夜が明ける前に<前編>
このくらいくらい闇の中で、
「かえってきて」といったあのこの影を追いかけて、
あの歌をひたすらたどってた。
最初はもっと死に物狂いだったような気がするんだけど、
なんだか疲れてきちまったみたいで。
「あきらめるきなんかねえぞ」って自分に言いきかせてるのに、
なんだか囁く奴がいる。
「ほんとうにおまえのかえりをのぞんでいるやつがいるのか?」
胸の中の記憶はほほ笑んでうなずいてくれるんだけど。
「そのきおくすら、つごうのいいまぼろしじゃないといえるのか?」
そんな風に言われたら、なんだか急にあの歌が遠くなってきた。
「あのこをしあわせにしてやれないかもしれないのに」
「まわりからしゅくふくされ」
「けんこうなこをえて」
「ともにとしをとっていく」
「そんなあたりまえのしあわせすら」
「『おまえ』はあたえられるのか?」
「そんなおまえを、まっているやつなどいるものか」
そう言われる度に今まですがってきた歌がかすれていく。
暗闇が、濃くなっていく。
待ってくれ。
決めたはずだ、あのこはオレがまもるって。
あのこは「かえってきて」といった、そうだろ?
でもこの暗闇の中じゃ、答えてくれる奴はいない。
どんなに叫んでも、自分の声さえ吸い込まれて消えちまう闇の中、
あの囁きだけはやけにはっきり聞こえてくる。
「おまえがたすかることにいみなんかあるもんか」
誰か、誰か。
この耳に聞こえるように答えてくれ。
この目に見えるように頷いてくれ。
あのこの歌を、見失いそうで…。
体が、冷たいような気がする。ような気がするだけだ。体の感覚はない。
何も、感じるべきものがないから。光がない。音がない。風がない。温度もない。誰もいない。
何か感じるべきものを、探せばいいのかもしれない。
そういう考えが、もう浮かばない。探す為の手足が、体が、ないのだから。
そう言えば、手足も体もないのに、何で温度や光や風を感じられると思ったんだろう?
体がない。体がないのに、心だけあってどうするんだろう?
この心も、ないのかもしれない。幻なのかもしれない。
聞こえていた歌も、囁く声も、反論する、自分の声さえも。
幻なんか、とどめておいても無駄だろう。
ぼんやりと、そんな事が思い浮かんだ瞬間だった。
その暗闇が、突き破られたのは。
「ジタン!」
はっきりと彼の名を呼んだその声に、耳がその能力を思い出した。引き続いて、突然視界に飛び込んだ姿に、目が、首に抱きついた重みに、触覚が。
思わず身じろいだ体が、全身に絡みついたツタの戒めを思い出し、ぎくりと冷たい汗を感じた。
けれど、抱きついた重みは、暖かかった。
全身でしがみつくそれに、苦笑まじりに声をかけた。
「……どうせならダガーに来て欲しかったんだけどなぁ、ビビ」
「ひどいや、みんなで頑張って捜し当てたのに」
そう言って、ビビはくすりと笑ってジタンから離れ、すとんと降り立つ。
「帰ってくるのがあんまり遅いから、迎えに来ちゃったよ」
「みんなってダガー達もか?」
「ううん、おねえちゃんはアレクサンドリアでやらなきゃいけないことが山積みだもの」
「…そっか…」
ため息をつきそうになった自分に気づいて、ジタンは落胆の気持ちをぐいっと飲み込んだ。
「ごめんね、みんなが来るまで我慢して。とりあえずツタは解くけど、ボク一人じゃここから出してあげられないんだ」
そう言いながら、ビビはジタンを搦め捕っているツタに、慣れない手つきで短剣を突き立て始める。
「いや、すまねえな…情けないことに途方に暮れてたとこだったんだ」
そう言いながら、ジタン自身も身動きして脱出を試み始めた。
しかし、何故かツタから引き抜こうとする手に、うまく力を込めることができない。
幾本かのツタが千切れ、右腕が緩んできた所で、ジタンが口を開いた。
