ENGAGE<前編>
肌寒さに、目が覚めた夜明けだった。
一瞬、心臓が凍る。腕の中に、ビビがいない。
跳び起きて、姿を探す。
着替えてるんだろうか?でも寝室にはいない。
食事でも作ってるんだろうか?でも台所にはいない。
本でも読んでるんだろうか?でも居間にもいない。
──どこだ、ビビ。
着替えもせずに、外へ飛び出す。
まだ、朝霧の中で眠る村。村の入り口、通り、店、風車小屋。どこにもいない。
体が冷たい。いやな汗が出る。
──もし、あそこにもいなかったら。
不安に駆られながらたどり着いた墓地。
──…いた…。
驚いたように振り返るビビを、ぐいっと引き寄せて、抱き締める。
冷えきった服の下から、じんわり伝わってくる温もり。
幻でないことを確かめて、「おどかすなよ」とささやくと、
「うん、ごめんね」と、優しい声がつぶやいた。
その夜はいつもよりきつく抱き締めて眠ったけれど、
それからビビは、朝腕の中から抜け出して、いなくなるようになった。
そして今日も、目が覚めるとビビがいない。
広い寝台、軽い腕の中。ジタンがビビと暮らすようになってから経った時間はそう長いものではないのに、それらはもう慣れることの出来ないものになってしまった。
何でだよ、とジタンは枕の中で舌打ちする。また、ビビが抜け出す気配に気づけなかった。
起き上がって耳をすますと、いつものように台所で物音がする。
行ってみると、やはりビビが何食わぬ顔で朝食を作っていた。
最近、いつもこうだ。真っ青になって墓地へ駆けつけた日以来、ジタンが目覚めるころにはビビは必ず家へ戻って来ているのだけれど。
そっと近づいて、背を補うために椅子に乗っているビビの、小さな肩に腕を回す。
驚いたように振り返るビビ。その服は、朝露に湿って冷えていた。
「…また、墓地に行ってたのか」
「あ…うん」
「それなら起こしてくれってば」
「…ごめんなさい」
素直に謝られると、何も言えなくなる。謝ってほしい訳じゃ、ないのに。
『いつか来る日』の話をしているんだろう?先に『その日』を迎えた仲間たちと。
知っているから、何も言えない。平気そうに振る舞っていても、一生懸命恐怖を圧し殺しているのだろうビビを、追い詰めるだけのような気がして。
ただ、すまなそうに様子を伺うその瞳の辺りを軽くついばんで、「分かってるなら、いいよ」と、笑って見せる。
返ってきたビビのくすぐったそうな微笑みに、胸が騒ぐ。なんでそんな、静かに笑うんだ。抱き締めたくなって、でも、抱きつぶしてしまうのが怖くなる。
ゆっくりと、腕をほどく。
「手伝うよ」
「うん」
そう。何も悪いことなんかない。思っているのは、応えをくれない奴らより、自分に訴えてほしいとか。そんなかき消えそうな笑顔を、してほしくないとか。そんなこと。
ビビを悲しませるだけのわがままのようで、ジタンには言い出せない。
「おまたせ」
空になった点滴薬剤の瓶を手に、ミコトが客室から戻って来た。
「…あいつ、相変わらずなのか?」
椅子に掛けて、分厚い本のページをめくっていたジタンが、客室の方にあごをしゃくって尋ねる。
「ええ」
表情の薄いミコトではあるが、その声は固い。
「まるでブラン・バルにいたころみたいな顔をしているわ」
今ミコト宅の客室にいるのは、一人のジェノム。道具屋の手伝いをしていた者だ。
扉が閉まっていても中の様子は分かる。多分あのジェノムは虚ろな顔をして、人形のようにピクリともせず寝台に横になっているだろう。
10日前道具屋の黒魔道士が埋葬された。
それと同時にあのジェノムの時間も止まってしまったのだ。それ以来、話しかけても答えず、つついても揺すっても動かない。ただ、座り込んで静かに息をしているだけ。
「何とかいろいろ試してはいるけど…」
こん、と。薬剤の瓶を卓に置いてミコトが言う。
