄目だった場合は修正を求められます。  しかし、この検閲があまりにも厳しすぎました。自分のアピールのために、立候補者のアピールのための、少し面白おかしい原稿であってさえ、検閲が加えられました。演説者たちも不満のあるなか、泣く泣く原稿を訂正しました。  さて、本番の3月2日。昼休みに、体育館に立候補者を集めて体育館の設営作業を行いました。そして、来る8限目、立会演説会が始まりました。演説の司会進行は、自分と副委員長が行いました。壇上では演説者が雄弁をふるいます。ある人は抑揚をつけて、大きな声で、ある人は、検閲にもめげず、面白おかしく、演説を行い、生徒たちは真剣に、時に笑い、演説を聞きました。  演説終了後、教室にて投票が行われ、その後、掃除の後、開票作業がありました。立候補者のマニュフェストはどれも甲乙付けがたく、僅差の結果、藤田くんが当選しました。  そして、次の日の朝ホームルームにて、藤田くんが当選した旨を伝えました。そうしてやっと、選挙管理委員としての仕事が終了しました。  自分のしては、この選挙を通じて、現在の学校の選挙制度に多少の不満を感じました。例えば、選挙期間が短かったり、演説者の演説内容が規制されすぎていたりする点です。そのため、来年度も、選挙管理委員に立候補し、この学校の選挙を変えていきたいと思います。
琢斗の作文その一  2011.3  高校生徒会長選挙ProjectX
2010年度後期選挙管理委員長 
 自分は、2011年度前期生徒会会長選挙の選挙管理委員長をしました。立候補者は橋本くん、霜田くん、西田くん、三枝くん、藤田くんの五名でした。その選挙に向けて3週間ほど前から様々な活動を行いましたが、選挙を通じてひとつ、印象深かったことを書きたいと思います。
 3月2日の8時間目、ある一人の演説者が壇上にあがり、演説を行った。彼の名前は中井厚。彼は、立候補したC組の霜田くんの応援演説者であった。彼の演説はそれまでの演説を凌駕し、我々を笑わせた。彼は、力強く、一つのことだけを、華麗に、淡々と美しく主張した。
「学校のトイレットペーパー(正式名称:海紅豆)は硬すぎる。このトイレットペーパーを柔らかいダブルロールのものに変えることを公約に掲げている霜田くんこそが生徒会長にふさわしい。」
 たったこれだけが彼の主張だった。ふざけている、誰も耳を貸すワケがない。しかし、彼は分かりやすく、理路整然と、面白く演説を成しとげた。言われてみると、この学校のトイレットペーパーは良いものとは言えない。血が出る人もいる。彼の言葉はこの学校の生徒、特に寮生の心に強い衝撃を与えた。小さなことが変わるだけで、我々生徒のこの、ラ.サール学園生活が豊かなものとなることを彼は気づかせてくれた。
 しかし、驚いたのはその後だった。なんとこの演説は先生方からのダメだしを食らって修正を加えた後のものだったのだ。応援演説ではあまりにもふざけた内容が無いように事前に原稿の確認を行い、言論以外を用いたアピール等も認めていなかった。たとえ、良いことを言ったとしても、「内容がふざけている」と担任団の方に判断された場合はその演説は行うことができない。そのような規制に対し中井くんはこの演説を敢行した。論法が勝利を勝ち取った瞬間だった。
 体育感から解散し、教室での投票の時、全校生徒皆、他の人の演説を覚えていなかった。あまりにも衝撃が大きすぎたからだった。
 最終的に、投票の結果生徒会長は藤田くんとなった。僅差で霜田くんが負けたのだった。(プロジェクトXのエンデイングのテーマ挿入)しかし、藤田くんの生徒会活動の中で、現在、ひとつのプロジェクトが進行している。海紅豆の件だった。藤田くん率いる生徒会は満場一致で学校中のトイレットペーパーを柔らかいものにする運動をすることに決定した。その顔ぶれの中に霜田くんがいた。藤田くんは生徒会を組閣するに当たって霜田くんに声をかけた。中井くんの演説は今も生徒会の中で生きている。生徒の学校生活がよりよきものになるように、もうすでに生徒会は活動を始めている。
お店つぶれる 2011.3 お買い物の好きな私の事ですから、相当の穴場をさがして色々と買います。しかしながらこのご時勢ですから、品質の割にいいものを扱って、且つ安いところを狙いますので私に愛されたお店は原則としてつぶれるか店主が変って品揃えが変わることがよくあります。
いい商品を安く、言わばお人よしのような値段で売ってくださるのですから無理もありません。また、宣伝もするのでその甲斐あってか、私の来店後にそのお店は繁盛するのです。それで、これはいいと思ったお店の店主に会ったときは、最近声をかけるのです。これから売れるようになるからしっかり儲けてくださいね。しかし、ちゃんと儲けてくださいね。疲れちゃってつぶれるくらいお客さんがきますから。
先日も、なかなかいかれなかった豊田の大好きなお店にいくと、ファイナルバーゲン第三弾初日でした。愛知県ではここしか店舗がありません。やはり、名古屋人的には受け入れられなかったのか。思わずドカ買いをして松坂屋さんから送ってもらう事になりました。大阪や神戸では何店舗もあるようですからお近くに寄せてもらう事があれば是非いきたいです。お店も会ったときが勝負ですね。使えなくなったポイントカードを棄てる事ができません。そして、私の行動範囲が広がっていくのです。
買い物にはまる 2011.3  楽天やヤフーで時々買い物をしますが、今度は世界のオークションで買い物をする事に。国際郵便で届き関税がかかるなど社会勉強になりました。国内の商品が4,5千円安く手に入りますが、安心料として国内で買うのもいいと、逆に思いました。しかし、珍しいものはおすすめします。いいですよ。
チョコありがとう
 
2011.2.11  たくさんのチョコをありがとうございました。
寮に送ってやります。この一品、前は8人部屋でしたから送ったはなからみんなが箱を覗いて手が出てあっという間だったという逸話があります。今は一人部屋なのでゆったり食べられるかとおもいます。ここのこれは美味しいことを誰もが知っているので全国的に集まってきた仲間からも人気の一品であったとききました。さあらば、息子が食べているのを嗅ぎつけてすぐさま取られてしまうかも。目に浮かぶと笑えてしまいます。コメントが楽しみです。ありがとうございました。そうそう娘はもう食べたいと確保しておりました。
ガツンを読んでドスン
 
2011.2.10  沢山の方が読んでいるズドンという本を手に取りました。
私は朝寝坊の人種ですが、朝という一日は神様からの一番の贈り物であるという本文を読みまして、朝寝坊の悪い理由がわかりました。
朝寝坊をして勿体無いという罪悪感の湧く理由がわかりました。
ひすいこうたろうさんありがとうございました。
本をくれた岩倉くんはここのところにきみどりいろのマーカーをしていました。人が「持っている力」とは、自分を幸せにする力ではなく、「他人を幸せにする力」なんです。(p.81)きっとそれを実践して彼はわたしに本をくれたのだとおもいます。
岩倉くんありがとう。
新燃岳 2011.2.  3000メートルも噴煙が出るという。その影響かで桜島の爆発も起きたというし、この雨で土石流が起きないかと心配です。と電話に出ない息子に変わって電話番のおじさんに尋ねましたが、何ら彼らには影響がないようですとのこと。安心しました。
 
コンサート中にショックを受けたこと 2011.2.  コバさんの母を思って作ったというその曲を聞いて私は愕然。
なんと伸びやかな曲。私の息子がコバだったらこんな曲には仕上がらなかったはず。こどもたちに私の母という印象を作曲させたら、こんな素晴らしいものではないはず。あくせくと騒がしい日常を思うと、母とはこうあるべきであろうのにと反省しました。でも、私の子供でいるから楽しいとは思うのですよ。母それぞれといえばそれまでです、と自分にいい訳を考えました。でも、コバさんの母は良い母親だったのですねえ。
この曲は最新アルバムのコバ愛する少年のなかにある帰る場所はひとつでした。
聖子ちゃんはシャイではないのです。 思い出した人 2 私の親友の中のひとり。引っ越した先の連絡も知りませんが、一生の友であり、心の友です。
その女性の一番素敵だったことをお話ししましょう。
学生時代から6年間ずっと塾が一緒で、お世話になったのですが、大学時代に久しぶりにあって、助手席に乗せてもらったときのこと。
細い道の出会い頭の車が先に道を譲ってくれました。彼女はハンドルの右手をちょっと外して挨拶したのです。それは向こうの車から見えないくらい低い位置でしたが私にとっては一大ショックでした。聖子ちゃんはシャイではないのです。
車という無機質な単体が、実は乗り手の人の性格や心、気持ちを表現できると知ったのです。
それから私は譲ってもらった時には彼女の真似をしてあいさつをするようになりました。だんだん増長して、入れてもらったときにはハザードランプを二三回出します。意味のあるときにはパッシングもします。それは警察のいるときかもしれませんが、とにかく意味のある時です。待っている娘にも来たよとパッシングをします。運転が楽しくなりました。狭い道の時は自分も左によけてみたり、息を吸って腹を細くしてみます。
でも、一度だけ危険なことがありました。運転をしているのに自転車に乗っている気持ちになってT路になっている閑所に突っ込みそうになってしまいました。すんでのところで気が付きましたが、あぶないあぶない。
参ったなあ 思い出した人 電車の中で。
隣の席になって気になって気になって調査員になってしまった。
だって、モンベルの黒ビジネスコート着ているんです。カバンもパソコンの入るナップザックで、肩当てが広い。なかなかやるんですよこれが。選ばれた物を持っているんだ。
それで靴も見てみると、いいんだなあ。
さあて、相手もなんだか見られているのが分かってきたようだ。
さあ、わかった。大阪人だそうで、梅田ではないJR大阪駅西5分のスポーツショップで自分でいつも見立てるようである。流石。自転車もするし、どっかしら歩くらしい。普通に日に40分走っているようだ。靴は今日は違うけれど、アシックスのウヲーキングシューズがいいらしい。
さあ、忘れないで頭にメモリましょう。
ちょうど半年前に歩いた大阪駅周辺の頭上の地図が役に立った。
SUNDAY WAlKING 2011.2.6  次女と初めてかなあ日曜日に名古屋の繁華街を歩いた。名古屋にはJRの周りに通称名古屋駅という県民のゆく繁華街がありますが、今回は栄という名古屋市民の繁華街にゆきました。
このくくりは面白いと思いますが、市民のゆくところでトリプル選挙のある日に春場所夏場所中止の号外を手にしたというのは特記しておきましょ。
日展を見て20人展を見て、バレンタイン売り場でおもいっきりチョコの試食をしてチョコレート工場のチョコを買ってきました。
一度こういうぶらぶらある記を娘としたかったです。13歳の娘と初めてサンデーウオーキングができました。
ボイストレーニング 2011.2.4  今日は平林龍というバリトンの指導を受けてきました。個別指導ではなかったものの、学ぶことの多い会でしたので忘れないように書きましょう。

最初の礼はきちんとする
5秒で観客をつかんだら、まず歌ってみましょう。もう一回発声練習
音楽は調和で、合わせることをいい、しいては政治の団結のために始まった。
芸術となるには100年の実績が必要。
尊敬すべき先生という使い方====してないよという感じ
手が揃っていて綺麗。その上にタクト
革ベルトの角時計が手をより美しく見せて(バーバリーだそうです。)
声が起きる=はける
演歌とロマン語の横縦の違い
切っていても繋いで歌うためにはその半分つつの良いところを取って少し音量を大きくすると繋がって聞こえる。
たって座って立つと、声が伸びる。
ああ、僕の技をいってしまった。
合唱DICTION(話し方、発声法)、舞台語法、朗読法、それぞれの発声法
相対音階だからアカペラになると下がるのでアクセントをつける
間延びさせないように切って歌う