「…なあ、オレ、どのくらいの間ここに閉じ込められてたんだ?」
「んっと…半年近くかなあ」
「そんなにか…オレよく生きてたなあ」
「うん…頑張ったからだよ、ジタンが」
ビビは嬉しそうにいったその言葉に、ジタンはあいまいな笑顔しか返せなかった。それに気づいて、ビビがツタにかけていた手を止める。
「…ジタン?」
「ん?」
「ここから出たくないの?」
ぎくりとする。
「え…いや、そんなことあるわけないだろ!」
あわてて否定して、力任せに右腕を引き抜きにかかったジタンを、ビビはのぞき込むようにして言った。
「ならどうして、そんな不安そうな顔するの?」
「…え…」
帽子の暗がりに包まれてビビの表情は見えない。しかし、その暗がりの中で灯るように光る金の瞳が、瞬きもせずジタンを見つめている。その瞳にたじろいで、おもわず口から出たのはごまかしだった。
「い、いや、ほら、こんなところに閉じ込められてたから、疲れててさ」
右手の絡まり具合を見るフリをしてビビから目をそらすと、
「あ、ごめん……そうだよね」
ビビはきゅ、と帽子をかぶり直し、固いツタの一つに短剣を当てる。
『そう、やっとここからでられるんだ、ふあんなことなんてあるもんか』
そう思い直そうとした瞬間、
『うそつき』
そんな言葉が脳裏にひらめいて、ジタンは愕然とした。一瞬遅れて浮かんだ否定の言葉を、片端から打ち殺すように、次の言葉が降ってくる。
『うそつき』
『うそつき』
『ふあんなくせにそれをひとにきづかれるのもこわいおおうそつき』
『あのこがむかえいれてくれるのかふあんなくせに』
『あのこをしあわせにするじしんもないく…』
「ジタン」
沈みかけた思考を破る声。ひやりと乾く汗の感触。認めたくないほど深く自分の中に染み付いていた不安に、ジタンは青醒める。
この、絡み付くような暗闇がいけないのだ。頭の中をもやもやと漂う不吉なものを追い払おうと、自由にならない体で小さく頭を振った。
だがビビは、そんなジタンにも気づかない様子で、短剣を扱う手元に注意を傾けていた。
「変なこと言っちゃって、ごめんね…一度不安になったことがあったから」
「……不安?」
ぽそぽそと聞こえてきた言葉に、注意を傾ける。
「うん…ボク、ジタンからいろんなことを教わったけど、ボクはジタンに何もしてあげられなかったでしょう」
そんなことない、と言うより先に、ビビの言葉は続いた。
「だから…ちょっと、ほんとにちょっとだけなんだけどね。もしかしたらジタンは、イーファの樹から脱出しても、会いに来てくれないんじゃないかって思っちゃったの」
「…そ…そんなことしねーよ!」
再び浮かびかけた『うそつき』という声を振り切って、つい半ば怒鳴るように答えてしまう。
ビビの不安を、現実にしちゃいけない。そう思ったから。
ふと気づけば、ビビが目を見開いて自分を見ていた。
「あ、わり…おどかしちまった」
「ううん…」
首を振るビビのうれしそうな声に、ジタンも知らぬうちに顔がほころぶ。
「そうだよね。おねえちゃんにも言われたよ『ジタンはそんなことしない』って」
その言葉に、ジタンは軽く目を見開いた。やや時間が掛かってその言葉の意味が染み込むと、気まずいようなむず痒いような不思議な戸惑いがジタンの中に沸いてくる。
「…ダガーが?」
「うん。『少なくともわたしの知っている限り、ジタンは優しいひとだから』って」
「……」
その言葉から、闇の向こうに消えかけていた彼女の声が微かによみがえる。
「『誰にでも、自分に自信をもてないときはある。でも、そのあまりジタンの優しさまで疑ってはいけない』って、そう、言ってたんだ…あっ」
じっとビビの言葉に聞き入るうち、ぶつりと音を立てて、右手を戒めていた最後のツタがちぎれ、ジタンははっと我に返った。