放っておくと食事も眠りもしない。仕方ないので今はミコトが薬で眠らせて、点滴を打って保たせている。しかし、それだけでは衰弱は防げない。
皆言っている。ともに暮らしていた黒魔道士に、心を持って行かれてしまったのだと。
「体まで持って行かせる気は、ないけどね」
素っ気なく言い放っているが、微かに語尾がかすれる。
「いらだってるな」
「…後追いされたら、迷惑だもの」
「素直に寂しすぎるからって言っとけよ」
ミコトがどんなに冷たく言い放っても、ジタンは見透かしたようにそんなことを言う。ミコトは諦めたように頷いた。
つくづく、やりにくい相手だ。そんな思いをありありと示した表情で、ジタンの向かいに腰を下ろすと、ミコトは話を本題に戻した。
「ダゲレオからの検索結果なら、まだ届いてないわ」
「そうか…」
落胆したように、ジタンの顔が曇った。
依頼していたのは、黒魔道士の延命の方法に関わる資料。黒魔道士の村では、ずっとミコトを中心として、黒魔道士の寿命を延ばす研究をしていた。イーファの樹から生還したジタンも、その研究に協力している。
「まだ依頼したばかりだもの、当たり前よ」
「…ああ、分かってる…この前言ってた薬のほうは?」
「実験にはまだかかるって言ったはずよ」
「…そうか」
つぶやいて、ジタンは再び視線を本に落とす。その本は、何度も読み返してとっくに頭に入っているはずの、『霧』についての研究書。ジタンがつま先でこつこつと床を打つ音を聞きながら、ミコトが怪訝そうに言った。
「いらだってるのは、あなたものようね。少し焦りすぎではないの?」
「これが焦らずにいられるもんかよ!」
半ば怒鳴るように答えてしまってから、ジタンはきまり悪げにぼそぼそと、続きをつぶやく。
「一刻も…早いほうが良いんだから」
今度はミコトが、そんな様子をたしなめるように言う。
「それにしても最近特に焦ってるわ。何かあったのね、ビビのことで」
途端に、『やりにくいのはお互い様だ』という目でジタンが軽く睨んだが、すぐ顔を本に戻して沈黙してしまう。
ミコトは今日の予定表を書きながら、そんな様子をちらりと見やる。
「今のところ体調に異変はないはずだけど…」
ビビを含め、黒魔道士達の定期検診を行っているのはミコトだ。まだ楽観的になれる数値を知っているだけに、あっさりと不安の核心部分を口にする。
対してジタンは、頷くこともせずに沈黙のみで肯定した。
「ビビは今日も、図書館にいるの?」
「ああ」
図書館というのは、アレクサンドリアから取り寄せた本や、インビンシブルやデザート・エンプレスにあったテラの書物などを収めた倉庫のことだ。始めそれらの資料はミコトの家に置いていたのだが、量が増えたので新しく建てたのである。
ビビは最近、そこに通い詰めているのだ。
「どうして一緒に行かないの?」
「…お前の手伝いして来てくれって言われた」
「あなたがそれで引き下がるなんて珍しいわね」
「……最近、二人きりになるのを避けられてる気がするんだよ」
「何故ビビが、あなたを避けるの?」
「さあな。…ただ最近毎朝、墓地に行ってるらしい」
右手を開いたり握ったりしながら、ジタンは言う。
「目が覚めると、いないんだ」
『墓地』。それを聞いてやっと、ミコトはこの男が焦っている理由を知る。
『いつか来る日』の存在を知った時に芽生えた恐れ。一度は押さえ込んだはずのそれが、ジタンの中で再び目を覚ましてしまったのか。
「いつごろから?」
「…道具屋の埋葬の、次の朝だったな…何か、あったのかもしれない」
「何か、ね」
客室を見やりながらいうミコトの表情が、ふっと変わった。
「あなたまさか、ビビが何を調べているのか知らないなんて、言わないわよね」
「延命の方法だろ?」