ひとつの喉でいろんな歌い分け、それってひとつの筆で楷書行書草書隷書を書いてみよう。というのと一緒かな。とゆく前に思った
岩倉くん 2011.2.4.  今日は良いお知らせから始まった。一日中ダーリンがうちにいてくれるというのでやりたいことができるからがんばろうと思っていた矢先に、待ち望んでいた彼女の妊娠を知りました。このままつつがなく、いとおしんで産んでいただきたいと思います。そして、ボイストレーニングも学ぶとこと大で有意義に終了し、ひょんな事で隣の部屋で知った方の会もあり、挨拶もでき、その帰りのことでした。
ここ数年我が帰途の電車に一部特急というものがお目見えして、それに乗ると意外と早く帰れます。それに乗って、座れたらいいなあと見回すと、二人掛けの椅子に空きがありました。先に座っているちょっと大きめの方に軽く挨拶をして寄ってもらってから今日の余韻に浸っていましたら、その大学生くらいの男の子の持っている文庫本の挿絵がいいセンスなんですよ。まあ見ないわけにはいきませんよ。彼も見られていることは十分に分かっていらっしゃいましたが、それでもあっちのページこっちのページととばし読みをしていましたから、ますますラピドリーヂングの私としては手も動かさないで速読できて、踏んだり蹴ったりの反対。思うつぼと申しましょうか。それでその本をしっかりと読みたくて、買おうとおもいました。しかし、残念。ブックカバーがしてあって、わかりません。彼はちょっと動き出したので降りてしまうかもしれません。さて、わたくしは。
つんつんです。教えてもらいました。
のぞき見は休憩して、どこでいつそれを調達しようか思案してました。
それで、降りる間際に、その本いただけました。
何度も読んだからいいそうです。
マーカーしてあるからいいの?というといいというのです。
マーカーしてあるからもっと貰って嬉しいのです。
こう言うのが人間っていいなあと思うのです。
その駅が岩倉でした。
その本のブックカバーに私書きました。なくさないこと、
2011.2.4  at 岩倉 君
大当たりでした。その作家の肩書、心理学者、漢字アナリストですって。
P.S. なんでその本を真剣に欲しくて声をかけたかというと、私には受験生の娘ともう少しで受験生の息子がいまして、もし、という場合に読ませてやろうと思ったからです。この2月という時期にこの本に出会ったことに感謝します。
プロになったコバ 2011.1.25  ゼップ名古屋でするというコンサートに参加しないわけにはまいりません。飲み物500円でもちろんおビールひっかけて聴く。
二台の見るからに似たアコを持ち替えての演奏。汗のためではないようだ。
多分左手を使うときにはノーマルアコで、右だけの時や振りの大きい物はデジタルかもしれないと、推測が飛ぶ。
そのキャバニョロだけはデシタルもマイクを通すと同じ音が出るそうです。先生は言うことが違う。
今回の彼の成長ぶりは素晴らしくプロ根性がコテコテになっていた。
演奏後の握手会で疲れているのにも関わらず、多分自分で訳のわからないくらい、理論ではなく、プロとして接客――笑っていたように思う。お客様は神様、いや万札-----という感覚ではなく、お客様は愛する方という接し方のように感じました。プロでした。
追記  
そこでしばらく合わない親友の旦那さんと初めて合う。
奥さんの名前を聞いたらビンゴ。
良くやってくれます。の理由がずっとテニスを続けていてくれますとのこと。それがよくやってくれますの理由になるのであれば私はどう言ってもらえるのやら。
幸先の良い正月 2011.1.6.  読売新聞でうちの生徒さんが日本の二位になった。
今までの教え方が公平にして日本の中で認められたと思うと嬉しい。
教え方ややってきたことがあっていたとちょっとの自信が生まれました。
あけましたおめでとうございます。 2011.1.1  今年の年賀状は結婚以来もしかしてはじめて自分からいつも貰ってしまっている方に先に送ることができました。まだありますから旧正月まででもかかってもこの形で贈りたいと思います。

生涯学習委員長をして

2010.2.1.

PTA役員は友達作りです。子供のクラスメートのお母さんを知ると家庭での会話が以前よりもわくわくします。こぞって参加してください。さて、今年の生涯学習の課題は子供たちの教室で授業を受けるでした。体育館でラテンダンス、音楽室で声楽、図工室でキャンバス画、三回とも役員として楽しかったと振り返ります。延べ参加者70名。

うその上塗り

2010.1.25

正直に言って、貸してもらったゲーム機械が自分のものでないことを言いたいだけ。先回は借りた責任で自分のものとした。遊んでいたのが悪いのだから、持ってきた罪をかぶってもそれは合点がゆく。しかし、その機械を持ち主が売ったというのが後日ばれて、売った人になるというのは嫌だ。それに関しては関与していない。ましてや、親にも嘘の金銭の受け渡しをとなると子供がかわいそうだ。どれほど悩んだんだろうと思うと胸が苦しい。

お人の罪を追いかけている時間が惜しい。それで、彼の成長を思うと、ここで本当のことを言って、これからの未来に傷を残さないようにしてもらいたいと、自分から、信頼のおける大人に話すように勧めた。 

がんばれニッポン

2010.1

いよいよだ。

無理を承知で挑んではみたものの、結構いい線いっているのだから、どうでもこうでも上手くいってほしいものだと、わたしはどんな理不尽でも、ふっかけにも、まけるものか。私はここでこらえて我慢しているのだから、あなたも、がんばれ。君の成長にはいささかの負もない。

お父さんも、お母さんも、ぐっとこらえてここまで一緒になってきたのですから、こらえる先には幸せがあると知っていますからね。

ナユタ号

2010.1

どうやら、あだ名がついたらしい。

その名も、ナユタ号。塾の送り迎えに、我が家に横付けされるワンボックスカーである。送り迎えの途中で弁当も持ってゆくので、都合、50分しか停車しない時もある。というわけで、隣の家ではその車をナユタ号と呼ぶのだそうな。久しぶりにつけてもらったあだ名である。そういうのいいでしょ。

原ばあちゃんの味

2010.2.7

子供のころ正月におばあちゃんのうちに行くと、いつも好き焼きを食べた。

でも、ばあちゃんがみんなと一緒に食べていた覚えはない。

それに、ばあちゃんは卵は使わなかった。

なんでかというと、精がつくものは食べないと言っていた。

ふむふむ。その意味が結婚してからわかったが、精も付いていいと思うのだが、それは現代感覚なのかなあ。それはそうとして、ばあちゃんから教えてもらったことに、こんにゃくの食べ方がある。

仕事場の帰りにばあちゃんの様子をのぞきに寄るようになって、行くとよくばあちゃんは独りすき焼きの準備をしていた。一人でいつまでもこんにゃくを炒めていた。肉も入れずにちまちまと、糸こんにゃくを箸で右左と混ぜていた。

なにしてるのと聞くと、こうするとすき焼きのコンニャクに味がよく染みるとすごく嬉しそうに言ったのだった。猫のように顔を皺くちゃにして笑っていた。

それが、ばあちゃんの楽しみだったとよ〜くわかって、それが忘れられない。

私の子供たちにも伝えたい。原ばあちゃんのお話の一つ。美味しくなろうがなろまいがおばあちゃんを思い出すかのように、私はまねをしている。

ばあちゃんの歯磨き粉

 

本当にたまにばあちゃんのうちに泊まりに行くと、缶に入った蓋つきの歯磨き粉に、湿らせた歯ブラシを突っ込んんで歯磨き粉を、それも、本当に粉になっているのをとる歯ブラシ粉があった。なーーンか汚い気がしたけどんそんなもんかなあと思っていた。

ばあちゃんの食器棚

 

 

妙にきれいに積んであるのだなあ。

欠けている茶碗でもなんだかきちっと洗い桶の中でも、棚の中でも、ちゃんとしていた。

ばあちゃんの亡き後、そのことを訊いた

ばあちゃんの恋

 

ばあちゃんはいい男のじいちゃんを見たときにこの人を射とめようとおもったそうな。それで声をかけてもらえるように、いつも同じ時間に会うようににきに立っていたそうな。にきというのはこの地方の言葉のようだが、近くのことである。まんまとその作戦にはまったのが色男のじいちゃんだったようだ。行く地方先々に愛人のいたというじいちゃんの入籍相手はそれなりの人物というわけだ。

ばあちゃんのはとや

 

何でも、洋服は仕立てやさんのところで、舶来の布で仮にゅいをしてもらっていた。一遍孫の私にもしつらえてもらったことがあるが、仮縫いの服は体の粗がでてそう良いものでもない。コウトイ物というのはそんな物である。ウエストまではボタンでその下は隠しファスナーになっているワンピースであった。バックルの細工がとてもきれいでそれだけを見ていても美しかった。裏地も当時としてはちゃんと付いていて、しわにならなかったような気がする。仮にゅいは針が刺さるので神妙だった。肩のタックも、腰回りのダーツもこだわりがあった。鳩屋で作ったアッパッパーというのがばあちゃんの夏の普段着だった。 

ばあちゃんの姿勢

 

じいちゃんの亡くなった後だいぶん長くばあちゃんは独りだった。それで、私も、仕事を始めると、車を買ってもらった時にはよくばあちゃんの家に様子を見に行っていた。ばあちゃんが肩甲骨のあたりがぐにゅんと曲がっているから、よくないとおもって、ばあちゃん、背中が曲がっているから前をまっすぐ見てごらんと背中を伸ばして立ってもらったら、よっこいしょと、ひざを曲げて向こうを見て立つのでひざを曲げないで立って見てと言ってもできないと笑った。あの時は本気で面白かった。

ばあちゃんのドンジャバラ

 

 

 

ばあちゃんのうちの寄るときは電話を入れていた。すると、私の好きなドンジャバラの白パンを歩いて買っておいてくれた。今を思うと意外と遠い店なんだがちゃんと買っておいてくれていた。それと、芋虫みたいな麩菓子もカンカンに入れておいてくれた。辛いひねりんあられもあったような気がする。一度母に聞いてみよう。 

ばあちゃんの押しずし

 

何のときか忘れましたが、押しずしをよく作ってくれました。

ハゼの甘露煮と、かくふの白く似たのとを斜めにだんだらに並べておしたものを正方形に切っていただくのだ。ごじごじとしたものだったなあ。

インクレディブル

2010.2.10

ナユタには押しがあった。

合格判定のAもBもましてやCも取ったことが無かったのに、とうとう受かってしまった。もちろん受かるつもりでやってきたのだが、本当に受かってしまうと、ものすごく嬉しい。本当に、良い子だから、どうぞして、受からせてやりたかった。試験を終わった顔は全力を尽くした感があった。それを見ただけで私は十分に戦ったとおもった。

本番に弱いのをこれで克服したのかなあ。算数で二問ほかったというし、社会では環境権も間違え、市川房枝ではなく房技とかいたというから、何とか五分五分と読んでいたがその報告に、どっこいゆらいできた。それにしても、捨てた二問はみんなが解けないから、その時間で、二回見直したと言い放ったので、お父さんに解いてもらった。そのとおり本当に難しいというし、そのほかは満点だという。彼女の分析があっているので信じたい半面不安もあった。

10時20分に来た書類は心持ち分厚かったから、仏様に持っていってから、お父さんがあけるまでは実に微妙だった。後は学校に言いに行った。ぴょんぴょんだった。我が家は嬉しいと、弾むようだ。帰ってきてからは猿の木のぼりのようにお父さんにずっとしがみついていた。

あんなに叱ってくれる塾の先生はいないと言っていました。皆さんご迷惑をおかけしました。ありがとう。そして何よりもおめでとう。

とある書道展に行ってみた。

2010.2.20

三年ごとに開催されるという人気の展覧会に行ってみた。

さすがに、迫力。各自が3点ほど出品している。

子供は半紙(裏打ちしてある)、条幅(夏のJA)、硬筆(絵付きの画用紙大)

幼稚園の子供の作品にど肝を抜かれる。

書く文字を家庭で相談する。表装の値段を保護者会で説明し家庭で実際の値段を決めてくる。すると展覧会が成功するまでが、それぞれの家庭のコミュニケーションの話題になる。先生の手本は文字に合ったものを何パターンも準備して。子供たち、お母さんたちの会が競い合って自分の作品を一番いいものにしたがるのがそれに輪をかける。子供だからと言って表具に気を抜かない家庭もある。

何よりも、先生の、気迫が違う。お稽古中の写真が冊子になって、お茶席に5冊ほど。書いた作品が洗濯物のように棒にかかっている。条幅の下敷きは段ボール板にガムテープで止めてあるし、硯代わりの容れ物は新聞紙の枕でいざらないようにされて菓子箱に収まっている。ピータイルの教室はどこもかしこも透明ビニルで包まれている。吸い取り紙は10枚ほど箱に入って作品の横に立て掛けられている。先生と子供と、親との三角形が大きく感じられた展覧会でありました。

知らないことって多いなあ

2010.2.18

研修に行ってきました。4時間半。

公益法人化に向けてのキーワード

教育基本法【国家戦略】からオス

設置基準.主旨を経営方針(博物館法、条例)に結び付ける

日本博物館協会、社会の上での強い機能をアピール

1、生涯学習支援

前向きなサービスによって支援者を得る。

公益のため、どこのひとも足を運びやすくする。

市民をクライアントとしてとらえ社会の上での強い機能をアピール

講座次回参加したい人にはDM(暇な60代がねらい)そのたびに、今度何が聞きたいか知りたいか声かけをする。

歳入財源としての入館者数、企画展示の日数が行政評価につながる

売れないけれど有料の年報を作って、配り普及活動とする。

地域の活性化に協力しろ

生涯学習の広報等、FM、ケーブルテレビ、ライオンズ、で参加者を募り、PRし、同時にスポンサー(広告収入)を探す。

フィールド調査をして.ビジネスチャンスをつかむ

月一回の記者懇談会でマスコミとミニレクチャーをして、情報交換

それは、研究員の勉強にもなる

活動機会の提供

EX、

学校の課題をどううまく書くかをHPにのせる。

この曲がり方をどうするか、

クライアントの質問

アドバイザーとしての答え

頭でわかったところで、一遍書いてみようか

という促した態度

学校の先生、見て頂戴という手紙の送付

親が見てわくわくする教室の壁の作品の飾り方等のアップロード。

上手に書くことから、嬉しく書く、悲しく書く、納得できる書に

2、シンクタンクとして、法人にもサービス

横つながりを作る。他館連携(学校.図書館.公民館.研究所)