「やっと抜けたね。ジタン、右手どこか痛くない?」
最初はしびれていたが、ゆっくりと動かすうち、だんだんと感覚が戻ってくる。それに連れて節々や擦り切れた皮膚が痛んできたが、動かすのに何の支障もない。
「ああ、大丈夫だ」
一度は、もう永久に解き放たれることはないかも知れないとさえ思った右手が、今は自分の思うとおりに動く。ジタンは、その光景を不思議な気持ちで眺めていた。
そのうち、こんな言葉がジタンの口からこぼれた。
「ダガーは…、オレを待ってる?」
「うん。そうだよ」
ビビははっきりそう答えて、ジタンにもう一本の短剣を差し出した。
少し首をかしげて自分を見つめるビビ。ジタンは、その瞳の小さな明かりから今度は目をそらさずに、そっと短剣を受け取り、握り締める。
そして二人は、無言でジタンを戒めている残りのツタを切り開き始めた。
時折、ふとジタンの刃先が迷うように鈍ったが、一心不乱に短剣を使うビビの姿に、すぐに右手を握り直す。
沈黙の中、ツタに刃物を立てる音だけが響く。
ひとつひとつツタが切り払われて行くにつれ、戒めのツタがすべて一本の一際太いツタから生じた枝であった事が分かった。
ビビは嬉しそうにジタンに笑いかけると、すぐそれを切り落としにかかる。
それを見てジタンは、一度ぐっと唇を引き絞るようにした後、こう切り出した。
「オレ…ダガーを幸せにしてやれないかもしれない」
一瞬、ビビの手が止まった。
怒らせるか、悲しませるか。どちらかを覚悟して口にしたはずなのに、やっぱり言わなきゃよかった、という考えが頭をかすめる。
しかし、そのとき返って来たのは。
「…どうして?」
そんな、単純な疑問形と、静かな声。
思わずビビの様子を伺ったが、わき目も振らずツタに刃物を立てている様子からは、何を考えているか読み取れない。
しばしの逡巡の後、ジタンは再び口を開いた。
「オレは、テラの民だ」
「……うん」
返事はやはり、短い肯定。
「テラとガイアは、蹂躙するような形でしか融合出来ないような異質の星同士だった」
ブラン・バルで、ジェノムの一人が言っていた言葉を思い出す。
『ガイアの青い光は、我々に苦痛をもたらす…』
ならば、ガイアにとってテラは?
「そんな星同士の生き物が、一生を共にするなんて事…可能なんだろうか」
「……」
「ダガーを苦しめるのは、嫌なんだ」
呟くように語るジタンに、やはり静かな声で、ビビは告げた。
「…あのね、さっきのおねえちゃんの言葉…続きがあるんだよ」
「続き?」
何だろう?忘れかけていた声から、彼女が言いそうなことを思い出そうとしてみる。
「…『ジタンにはたくさんのものをもらったから、今度はたくさんのものをジタンにあげたい。そのためには帰って来てもらわなくちゃ困る』って」
ビビの言葉は、優しい、静かな声だが、きっぱりした口調だった。いつも気弱げに、気遣わしげに喋るビビには珍しい。誰かを、彷彿とさせるような口調。
「おねえちゃんは、ジタンに幸せにしてもらいたくて待ってるんじゃないよ」
そう、その誰かさんは、そんなタチじゃなかった。
「ジタンと二人で幸せになるために、待ってるんだよ」
そうだ。そういう人だった。
前にも、同じようなことで叱られたじゃないか。意地を張って、皆の手を振り切って進もうとした時に。追いかけて来た彼女は、泣きそうな顔をしていた。そのもどかしそうに語る言葉が、一つ一つ胸の中で明かりのように灯った。あんなふうに叱られたのは初めてで、何だかくすぐったいような照れ臭いような思いをしたのだ。
どうして今まで忘れていたんだろう?何だか急に、その時の彼女の顔や声まで引きずり出されるようによみがえってくる。
「そう、か」