それを聞いてミコトは、額に手を当て、深いため息をつく。
「そういうこと…てっきり知っていて黙っているのだとばかり…」
頭を抱えるミコトの様子に、ジタンは急に不安になる。
「…どういうことだよ」
「……」
答えないままに、顔を伏せて考え込んでいるミコト。
「おい、何のことなん…」
ジタンの大声を片手を挙げて遮ると、ミコトは無表情に顔を上げた。
「ビビがあなたを避けてるの、多分…わたしのせいだわ」
その言葉に、ジタンの顔が険しくなる。ミコトは、そんなジタンの視線を受け止めながらも鋼鉄のように無表情を崩さなかったが、
「あの時、あなたは村の会議の方に行っていたのだったわね」
そう話し出した声は、いつも以上に固かった。
道具屋の埋葬の終わった後、ミコトがビビの採血をしていた時のこと。
その時にはもう、あの道具屋のジェノムは、ミコト宅の客室の住人となっていた。
「最低限の生命維持行動まで放棄するなんて、あんな悲しみ方間違ってるわよ」
食べることも眠ることもしないジェノムの事を、冷たく言い放つミコトに、
「見ているほうが、悲しくなるものね」
ビビはそう応えた。
ビビは、ジタンが見透かすようにではなく、ごく素直に『本当のところ』を汲み取ってしまう。そういうところがミコトにとって、ジタン以上にやりにくい相手だった。その素直さにつられまいとして、ついきつい語調で逃げてしまう。
だから、柔らかい声でこう言われたときは、問い詰められるよりひやりとした。
「…最近、なかなか検査の結果を教えてくれないね」
そう指摘したビビの口調は、異様なほど穏やかだった。
「忙しくて忘れてるだけよ」
嘘ではなかった。ただ、わずかずつだけれど負の方向に傾いて行く数字を、ビビの前で口にしたくなかったことも、事実だった。
突き放すように答えながらもビビの様子を伺ったが、帽子の影に隠れたその表情はミコトには読み取れなかった。ただビビが、
「そうか、そうだよね」
そう頷いただけの素直さを、信じるしかなかった。
しかし、採血が済んで帰るよう促そうとすると、ビビが何か言いた気に自分を見ているのに気がついた。その口が何度か、何かを言いかけて躊躇した。
いやな予感がした。何か、聞かない方がいいことを言われるような気がした。
そしてやがて、
「お願いがあるの」
と、思い切ったように切り出したビビは、その金の瞳で真っすぐミコトを見つめていた。
その色が、奇妙に暗い開き直りのようなものを含んでいる気がして、ミコトはギクリとした。
いつか、誰かが言い出すのではないかと危惧していたことを、ビビが言おうとしている。
そのことに思い当たったとき、思わず耳を覆いたくなった。必死に平静を装いながら、その予感が外れていることを祈った。
しかし。
「少なくなった霧を凝縮して、新しい黒魔道士を作りたいんだ」
居直ったように言うその言葉は、予感どおりのものだった。
何故、ビビが言い出すの。そう思うと、ミコトは衝撃を通り越して沸々と腹が立って来た。一番言い出しそうな相手であることは分かっていた。しかし一番言い出して欲しくない相手でもあった。
「どういうつもりで、そんなこと言うの」
思わず自分の持つ限り一番、冷たい声で言い放っていた。
新しい黒魔道士の製造。それはミコトも何度か、考えたことがある。でも、その度に嫌な考えが沸いて来て、切り捨てて来たことでもあった。何故なら。
「新しい黒魔道士を作って、仲間の数を増やして、村を継がせて、墓を守らせて、望みは次につないで…もしそんなつもりなら、絶対手伝わないわよ。だってそんなのまるで…」
諦めているようではないか。
いやだった。そんなのは絶対に。
新しい黒魔道士を作りながらでも、延命の研究はできる。しかし、諦められたら、もう延命の方法は見つからなくなってしまうような気がした。