学校に何回行ったか。地元地域との連携での評価。

社会教育課とつながる。

学校への訪問授業

教育の専門機関、オリジナリチィ、が売りになる

 

学芸員に大学の研究者を置くと有識者の賛同が得られる。

3、展示と資料だけで説得できる時代は終わった。調査、研究をしろ

研究されたものが出版されているという実績をアピール。=学芸員の評価

学芸委員の誰が何回セミナーをやったか。

企画展は印刷物を作って(16-20ページが実績として評価されるページ数)パンフでもいいのでリスト管理

または、調査のお披露目となる。

調査整理は緊急雇用のために安いバイトでできた。

没00年後の企画

作品の掘り起こし

〇〇会、〇〇文庫という名称の活用。子弟管理制度

4、危機管理を徹底する。

中期目標を立てる。その進行管理

それぞれの研究部、課、部署のタスクフォース。

一人の入館者のために5-6000円かかっていいものか。

マネジメント、数、見てわかる(実績)訴え方。

PRしないのはお人よし(がめつくやろう)

五年という区切りを作り包括的に結果を出す。見直しをする。

官報、友の会に送る文章は自分のところの印刷機でする。 

それか、逆説的になるが、今までの通りはやめて、図録はやめ、東京的でない小さいと子ネットワーク的な売りをするか。 

 

開拓農民 2009.11.5 春先から開拓農民をやっている。

庭の木の伐採枝を積み上げてあったのがどんどん場所をとって、これでは火をつけられたらどうしようという感じになってきたのだ。もちろん下のほうはとても良い腐葉土になっているのでたくさんの兜の幼虫も出てくる。何しろたくさんの枝を踏んで場木場期に負って嵩を減らし、完全に乾いているものなら少しずつ火をつけさせてもらい、後からその下の腐葉土をかけて地面の低いところを均す。結果として敷地の活用面積が増える。誰が見ても何ともなかったかのように見せるのがコツだ。完全に完了しないのがみそ。まだこれからも葉っぱが出るので終了させてしまってはそれが積みあがったときに目立つからだ。何が大変かって、足と腕にできた傷跡かな。とってもかゆい虫に刺されたこともある。いまは土用で土が触れないらしいのでやすみである。夏の暑いときも休んだから、休み休みの半年で大体片が付きそうである。

遠隔インフルエンザ 00911 公衆電話から携帯にかかってきた電話で、「母さん僕インフルエンザになった」という。事務所でお金を借りで病院に行ってきたから急いでお金を送ってくれという。案外えらいよとか言うからそれも拍車をかけて私の心の中の不憫さはますます増す。遠くにいるから彼の病気は手も足も出ない。

対策としては迎えに行かなくてもよくなったので待つよりない。

翌々日に寮の先生から電話で熱が下がったと知り、ほっとした。

アルジャジーニョに花束を 009.11.5 アルジャーノンに花束をという本がずっと読みたかったが、本の名前を間違えていたので探せなかった。やっと見つけた。

なかなかいい本だった。大人になった娘にまた読んでほしいと思った。自分の子供の成長と、文章がだぶって、面白かった。最初の知能の低いころの文章はひらがなばかりだったり、てにおはが間違っていたりして読みずらかった。彼の知能が上がるにつれて、図書館でどんどん読みあさるのが注目されたというくだりになると、映画のようにその映像が目に浮かんできた。トムハンクスのあたり役だと思う。作家のアメリカ人の品のある男性描写がアメリカ人らしからぬ記述法でとても好感が持てた。翻訳家がうまいのか。たしかにうまいんだろうとおもう。私が読んだのは長編に書きなおしたものらしいので、次回機会があったら、原文で興味のあるところだけでも読んでみたい。確かに、翻訳が絶妙なのが感じられるところは日本語を読んでいてもたくさんあった。

ボイストレーニングをならって。 2009.9.9 皆さんの感想

○今日先生に注意していただいたことは大変勉強になり、気持ちが前向きになりました。帰り道は気分がとてもよかったです。

○一時間があっという間でした。普段大きな声を出すといったら子どもたちに怒る時位なのであんなに気持ちよく声を出すことが出来てとてもよかったです。顔の筋肉も体の筋肉も普段いかに使っていなかったかも分かりました。

○始めは声が出るか心配で、姿勢を治すとこんなに声が変わるとは思いませんでした。プロの先生に教えてもらいとても貴重な体験が出来ました。

○オペラ歌手に指導してもらうなんて貴重な体験をさせていただき、その上;、気さくな方でとても楽しい時間を過ごさせていただきました。

記事の原稿

参加者の感想:顔や体の筋肉をいかに使っていなかったか。姿勢で声が変わるなんて。あっという間のオペラ歌手の授業。気持ちが前向きになって帰り道は気分がとてもよかった・・・次回は3月3日の図工です。

 

山口かおり様とご主人様へ 2009.10.2 福岡の試合から帰りまして、そのなんともいえない地元の親御様の支援を感じ感謝に堪えない気持ちになりました。息子というものはちっとも一緒に写真に収まってくれないもので、それを声かけしてもらったり、送ってくださったりと、随分前から友達だったように仲間に入れてもらって、あり難くおもいました。

親が参加できない子どもに、寄り添って写真やコメントに参加する奥様。応援の掛け方をうしろで聞いていても、山口さんのお父さんはその中でもぬきんでていて、とても嬉しく思いました。あの声のかけ方は子ども一人一人に愛情があるという気持ちがあふれていて、わたしはそれに気付いたとき、本当に心の中で、このお父さんは大好きだと思いました。それで、そのことを息子に聞いてみようと何度も電話をしていたのですが、今年度に入って寮の電話は話中が多く、その上、後半の義務自習の勉強時間に掛けても本人が寝ているのか、内職をしているのか電話にでてくれません。それでこの間やっと通じて山口君のお父さんは愛情が深いからきっと獣医さんじゃないのと話をしてみたところ、部の専属医のように毎回応援にきてくれて、お世話様になっていると知りました。なるほど、それで声のかけ方に並々ならぬ親愛の心があったのですね。分かりました。一人一人の名前を呼びながらの声援は暖かく響きました。ありがとうございます。

なんと、我息子も先の日田の試合の時に熱を出して、山口さんにお薬をもらったりしたそうですね。本当にありがとうございました。ちっとも知りませんで御礼を言うのが遅くなってごめんなさい。

さて、鹿児島市内にお住まいとのこと、すると自宅生ですから、あんまり移動されないかもといろんなパンフレットを送ります。見て気が動いたら、遊びにきてください。中部は西に東に京があって、九州とは違う歴史がありますよ。わが家は書道を生業としていまして、お爺さんのころから此処で小さな美術館もしています。全国教育書道展も今回で39回を数え、今度は新らしい首相の賞状も手に入るでしょう。若し、どなたか(高校生まで)、書道に興味があるならば晴嵐館で検索してみてください。今作品募集中です。九州勢は書道に迫力があってスーパーなど巷の書道展を見ても驚いています。

いろいろと長くなりましたが、感謝の気持ちです。ではまた、お会いできますことを楽しみにしています。

次回の11月、本人は勿論出席しますが、したの娘が受験生ですのでちょっと親の不在は自信がありません。残念ながら見送ります。琢斗にはみんなも持っているというエナメルバックを注文しましたのでそれで我慢してもらおうかなあと考えています。ということは高校になってもやると決めました。私も、お母さま方とお話したいのは山々ですが、このままではあきらかに芳しくありませんので、バックアップをしてやりたいのです。先の体育祭が最後の息抜きでした。琢斗の成績を聞きに行くのも正直気が重いのですが、これは勉強をやっていないので鼓舞したいところです。東大を見て触発されるものがあるといいなと思うのはどの親御さんも思うところではないでしょうか。

冗談はさておき皆々様のご健勝をお祈りして筆を置きます。これからも、親子共々よろしくおねがいします。袋の中のファイルと飴は名古屋市博物館のグッズです。少しばかりですが、どうぞご笑納ください。

追記 

交流会の日に集めるというバックの御代(7000円強)と、交流会の琢斗の参加費(3000円)としてとりあえず一万円を預けさせてください。

勝手申してすみません。不足分は琢斗から払うようにいっておきます。

去年の本人の使い込みがあまりにもひどく可愛そうですが、余り送らないことにしています。また、寮内では昨今お金の紛失が多いらしいのです。

何かの折には差し入れをすることを考えたいと思います。

政権交代 2009.8.31 戦争前の自民党で無い時代になってしまったように感じる。

給付金をもらった国民が恩を仇で返すようにひるがえっている。

此れは戦争にならなけれればいいがと思った。

貯金をしなくてはいけないと思うのは私だけであろうか。

新政権に頼みたいことは法人法の見直しを見直してほしいですね。

 

人生とは 2009.8.26 「たらいからたらいまでのチンプンカン。」と一茶がいったそうです

私は問われるがままに、考えをまとめてみた。

人生の捉え方に1ステージと2ステージと、そのレベルによるとらえ方の違いがある。

自分が変った人であることを受け容れるのに20年かかり、その次に2ステージにあがる。

確証が持てるようになるには現実を見据えた自信がいる。人と自分が違うことを知るのだ。

それから、がんばっていい子ぶった120パーセントを出す生き方をやめ、肩の力を抜こうとする。

相手はそれほど思っていないんだからと、冷めてみる。

それで丁度いいのだと思う。

人生は生きているのではなくて、生かされているものだし、どこで止まっても悔いの無いようにと気張ってもみる。美学である。

その一方でまる子ちゃんのように,どうでもいいさ、というどうせとかいいかげんな精神もあって、バカマジメばかりがと、昼寝もしなくちゃ肩がこると思う。バランス感覚がその人のモラルを造る。

負けてたまるか、此れだけは言い置いておかないとと引けない自分がる。

そんなこんなのいい面と、悪い面と、どうしょうもない面とがあって、それを知ったうえで、何しろ愉快でなくちゃ詰まらないと私は思う。

後は自分の分身をこの世に残せば番万歳である。生き残った分身と、精神を引き継いでくれる分身と。

 

塾の送り迎え 2009.5.26 塾の送り迎えを一度だけ頼んだ。

どうしてもできないので、伯母ちゃんに一度だけ塾の送りを頼んだ。

塾までは車で10分切るぐらいのところですが、車で行くと駐車場が満員で道でおろすと叱られ、また車だと踏み切りを渡れないこともあって、不便なので健康をかねて細道をかっ飛ばして自転車で通っている。都合、私が荷物を運んでいた。其のカバンの重いこと重いこと、ハンドルを取られて本当に疲れるのだ。しかし、代わりがいないのだから親子のコミュニケーションのために元気な日は自電車、だった。

その日は伯母ちゃんが私の代わりに、荷物を持ったのでした。

帰りに迎えに行くと、私の顔を見るなり、「今日はおばちゃんに荷物を積んで貰って来たけど、叔母ちゃんの足が悪いから、痛くなったらいけないと思って後をついてきた。」といいました。私は、勉強はアップアップでとっくに塾をギブアップしてもおかしくない中にあって、そんなことを言ってくれる娘に塾の功明を感じました。私が荷物を持てば良かったと言ったところで、持ってハンドルをとれる重さではないんですが、其の気持ちに、そう育ってくれて環境を感謝しなくてはいけないと思いました。

I’m so proud of you.

ありがとう。

ラテンダンス   6月24日水に体育館でラテンダンスに汗を流しました。ビックスクリーンに映し出される本場の踊り。ナンシー・ドグチさんの踊りを手本にサルサ、クンビア、レゲトン、ポップを踊り分けました。役員は先に2度練習会をしました。参加者   名。思った以上に難しく、思った以上に楽しかったです。Chau!