壊れかけていた蓄音機が目を覚ましたように、胸の中で再びあの歌が回り出す。
『一人じゃないんだ、頑張ろうって思えるの』
彼女がそう言って歌ってくれた、歌だ。
「なら、早く帰って、元気な顔見せなきゃな」
短剣を握る手に、力が戻ってくるのを感じながら、ジタンはビビに笑いかけた。
「うん!」
ジタンの笑顔に、ビビは大きく頷いた。
刃は、太いツタの中程まで届いている。もう少しだ。
「あ、そうだ。あのね」
ツタを削りながら、ビビは思い出したように声を上げた。
「ジタンを探すのを手伝ってくれてるみんなっていうのはね、マダイン・サリのモーグリたちと、黒魔道士の村のみんなのことなんだよ」
作業を続けながらも、突然何の話かと不思議そうに目配せするジタン。それに応じて、ビビは先を続けた。
「ジタンを助けに行くってボクが言い出したら、みんな手伝ってくれたんだよ。村の…黒魔道士のみんなも、ジェノムのみんなも」
言いながら、力がこもったらしい。がりっと音がして、ビビの短剣がツタに深く食い込む。ツタに食い込んだまま動かなくなってしまったそれを握り締め、力を込めながらも、話を続けるビビ。
「ボクがいない間にも、いろいろあったみたいだったけど…今も、大変なことも困ったこともあるけど、みんなで仲良くやってるんだよ…だから」
話に聞き入りながらジタンは、ビビが食い込んだ短剣を抜こうとしているのではなく、更に押し込もうとしていることに気がついた。
「きっと、大丈夫だよ」
「……ああ」
ジタンは頷くと、自分の短剣を投げ捨て、ビビの両手に己の手を添えた。
二人は一瞬だけ目を交わすと、短剣に力を込める。固い手応えが返ってくる。それでも半ば強引に、えぐるように短剣を動かすと、ツタの細い繊維が一本一本ちぎれて行く感触が伝わってくる。
お互いの手が、力んで震えている。それでも二人とも、力を緩めようとはしない。
無意識に二人同時にすっと息を吸い、力を込め直した次の瞬間、ばりばりっと音を立てツタに大きな裂け目が出来た。
急に軽くなった短剣の手応えに驚く暇も無く、生き残っていた繊維がツタ自身の張力でちぎれて行った。最後の繊維がちぎれた瞬間、ジタンを戒めていた残りのツタが一気に緩む。
「うわあっ!?」
急な解放に、ジタンはビビの上に放り出された。
どさどさっ、と音を立てて二人は、こんがらがって倒れ込む。
「…う〜ん、ジタン重いよぉ、早くどいて」
「わ、わりいわりい、大丈夫かビビ」
起き上がると二人は、顔を見合わせて笑った。
「よかったね。もうすぐ皆も迎えにくるよ」
嬉しそうに言うビビからポーションを受け取りながら、ジタンも答える。
「ああ。サンキュ、ビビ」
一息ついて、改めてジタンは、自身の胸の中に耳をすました。
確かに、あの歌が流れている。もう、忘れるもんか。
ふと見れば、二本の短剣が脇に転がっている。よくまあ、倒れ込んだときにこれで怪我をしなかったものだ。そんなことを考えながらそれらを拾いあげると、隣に座り込んでいるビビが、自分を見つめていることに気がついた。
「何見てんだよ」
声をかけると、ビビはジタンの手を取り、帽子の影で見えない自分の顔に当てさせた。何だろうと思いながら、導かれるままにビビの顔を触ると、その顔が満面の笑みを浮かべているのだということに気がついた。
「ね、わかる?ボク嬉しいんだよ。ジタンが、生きててくれて」
そんな手放しで喜ばれると、くすぐったくてしょうがない。ジタンが照れ臭くなってビビの顔から手を放すと、ビビはくすくすと声を立てた。
「何がおかしいんだよ」
軽くにらんでも、ビビは首を振って答えない。
その本当に嬉しそうな様子に、ジタンは思う。ビビって、こんなによく笑う奴だったっけ。出会ったばかりのころは、下を向いて自信無さげにぼそぼそ喋る奴だったのに。