だから、違う、そんなつもりじゃないと、否定して欲しかったのだ。
しかし、ビビは金の瞳をミコトから逸らし、沈黙した。別の意図など、ありようもないのだから。
その瞬間、ミコトの口から突き付けるような問があふれ出した。
「間に合わないと、思ってるんじゃないでしょうね」
「私達が信じられないとでも言うの」
「私達のやってることは気休めじゃないのよ」
ビビの優しさに付け込むような言葉を吐きながら、握り締めた指がしびれていた。目の奥が痛くなってくるのを感じながら、腹が立っているというより、懇願したい自分に気づいた。
嘘でも気休めでも、『やめる』と言って欲しかった。でも、それらの言葉をじっと受け止めたビビは、そらしていた瞳を真っすぐミコトに向けてこう言った。
「ごめんね」
ざあっと、胸の中が冷たくなった。
そんな、覚悟を決めたように言わないで。思いながら、低い声で言い放った。
「あなたが諦めたら、ジタンはどうなると思ってるの」
その瞬間。脅しかけるようなその言葉に、ビビがびくりと震えた。
ミコトはさらに畳み掛けるように、客室を指さして言う。
「生まれた黒魔道士達は、あなたの代わりにはならないわ。今おいて行かれたら、ジタンはあの子のようになるわよ。病的な位に彼はあなたを愛してるもの。あなたジタンの心を持って行くつもりなの」
言い終わった瞬間うつむいているビビに気が付いて、しまった言い過ぎだと思った。
でも、謝れなかった。
諦めて欲しくなかった。どうしても。
しかし、泣かせてしまったかもしれない。帽子に隠れて見えない表情は、ミコトには読むことができない。硬直してしまったミコトに、しばらくの沈黙の後、ビビは言った。
「…そうかも、しれないね」
優しく、静かな声だった。
それを聞いた瞬間力が抜けて、ミコトは椅子に座り込んだ。
しかしビビは、去り際にその金の瞳でまっすぐミコトを見つめて、
「でも、これはぼくだけの考えじゃないから、やっぱりやめるなんて言えないよ…ごめんね」
そう言った。
その後。この日の話題に全く触れようとしないビビに、謝るに謝れないままミコトは、日々に忙殺されていった。胸の中に、大きなしこりを残したまま。
機材さえそろえば、何とかなりそうだ。思いながら、ビビは図書館を後にした。
夕暮れの帰り道を辿りながら考える。ジタンが今自分が調べていることを知ったら、なんて言うだろう。
ミコトのように怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。もしかすると静かに笑って、許してくれるかもしれない。いや、ミコトに口止めした覚えもないから、とうに知っていて黙っていてくれているのかもしれないとさえ思う。
でも、やはりあの空色の瞳は、曇るのだろう。
今朝、何か言いたそうにしていた、あのときのように。
毎朝墓地に行っている自分に、何も言いたいことがない訳はない。それでも自分を気遣って、何も言わないでいてくれる。
そんなジタンに甘えていると、ビビは思う。
イーファの樹から生還して以来、毎晩ジタンはビビを抱き締めて眠る。それがすべて自分のためであることを、ビビは知っている。
次に眠ったら、永久に目が覚めないかもしれない。ビビが、そんな恐怖におびえていたからだ。それに気づいたジタンが、何かと理由をつけて、あるいはさりげなくそれを押し通すようになったのだ。
ジタンの腕の中で、ようやくビビは安心して眠れるようになった。
けれど。
『今おいていかれたら、ジタンはあの子のようになるわよ』
そんなことを、考えたことがないとは言わない。でも、本当だろうかと思った。ただジタンの優しさに甘えてばかりで、何もしてあげられない自分のために、そこまで悲しんでくれるだろうか。それどころか、隠し事をして心配をかけてばかりいるのに。