スペイン語通訳 里美.やましろさん 次回は9月にボイストレーニングをします。皆さん御参加を

だめだアこのイネ花粉 2009.5. だましだましここまで暮らしてきましたが、とうとう花粉の罠にはまってしまい、早2か月。目の水洗いも手を焼き、とうとう、目の石鹸洗いまで危ない。普通の石鹸ではききませんが、薬用石鹸なら効果があります。とはいっても、それもぎりぎり。寝付けない上に、朝は目やにが張り付いて、めがあけられないくらい。それを水で洗い流してからしか動きが取れません。勿論目の周りは象の足のようにしわしわで変な感じ。たすけてくれーーーー。

どうにか辛うじて暮らせておりますが、不審者生活です。マスクとめがね。

外出時だけではなく、家の中で洗濯物をたたむ時にも必要です。郵便局では知った方にも身分証明を出すように言われました。本物の不審者です。

だんなが遅く帰ってくるから私も遊ぼうかなあというあなたへ 2009.5.23. 『私まで遊んだらこの家のモラルは崩壊するわ』と考える前に、

ご飯食べたかなあ。から始まって、

駅に車で迎えに行くのにお風呂は入れないなあ。

私飲めないなあ。

ちゃんと帰ってくるかしら。

忘れ物してないかなあ。

乗り過ごしてまた地下鉄の駅に閉じ込められていないかしら。

メール入れなくちゃ。

いやいやメールは気付かないから恥かしいらしいけれど電話にしよ。

飲み潰れて送ってもらったらタクシーは夜間料金だからいくらかしら。

背広汚してまたほかるのかなあ

と段階があります。

彼がいなくなったら明日からどうやって暮らしていこうか。

まであります。

一人でちゃんと帰宅されるのであれば合格。

家のモラルは帰宅時間ではなくて節操や思いやりかな。

付き合って遅いのならあなたも大変ね。と考えるのも効果的かも。

世の中いろんな人がいます。自分のだんなさまが彼以外考えられないのなら、もっとすごい例はいくらでもあるようです。浮気されていないようなら可愛いものです。唯、心身の健康あっての明日と分かって貰いましょう。

視覚障害の方に美術館に来ていただくための課題 2009.4.18参加

2009.5.13記述

YWCAボランティアグループ  平川幸子さん

視覚障害者の方と一緒に愛知県美術館所蔵の作品展にいってみよう。

注意点

1.個人に依って好みがあるのでボランチィアの立つ位置を右か左か聞く。

2.杖、盲導犬ノハーネスの反対側につく

3.半歩前に介助者が立つ。(二人分の幅を意識して道を通ること。狭い時には手を後に回して、狭いですよと声をかけてから一列になる。)

4.ヒジか肩を持ってもらう。

5.介助者は必ず断ってから体を触ること。

6.歩く速さがよいかどうか聞くこと。

7.階段、エスカレーター、エレベーターの前は一度止まって上がり下がりを伝える。

8.腰に手を回さないこと。(歩きにくい)

9.ガイドは先に上がり下がりをすると、障害者に判るので其の確認をしてから二歩目をだす。

10.     階段はもう終わりですよという。

11.     乗り物(バス、地下鉄)

12.     席は背もたれを手も持っていってさわってもらって座る。

13.     テーブルがあるときは、前もって声でいう。

14.     トイレは、「和式、様式どちらがいいか。」

15.     便器の向きが右か左か、正面か。

16.     水を流すところを指示する。突然流れるとびっくりする。

17.     ペーパー、カギの位置

18.     女性は男性の入り口までとする。何歩でつくかといって、近くの男性に頼む。

19.     信号など、周囲の情報を説明する。

 

美術館について

下準備をすることはより深い作品理解にとって有効であるが、その場その場で学芸員に聞くことで介助者の知らないことも、伝えることができる。

周りの拝観者への音声的な配慮は必要であるが、大きな声を出す必要はないので同じ時間に入館して構わない。という時代になった。

絵画の場合

何が何色でどんな位置にあるという説明から、それを受けた印象まで言って構わない。押し付けと考えることはない。説明の仕方によって、受け取る人も、楽しむことができるし、美術館を楽しめるかどうかは最後は人間同士の交流にかかってくる。

前準備として

立体コピーの活用ができる。

また、弱視の方もあるので印刷物の濃い大きい印字のものも有効である。

感想

基本的には人間の共感、感動の分かち合いという嬉しさから発生するこのボランティアであるが、美術館運営から見ると、障害者の入館料割引と介助者の入館料の問題がある。

触るということのできない作品やへの取り組みや、逆に嗅覚に訴えるなど、展示の方法も一工夫あると有効かと思った。

たとえは墨をすったちんこうにおいや、同じ時をナゾって体験してみるという展示方も有効に考えられる。

徳川美術館学芸員の方と話ができて、同じようなことを考えて見えるとわかった。美術館側の話もできた。名刺や美術館のパンフレットを持っていったのが有効だった。

 

 

子供と美術館に来てもらうための資料 2009.4
   

  キッズ情報 ワークショップ

クレマチスの丘の美術館では、週末に子どもを対象としたワークショップを開催しています。展覧会と関連するものから、クレマチスの丘の豊かな自然と触れ合いながら行なうものまで、幅広いテーマのワークショップとなっています。家庭や学校とは違った環境である美術館では、アーティストと何かをつくったり、色々なお友達の作品をみることができたり、新しい経験が沢山待っています。ファミリーでお気軽にご参加ください。

ワークショップは、大人とこどもが一緒になって楽しんでいただきたいと思います。お子様だけを美術館に預けてお帰りになるということのないよう、ご協力お願いいたします。

ワークショップには保護者の入館料がかかります。

 

 

アラビアン書道

2009.2

10年位前から注目をしていましたが、やっとチャンスがきましたので行ってきました。NHKの教育テレビでも会話の中でやっていましたので、いつかと思っていました。聴講者はやっぱり、樂人ばかりでした。

右から左に横に書くこと、ペンを逆さまに向けて自分で削ること、墨を使うこと、などなど、国際センター勤務のエジプトの方と隣の席で面白かったです。彼らはみんな読めるけど、かけないそうです。岐阜にモスクができたそうなので行ってみたいです。

世界のコンテストは賞金が出るそうです。

美術館のあり方

2009.2.18

とても勉強になって、美術館に関わっている楽しさを感じました。

これからの活動に役立つといいので、書き留めます。

美術活動のひろがりについて、

社会の中で活動の変化を余儀なくされている美術館活動。

子供のための普及活動 伊藤優子氏

子どもは無料だから入館者数に入れられていなかったが、子ども向けで大人が気楽に常設作品の前に以前より長くたたずむことのできる、親しみをもってもらえる。という点で、ワークシート、実技的なアトリエ、ウワークショップ、ギャラリートーク、ロビーコンサート、ビデオアート、大道ボランティアの育成、学校教育現場との連携−教育目標、教育開発、夏休みの子ども美術館、オリエンテーリング、クイズシート、といった具体策を聞いた。広報での往復はがきの募集、ついて来た子供の親へのサービス。はがき一枚プレゼント。イメージの中身をつたえる時代に新しく見えてくる感覚をアウトプット.手法を変えて伝えるーイラストを用い解説的でない展示法。スタッフも学生の勉強の場だから大学生を使う―弁当代の支給。などなど。

参考.

見黒オーク美術館

世田谷美術館

子どもの城

東京ステーションギャラリー

北海道近代美術館

dome山梨県美術館

アミューズビジョン

ポケットミュージアム

British council  pilot program

American 博物館協会 Chicago

New York ameriamanas

名古屋の雑木林研究所

 

視聴覚障害をもつ型のための活動 村田真宏

当たり前の事業として、教育普及活動。

美術館ガイドボランティア YWCA

クレームから要望を気付いて改善し乗り越えるチャンスにする。

鑑賞補助資料の準備−絵画説明、手引き、作品解説

点訳機関 六点会

立体コピー 名古屋ライトハウス  トレーシングペーパーとカプセルペーパー

弱視の人にはおおきな字に

愛マスクをつけてボランティアグルークの事前研修会をする

一度の人数。

企画店での実施、閉館前の利用。

バリアフリー、料金、施設の対応。

一般公募と、関係機関への呼びかけ。PR

オーロラの写真展→愛好家との対話

 

2009.2.8

カナダに一度主人といってみたいのは滝を一緒に見たいのと、オーロラを感じたいため。

新聞で知った展覧間に行ってみたら、やっぱりマニアの集合で嬉しいことしきり。やっぱり、北欧よりも、カナダのほうにいい形のオーロラを見るチャンスがあるようです。軍配はカナダのようです。

バカの壁

2008.

二度読んでやっと理解できた養老さん71歳に合ってきました。

One of them で窺ってきたのですが、含蓄があって、思っていたことをズバッと代弁してくれたのでこの時代に嬉しく思いました。

同調。感謝。自分に自信がもてました。私も含めて今の時代身のほどを知るのを忘れていますもの。

キーワード

現代は人との違いを押し殺している−感性を鈍くして育てている

自分の仕事にどれくらい手を抜くかがテーマ。

本気でする、気持ちが座っていない―発言できない

年寄りが物事の本質を見ず、人を見る目がないので頼れない―人の使い方:育て方

手を使わなくなったのでボケる。−筋力−自分;脳の向上

文化は身体技法から生まれる。−きちんとした様式美−本能にする

枠にとらわれているので中心視野しかない。−周辺視野も必要

広島のsuper science museum

東大は年に二人は精神科行き、数学物理ができないと入れない。

20年で人間を育てるのに間に合わないので

業績主義−テストで区切ったほうが選ぶ側が責任を取らなくていい。

仕事は試験で取っちゃいけない。公平という言葉の元に責任逃れしている。

上に立つものは責任を取るために高給取りであった。

美濃和紙の里

 

久しぶりに板取川のアユを食べに行った帰りに、駐車場が満員だったのでたずねてみたところ近くで美濃和紙の夜のライトアップがあるというのでそこから歩いていってきました。

勿論ヒントをたくさん貰ったつもりですが、忘れてしまいました。

和田中学校の藤原和博の講演会

 

 

教職員は特権階級なのか?という隠しテーマを感じました。

実は夜廻り先生と思って参加したのですが、顔を見てびっくり、私のおっちょこちょいさにあきれるとともに、後で主人が行きたかったと最大に愚痴る内容を聞けてよかったです。

子どもは社会のおばあさん、お爺さん、叔父さんの力を借りて育てよう

世の中科の実践。

ドイツのポスター展 at トヨタ美術館→ひびのこずえグッズ

 

 

20年位前のことですが、私には会いたくてもあってもらえない友達がいます。

返せていない本も一緒にお嫁に来ているのです。その子にあげようと買ったプレゼントはたたんだまま。

吹上ホールだったかに一緒に行って、ドイツのブースにあった大きなポスターをそこの人に掛け合ってごり押しして貰ってくれたこと。美味しそうなドイツの特産品が並んでいるもので手に入った時の嬉しかったこと。京都に下宿する時にも、もっていって壁に貼ってありました。彼女が貰ってくれたのは学生時代の貴重な思い出なのです。そのときからドイツが好きでした。

あの国の、特にポスターの展覧会があるというので遠かったのですが、行ってきました。さすがの作品がありました。

そこのアートショップで見つけたハンカチがとても気に入って、今年のバレンタインに買いました。一年たったらどこでも手に入るようになりましたが、見つけたときの嬉しかったこと。私は動物バ−ジョンが気に入って、その後、その同じ柄のタオルバージョンも見つけて私用に買いました。ペアになりましたです。


 

ニアミス 2008.11.14

 本当に残念なことをしました。私の家の近く名古屋芸術大学でカリグラフィーの権威者であるエドワードジョンストン氏の講演会がありました。何をおいても行ったものでしたのに、知った時にはもう講演会は終わっていました。私たち夫婦はそれぞれが書道家で、私は洋書道といってアルファベットの書道をかれこれ20年近くしています。主人は大学で書道教員を養成する教授をしています。日本の子どもたちを教える教員の卵に書道教育をしながら、小中学校における書写授業時間数の減少に愁えているのが現状です。そして、我が家は財団法人として、名古屋市の北の江南市の地で書道の美術館をしています。もともとは、先々代の大池晴嵐という書家が、田中角栄首相の行った日中国交回復の先遣隊として、文化でお互いの国を尊重していこうという文化使節団の一員として国交前の中国に参りました。その晴嵐の考えを書道文化の普及という観点から美術館をしながら守っています。その弟子である山口耕賢氏はワープロができた時の日本語のフォントをかいたといわれています。さて、今回の講演の内容を知ってみたいのは山々ですが、それは講演の主催者がビデオを見せてくれるかということで解決できるかもしれませんが、何しろ、日本には戦前から洋書道があるということをジョンストン協会会長に伝えたいのです。このことをご存知でしょうか。私は西春で行われた講演会に私の作品をもっていって、日本でも旧き良き洋書道があると伝えたかったのです。それこそ英語禁制の戦争中に、私の師匠は空筆といって腕を動かして洋書道に精進をしたものでした。日本の洋書道にはなかなかの歴史があるのです。近年20年くらい前からはファッションとしてカリグラフィーは知られるようになりました。旦那さんの英語圏滞在についていった奥様がたがカリグラフィーをならってきて新しいものとして紹介し、NHK教育テレビでも取り上げられました。不思議な縁あって佐分氏の娘さんが我が晴嵐館のお教室にみえていますので今回のメールが送れる運びとなりました。明日の東京講演も締め切られているようですが、東京は「洋書道協会」の中心であり、東京大学を出られて、英語の教科書を作られた高橋義雄先生をはじめ、まだまだ戦後の日本の洋書道を知る道は残っています。日本国会図書館にも洋書道協会の定期刊行物は置かれています。細々ですが、本質的に書道としてカリグラフィーは日本にあります。是非、お伝えください。

バカの壁

 