「いつの間にか、強くなったな。ビビ」
今じゃ、ジタンの方がひるむほどだ。いつの間にか追い越されたみたいな気がする。
すると今度はビビが照れ臭そうに、帽子のつばをぐいっと引き下げながら言った。
「そうかなあ…でも、そうだとしたら、ジタンや、おねえちゃんや、みんなのおかげだよ」
ありがとう、ジタン。小さくビビは言った。
「ジタンがいなかったら、ボク今こんなに幸せじゃなかったと思うよ」
「いや…ビビが自分で頑張ったからさ」
ジタンの言葉に、ビビはえへへ、と笑った。
しかし、その笑い声はふと止んで、沈黙が落ちる。
「どうした、ビビ?」
訝しく思ってジタンがその顔を覗き込むようにすると、ビビはそっと顔を上げた。
「最近、ね。思うんだ。みんなが、ずっと幸せだといいなあって。泣いたり、苦しんだりしないといいなって」
『みんな、いつまでも、しあわせに』。
その言葉は、表面だけを見るなら、まるで絵本の終わりのような絵空事の夢だ。物語が終わるようには、世界の波瀾は終わらないだろうから。
けれど、それを語るビビの声は、絵本を読み終わった子供の声ではなかった。どこかを見つめて…ジタンには見えない、何かを真剣に見つめて、心に定めるように語る。
絵空事のような夢でも、それは心からの願いなのだろう。
その願いに、ジタンは応える。
「幸せに、なろう。皆でな」
その言葉を聞いて、ビビは嬉しそうにジタンへと向き直った。
「じゃあ、とりあえず、ジタンはおねえちゃんのところに帰らなきゃね。おねえちゃん、ずっと寂しそうだったんだから」
「ああ。わかってる」
随分、待たせてしまった。その分を取り返すくらい、一緒にいてやりたい。
そう思ったとき、ジタンに光が射した。強烈な眩しさに目を射られて、ジタンの視界が真っ白くなる。
光の方から、あの歌が、聞こえてくる。
「皆が、迎えに来たよ!」
ビビが声を上げるのが聞こえて、ジタンは光に向かって歩き出した。
ほとんど視界が効かないけれど、足元に不安はなかった。ビビが手を引いてくれている。目が慣れるのを待つ気にもならなかった。早くここから抜け出して、あの歌の元へ、あの子のところへ、帰らなくては。
「出口だよ」
ビビはそう言って、ジタンの手を放した。視界はまだ真っ白だったけれど、導く手がなくなっても、ジタンは迷わず歌の聞こえる方向へ、その光の射す方向へ歩いて行く。
そんなジタンの背中に、ビビが一言声をかけた。
「幸せになってね、ジタン」
真っ白く眩んだ視界がうっすらと戻ってジタンが最初に見たものは、板張りの天井、古ぼけた照明。
横たわった体に、ぼんやりと波の揺れを感じた。ギシギシ痛む首を巡らすと、自分が、船室のような部屋にいて、簡素な寝台に寝かされている事が分かった。
無意識にあの歌を口ずさんでいる自分に気がついた。聞こえていたのは、自分の声だったのだろうか。見えていたあの光も、背後に感じていたビビの気配も、ここにはない。
今のは、…夢、だったのか。
体が、暖かい。あの、夢の最後に浴びた白い光が、今も染み付いているようだ。皮膚からゆっくり溶け込んで、体の中で泣きたくなるような懐かしさに変わる暖かさ。あの暗闇の中ですっかり忘れてしまっていた、陽の光の暖かさだ。
ああ。快い。
その暖かさに浸りながら思う。いっそこのままもう一度眠ってしまいたいくらいだったが、かすみかけた視界の隅に、人の姿が映った。
その人物を見止めた瞬間、沈みかけた意識が、はっと現を取り戻した。
金の髪と華奢な体つきをもつその人物は、古ぼけた、けれど丈夫そうな板壁の前に立つと、不安定な頼りない陶器の置物のように見えた。
その人物が、喜怒哀楽のどれとも判別のつかない、色の淡い表情を浮かべてジタンを見つめ、言葉を発する。