そんな自分がジタンの腕の中で幸せに浸っていることが、いやでいやで仕方なくて、墓地へ逃げ出して、弱音を吐いていた朝。真っ青になって迎えに来たジタンを見た瞬間、思ってしまった。ミコトの言ったことは本当かもしれない。
勘違いだよ。必死でそう否定しようとしたけれど、ジタンに抱き締められているうちに、強烈に怖くなってきた。
『あなたジタンの心を持って行くつもりなの』
そうだ。そんなこと、しちゃいけない。そんなことしたら、たくさんの人が悲しむから。なのに夜、ジタンが優しいと嬉しくて、ジタンの腕を拒めない。
そして朝になるとその幸せが、じわじわと怖くなってくる。
幸せであればあるほど、自分のことが嫌いになって。
ジタンが優しければ優しいほど、逃げ出したくなるのだ。
そんなことを考えながらたどり着いた家の扉の前で、ジタンがまだ帰って来ていなければいいと思った。帽子の影に隠れても、彼はビビの表情を読み取ってしまうから。
暗い顔をしている自分を、見せたくない。心配させたくないから。
そしてそれ以上に、暗い顔をしている理由を、知られたくないから。
扉の前で様子を伺ったが、中は静まり返っていた。
「まだ、帰って来てないんだ…」
ほっとして、中に入る。その瞬間、
「おかえり」
降って来た声に、ギクリとする。
「あ…ただいま…」
ジタンは、待ち構えるようにそこにいた。玄関の扉のすぐ横の壁に肩で寄り掛かって、帰って来たビビをじっと見つめている。
「びっくりした…静かだから、まだ帰って来てないのかと思っちゃった」
そう言いながら見上げるビビに、ジタンは静かに告げる。
「ミコトから、聞いたよ」
「……そう」
『何を』なんて惚ける方法を知らないビビは、思わずジタンから目をそらしてうつむいてしまう。
「ビビ」
降ってくる声に、びくりと震えるビビ。その様子に、ジタンはしゃがみこんでビビを覗き込むと、脅かさないようにゆっくりと言った。
「怒ってるわけじゃないんだ。少し、話をさせてくれ」
「……うん」
頷いたビビを、そっと抱き上げて出窓の枠に座らせると、ジタンはその前に立ってビビの手を取り、視線の高さを合わせる。
「延命の方法について調べてるんじゃ、なかったんだな」
その言葉に固くなるビビの肩を、宥めるようになでる。
「黒魔道士達だけで話し合って、随分前からちょっとずつ調べてたんだってな。武器屋の奴が言ってたよ」
ビビは俯いたまま頷く。
誰が言い出すともなしに、そんなことになったのだと、言っていた。延命の方法より、多分早く実現できるだろう。そんな考えを、皆ずっと心の中に隠し持っていたのだ。
それに対して、いろいろ言いたいことはあったが、問い詰めるような口調にならないよう、ジタンは精一杯落ち着いた声で問いかける。
「霧はいつか無くなるって、分かってても?」
「…いつか、霧なしでも作れるようにしようって、言ってたんだ」
いつもは柔らかく耳障りのよい響きの声が、今は押し潰したように小さい。
消え入りそうな声での答えを注意深く聞き取って、涙声になっていないかを確かめながら、次の質問を接ぐ。
「延命の方法が確立しない限り、生まれて来た奴らも短命なんだぞ?…それでもか?」
「…ジタンもミコト達も、一生懸命やってくれてるって、分かってたんだけど…」
ますますビビの声が小さくなる。
延命の方法を待っていたら、『間に合わない』かもしれないから。
「…オレらに悪い気がして、隠してたんだな?」
「…なんとなく、悲しませるような気がしたんだ」
『間に合わない』かもしれないなどと思っている事を言えば、傷つけるだろう。
ミコトに指摘されるまで、はっきり考えることを避けていたのだけれど、皆心のどこかで、そう思っていたのだ。