火垂るの墓を見て 2008.9.14

 ドロップを見るたびに私は戦争を思い出す。「ロロップ」を見るたびに私は戦争を思い出す。『火垂るの墓』の小さな女の子は、ドロップのことを「ロロップ」と呼んでいた。以来私はそれを「ロロップ」と言うようになった。 この映画を見てからというもの、我が家の子どもたちは映画に出てくるこの「ロロップ」の缶をお店で見るたびに買って欲しいとせがむ。そのくせに家に持ち帰ってもすぐには食べないでいる。その前を通るたびに『火垂るの墓』で女の子が戦争中、飴を舐めてしまったからの缶に水を入れて飲んでいた光景が私の頭をよぎる。またそれと同時に甘いあまい匂いが鉄のような缶の金属の匂いとまざって、私の中に生まれる。 「ロロップ」は我が家では特別なストーリーを持ってしまった。「ロロップ」はみんなの好物でありながら、あってはならない戦争というものを語るようになってしまった。食べてはならないもののように棚にあるのだ。だからみんな手を出さないのだと思う。映画を見た人みんなの文化遺産なのである。作品中に出てきたどろだんご然りで、作ってはみたものの触るのが怖いような、いけないような気がするのであろう。「ロロップ」はこの映画が生み出した負の遺産であることに誰も気付いてはいないが、そうであると私は確信する。戦争をしたくないという子供心の現われのように思うのだ。そうして家の棚の上にあるそれが、家族それぞれのこころにひっかかっている。 私はその「ロロップ」の缶を時々振ってみる。からからでもなく、ボンボンでもなく、カシャンカシャンと上下に振られる。そして、やはり前より減っていないと、ほっとするのだ。 八月のある日に、みんなで『火垂るの墓』を見るのが切ない我が家の慣わしになっている。

歯の浮く言葉 2008.6

 いえないのはまだまだ大人でないのでしょうが、いえなくてもいいと思う。本当に思ったことしか言いたくない。いっている人を見ると、そこまでするのと悲しくなる。一枚上手だから言うのかもしれないが、言われた側の気持ちはいかばかりかと思うし、聴いているだけで、自分が言われているようで嫌になる。

私のファン 2008.6

 ここ半年ばかり、私のファンの人がいる。自慢じゃないけれど、気に入ってもらえて嬉しい。飽きられないように精進しよう。

一番下の娘が、 2008.6

 去年だったかの、二分の一成人式で、彼女はお母さんのようになりたいといってくれた。一同が注目する中、いいねぇといってくれたママ友達がいた。これも私へのかけがえの無いプレゼントである。ダーリンと一緒にいるから言って貰えたと思う。

友達 2008.6

 どのテーブルより、どのグループより、私のいる場所で、笑いが起きるなら、私は嬉しい。又一緒に笑いましょうね。といってさよならする此の頃である。

私へのお駄賃 2008.6

 まえをとおる主人が鼻歌を歌っているようなので、今、鼻歌だった?と聞くと、にっこり笑った。是が私へのプレゼント。

病名を言わない医者 2008.5

 大切な私の妹の調子が悪い。私たちが遊びに行った時にとうとう倒れた。私も調子がおかしくなった。病気というのはうつるらしい。やっと花粉症が治まりかけたある日、最初は朝のホタテのバター焼きから始まった。悪くなったらいけないと、早く調理をしたほうがいいかと、気がきでなくてつくった。結果、むなやけ、下痢、悪寒、失神、半日寝ていた。魚介類を朝食べたことが無かったから3時間お勝手でずっとその匂いをかいでいからかなあと思っていた。それか、食あたりだったらみんなが大丈夫かと心配をしていた。独りでヒャクソウガンを飲んでしのいだ次はささみの刺身を誰も食べなかったので翌朝料理しなおしたのを一人で始末していたら、だんだん気持ちが悪くなっていた。丁度、学園祭でクレープの事件があったから、ただでさえ食にうるさいのだから、古いものでも食べさせられたといわれたらと思って考えすぎたら、ものすごく嫌な気持ちになった。携帯で主人が何とも無いことが分かってほっとした。お勝手に座っていると気持ちが悪くなるように思えてきたのは最近のこと。軽い呼吸困難と下痢になる。絶対どこかおかしい。不安で、身動きが取れなくなりそうなので我慢ならなくなって主人に病院に連れて行ってもらった。その場で検査結果の出る所に行こう。大雨の中。運転すら不安である。尿、血液、血圧、異常なし。そんなはずは無い。+に近いーはあるのかと聞いた。身体が動物性たんぱく質についてゆかない歳ではないか、とか、だらだらしなさいといわれた。負けになるから嫌だといった。私は調子の悪いことを言うこともできないから、だらだら宣言は主人と、子供にはした。[病気はどこもない。]と検査結果の大きい文字が私に訴える。まるで、お守りのようである。先生は「病気は無いのだからと、今なら大丈夫だから」と、薬も点滴もくれなかった。しかし、このままいったら病気になるとも云われた。ただ、大丈夫なんだからと、断言されて、ありがたくて、なんだか泣けてきた。倒れることは怖くないから、すぐ頭を下げて横になること、打ち所が悪いのが良くないと教えてもらった。すぐ感謝状を書きたいくらいの感謝の気持ちで2、3日がすぎた。その後も運転していても、気になると血が下がったようにおもえて、呼吸困難な感じになったことがある。自分でも深く息をはいて、大丈夫―大丈夫と言い聞かせて目的地に着いた。娘たちの送り迎えをするのは私しかできないし、家のこともして出かけるとなると、段取り上ものすごくたいへんなのだ。どうやったって満足はないのに、気ばかり使って、本当にばかみたい。で分かった。多分私は気を使いすぎて、自律神経混乱や気圧低下性精神身体症候群による不安、胸騒ぎ動悸、めまい、脱力感、意欲生涯、循環器障害がおきているのだと思う。低血圧の時に寒冷前線などが通過する時に気をつけて、不調を乗り越えるようにするのだそうだ。今はそれを受け容れられるようになったが、もしあの時、病名を告げられていたら、大層へこんだであろう。あの医者は本当に、いい医者だと、感心した。ありがとうございました。やってもやっても云われるのはものすごい嫌だけれど、回りまわればじぶんのためだと思ってみようと思う。しかし、リクエストはたいがいにして欲しい。自分を守ることを覚えないといけない。

USJの楽しみ方。 2008.4.29

 ジェットコースターものばかりをどんどん乗って、帰りの新幹線までジェットコースターに乗っている気分だった。翌日かに飛行機に乗って帰寮した息子は飛行機には酔わなかったのものの、その後の飛行場からのバスに酔っ払ったという始末。それでも、思うことはいろんなものを見てこなかったことだ。精神的に、見てこようというものをあえてカットした。それこそが大人の楽しみ方だと思う。また来ればいいのである。今しかできない楽しみ方をしてきたと思う。次回は年寄りになりすぎて、あんなには乗れないと思う。何せ、開園から閉演過ぎまで乗り物に乗っていたのだから。

人生の歩き方:2ステップ目 2008.4.29

 とある読み物に、ニューヨークは若いときには楽しめなかった。歳をとったときに自分なりの楽しさが分かり、財産の余裕があるようになって、楽しめるところだとという記事があった。ミュージカルがあるからといってそれに翻弄されるような観光のしかたではあくまで地に脚のつかないサイトシーイングだと読み取った。ニューヨークなんて1日一晩くらいしかいたことが無いので、はっきりと断定は出来ないが、分かるような気のする40代である。日本でも、この田舎暮らしをしていても、東京の情報量の多さを推し量ることはできる。それによって無理に忙しくなってしまうのが日本人気質だ。でも、其の課題をこなしていて、果たして自分が楽しいかというと、多分疲れてしまうのが結果論であろう。庭の掃除をしていても、ガーデニングで楽しんでいるうちはその後の充実感が残るが、庭仕事として過度にしていては人生そのものが楽しくない。自分の欲求と其の深みを探ってうまく24時間をわたって行く処世術をしなやかにつかんでいきたいと思っている40代である。

大文字と小文字の違いは 2008.4.12

 英語を始めて一年をすぎようとする息子の質問に答えて。大文字と小文字の違いは何だろう。当たり前すぎで答えが見つからないかもしれない。大文字は四角くて、小文字は上や下に出っ張っているということだ。古来ギリシャヨーロッパ語圏では大文字だけが使われていた。羊皮紙という羊の皮に書いたので非常に貴重なものだったから金持ちが大切に紙面いっぱいにぎっしり書いた。それで大文字は紙面いっぱいきりきりに書く。それが大文字だった。そして、みんなが勉強するようになって、もっと早く字を書いて見たいという要求が出てきたために、小文字が生まれた。そこでいろいろな工夫がある。大文字の特色を活かしながら、人目でそのアルファベットを見分けられる工夫。それは0を中心に右左に出っ張りを作って単語ひとつを塊としてみたときに、遠くから見ても、それがどの単語であるか視覚的にぱっと分かる工夫である。その後もっと速く書きたかったから、筆記体が生まれた。先の割れたペンを使って力の入れ具合も見栄えのよさにつながって装飾的な美しさが文字に現われた。ただ癖があるので、読みづらいから、思慮浅い人には受け容れられなかったため、現在では文部省の方々もブロック体を推奨しているようだ。小文字一つひとつをつなげるにしても、何パターン化の規則があって、それが自然に書ける様になればしめたものである。文字の始筆と終筆が上上のとき。上下のとき、下下のとき、下上のとき。次に来るのが文字のピッチだ。形の母体である0を同じリズムで書く。次の文字への繫ぎをリズミカルにする。それが速く書くコツである。単語の中、文章の中で、上下の出っ張りを形成する縦線の角度をそろえるというのも、美しさの、しいては速く書ける速度の追求から生まれる。後は慣れと少々の努力で美しい文章が書ける。健闘を祈る。

年賀状 2008.1.1

あけましておめでとうの写真は年末に池の周りで撮った。長女も長男も、お母さんの身長を越してしまった。本年も、よろしくお願いします。皆さんにとってよき年となりますように。

スペイン語 2008.1.23

もくろんでいた訳ではないのですが、スペイン語を勉強しています。息子の英語の習得が物凄く芳しくなかったので、私も、その苦労を味わってみたら得て勝手な言い様をしないかなあとも思いました。できる人間の指導は腹も立とうと思ったからです。さて、どちらが先に話せるようになるでしょうか。私の町の労働者にはスペイン語を話す人が多くいるようで、産婦人科にいた人も、英語を話さないので困った感じがありました。第二外国語にはいいかなあと思っていました。ひょんなことから楽しそうな講座が市の企画であったので申し込みました。なんとも、動詞の変化が半端じゃなくって十九パターンの時制があるようです。主人が第二外国語でフランス語を取っていたのでちょっと様子が似ていて話していると面白いですよ。名詞は言うに及ばず冠詞も、形容詞も、女性形と男性形、複数形と単数形の区別が合って、母国語の人々でも実際はきちんと使っていないようですから、山は高そうです。

長男のいない豆まき 2008.2.3

1日早い豆まきをした。今年は長男のいない豆まきの一年目となった。先に豆と飴は送っておいた。我が家流の豆まきはチョコやあたりめ、飴にチューイングガムといろだくさんで、その上ばあちゃんの作ったくじまである。中身はポチ銭や、といっても侮れない、今年はワンランクアップで2千円が二口もあった。伊達ではないのが手伝いごとの書いた包み紙でくるんであるから、さてたいへん。玄関の掃除、仏様への毎日のお参り、エトセトラ。一喜一憂しながらワイワイと拾う。年の數+位置の豆を二重のわしにくるんで、それぞれが体をなでながら願い事を言う。それを角の交差点においてくる。勿論振り返ってはいけない。今年も女の子たちの仕事となった。1日繰り上げたので尾頭付きのヒイラギのいわしを玄関にさすのを忘れた。あしたしよう。彼は寮でするのであろうか。報告が楽しみだ。

超すごしもやけ 2208.2.9

次女のしもやけがすごすぎて皮膚科でビタミンを処方して貰ったものの治らず。仕方がないので熱した針で刺しては血を出している。塗り薬も試してみてはマッサージする。それでも、試験前なのにトーシューズが痛いので困っている。このバレー団では彼女たちの支部だけでしもやけの生徒がみられるらしい。どんな田舎なのでしょうね。年がくれば治るというものの、いたいけである。

日本語指導法講座 2008.2.23.24

二日間にわたって、90分授業6コマで研修があった。どうしても出られなかったひとコマがあって残念であったが、有意義なものであった。文化庁地域日本語支援事業人材育成研修の短期の講座で、外国人の研修生や家庭人、子供に日本語を指導する人を教育しているAJALTという1970年からの団体の3教師のお話を聞いた。虎ノ門からみえたとか。過去に3000人の外国人生徒を教え、今年10箇所で講演をするという。メモを取る手に英語が混ざる。二ヶ国語目を学び始めた私が、その模作の中でポイントをつかんでいった。例えば、命の危険を知らせることばを一番に教える。から始まり、地域に於ける電車などの乗り方というactivity情報が次に来る。リソース型(実際に使う)を中心においている。相手のレベルは二の次で相手の必要をmotivation中心に教えてゆくという。聞かれたことはレベル的に難しくても後回しにしない。不安感をぬぐうのが最大の親切なのだと言う。ストラテジー(過去の学習方法の当人への影響)、運用力と能力の違いをふまえて、それらの具体的な実践を見せてもらった。Gameを通してActionし、jokeを加える。日本人特有の親切すぎる文法説明は習得者に混乱をきたす。という。明るく学ぶ、反応に対してfeed-back戻る。聞いて分かる日本語なら大丈夫ですという。flex.fazzyで大丈夫。can-doを感じることが達成感を産む、とか。交流、協働が大切だと説く。ホームページでのリソース型生活日本語のページは圧巻であった。日本での生活のシュミレーションで、そのときにいるであろう単語を前もって羅列してあり、日本の社会文化情報が載っている。実際にとても役に立つであろうと思われる。必要以上に生徒の母国語を使わないのも重要だそうだ。Gestureや、eye-contactこそ必要のようだ。となると、参加者の大半を占めるシルバー世代はよき教師となりうるであろうと、思った。その方々の生き生きとしたエネルギーを目の当たりにして、つくづく、日本人は教えるのが大好きなんだなあと思った。おもへらく言えば、私の協会へのリクエストとして、日本人の子供達を対象に外国の人が日本にきてどんな苦労をしたかというのを話す機会をもって欲しいと思う。その現場を知っている存在がAJALTである。異文化理解に一役買って欲しいものだと希求する。それが真の国際交流であり、平和への理解につながると思うのは私だけではないと思う。外国人意識を理解というものに変えて交流し、平和を喚起したい。切に切に願う。最後になりましたが、三人の先生方どうもありがとうございました。

ラサール母の会に寄せて 2007.4.14.