「ジタン?私が誰か、分かる?」
「ミコト、だろ」
はっきりした答えに、淡い表情の上の喜びが、わずかに色を濃くする。
それはぎこちない笑顔だったが、感情を知らない鉄面皮を貼りつけたミコトしか見たことのないジタンからすれば、上出来の笑顔に映った。
「いつの間にか、笑えるようになったんだなあ」
まだ夢見心地をどこかに残したジタンの口から、そんな言葉がこぼれる。
「笑った方が、かわいいぜ」
途端に、ミコトが少し顔を赤らめる。
「何を言うのよ」
その様子に、にや、と笑って見せると、ミコトは片眉を上げていつもの無表情を取り戻す。
「冗談が言えるなら、大丈夫ね」
ジタンは笑いをかみ殺し、起きあがろうとした。しかし、体がずっしりと重い網に絡めとられているように、上手く言うことを聞かない。
「無理しないで。まだ痺れが残っているはずよ」
「痺れ…?何で?」
首を傾げながらも、鈍痛を訴える体を叱りつけて寝台の上で身を起こし、部屋の中をゆっくり見渡した。そして、痛みによって霞がかかったような頭が覚醒していくに連れ、ここがどこか、今がいつか、何も分かっていない自分に気がついた。
「状況が把握できていないでしょうから、質問してくれれば、答えるわよ」
その言葉に、瞬間的に十幾つもの質問が、ジタンの脳裏を過る。
そうだ、聞きたいことは山ほどあるんだ。
けれど、どの順番に質問するかを考えるより先に、言葉が口から滑り落ちた。
「ビビは、どこだ?」
その瞬間ミコトの顔に、再び色の判別もつかぬくらいの、あの淡い表情が浮いた。
さっきと、同じ顔だ…。
その表情にジタンは、気付くともなくミコトの答を悟っていた。
追い越されたような感覚。
「もう誰も泣かないといいね」と、何故か清清しいほどに無邪気な願い。
感じた不思議な空虚は、幻ではなかったのだ。
ミコトに案内されて入ったその部屋には、ジタンより一足先に目覚めたクジャと、クジャが目覚めるよりさらに一足先に「眠り」についたビビが、いた。
クジャは椅子に腰掛けたまま、入ってきたジタンに一度だけ静かに視線を向け、それを再びビビへと戻した。
ジタンはベッドに近寄って、ビビの頬に手を触れた。
ビビが普段寝るときの癖のままに顔に乗せた帽子。その下の、もう2度とあの瞳の輝きを宿す事のない、淡い影の中。
触れたものはまだ柔らかかったけれど、もう温かくはなかった。
振りかえると、ミコトが俯いて、入り口のドアに寄りかかっている。
こっちへ来るようにと呼んでも首を振って、動こうとはしない。
何故、と尋ねる言葉に、ミコトはぼそぼそと答えた。
「ビビの、1番の願いを、叶えてあげられなかったから」
ジタンに、会いたがっていたのに。口には出さなかったけど、あんなに会いたがっていたのに。会わせてあげられなかった。
呟いて、ずるずると背でドアをすべり、蹲ってしまう。
まるでむずがる子供のようなミコトに、ジタンは歩み寄る。そして、その頬を持ち上げてミコトの顔を覗き込むと、あの淡い表情の中、唇だけがかすかに震えていた。
「いいから、おいで」
あやすように言い聞かせ、手を引いてビビのそばへ連れて行く。
そして、ミコトの手を取って、淡い影の中へ導いた。
手を添えて、その顔を辿らせる。
「分かるか、ミコト?」
ミコトがはっとしたように、もう一方の手も差し出して、ビビの顔をなでた。ジタンが手を離すと、ミコトは確かめるように何度も何度もビビの顔を辿り、震える声で呟いた。
「…微笑ってるわ」
淡かった表情が、ようやく辿りつくべき表情を見つけて、その瞳に涙をあふれさせていく。
それが零れ落ちる前に、ジタンはミコトを抱き寄せて、その顔を己の胸に押し付けた。
されるがままにミコトが顔をうずめた胸のあたりから、すん、と短く息を吸う音が、こぼれ始めた。