しかし、本格的に手をつけようとすると、黒魔道士達だけの知識ではどうにもならない部分が出て来た。相談する相手と言えば、ジェノム達しかいない。迷っている間に、道具屋が埋葬されることになって。
「仕方なくなって、ミコトに相談することにしたんだな」
頷くビビは、けして顔を上げようとしない。
しかし、帽子の影に隠れていても、ジタンにだけはビビがどんな表情をしているか分かる。青い顔をして、唇を小さく結んでいる。きれいな金の瞳も、柔らかい声も封じてしまっているビビ。問い詰めるつもりは無くとも、結局追い詰めるような形になってしまっていることに、胸が痛む。
それでもジタンには、言っておかなくてはならないことがあった。
「それからだよな、毎朝、墓地に行くようになったのは」
ぴく、とジタンの手の中で、ビビの手が震えた。窓枠の上のビビの体は既に、垂らした足をきゅっと閉じて気の毒な位小さくなっていたのに、すっかり竦んだように固くなってしまう。
そんな姿を見ていると、もういっそジタンの方が泣きたくなって来て、そっとビビの肩を抱き寄せて、その背をなでる。
「頼む、おびえないでくれ。おまえに一人で苦しんでいて欲しくないだけなんだ」
「……ごめんなさい」
「違うよ、謝って欲しいんじゃないんだよ」
ビビの瞳をのぞき込んで諭すように言う。
「隠し事してたことは、もういいんだ。おまえらがそこまで考えてやろうって決めたことなら、オレには反対できない」
「うん…ごめんね」
ほんの少しだけ、ほっとしたようにビビが答える。
「謝るなって。ミコトだって、本当はそう考えてるんだから」
「うん、分かってる…ミコトは、不器用だけど優しいもの」
「ああ。ただな、…延命の方法は見つからないだろうなんて思わないで欲しいんだ」
「……」
ビビの瞳がかすかに瞬く。
「結局何もかも、それさえ見つかれば丸く収まる話だろう?黒魔道士達の不安もなくなる。新しく生まれてくる奴らも、長く生きられる。道具屋のジェノムみたいな事になる奴も出なくなる。それに…」
ジタンがその手にすっぽり収まってしまうビビの手を、柔らかく握り締める。
「…おまえも、オレの心配しなくてよくなるんだ」
ビビが目を見開いて、初めて自分から、ジタンの顔を見つめた。
その胸の辺りを示して、ジタンは続ける。
「そういうことなんだろう、おまえのここに引っ掛かってるのは」
『あなたジタンの心を持って行くつもりなの』と言う、言葉なのだろう?
その言葉に、ビビの唇が何かを言いかけるが、何も言えずに止まってしまう。
「『いつか』が来た時に、オレがどんなふうに悲しむかなんてオレにも分からない。あのジェノムみたいにならないなんて、言えないよ。そもそもその『いつか』なんて来ないかもしれないんだから」
それでももし『いつか来る日』が来たなら、多分あのジェノムのようになるだろう。本当はそんなふうに思ってるなんて、もっと言えないけれど。ちらりとかすめた考えを振り払って、ジタンは見開いたままの瞳で自分を見つめ続けているビビを見つめ返す。
「『ビビはもっと自分の幸せを考えた方がいい』って、ミコトが言ってた」
自分を責めながら、ビビを心配していた彼女の言葉だ。
「おまえは優しすぎるよ。来るかどうかも分からない日のために、オレの心配なんてしなくていいんだよ」
話すうちに、見開いていたビビの瞳が瞬きとともに臥せられて行く。
泣いてしまうんじゃないかと心配になって、ジタンはビビの頬に触れた。
「ビビ?」
その時、ビビは不意に顔をあげ、笑った。
「うん、わかった。心配かけて、ごめんね」
明るい声で言ってから、ビビはジタンが青ざめていることに気づく。
「どうしたの、ジタン」
「ビビ、もしかして、まだ何か隠してるのか?」
「え…?」
「おまえ、…口だけで笑ってるぞ」
その瞬間、ビビの笑顔が凍りつく。