宗教心というものがこれからは大切だと思う。何教でもよいが、人として心のあることが大切だと私は思う。苦しい時の砦となると思う。私はキリスト教の女子校を出ているので、男女共学の大切さを振り返って思う。しかし、気兼ねなく青春を送るという意味で、それぞれの世界のその面白さがあると確信する。男子校生でも女性に惑わされない人物になってもらいたいとの不安があるのも母としてはぬぐえないが。さて、ラ・サールに入学できたそもそもは、学校説明会で伺った一言に尽きる。「我が校の生徒を教える塾はありません。」私の望んでいた言葉の到来であった。不可能な塞に挑むように息子は志望校を変更した。主人の開くレタックスを裏から透かし見ると三行。合格の文章は二行の予告だったのでへたり込んだ。あんなに頑張ったのに。その三十分後に自転車で学校に向かい、息子の飛び上がる窓辺を見る。寮生活十日がたった。ただ今四月半ば。自然の家での二泊三日の山登りをしているはずだ。「野球部に入ると言っていたけど、サッカー部にした。」そんな短い電話が一度かかってきたのみ。楽しいと推測するしかない。母として、寂しいというよりも、勉強についていっているだろうか。友達とうまくやっているだろうか・・・という心配がある。しかし、入学式のホセ校長のお話で、お任せすれば大丈夫な学校であると心が感じたので、後は本人が素直に心を開くことだと思っている。最愛なる息子へ。入学のための努力と協力は家族みんなが惜しまなかったから、これからは自分で責任を持って開拓していってほしい。母親から着実に卒業していってもらいたい。そして、諸先生方、先輩方、クラスメート、ルームメートのみなさん、言いたいことの半分もうまく言えないで言いそびれる我が子ですが、遊びにクラブに勉強にご指導よろしくお願いします。それから、寮の先生や母代わりになってくださる鹿児島のお母さまがた、たくさん食べてたくさん汚すと思いますが、六年間よろしくお願いします。最後になりましたが、息子はいろんな連絡を入れてくれないと思いますから、母の会の皆さん、何か息子に関する情報がありましたら教えてください。

外国人による日本語弁論大会を聞いて、 2007.5.25.

日本語を大切にお話をしている姿を拝見して、日本語はなんて美しいのだろうと嬉しく思いました。特にカナダに移住されて大阪に勉強にみえているテンチンチィンさんの話しようには聞く手に涙があふれるような感性があふふれていて、私は言葉を書き起こしたのであります。外国人による日本語弁論大会は私が小学生だった頃に記憶がはじまります。バンクラヂッシュのボシュミットボロアさんという男の人が日本での忙しい様を横断歩道のわたり方で表現されました。それが子供心にとても印象的で、今年もこの弁論大会があるのを知ってビデオに撮っておいたのが今回の感動につながりました。大正解でした。もうあれから20年以上も経っているのに、外国人の人々の真摯な態度は相変わらずで日本でノンノンと暮らしている私たちを反省させるに足る、とてもすがすがしいものばかりでした。さて、カナダのテンチンチィンさんの話しを引用しましょう。心が悲しいとき、雨の空を見て空が泣いていると思うでしょう。でも、幸せであれば雨は心を潤おす水の贈り物と感じるでしょう。心が孤独の中に閉じこもっている時、灰色の空は息苦しくさせるような曇りぞらに見えるでしょう。でも、心に希望があり夢を追っているとき、それは日の出前の期待に満ちた空に見えるでしょう。このフレーズを聞いた時私は洗っていたお皿を落とすくらいに涙があふれるような感動がありました。何気ない叙情的な彼女の心の優しさが、日本には無い大切なものに思えました。それは40才をこえた私にとっても大切な成長の時間でした。まだこの企画が存在したことを感謝します。それで、彼女にお願いがあるのですが、私は英語でこの文章が書きたいのですが、英文でどう表現したものでしょうか。よろしかったら英文を下さい。というのは、もしかしたらよく似た表現を英文で聞いた記憶があるのです。何かの引用でしたら、その旨を教えてください。何はともあれ、この文章を話すテンチンチィンさんの話しように説得力を感じているのは間違いありません。日本語ではその人となりという言葉がありますが、本当に感動しました。ではNHKの担当者の方からテンチンチィンさんに連絡してくださるのを楽しみに待っています。

父の日に 2007.6

こまごまと物や心をくれるお母さんにはありがとうはあったりまえのことだから、催促もされよう。けれど、何も言わない父の日に私は思う。お父さん、ありがとう。おっ様、ありがとう。おしっこをして、南無阿弥陀仏とこともなげにいってしまうおっ様。それが私のお父さん。ありがとう。私はおっ様に生んでもらって生きています。ありがとう。本当にありがとう。

平和 2007.5

車を運転する人の笑っていること、アアこの平和身振り手振りなんかがあるときには後ろに人がいるかもと探したり同乗者が見えないときには、思い出し笑いをしているのかもと推測したり音楽が良いのか、ラジオが良いのか。それとも、とすれ違いざまの一瞬で考える。笑っていることのこの平和。前から思っていたのです。むっつりと難しい顔をして運転をしている人を見て、何事だろう。つまんない事でもあるのかなあと。なんで笑えないのだろうかと勝手に思ったりもした。そっか一人なんだと分かった。私はどんな顔をして運転しているのかとそれからは気になり始めた。実を言うともっと前の私の親友がすれ違う時にお先にと手をあげたときから本当は気にしていたかもしれない。どんな運転をするかということを。すれ違う時にちょこっと頭を下げたり、手で合図なんかするとゴキゲンな気分になる。只それだけの時間の、たったそれだけの空間の。さりとて侮れない大切な何かを感じるとき。それは、日本の平和のバロメーターだと気づいた。あっちとこっちの個室が無言のテレパシーで行き交って、車という無生物が人間の性格の一部となってコミュニケーションをとる。日本は平和なんだ。ありがとう

部屋の辺りを見回すと、とっても面白いさまざまなイベントが資料となって残っている。このホームページを正月以外に書き換えなくなって久しいというのに実は見ていて下さっていたという方にお会いした。申し訳ないので、ここにアップしてなかったさまざまを連ねてみよう。

愛知子供大学

ここ最近になって万博以降だと思うが、愛知子供大学という行事が愛知県で行われている。これに何度か参加した。実に面白いさまざまなことが、子供相手に行われていて、例えば、県の美術館の、オペラのバックステージを見せてもらうツアーだとか、フィルハ−モニーのボディパーカッションを体験したり、墨江でアニメ作品を作ってみたり、送迎に付き合うのも楽しい行事が目白押しであった。只、人気のあるものは抽選なので、参加出来ないものも多かった。しかし、後半の行事になると無断欠席なのか、熱心に参加しない当選者がいるようで、定員に満たない出席者の数。物凄くもったいないことである。見えない相手を前にして、頭にくる位だ。

楽しい.忙しい。 2007.12.2

勝手に忙しいのである。因みに今日のこなした行程は、7:45お宮掃除  三部屋の掃除機かけと、10畳の枯葉集め。娘一人が付き添いしてくれたので助かった。8:15子ども会の古紙回収  車だし 続くことも会の役員決めは欠席9:30子供と一緒にバイオリンの稽古  久しぶりに言ったらクリスマスコンサートが企画されているということで急遽帰宅後一人ひとりに特訓をする。本番は1週間後。10:30帰宅昼食の用意   ピアノの練習に耳を傾けている。1:30 まとめると4時間くらいバイオリンの音取り途中借りてきたバイオリンケースをワックスがけする。勿論ご主人様の鞄も息子の楽器入れもする。一人は隣のうちに遊びに行ったので残る一人と格闘。4:30 自分の勉強6:30 主人がいないので早めの夕食.デミグラスソースのオムライス。   因みにワールドカップ実況放送的に現場報告をすると、出来あがって暖かいものを食べてもらうのに急いで呼びに走らせる。呼びにいって帰ってきた子供はもう喜んでほおばっている。二度炊きしたケチャップご飯の上にチーズのとろけるオムレツを乗せて切れ込みを入れる。その割れた上にデミグラスソースをかけて完成したオムライスなのだ。私も子供たちのわくわくする意気込みを感じてわくわっくした瞬間である。急な子供のリクエストで作ったから、ここ3時間くらいはどう算段するかで頭の中はめくりめくっていた。ご飯の中には別にいためたみじん切りのたまねぎと、小さく切った鶏肉のゆったりといためたものが混ぜてあるので肉も野菜も入っている。と悦に入っていた。そこに現われるなり、気持ちの悪いものは食べられないという一言で白ご飯のリクエストが入り、はいという流れに。どんなに手配してもこればかりは分かって貰えない。とんだ段取り破壊である。次のために豆の焚いたものと、大根の煮たものがあったのでそれでいいですかとお伺いしたものの、いいということなのでそれなりの手配をする。している間にも汚いともいわれたような気がする。私にはその言葉が理解できない。子供たちがどんな顔をしていたのか怖かった。調理人としての全てが終わってあちらから回ってきた皿から一口食べる。冷めてしまった自分のものになったオムライスをこともなげにそそくさと食べる。おいしいねという言葉を頭のすみにおしやって頷くことも出来ず、小間使いの私はみんなのご馳走様のすぐ後に馳走様をして、お皿を洗うために立ち上がったのであった。合わせてその間、話をきいて頷かなくてはいけなかったのである。賑々しいテレビがこらえていた涙の感情をなぎ倒してくれていたものの、とても辛い時間であった。よくがんばった。いいぞ日本。7:45子供の今日干したクリスマス用の人形の洋服を一緒に作る。   裁縫はにがての下の子になんとか家庭科を好きになってもらおうとズボンと、スモックを作る。袖にはフリルをつけ、襟もズボンと共布にして。途中8:45子供会の役員の方が書類を持って見えたのでお話をする。11:00おやすみなさいの時に給食当番のスモックのアイロンがけをするのを思いだした娘。さて作業だ。ポケットが壊れている。繕い終わってパソコンに向かう現在に至る。それそろ12:15だ。12:35ご主人様のお帰りのようだ。入浴後寝ようと思いお燗をつけ本文を推敲し電源を切る。1:40

反省。本当は上記のものに仕事があるのにやっていないのを追記&懺悔します。

あわせもってある 2007.11.23.

