「うっ……あッ」
 ひどくうなされていた。さそりは飛び上がるように起きあがると、浴衣の合わせをかきむしらんばかりにうなされ悶えているらっこの肩をゆさぶり、叫んだ。
「らっこ!」
 やがてきつく閉じられた目があく。ぼんやりと焦点の合わない目がさそりに合うまで時間がかかった。
「らっこ……大丈夫か?」
「……」
「うなされてたぜ、どうした」
「夢……?」
「夢?」
 らっこは急に立ち上がった、さそりが押し退けられる。
「水、浴びてきます」
「おい!もう秋口だ、風邪引くぞ!いいから待っていろ!」
 さそりに強く引き寄せられ、再び布団の上に寝かされる。さそりは部屋を飛び出した。
 らっこはため息をついた。目に映る天井にやっと夢だったのだと知る。
 暗い海、溺れる自分、叫ぶこともできない、いつも暖かだった母の身体は、海よりも冷たかった。あの時、自分の涙はすべて海に吸い込まれた。
 さそりがたらいに水を汲んで戻ってきた。らっこの汗でじっとりと濡れた浴衣を剥ぐと、堅く絞った手ぬぐいで、らっこの汗を拭いてやった。
「自分でしますよ」
「いいから」
 何かをせずにはいられなかったのだ。いや、他に何をしてやれば良いのかわからないのだ。らっこのうなされていた夢が、らっこが言葉少なにしか話さない過去の事に関することはわかっていた。こんな風にうなされるのは初めてではない、その度にらっこは何でもないと言うだけで。いっそ涙でも見せていれば、慰めようもあるのに、何かをしてやれるのに。らっこは泣かない。泣けなないのだ。だから、こんな事しかしてやれない。
 忘れてしまえ、と言いたかった。けれどもそれすらもらっこが微かに持つ記憶だ。自分にはない母の記憶、自分にはない過去。だから……。
「なあ……」
 下帯一つでされるがままになっているらっこ。自分より薄いくせに肩幅はらっこの方が広い。背も少しだけらっこの方が高い。胸や腕についている傷跡。そのひとつひとつの謂われを、さそりはすべて覚えていた。大概の傷の謂われは、自分の持つ傷と同じだ。
「なぁ……」
 もう、思い出すな。
 忘れちゃいけねぇけど、そんな辛いことは思い出さなくたっていいんだ。俺たちには、一緒に思い出せる事がたくさんあるじゃないか。お前を苦しめる事より、俺とのことでも、思い出せばいいじゃないか。
 そう思ってはいても、言葉にはできなかった。
 話しかけても何も続けないさそりに、らっこは身体を起こしてその言葉の続きを待った。さそりはらっこの背を思い切り叩いた。
「痛っ、なんですか!」
「いやあ、お前もたくましくなったと思ってさあ。お前、あんなにひょろひょろしてたのにな!」
「子供扱いはやめてください」
「ほら、この傷覚えているか?唐人屋敷のあのでっかい犬にさぁ」
 さそりはらっこの脇腹の傷をなでた。
「何言ってるんですか、あのときはあなたがあの犬に仕掛け花火をけしかるなんてバカな事をするから私まで巻き添えくったんですよ」
 すらすらと思い出す。
「それからこの傷、隣町の生意気な貧乏旗本の餓鬼が、親父の刀を振り回して」
「それだって、あなたが売られた喧嘩を買ったからでしょう?」
 すらすらと思い出す。
 そうだ、思い出すのは俺たちの事でいいじゃないか。さそりはなんだか楽しくなってきた。らっこもまた、呆れつつも思い出した記憶のおかしさに、まんざらでもない顔をしていた。
「それからこの傷は、裏山の崖からお前が落ち……」
「落ちそうになった私をあなたが掴まえてくれた。でもあなたが掴んだ枝が二人分には細かった。二人で落ちたところに、嵐で倒れた木の切り口が。あなたはここに傷を作った」
 らっこはさそりを押し倒し、浴衣の裾をめくった。腿の付け根に、薄くはなったがひきつれたような傷跡があった。
「なっ」
 急にとらされたあまりな体勢にさそりは絶句した。
「あの時……」
 らっこはその傷跡に触れた。
「あなたは、最後まで手を離さなかった」
 らっこはさそりの手を取り、肩につくその時の自分の傷跡に触れさせた。
「あなたが、わたしを助けてくれた」
「助けてねぇよ、お前だってあのとき怪我をしたじゃねえか」
 さそりは目を細めて、らっこの傷跡をなでた。
「いつだって、助けてくれました。今も…」
 暗い夢から助けてくれたのだと。
 しっかりと手を握って離さずに。
 あの時も、あの時も、今も。一緒に思い出す記憶が、つらい記憶に少しずつ降り積もるように、今もなお膿んだ傷を優しく覆うように。そう、思い出させてくれた。
「……もう、昔話は終わりにしようぜ」
 ふったのは自分なのに、真剣なまなざしのらっこに照れたさそりはそう言った。
 らっこはさそりのその傷に唇で触れた。身体をこわばらせるさそりに、らっこは笑った。
「わかりました」
「……じゃあ、寝るか。まだ朝には早い」
「いえ、夜はまだ長いですから」
「……………そうか」
 思い出す記憶がある。そして今もまた、いつかは思い出す記憶になるのだろうか。そうして今を積み重ねていくように、らっこはさそりの身体にもある無数の傷に触れていく。ひとつひとつにある謂れを語る事はない。ただ今を印すように、赤い痕を代わりにつけていった。






【解説】
 らぶらぶ節18禁強化シリーズそのに(ええ?)。男と鼠に二言はないと昔から言います。だから皆でおひつ空にして待ち構えような!(退却路埋めつつ)(笑)

 らっこにはおぼろげに、自分を抱いて母親が入水したときの記憶を覚えているのです。
 

2005.08.01


既刊。