「…ビビ」
再び石のように凍りついてしまったビビに、恐る恐る声をかけると、その体が細かく震え出す。ジタンの手の中の小さな手が、固く固く、握り締められて。
「ビビ。何を、隠してる?」
その言葉に、ビビが凍りついた笑顔を張り付けたまま、震える声で応えた。
「ジタン、ボク、本当は、ジタンが思ってるほど、…優しくない、よ」
「ビ…」
ジタンが名を呼ぼうとした瞬間、小さな体が窓枠から滑り降りる。
「ビビっ」
その肩を捕まえようとしたジタンの腕が、空を切った。
次の瞬間には玄関の扉が叩き切るような音を立てる。
しばし、ジタンは呆然として、頭の中でその音を反芻する。やがて。
「…っきしょ…んでだよ…」
空っぽの腕の中に毒づくと、ジタンは己の頭を壁に打ち付けた。
日が落ちて、村の家々に明かりが灯る。
その中でただ一軒、明かりのつかないままの家の扉を開けて、288号は中をのぞき込んだ。
「何だ、いるんじゃないか」
「…ノックくらいしろよ」
のぞき込んだ顔をジロリと睨んだジタンは、玄関のわきにうずくまっていた。ビビに逃げられてから、追いかけることも出来ずにずっとそこで考え込んでいたのである。
月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中、じっと闇に沈んで。
「したよ。返事がないから入ったんだ」
「普通返事があってから入るもんだろ」
「へえ、そういうものなのか」
とぼけた風に首をひねる288号。
そののんきな様に、蹴り出したい気持ちを堪えながら、ジタンはうなるように言う。
「おまえと漫才する気分じゃない。出てけ」
「ビビ君なら、僕の家にいるよ」
突如切り出されても、ジタンは別に驚きもしなかった。そんなことだろうと思っていたからだ。ただ薄闇の中、かすかに目を光らせる。
「今日はうちに泊めようと思ってね。伝言を持ってきたんだ。『ごめんね、明日になったら帰るから』って」
「……そうか」
明日か、とジタンは呟く。帰って来たら、何と声をかけてやればよいのだろう。考え込もうとする所を、288号の声が遮った。
「僕は、しばらく帰すつもりはないけどね」
その言葉に、ジタンの目が剣呑に光る。
「どういう意味だ」
「どうもこうも、聞いた通りだよ。ビビ君からは『ジタンは何も悪くない』としか聞いてないけど、君にビビ君は預けられないと思ってね。気の毒で、見ていられないもの」
揶揄する訳でもなく、皮肉る訳でもなく、話しながら288号は首を振る。
「前さ、君に言ったよね『ビビ君を泣かせたら怒るよ』って。でも、あんな顔はもっと見たくなかったよ」
「……」
どんな顔だよ。無言でジタンが問う目から、ふいと視線を外して288号は答える。
「泣かないんだよ、彼。ずっと、泣くまいとしてるみたいだ」
それを聞いた瞬間思い浮かんだのは、さっきのビビの作り笑い。
泣かせてしまったかと思った瞬間も、何故かビビはけして泣かなかった。それどころか、あんな作り笑いで取り繕おうとして。いつの間に、あんな笑顔を覚えたのだろう。あの顔を見た瞬間、心臓を殴られたような気がした。無邪気だとばかり思っていたビビの中に、信じられないような暗闇を見つけてしまった気がして。
泣いてくれた方がましとも思えるような、まるで、泣くことを自分に禁じているような、笑顔だった。あれは多分。
「…あいつ…自分を、責めてるのか」
「そうかもしれない。とにかく、あんな顔させてるのは、君じゃないのかい」
「オレは、ただビビに笑っていて欲しかっただけだ!」
抱き締めた時の、灯るような金の瞳や、柔らかい頬の描くこぼれるような笑顔。いつもあんなふうに、無邪気に笑っていて欲しかっただけだ。できれば、この腕の中で。
「じゃあ、笑えない時はどうすればいいのさ?」
「……何の話だ」