なんだろ。人間というものは一人でいろんなものを併せ持っているね。それで、敬愛したものの、どこかで違うところもあって、そのやりようが今の言葉でいうと微妙なんだと思う。大きなものを抱えている人物の、そのバランスをどうとるかというのが、知りたいし、学びたい。バレイの師匠のその女性社会を操る魅力と、その割り切りよう。そして、家庭人としての配慮などなと。

大きな作文 2007

健康に対するものと、受験に対するものを書いたので読んでみたい方はおっしゃってください。

長女の手芸 2007.12

去年度は器楽部だった長女が、今年は手芸部に入って、以前から培ってきたちまちま能力を発揮するようになった。刺し子のふきんを作ってくれたのを皮切りに、クロスステッチを駆使した額を作ったのに自身を得て、編物でキィチイちゃんを作ったり、服のようなものを壁掛けにしたり、クリスマスにはパッチワークでオーナメントキッドをイヴに何とか間に合ってこしらえたりした。私も、いろんなキッドを買ってきては作って貰おうかなあと思っている。

今年の作品 2007.11

恒例の市民祭には早口言葉をテーマにした作品を作った。あと、遊びでワイヤーワークを飾ってみた。それから、見えないものの、光を当てると読めるサインペンで言葉の意味や発音を表記してみた。

何でアコをするようになったかを書きましょう。 (2003.12.15)

私は寺の長女でした。檀家総代をしていた尾上さん(今は88歳)が、当時中部界の第一のアコ奏者でした。その孫弟子にあたるのが今日本一のアコ奏者である小林さん、芸名コパさんです。尾上さんは寺の行事のときなどに演奏をしたり、彼の母校でもある小学校に弾きにきてくれたりしていました。地蔵盆には彼の会社にアコ就職をしている門前に住んでいた木全さんがまだ学生時代で出し物の映画の前に一曲弾いてくれていました。そういえは家の中からよくアコ音が聞こえていました。私の周りではアコはずっとそばにありました。少女時代私はピアノをしていました。今思うとものすごくいい先生についていたのに、あまり練習をしませんでした。テニスに興味が転向してやめていました。でも、京都にいた大学時代に、教育学部のピアノ個室で暇な時間を過ごせることがわかって、一曲弾けるようになるくらいはとショパンを練習していました。あんまり通うので、部外者禁止の張り紙が出るようになったほどでした。下宿にはピアノがありませんからジレンマでした。それで持ち運びのできるバイオリンを結婚の前に買いました。それも1曲弾けるようになろうとしたら、いい音が出るまでが大変だという事がわかりました。それで自分に持ち運びができて演奏しながら歌も歌えるアコを買おうと考えました。パソコン生活が板についてホームページを開設したので、何気なくお稽古場や楽器を検索していたら以外や以外近場にあるじゃないですか。横で見ていた息子がやるというので買いました。それがまた縁あってホーナーの47鍵の2切り替え72ベース。いい音で大当たり。ママは息子に王道を譲り彼が中部アコに加盟し、あの尾上さんの孫弟子牧野先生の元に、月に一回通っています。このペースだと無理なくやってきまして、かれこれ2年。演奏会も3回出ました。先生とのはじめての協奏で、連弾もいいものだと思って、ママも中古エクセルシア911を買ったのですが、これはおおはずれ。治しなおし、ひそかに練習をするようになっています。貴重な楽器屋さんも近くに健在だったり、今年は中部圏で、アコのコンサートがたくさんあったりと、琢斗の周りでどんどんアコが急成長しています。あと20年後には大きなイベントもあるようですし、ゆっくりと楽しくずっとやっていけたらなあと思っています。http://bird.zero.ad.jp/oikeshodo/index.htmの日記のところの2003三月に琢斗との写真が載せてあります。新春には尾上さんの写真があります。見てやってください。

作文 十年後の琢斗へ (2003.11.13)

西春町が10年後に開けるタイムカプセルに入れる手紙を募集していた。出しそびれてしまったが、ここに書き置く。わが子琢斗へお前はやさしい子だからきっと苦しいこともあろうけれど必ずやずっと幸せでいるはずだ大池に生まれたのだからね。私はちょっと胸の痛いときがあるけれど10年後の君にきっと笑顔で会えるだろうと願う。

なゆた6才 (2003.11)

娘が、作ってやった低めの鏡の前でこしかけて髪を梳かしている。むこうをのぞくようにして、上目づかいに。明日の髪型を決めている。今朝は、「結んで」と後ろを見せたあなたが、明日からは自分でへたくそに結んで出かけるのだ。頼もしいけれど、ちょっと淋しいお母さんの気持ち。

もうすぐ結婚十執念(2003.2月吉日)

 琢斗が9歳になるのだから私たちも10年でしょう。スイートテンでも買ってもらうかと思っていた矢先に婚約指輪のつめのかかっているとこが取れていたので直してもらうことにしました。普段にも使うのならいいよと買ってもらったものですから痛んで当然です。隣りのつめも曲がってしまったのでそれも直してもらいました。するとどうでしょうか。見違えるばかりに綺麗になって、ショウウィンドウの指輪なんて見劣りするばかり。買う気もうせてお店を出ました。買ってもらった時のことを思い出して、一人幸せになった私でした。まだ本当はキャッツアイに未練があるのですが、、、

友引の車買い(2003.2.8)

 お日柄のいい日だと知ったのは大懸神社で結婚式を見たからだった。その帰り道に車屋さんに寄って気になる車をちょっと見るつもりだった。はいったら思った車がない。違う系列会社だった ので、まあ似たような車を見せてもらうこととなった。本当はその隣りの店に入るべきだった。ところが夕方に車の下取りをみにきた12時間後には車を契約していた。電光石火の早業とはこのことか。その後、会社からなしのつぶてだったのでいいのかなぁと思っていたら、あれから売れて売れて仕方なかったという。この不景気に大池さんは友を引いたのか?

充実した一日(2002.11.30)

今日は表立った仕事のない年に数日しかない日である。

だからいそがしかった。お使いもしながら遊んだ。

ゆっくり起きて、とおもったら庭のおじさんが見えていたので急いでお茶を出し、急なお客さんのために仏間を掃除して、それから子供を土曜学級に送っていく。その教室の合間に待望の12インチのスモールパソコンをもらってきて、近くの中学で先先代の作品の写真取りをして。いちど家に戻って庭のおじさんにお礼を言って。お迎えの脚でクリスマスディスプレーコンテストに一宮の138タワーまで行く。ランチは車の中で急いで買ったたこ焼き。そこで二時間で大きなクリスマスツリーの飾り付けをする。時間がないので手分けをする。ららるはひもに自家製の銀のボールを結びつける。たくとはこれまた作った紙製のろうそくを両脇に立てて木までの小道を作る。芝生に割り箸を刺すのがポイントだ。地面を使った飾り付けは結構観客の好感を呼んでいた。今年は新しい木を使うようで、私たちの予想としては小ぶりに仕上がったけれども、締まった飾り付けになって満足なできばえ。みんなへのご褒美は赤いラムネの乾杯だ。プシューとあの音をさせて今までを振り返る。3年目の我が家の年中行事。去年は2位、おととしは3位だから今年は優勝をねらっている。投票で順位が決まるのでよかったら皆さん、投票しにお出かけください。

かわいそうに御客さんがあるので子供たちは遊ぶこともできずそそくさと帰宅。落ち着いてお茶をしたら私は又すぐに子供の絵画教室の送迎。プラバンを作る。余り楽しそうなので教室から帰ろうとしないなゆたに、先生が一枚持たせてくれたので、又家に帰って絵を描いて持っていくことにする。お迎えの寄り道で教科書展を文化会館に見に行く。帰宅した夕食の後、見ないでたまってしまっていた子供逹のビデオを見る。一緒にバレーを躍る。傍らでお父さんはパソコンを立ち上げる。

いい一日であった。たくさんのことができた。ありがとう。

それにしても、のんびりとした休日を一度でいいからとって見たい。時間を気にせずに公園でバトミントンなんかをして、ご飯も外で済ませて遊べたらいいな。子供に言われながら実は自分がそう思っている。

私たちのホームページ(2002.11.30)

今日はしらふです。せっかく家のホームページを紹介してくださると言うので、見てもらうもんでしょうかとおもって作文します。

長男の楽しい趣味を見つけられたのもありがたいことだと思っています。それでこうして新しい輪ができたことをうれしく思います。音楽をしている人に悪い人はいないと思います。ふと気づいたのですが、アコーディオンという楽器は酔っ払いの音楽を作るのだと思いました。悪い意味ではなくって、鍵盤を押し間違えたように音を飾ってその陶酔に遊ぶところからそう感じました。だからたぶん歴史的にその音楽はどこかしら苦しいところのある人物が心のよりどころとして追い求めるのかなあと思います。だから私も共感するのかもしれません。人生まだまだの私ですが、私なりの気苦労はあります。それを励ますかのような楽しい部分を記録した家族の日記のようなページです。

それをふまえて私たちのホームページをみていただけたらうれしく思います。

琢斗のこぶ(2002.11.28)
琢斗が頭にこぶを作ってないている。誰に当たることもできない。もう寝るという。今日は遊びに行くのだったのにだめだとわかってぽたぽたとないている。悔しくてまた「頭がいたい」と泣いている。 そのうちに言わなくても覚えるだろうけれど、前を向いて歩きなさいよ。電信柱に頭をぶつけるよりも、道路標識の柱にぶつけるほうが難しいと思うのに、やってのけた君こぶは左側だから右を見ていたのだろうけれどそこは壁。何が気になっていたの。そのうちに覚えるだろうけれど前を見て進まなくてはいけないのだよ。

2001.11.28
頭が馬鹿になった時代だから分かる文字を書いてくれたまえ。それともわかる人に感じてもらえるという宮廷文化がいいのならそんな人たちとお付き合いをするべきなのかね。

 9.11の後に
子を思う心が世界を救うのだと思わなかね。アメリカ君。

母を思う日に
人のくれたお菓子のああおいしい親のくれたおにぎりのああおいしい。持たせてくれたお菓子のなんと励みになることか食べると内側から出る力は、なんだろう 嫁に出てから親のありがたかったことを思う。何でしてもらえたのかと思う。この親不孝者の威張っていた私に。

頭の小さな手術をしました
 そのー、自分が手術をするとなると、何か残るものを作っておこうとあくせく動く、この不思議* **何度か遺言のようなものを書いたことが有った様な気がする。この頃は誰に知らせてもらうかというリストを作っていたような気がする。今度携帯の無料時間が残っていたなら遠くの友に電話をしたいと思っている。

親と歩く子供の
親と歩く子供のなんとおおらかなことか。よそ見をしたり壁をつついたり。ゆらゆらとついてゆく。そのさまのなんと幸せなことか。手をつながなくってもつながっている、心遊びまでできるその余裕。これっぽっちの心配もない。ああそうだったなあと、思い出す。

木工作製

<自分の作ったおもちゃで遊ぶ子どもを見ていると>

このところ木工作りに凝っている。初めは額作りの一環としてこれはいいと思って手を染めかけた。

子どものおもちゃも作れることになった。3種類くらいできたところで、琢斗に遊ばせてみた。

自分の作ったおもちゃで遊ぶ子どもを見るのはなんと楽しいことか。

黙ってもくもくと触っている。積んだり並べたり、大人の思いのほかのことをしている。次はどんなものを作って与えてやろうかという気持ちになる。お雛さまや五月人形を作ってやったらお嫁に持っていくかしらと思いをはせる。

昔、実家のそばのおじさんが仕事でビーンとやっていたのを後ろから見ていたのを思い出した。同じ事をやっているようだ。

お盆です

この家にはお客様がくる。魂のすんでいる家らしい。その人に遭いに見えるようだ。それはお盆のとき、正月のとき、そして淋しいときかもしれない。

いつもお盆になると来てくださる人に今年はこんなことをお話した。

成人の子を持つその夫婦は慕わしい人たちであった。そして私は自分のことを話しつつ、その人たちの娘さんに伝えたく思った。

結婚してから父親に感謝するようになったこと。それは、あくまでも中道を行った誰からも慕われる父のことだ。

家族としては少々不甲斐ないと思ったこともあった父で、子供のころは、好きであったけれども、有難いとは思わなかった。でも、結婚してからこうして育ててもらったことをとても感謝していると、そして、話をしたいとも思うし、相談事もしたいと思った。と話した。

この場を借りていいます。

お父さん有難う

お盆休み

このお盆はずっと家にいた。

こんなことは珍しい。

毎日公園に連れて行ってやれた。一日目は中央公園で全前日に作ったペットボトルボートを浮かしに行った。その後タクトはモトクロスのように、根っ子の出ている木の下を自転車で走り回って大汗をかき、ららるはぴょんと事も無げに玉にまたがって上手にスロープを下った。どうやら彼女は運動神経がいいらしい。なゆたはもっぱらブランコだ。お茶を飲んで、家に帰ると私が車を洗う手伝いをしてもらう。すぐに水遊びに突入だ。水鉄砲とシャボン玉。ららるのつくったシャボンをたくとがジェット噴射で狙う。すぐに三人がびしょぬれ。お風呂、お昼寝、lビデオ。そんな日は夕方TVを見たいと言い出す子は一人もいなかった。楽しい会話がテレビを阻害していた。

次の日は猿公園にそれぞれが自電車で出かけた。私は駐車場の除草剤の散布をする。用水に水がたくさん流れているので水を汲みに行かないだけ樂にできる。その日は終戦記念日ということもあって、蛍の墓というビデオを見る。その次の日は魔女の宅急便。次の日はトトロ。こんなお盆休みがいい。

二回目の若狹

この夏は二度海にいけた。一日目は太平洋側の阿久比というところに日帰り。楽しかったのだが、水かきれいでなかったので、次の機会には伊勢の海にも行ってみようかと思っていたのだが、若狹の高浜にした。

一日目は雨になった。ずっと降っていなかったのに、雷とドジャぶり。バスに乗っている内にやむかなあと思っていたのにぜんぜん。着いたときに何とか小雨で、とりあえず着替えて雨間を狙って海に向かった。やはり海は、美しかった。太平洋側よりずっと向こうまで水が清んでいた。魚もいっぱいいて、水が冷たかった。こんなに水温が違うとは思わなかった。

