1.みつるの話



 春になれば庭にある桜が満開となり、この窓から手が届きそうなところにまでほころぶ。
 今年もまた花を愛でようと窓を開けると、眼下にマト聖さんがいた。
「……」
 声をかけそびれるのも、毎年の事。
「たーだいまー」
 と、そのとき後ろから隣室の真野が俺の背中に覆いかぶさってきた。
「まった、朝帰りか」
 俺の叱責なんぞ軽く聞き流し、真野はその桜に手を伸ばそうと、更に身を乗り出して、俺に体重を乗せる。
 たばこと酒と安物の女の香水の匂いが一瞬立ち上ったものの、それがすぐに満開の桜の匂いに変わった。
「よう」
 大の男が二人、二階から身を乗り出しているのに気づかないわけがなく、階下のマト聖さんが声をかけてきた。二人無意識に「どうも」と声が揃う。
「朝飯食うか?作るぞ」
「あ、俺いらないっす」
「俺食べてきた」
「そっか」
 そうしてマト聖さんはまた桜をうれしそうに見上げた。
「……なぁ」
 相変わらず俺におぶさったまま、真野が言う。
「マト聖さんって、いくつ?」
「さあ?」
「……再婚、しないのかなぁ」
 俺は、答えなかった。


 マト聖さんはこの「さくらの荘」の管理人で、1階の部屋に住んでいる。「さくらの荘」は六畳一間、風呂は共同、築30年にもなるアパートだ。場所柄か、代々住民は近くの美大の学生や卒業生で、俺も浪人留年しつつもそこの学生だ。現代の「ラ・リュシュ」とでも言えば聞こえがいいが、残念ながら俺も真野もその名を轟かす芸術家にはなれそうにもない。真野なんて、学費の足しに始めた水商売の方が本業になってきて、今ではすっかり夜のお兄さんだ。だからこうして今も朝帰り。
 現在、アパートには俺たちを入れて五人が住んでいる。一番の古株のミスズさん、ミスズさんのその名前が本名なのか雅号なのかはよく知らない。美大の卒業生らしいけれど、何年上なのかも知らないし、いまだに何をしている人か知らない。いつも着物だから書道か俳人なんじゃないかと真野は言う。知らないと言っても疎遠というわけではなく。いつも物静かなミスズさんは俺たちの話を聞くばかりで自分の話をしない、というだけだ。
 その隣に住むのはミワさん。この人ならば「ラ・リュシュ」を冠してもおかしくない。知る人ぞ知る報道カメラマン、何故か絵画学科を出ているのに趣味のカメラの方にいったという経歴の持ち主。最近は海外に取材旅行でほとんど「さくらの荘」には帰ってこない。それでもマト聖さんは部屋をあけておくよと言って、家賃もとらずにミワさんの部屋を空けている。ミワさんも、今の働きならこんなアパートじゃなくてもっといいとこ住めるだろうに、いつまでもここが帰るところだという。
 真野の事は話した通り、こいつが最後に授業に出たのはいつだったろう?たまたま同期でたまたま同じアパートなだけで、今となっては一週間も会わないのもざらだけど、真野のことはなんとなく憎めない。
 そして、管理人のマト聖さん。これまた本名は知らない、ただみんな代々そう呼ぶからマト聖さん。いつからここにいるのかも知らない。マト聖さんも卒業生で俺たちの先輩にあたるという。昔は賞を取るような才能ある画家だったというけれど、それも噂だけで確かめた事はない。マト聖さんはいつも笑顔でそこにいて、俺たちの顔を見ると「メシ食うか?」と聞く。実際マト聖さんの料理はすごくうまくて、気がつけば「三食付のアパート」なんて待遇。
 俺たちみんなマト聖さんに胃袋握られているんだよ、とミスズさんは笑って言っていたけれど、ここにいるのはマト聖さんの料理だけじゃないって、わかっているからそうですね、とみんなで笑えたっけ。
 それがこの「さくらの荘」。
 名前のとおり、庭に大きな桜の木が一本、今それが満開に咲き誇る。マト聖さんはその下で静かに微笑みながらたたずんでいる。
 真野が、じゃーちょっと寝るわと俺の敷きっぱなしだった布団にもぐりこむ。「おいお前自分の部屋に戻れよ」と言うと、こないだベッドの上でビールぶちまけたまんまで、と眠りの入り口でつぶやいてすぐに寝入ってしまった。
 あきらめて俺はまた桜を眺めた。ふわり、と風にのって一枚の桜の花びらが部屋に入ってきた。
 毎年この時期、俺はあの日見た光景を夢のように思い出す。


 あれはまだ浪人生の頃だった。ちょうどこの桜が満開の時期に、俺は今と同じようにこの部屋から桜を眺めていた。
 その頃俺はまだこの「さくらの荘」の住人ではなかった。浪人中の身で、高校のときからの先輩の部屋に遊びに来ていたのだ。
 眼下には今と同じ様にマト聖さんがいた。そしてその奥さんの彩音さん。
 彩音さんがまだ生きていた頃だ。
 マト聖さんとは何度か顔を合わせた事があるけれど、彩音さんを見るのはその日が初めてだった。
 彩音さんは薄い単の着物姿。ずっと病で寝たきりだとは聞いていたけれど、寝床からのそのままの姿はどこかなまめかしかった。
 それで、マト聖さんが彩音さんを抱きかかえていた。彩音さんはマト聖さんの首にからめていた腕を伸ばして桜にさわろうとする。しろくてほそい腕。マト聖さんは笑いながら一生懸命、奥さんを高く高く掲げようとするのだけれど、届かない。
 届かないけれど笑っていた、ふたりで。
 風が吹いて桜が舞った、二人の笑い声に踊らされるように。
 さらさらとふたりは笑っていた。さらさらと春の日の日差しはそこに落ちていた。


 きれいだった。とてもとてもきれいだった。


 のちにその先輩が卒業して、俺が跡を継ぐようにその部屋の住人になった時、彩音さんはもう亡くなっていた。
 俺の引っ越しの日も桜は今と同じように満開で、そしてマト聖さんは桜の木の下で、同じように笑ってくれたけれど。
 もう、彩音さんはいなかった。


「……再婚、しないのかなぁ」
 真野はあの日の、あのきれいなものを見ていないから、そんな事が言えるんだ。
 マト聖さんは今でも深く深く、あの桜をほしがっていた人を、愛している。



2.ミワさんの話