「『いつか来る日』の話だよ。君、僕らが新しい黒魔道士を作ろうとしてること、今日まで知らなかったんだって?」
おまえだってそれを隠していた一人だろうに。ぬけぬけと言う様子に、こいついつの間にこんなに図太くなりやがったのかと、ジタンは苦々しく思う。
「何も聞いてなかったんじゃなかったのか」
「ミコト君に会ったんだ。随分落ち込んでて、やっとこれだけ聞き出した。大体、そこら辺の話なんだろ」
その目を少し伏せて、288号は続ける。
「『いつか来る日』に脅えているときに、笑えないよ。少なくとも、僕はね」
「まだ『いつか』は必ず来ると決まったわけじゃない」
苛立ちを隠しもしない様子で、うずくまったまま威嚇するように睨み上げる。
「分かってるよ。でも、延命の方法が絶対間に合うという保証はあるのかい?」
「間に合わせるさ」
「それは目標だよ。僕は実際的な確率の話をしてるんだ」
ジタンは、言葉に詰まる。これが延命の研究に携わっていない相手なら、絶対可能と言いはれるのだが。288号は、『実際的な確率』を目の当たりに知っている。
「『間に合わない』可能性は、消えないんだよ。現実からも、心の中からもね」
まるで他人事のように話しながらも、288号の目は幾度も瞬いた。
反論できないまま、苛立ったようにジタンが唸る。
「だからって諦めるのかよ」
その言葉に、一瞬288号の目が、その金の光を増す。
「怖いから諦めるんじゃないよ。諦めてないから怖いんだ」
ギクリとジタンが口をつぐんだ。
「だから僕らは、新しい黒魔道士を作ろうと思った。…例え、君らを傷つけることになってしまうとしても、そうせずには、いられなかったんだ。責めてくれてもかまわないけど、だからと言って、やめることもできない。そういう闇がね、あるんだよ。ここに」
言いながら、胸の当たりを示す。顔を上げると、288号はジタンを見つめて告げた。
「ビビ君が苦しんでいるのも、同じような闇のせいなんじゃないのかな」
闇。その言葉に、ビビとともに打ち倒したはずの敵を思い出す。あの闇が、再びビビの中に巣くっている?あの時克服したはずなのに。そのせいで、苦しんでる?
「…でも、苦しいんなら…言ってくれれば…」
「ビビ君の笑顔を望んでる、君がそれを言うのかい?」
辛辣な口調ではなかった。しかしその単純な指摘のような言葉は、正確に的を貫いた。
「ま、僕は別に君の言い分を聞きに来たわけじゃないからね。悪いけど、僕は君よりビビ君の方がかわいいんだ。いくら彼が君は悪くないって言っても、僕にはそう思えない。ビビ君はしばらく僕の家に泊めるよ。じゃあね」
「待てよ」
思わず288号のひじを掴んだ手が、ものすごい勢いで振りほどかれる。
「ビビ君に会わせる気ならないよ。自分の中に巣くってる闇を知ってる人じゃなきゃ、彼の気持ちは分からないからね」
そして288号は、ビビが出て行ったときと同じ音を立てて家を出て行った。
「あいつ…普段非力のふりしやがって…」
振りほどかれてしびれた指を動かしながら呟く。
心の中に、巣くう闇。『いつか来る日』に、脅える心から、生まれるもの。
もしかして、と思う。ビビが『いつか来る日』に脅えていると思ったとき、ジタンは『いつか来る日』の存在そのものを押し潰し、忘れようともがいた。もしかしてそれも、同じ闇のせいではないのか。
もしそうなら。
自分の中に根差していた闇を眺め直して、ジタンはぞっとする。どんなに振り払おうとしても、けして離れない焦り。これを忘れるために自分は、何をした?ビビの笑顔を望むことで、ビビを追い詰めてしまっていたのではないか。
そこまで考えて、はっと我に返る。
「こんなことしてる場合じゃないだろうが!」
ぐしゃっと力任せに己の髪をかき回すと、ジタンは立ち上がった。
NEXT
