鍼灸治療院 森の気 千葉県南房総市千倉町川戸238 0470−44ー2999 morinoki.rose@orange.zero.jp 診療時間 9:00〜17:00 休診 日曜 祭日 日曜祭日、時間外の診察は事前にご相談ください。 「地図」 |
■4つの丁寧
■鍼施術について
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※ 遠方への往診、送迎はお断りする場合がございます。 ※ 施術を受けられた患者さまには自宅での灸を無料でご指導いたします。お気軽にご相談ください。 【施術内容について】 当院の鍼灸治療は時間制ではありません。患者さんの状況、状態などにより様々です。それによる料 金の変更などはございません。目安は問診を含めてお一人様一時間です。 |
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「鍼灸師への道は綱渡りだった」 他のサイトを見ると「中国○○大学研修」「広東省××院にて○○先生に師事」「ニューヨーク○○協会××課程終了」などよく目にする。何か物々しい印象を受ける事もあるが、蓋を開けてみれば、中国の大学で一日だけ講義を聞いた。広東省の著名な中医師と一度食事をした。ニューヨークで3日研修を受けた。書こうと思えばなんとでも書ける。しかし、肝心なのはどんな研修を受けたかではなく、鍼灸師の人となりではないのでしょうか。 私自信華々しい経歴がないので負け惜しみのようになってしまいましたが、ようするに、どこでだれに何を習ったかではなく、一本の鍼が効くか、効かないかが肝心なのでしょう。そこで、そんな経歴を書きつづるのではなく、 「私が奇跡的に鍼灸師になったいきさつをここに書いてみたいと思います」 鍼灸師になるにはまず第一に鍼灸の専門学校へ入学、ここで三年間学び学校での卒業試験をクリアする。そしてその後に行われる国家試験に合格して晴れて鍼灸師となる。鍼灸師と書きましたが、厳密には鍼師と灸師は別な資格となります。いまでこそ緩和規制で鍼灸学校は増えましたが、当時はそれこそ狭き門でした。 「鍼灸師になろう」そう思いたちとにかく資料を集めてみる。するとどこもかしこも受験の日まであとわずか、すでに受験の受け付けを締め切った学校もあった。学校へのアクセスなども考慮して、選び出したのが関東鍼灸専門学校だった。受験の日までは残りわずか、ここから始めた受験勉強。科目は国語と日本史、それに作文だった。ともに苦手な、というより元々得意な科目など無いといった方が適切かもしれない。 そして受験当日は雪。学校へ着くころには運動靴の中はずぶ濡れ、冷たさで足はしびれていた。そんな中での受験、準備期間の少なさもあるのだが、元々の学力の低さを思い知る事に。そして面接会場へと入る、テーブルの上に置かれたある物に目がとまり愕然。そこには塗箸と豆、それを使って手先の器用さを見るのは明らかであった。元々箸の使い方はうまい方ではない、面接官からの質問は耳に入らず上の空、この箸の事ばかりが気になっていた。「はい、では、その箸で豆を隣の皿へ移してください」。結果は3つ、あまりにも無様であった。面接後、一次試験合格者には二次面接の日程を知らせる旨を言い渡された。が、この時点で私には何の縁も無い事だと思っていた。 奥さんが「どうだった」と聞く前に、こちらから「落ちた」と断言した。 合否の事など心の隅にも無いまま時が過ぎた。ある日の事、外出する時に留守電をセットした、「なぜ」というわけでもないのだがセットした。普段は留守電をセットして出かける事など無いのだが。これが第一の奇跡。 その日の帰宅は夜の10時過ぎ、留守電には何軒かのメッセージが残されていた。「関東鍼灸と申します、明日二次面接にいらしていただきたくお電話しました」。しかし時間はすでに10時過ぎ、職員の方はすでにいないであろう。それでも、一応電話してみた、すると職員の方が電話に出る。入学してみてその後わかった事だが、職員が学校に10時まで残っているなどほとんどない事なのである。確かに面接うんぬんの時期であったにしろ、その時間に電話が通じた事が第二の奇跡。それ以前に、ボロボロの試験や面接の結果を考えると、二次面接にまで漕ぎつけた事がすでに奇跡であるのだが。 面接当日。職員の方に案内されて一室へ、中では当時の理事長が待ち受けていた。「座りなさい」。「・・・」何とも言えない沈黙、しばらくして理事長はこう切り出した「あんた、金(入学金など)は払えるのか」。「は?」って感じ、二次面接の第一声が「金払えるのか」には驚いた。続けて傍らにあった履歴書の束をバンバンと手でたたき第二声め「代わりはいくらでもいるんだ」「え?」耳を疑う。「成績悪いしな」それは言われるまでもなくわかっている事。「とりあえず、とってやるけどよ」「ありがとうございます」こう言うしかない。「あんたが最後の一人だ」。この年の入学者は50人、その50番目に滑り込みで入ったのだ。こちらもこれでほっとした、それから20分ほどは面接というよりは世間話が続いた。そして退室の直前理事長がこう言った「あんた、この商売(鍼灸師)合ってるよ」。 そして無事入学。理事長は我々の東洋哲学の授業を受け持った。面接の時と同じように講義の内容も驚愕の連続であった。が、しかし、理事長が教壇に立ったのはこれ一度だけ、以降はずっと休講が続いた。そして数ヵ月後、理事長の訃報が入る。「良くない」とは聞いていたが、まさか・・・。結局我々の世代が理事長の最後の講義を受ける事となり、それはたったの一時限だけであった。 元々この理事長は易経の世界で名を馳せた人であった。ある時理事長はこう思った『自分には東洋哲学の中の「医」の部分が欠けている』と。自ら鍼灸師の資格を取り、その後この鍼灸学校を設立したのである。その最後の最後の学生として取ったのがこのできそこないの私であった。生年月日か姓名か人相か、あるいは易に良い卦(占いの結果)が出たのか、今となっては知る由もない。ただ一つだけ言える事は、もし試験結果や面接の印象だけで合否が決められていたとしたら、今の私はなかったであろう。 あっという間の三年が過ぎ、卒業式の会場にはもちろん前理事長の姿はない。式は進み成績優秀者への表彰が始まる。「日本鍼灸師会賞 ××君」「千葉県鍼灸師会賞 ○○君」会場の誰もが納得する学生ばかりが並ぶ、そして最後の一人、なんと私の名前が。ざわめきまでは起こらなかったが、心の中で「なんであいつが」と思った人も少なくないはず。学校への入学も末席、卒業式での表彰も末席、どこまで行っても綱渡りの人生。この時いただいた副賞の血圧計は今でも治療室の隅に置かれている。治療の場面で自信を失いそうな時、あるいは迷いが生じた時など、思い出すのは理事長の言った「あんた、この商売(鍼灸師)合ってるよ」。 鍼灸師 三橋 浩明 48歳 ♂ |
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