しかし,ひと泳ぎしたらものすごいゴロゴロが聞こえてきて、向こうの島の上は暗闇、稲妻さえ光っている。ものずごい物がくる気配に、急いで宿に帰ることにした。

小学校一年の息子が、回りくねった帰り道を覚えていたのも頼もしかった。

それから一雨の間、普段はみたこともないような時間帯にテレビを見てみんなで寝転んだ。

雨雲がいってしまってから、花火とビールを買出しに行く探検に出かけて夕食。

子供たちが小さいから夕暮れ時から花火に出かけた。もちろん一番乗りだった。

海ならではの打ち上げ花火が中心のメニュウだ。最初は浜辺に指す棒花火で、その次は堤防。歩くと岩の隙間から、虫が這い出ては逃げる。ぎょっとする。

全部で500円の花火だったけれど、とても盛り上がった。くるくる回るUFOみたいな光を放ちながらあがってゆくものが最高だった。<15メートル以上は慣れてください。>とかいてあるのが読めるようになった子供たちはお父さんがどこで火をつけるのか決めるのにワクワクだった。私たちの座っているほうに上がってきたときにはあせった。

そうこうしているうちに日が沈んで、最後の手持ち花火になった。10色変わるという。海に向かってお父さんが火をかざす。その一本は水に映ると余計光ってきれいだと息子が言う。本当だ。もっと水のほうに向けた。ますます美しい。思いもかけない効果だ。すると、昼間に教えてもらったさんばそうという子魚が群れで寄ってきたので、漁火の漁はこんなものかと思ってみた。実感した。私は独身時代に海に行って花火をするという機会がなかったからとても新鮮な夜であった。

二日目はとてもいい天気だった。たくとは何かというと砂遊びばかり。最後のほうで浅瀬で何も持たずに泳ぐところを見せてくれたものの、すぐに砂風呂を作り出す。ららるが浮き輪の中で、めだかのように、ついついと進んでゆくのに驚かされた。早い早い。なゆたは浅瀬で浮き輪につかまって空を見上げながら何度もくるくるしてニコニコと笑った。

ららるがあまり速く泳げるのでお父さんとずっと向こうの浮島まで泳いでいった。

湾内の入り江にもお父さんと二人で泳いでいった。したが岩場になっているので、サンダルを履いて泳がないと危ない。

そこは是非というので私もはじめて浮き輪を借りて泳いだ。水族館の中で泳いでいるようだった。ずっと見ていたかった。タクトを誘ったが、怖いといって泣き出しそうになるのであきらめた。みたらぜったいかんどうしたのに、、、

そこで、ボートにも乗せてもらえた。

海の達人が隣のパラソルに陣取った。なんたってパラソルの骨にウエストポーチを引っ掛けて、パラソルも、海水を入れた重石にさしていたりしてたから。どこかと違っていた。たもも長いの短いの、子供も水槽を持ってきていた。

その人がとりたてのうにを食べさせてくれた。海の岩陰でしましまの魚がつついていたものがうにだった。その人はタモの後ろでその黒い塊を割った。塩水で砂を落とした。うにの味だった。たくさんの新しい体験のできた1泊であった。

ウィルスにやられて、、、

それはトロイの木馬だった。

Pcを初期化するのに90分かかった。

バックアップを取ってなかった。

もう大変な騒ぎさ。

それが子供たちのコンサートをしたルクセンブルグのメール友達に飛んだようであせった。

あちらはヴァケーション中で電話も通じないらしい。ほうほうの態で、うつっていない事がわかってほっとする。

 

琢斗の2000年をふりかえって。

 今年の夏、琢斗は1ミリでも短い丸がりを園で競っていた。相手もヴェーリーショートをめざしていたらしい。昨年はあれほど坊主頭を嫌っていたのに今年はどうしたことか。彼曰く、髪をそっていくとみんなが笑ってくいれるからいい。という。みんなの笑顔のために自分のボーズを決める6才の男の子のなんと頼もしいことか。

 こんなことも言った。「失敗って楽しいよ。」「またやれるからね。」だからみんな失敗すると笑うのかなと私はふと思った。年長さんになっても勇敢にズボンを泥しっくいで固めて帰ってくるのだ。笑って転げまわり、土がついても払うことをしないのは我が子だけのような気がする。

 

[琢斗の疑問]

おとうさんはお乳がないのにチチといって、お母さんはハハハと笑わないのにハハというのはどうしてなんだろうね―――。       H.12.11.25

 

ららるの2000年

 秋頃から友達の家に行くようになった。家に上がるときに靴をきちんと並べているらしい。外ずらがいいのかな。友達意識が生まれてきました。「スカートをはいていく!」と気張る朝のお着替えに、ほとほとお母さんは困っています。パパの言うことなら聞くので、いてくれる日にはバトンタッチをしています。

 

[ららるの叫び]

朝、ふとんをはぐお母さんに寒いという娘。お母さんも寒いのよというと、「お母さんは寒くない!と大声でどなっていた。

 

 

なゆたの2000年

 お姉ちゃんやお兄ちゃんが友達のうちに行くことを察すると、機転の聞く彼女は言います。「お姉ちゃんと一緒がいい。」そして、お姉ちゃんのそばを離れません。自分でお姉ちゃんの真似をして、そのうちのお母さんの所に言って気後れすることもなく言います。「ともチャンのお家に言っていいですか。」自分でちゃんと許可をもらってくる。それでもう何度その家に遊びに行かせてもらっていることか。

 赤ちゃんの頃、もう寝たかなと子供の寝室をのぞいた時、戸の音を聞いた瞬間に布団の中にもぐりこんで寝たふりをしていた彼女。上の二人には見られないすばしこさ。生きて行く力を身につけていて、その上愛らしく笑いを誘うのは三人目の特質でしょうか。

 

オセロ大会出場(12月22日)

 大口町西児童センターにてオセロ大会が開かれた。琢斗(年長児)出場。小学1年生の部に入れてもらう。4回戦まで進み、最後に4点差で惜敗。準優勝となる。初めての賞状に喜ぶ。

 幼児は参加できないのを頼んで一年生の部に出場した琢斗。知らない仲間にまざって最初は1人で「ケンケンパ」と遊んでいましたが、トーナメントのくじを引いて、列になって会場に入ったらもう友達になっていました。

 1回戦、2回戦は楽勝。相手はルールもおぼつかない一年生でした。3回戦は自身のあった女の子。琢斗に大負けをしてとうとう泣きべそをかいて白だまを数えていました。4回戦はとうとう決勝戦。相手はやはり強そうです。

 試合が始まると審判の先生が「イヤー。いい戦いだ。」と腕を組んでいます。その場を離れず、動きません。琢斗ががんばっている様子が背中に感じられます。実は私はあまり息子に肩入れしてはいけないと、あえて5年生の女の子と練習試合をしていました。そして、とうとう最終手が打ち終わったようです。

 ひと目では白黒どちらが勝ったか分りません。数える相手の男の子も真剣です。そして炊くとは4手負けてしまいました。来年も来たいと言っていました。

 初めての表彰式。いい返事でした。初めて手にした厚紙に彼は角を床に打ち付けて楽しんでいました。もちろん、くるくる巻いて慈しんでいました。(賞状はそうゆう風に扱うのではないよ。)といいたかったのですが、よしました。

 子供の大会で教えられたこと。それは負けても帰る子がいなかったこと。

 負けた子もみんなで表彰式に参加してオレンジジュースをもらいました。今、大人の大会は負けたら、きっと帰っていますよね。子供の式の中にそんな大切なものを思い返しました。みんなで一つのことをするというのはそうゆうことなのだと忘れていました。

 

琢斗がサンリュウシの手術をした 

今日のおしゃべりはなかなかいい気分転換になりました。

琢斗の手術を経験して母は強くならなくてはいけないと思いました。ましてや三人がそれぞれに病気や怪我をするのだから三倍強くならなくてはいけないと実感しました。

その日は精神的に私のほうがフラフラで帰ってきました。

三人ママとしてこれからもいろいろお話しましょう。

                                 10月17日

 

ジャズダンスをならわせてみようかと...

 

愛子さんに        2000.10.24の出来事

メールありがとう。

主人と話す時間が取れなかったのでワープロの練習がてら打ちました。

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今日はJAZZ DANCEに子供たちを連れて行きました。小学校から中学生という枠のクラスです。琢斗とは雰囲気を見ただけで「僕はやらないよ。」と宣言していました。見るだけのつもりで出かけたのですが、いつのまにか女の子二人は先生の「ワン、ツー、スリー」の掛け声に導かれてみんなの輪の中に引き込まれたようです。横で手をつないでまねをしようとしていました。靴下でのウォームアップはゆかがすべって思うように動けません。なゆたはそれでいやになってしまったようでした。バレーシューズを持っていけばよかったです。実際にやるとは思わなかったのです。けれどやらせてもらって子供達それぞれの気持ちもよくわかりました。

なゆたは踊りが好きで、家にいると一人ででも運動会の歌を歌って踊りだすので、これはいいぞと連れて行ったのですが、やはり小学校から始めるのが普通らしいので三才というのには無理があるようでした。最初のヒールアップはしたもののその後は指をくわえて立ち尽くすばかり。それに引き換えてららるは妹の世話を見なくちゃいけないと思ったのかいろいろとなゆたに話し掛けていてくれました。それでなゆたを膝に呼び寄せてららるだけの様子を見ることにしました。補助の先生がららるに付いて教えてくれました。上の4年生くらいのお姉さんも近くに集まって来て名前を聞いたりしてくれていたようです。ターンの練習やステップを教えてもらったようです。

来月の発表会の練習に入ったのでららるは練習から抜けましたが、みんなもうだいぶんの曲が頭に入っているようで、それを見てららるはいろいろと質問してきました。外はもう暗くて窓ガラスが鏡になっていました。でもみんな楽しく踊っていましたし先生もいい雰囲気を作っていました。

帰ってきてからあわててご飯を作るお母さんを尻目におばあちゃんに三人が報告をしていました。琢斗はよく見ていたのでららるが反対の足を上げていたといいました。なゆたはこれだけやった、と、かかとを上げて見せていました。ららるは一人でもやるといっています。私はどう三人を連れていこうかと少々思案中です。それを琢斗に聞きますと「僕お母さんを手伝おうか」といってくれました。やさしい気持ちが生まれてきているようです。ららるはお教室に入って、なゆたは連れて行って見ているうちにやりだすかもしれません。琢斗はおばあちゃんと遊ぶ日にしてもいいかと思います。何とかなるでしょう。

寝る前にららるが今日はこうゆうのを教えてもらったとやりました。あっていました。何かをやらせて上げたい気分です。:::::

という日でした。

愛子さんはこどものことが大好きのようですが、どんなことに注意をして何を習わせてあげたいと思っていますか。

お友達にあてたメールから  1017

 

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→その後そこの発表会に行きました。いい雰囲気を見せようと思ったのです。ところが、曲が悪かった。ゲゲゲの喜太郎と妖怪ベラでした。見るなり怪訝な顔をして、変える頃にはすっかりお稽古をする気をなくしたようでした。服もぞろぞろでしたから気に入らなかったようです。残念。

                  

初めての海


やっと連れて行ってやる事ができました。曇っていたのであなどっていました。

大喜びの三人とパパ。ずー−と砂遊びをしていました。

ものすごい日焼けに1ヶ月苦しみました。日焼けとは知らなかったです。

子供たちは保育園で毎日水遊びをしていたので免疫があったのでよかったのですが、、、

大人は水疱瘡のように、ズルズル剥けました。皮膚科に通いました。

子供の日に思うこと

親が、こんな教師はいやだとか、こんな先生がいいといったところで探せない。それなら自分が理想の教師になってみて、なんていわれたところでなれっこない。人に心と知性の、その上に生活の教育を依存する親の態度が今の社会の中で一番問題なんではないかと思う。

最近起きている少年の事件にその例が見られる。

親との話し合いを避けるというのもそのような理由に思われる。

家庭内の教育にこまったら、教師に相談したのが昔からのスタイルなのではないでしょうか。

教師を少しの間していて、子供を持っている主婦として思うのですが、

教師は物知りではなくて、人のお手本のよう、姿を見せる人、というのを要求するのは難しいことです。私が、教師に求めるものは、子供の周りにいる大人の一番近くにいる立場として、一番大切なのは、将来何になりたいかという認識を、小さいうちから何度となく与えてあげること。そのきっかけを設けること、そして、反面教師とも言える事ですが、自分が過去にどうゆう失敗をして、どうしていればよかったと思うかということを話してあげること。

要するに、自分をさらけ出すことのできる人物という必要性があると思います。

例えば、子供を産むのは女の人しかできなくって、お産は若いうちのがどうしたって楽で、とても痛い。でも、赤ちゃんのお尻やほっぺは本当に噛んでみるとやわらかく気持ちがいい。というようなことを話す大人が世間にいなくなってしまったのが、未来を作っていく上で今の日本に欠けていると思う。子供はなんと言ったって個人の資産である。国の財産である。そんな子供を育てていく責任が子供のうちからそれぞれの子供に与えられているという認識を知らない間に与えるということが今日の社会ではなされていないように思われる。

最近の3人兄弟の傾向は、わざわざ考えたわけではないと思うがそこにあると思う。

子供の日に子供に与えるのはそんなメッセージである。

5月5日junior@yominet.ne.jpにおくったもの